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宗教の勧誘の雑誌を読んで疑問が湧いたので書き込ませていただきました。


科学『そう考えるとつじつまが合うという仮説を立てる』
 →『いくつもの実験的検証を重ねて理論となる』
 →『最終的には理論をその人が受け入れるかどうか』

宗教『聖書に書いてあるように考えるとつじつまが合う』
 →『(1)』
 →『最終的には聖書をその人が受け入れるかどうか』

(1)には何が入るんでしょう?
以前勧誘された時は「私たちが存在していることが何よりの証拠です」とか
「世界で最も読まれている書物であることが証拠です」と言われたんですが、
なかなか納得できる解答が得られませんでした。


何かの宗教に入信している科学者は世界にたくさんいるわけですが、
『聖書は科学でいう仮説のままではないのですか?』と聞いたらどう答えるのでしょうか?


「そうだよ。だけど私は強く信じているし、それを確かめるために研究をしているよ」でしょうか
「ちがうよ。聖書の内容は超科学的なものだから『科学でいう』って前提がおかしいのだよ」でしょうか

私は物理学を専攻するものですが、物理学も最終的には「Why?」に答えられず「How?」にしか答えられないものなので、
宗教と科学が無矛盾に頭の中に同居するというのは可能だとは思いますが、
単純に宗教と科学を頭の中で両立できている人の考え方が気になります。

A 回答 (5件)

NO.4です。



改めまして、『(1)』に何が入るかですが・・

#3の方は聖書預言の成就を挙げてくださいましたので、別の観点からですが・・

例えば、聖書には、それが書かれた時代の人々が決して知りえなかった科学的事実を記しているという点があります。

EX:宇宙における地球の状態について、

ヨブ記26:7は「神は北をむなしい所の上に張り伸ばし,地を無の上に掛けておられる」と記しています。

ヨブ記が書き記されたのは、西暦前1473年ごろと考えられています。

ここで「無」に相当する語として使われている元のヘブライ語には,「何も物がない」という意味があり、何もない空間に浮かんでいるという聖書の地球観については,学者たちも,当時としては驚くべき先見であることを認めています

これは、聖書の記述の正しさを、後になって科学的に証明されたというものです。

こうした例を、丹念に積み重ねることにより、いまだ科学的に証明されていない事柄であっても、聖書に記録されているからには真実であると受け入れているのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
部分的に科学的証明がなされたので、その他の部分も(おそらく)科学的に正しいのであろうというロジックですね。

ひとつ気になることは、「科学と明らかに合致しなかった部分」を探すといった方向での検証も(その宗教を信じる人の外で)行われていると思うのですが、
その結論として『科学的に正しいことも書いてあれば、正しくないことも書いてある』という中立に留まる人があまりに少ないのは何故でしょう?

『今は科学的に正しくないとされているが将来の進んだ科学ではきっと正しいと証明される』という希望を持っているからでしょうか?

疑問はつきませんが、私の回答へのお礼が遅れてしまったために長期間に及んでしまったので、申し訳ありませんがこれにて締め切りにさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/14 22:04

   例えば、宇宙の仕組みすべては理論的分析によって説明できると唱える科学者たちがいます。



   しかし,科学者も含めて多くの人たちは,この見方に違和感を覚えています。

   そして,科学と宗教の両面を見ることによって,真実を把握しようとします。

   snobberyさんがおっしゃる様に『科学』は,「どのように」存在するに至ったかを扱うのに対し,『宗教』はもっぱら,それは「なぜ」なのかを扱う,と考えます。

   それで、物理学者フリーマン・ダイソンは,この二面的な取り組みについて,

「科学と宗教は,人間が外界の大宇宙を理解しようとしてのぞき込む二つの窓である」と説明しています。

   著述家のウィリアム・リースモッグは, 

「科学は測定可能なものを扱い,宗教は測定不可能なものを扱う」と述べ,

「科学は,神の存在の証明も反証もできない。道徳あるいは芸術上の問題の当否を証明できないのと同様である。隣人を愛するべき,あるいは人命を尊重するべき科学的な理由はない。……科学的に証明できないものは存在しないと論じることは,最も幼稚な誤りであり,そう論じるなら,神また人間の精神性だけでなく,愛,詩,音楽など,人生で価値あるほとんどすべてのものを排除することになる」。

   このように整理しているようです・・・多少ご参考になるでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「科学は測定可能なものを扱い,宗教は測定不可能なものを扱う」

この言葉は、科学を知らない人(または激しく遅れている人)の考えなので、今回の質問とは少し論点がズレているように思います。

測定不可能なものを扱っている段階を科学では『仮説』と言うのであって、「科学は測定可能なものしか扱わない」というのは偽です。
例えば、既に素粒子物理学などの分野では測定不可能という領域の中で発展しています。科学者が目に見えるものしか信じないという時代は19世紀に終わっていると私は考えます。


>宇宙の仕組みすべては理論的分析によって説明できると唱える科学者たちがいます。

仕組みの分析は「How?」に対する答えの模索なので、科学の範疇だと思います。むしろ、この模索を宗教を理由にやめてしまうのであれば、それは知の放棄だと思います。


今回質問したのは、宗教を信じる人の科学批判の考え方ではありません。(もちろん科学が万能でないことは私も理解しております。)

私が今回知りたいのは、

>「科学と宗教は,人間が外界の大宇宙を理解しようとしてのぞき込む二つの窓である」と説明しています。

こう考えている科学者の方々の考え方の詳細です。

お礼日時:2006/10/05 02:26

私も化学を専攻したクリスチャンで、現在も技術者を続けています。


 
私が聖書を信じるのは、聖書がまさに自分の正しさを自分自身で証明しているからです。まさに仮説と実験といってよいでしょう。

聖書には歴史的事件が起こる前に予兆的預言がなされ、それが成就されています。
このことをこじつけだと疑う人もいます。

だが、例えば、キリストに関する預言は旧約聖書に300箇所近くもあり、その全てが驚異的な正確さで成就しています。
これらの預言は、歴史的な前後関係や、実際に起こったこと、改竄の有無など詳細に調査されていて、捏造でないことが証明されています。
また、キリストについての有名ないくつかの預言だけでも、その場にいなければ絶対にわからないような詳細な正確さで、数学的に偶然成就される可能性はゼロであることが証明されています。

だから、私は、聖書は預言とその成就を通して、既に実験的に証明されたものであり、これを信じないほうが不思議という感覚です。

もっとも、科学では説明できないので、そこが人々の信仰を阻むのでしょうね。最終的には結局科学で証明されているものだけを信じるか、証明されていないけど真実かもしれないものを信じるかという問題になるのでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
実際に信仰している方の意見が聞けて嬉しく思います。

>聖書には歴史的事件が起こる前に予兆的預言がなされ、それが成就されています。

私は創世記などの寓話に(感じてしまうような)話しか知らなかったのですが、これが本当だとすると、歴史が実証してくれていると言うわけですね。
なるほど。

聖書が、歴史が進むほど実証されていく書物だとすると、昔の時代(歴史が実証する前の時代)の人々と、
現代の人々では信仰の保証の所在が異なっているということでしょうか?

勉強になります。ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/05 01:58

>(1)には何が入るんでしょう?



は宗教信者の方にお任せするとして、参考意見として書かせていただきます。

天使と悪魔の真実という本があります。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4812422930
ダ・ビンチ・コードを書いたダン・ブラウンは、<天使と悪魔>という物語も書きました。
その<天使と悪魔>に書かれている内容についての真偽の検証本が、<天使と悪魔の真実>です。
その中より抜粋。

『信仰心を持った科学者がいないというわけではない。数学や科学の研究者を対象とした最近の調査では、数学者の65%が物理学者及び天文学者の22%が信仰を持っていると回答している。全国の科学者平均では40%前後となり、この数字は過去一世紀のあいだに大きく変化していない。

ちなみにアメリカ国民の「90%が信仰を持っているという結果が出ている。』

『ところで、信仰心を持つ科学者とはどういった人々なのだろう。すぐれた研究者は、振興を科学に役立てているわけではない。一方、倫理、霊感、道徳、美しさ、愛、憎しみ、美意識といったものを解するのに科学的方法はほとんど、あるいはまったく役に立たない。』

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ということは、科学者も人間ですから、そのような感情も必要であるので、両立させることができているのか?

--------------------------------
ダン・バースタインは複数の科学者にインタビューをしています。

<ディーン・ヘイマー博士との対話>

(質問):あなた自身は宗教の信者ですか あるいは、なんらかの信仰対象をお持ちですか?

(答え):私は典型的な科学者で合理主義者です。
信仰心を持つ者のひとりですが、組織化された宗教には関心がありません。
言い換えれば、わたしは信仰心の持つ力を信じていますが、特定の神は信じていません。
わたしは禅の信者です。禅の教えを自分なりに実行しています。そうすると、心が安らぐのです。禅の信者はみな特定の神を信じていないわけではありません。絶対視していないだけです。


<リチャード・ドーキンス博士との対話>

(質問):先述の<ヒューマニスト>誌のエッセイには、宗教がまやかしである根拠が見事に示されています。宗教に救いを求めるのはやはり無意味だと思いますか?

(答え):もちろん、まやかしであっても、心理学的には慰めになりえます。
死の恐怖にとらわれている人や、愛する人をなくして苦しんでいる人がいるとします。そういう人たちの心痛を和らげるため、薬と同じように宗教を処方する精神科医がいたとしてもおかしくありません。それが慰めとなるのなら、わたしは人々から宗教を奪おうとは思いませんが、科学者としてわたしが重視するのは真実だけです。
私は神経症患者から精神安定剤を奪うつもりはありません。
そうした意味では、科学は宗教と同様の慰めを与えることができるといえます。

(質問):今後、科学と宗教の関係はどうなると思いますか?

(答え):検討もつきません。私は占い師ではないので。

(質問):ご意見を総括すると、両者が将来的に対立すると見ているようですが。

(答え):もう対立は始まっていると言えるでしょう。
ここイギリスとアメリカでは大きな違いがあります。
ご存知の通り大西洋のこちら側では宗教は廃れつつあります。
対するアメリカは、狂信者の率いる狂信者の国という印象です。
それゆえ、わたしはアメリカの将来を大いに悲観しています。

(質問):それは何故ですか?

(答え):アメリカは世界に名だたる科学先進国ですが、困ったことに、狂信者によって牛耳られています。
アメリカ人科学者のエリートは世界のエリートと同義ですが、アメリカ科学アカデミー会員の90%以上は無神論者です。
 これを、無神論者を自称する上院議員が一人もいないという事実と引き比べてみてください。
そんなことはありえないはずです。
科学者も上院議員も、同じ人間なのですから。
上院議員の一部は嘘をついていると考えざるをえません。
何より悲しむべきこなのは、【当選するために嘘をつかなければならない】ということです。

アメリカでは、無神論者であることが得票に悪影響を与えるようです。
無神論者に表を入れるくらいなら、どんな人物であれほかの候補者の方がましだと利権者は考えるでしょう。


-------------------------------
賞をもらった科学者が壇上で神を賞賛する言葉を発する本当の理由とはなにか。
科学の研究には膨大な費用がかかります。
民間企業に雇われている科学者や民間企業をスポンサーとしている科学者は、スポンサーの資金の援助無しに研究を続けていけません。
そのスポンサーは、商品を購買する顧客によって成り立ています。
その顧客とは、、、90%以上が宗教信者・・・・

メカニズムがわかったような気になりません?

<天使と悪魔の真実>にもっと複数の科学者への宗教と科学に関してのインタビューが載っていますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど。アメリカの科学者においてはそういうケースがありうるのですね。
「天使と悪魔の真実」を読んでみます。ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/05 01:49

質問者の勧誘されたのは、「エホバの証人」と言われる宗派だと思います。


「エホバの証人」は、聖書を書き換えたり、独自に解釈するなどして、キリスト教のほとんどから、キリスト教では無いとされている宗派です。

聖書を独自に解釈するため、「エホバの証人」の話を、他のキリスト教徒に当てはめる事はできません。

>(1)には何が入るんでしょう?

聖書に書かれている事の、ひとつひとつが、実際にあった事だと信じる事ができるか。

ではないでしょうか。
もっともエホバの証人にとって、エホバの証人で規定された聖書を信じる事は、真実の全てにあたりますので、実際には、

>『聖書に書いてあるように考えるとつじつまが合う』
 →『(1)』
 →『最終的には聖書をその人が受け入れるかどうか』

が逆になり、「聖書を受け入れる」 → 「聖書に書かれた事は真実だと信じる」 → 「聖書に書かれたこように考えると全てつじつまが合う」 となってしまいます。

このへんが、科学と宗教の考え方の差でしょう。

ですから、エホバの証人にとって、
>『聖書は科学でいう仮説のままではないのですか?』と聞いたらどう答えるのでしょうか?

といった質問は、ありえないわけです。
「聖書」は、実際に起こった真実の歴史と認識しているのですから。

>単純に宗教と科学を頭の中で両立できている人の考え方が気になります。

ほとんどの人が、切り替えています。
日本人が、お正月に神社にお参りしても、日本の国をイザナギの命とイザナミの命が、ドロの中から日本の国を造ったと信じていないように。

ただ、エホバの証人や、福音派の人達には、それができない人達がいる事も事実ですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
エホバの証人とこうも簡単に見抜けるものなのかと感心しました。

今回は、ある特定の宗教を取り上げた疑問ではなく、
単純に「宗教に入信する科学者」の考え方が気になったのです。
(つまり、質問内容はエホバでもキリスト教でもイスラム教でも創価でも変わりません)


nacamさんの考えでいうと、(例えばエホバや原理主義ではないキリスト教徒の人は)
「聖書は、科学が未発達な時代に人々を率いるために作られた寓話であり、神とはそういった未解明なものの理由として持ち出された呼称である。」
と認識しながらも神に祈ったりとかしているわけですよね?

日本人が神社にお参りするような気持ちと同じということは「お参りして何かツキが向いてこればいいな~」とかそういう感じでしょうか?

お礼日時:2006/09/26 18:21

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