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空手は喧嘩に使っていいのでしょうか?空手は喧嘩のためにある
のでしょうか?わからなくなりました。
自分はまだ空手を始めて間もないです。精神的に強くなろうと
思い空手をはじめました。
しかし、最近疑問に思える事実にぶつかりました。
道場の黒帯の方は空手で喧嘩をかなりされていたそうです。
師範もそれは知っていて止めるとかはなく、むしろ奨励している
ようなかんじで笑って話されていました。
私はまだ空手がどういうものか全くわかっていませんが、
何か違和感があります。どこがどうと言うと言い難いのですが、
正しい方向が急に見えなくなってしまって、足場が崩れた感じが
して急に不安になりました。
近所のすごく大きくて有名な道場の師範も酒によって
喧嘩になって一般人のおなかを殴り、内臓を破裂させました。
空手はこういうものなんでしょうか?正直に言うとちょっと
泣きたくなりました。

A 回答 (17件中1~10件)

1.空手にせよ他の武道・格闘技にしろ、相手を無力化する手段(狭義では相手の殺傷。

広義では体力・胆力をつけて相手に屈しない、など)に他なりません。
  安全な競技スポーツと化しているものも多くありますが、それとて「仲間内で優劣を競う際に、仲間に致命傷を負わせないため」にルールや防具があるに過ぎません。
2.相手を無力化する理由は、自分の要求を叶えるためです(暴漢から身を守る、など)。

2つ目が重要で、これが攻撃志向(実践でも技を使えるか、自分はどの程度強いのか、始めから喧嘩に使うつもりで入門した)や自己顕示欲(強さを確認・ひけらかして自己満足したい)、嗜虐趣味などだと「喧嘩で技を使うことを実践・推奨(黙認)する」ことになるのでしょう。
また、人は力を手に入れると堕落してしまいがちです(某大学ラグビー部の不祥事とかも同根でしょう)。

あなたが空手を志した理由は知りませんが、この機会に、何のために空手を選んだのかを自身に問うてみることをおすすめします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/13 01:29

今もその道場で続けておられるんですか?

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この回答へのお礼

はい!がんばっています!回答ありがとうございました!

お礼日時:2006/12/13 01:20

Gです。

補足質問を読ませてもらいました。 遅くなってごめんなさい。

>良い師範はどうやって見分ければいいのでしょうか?体験入門とかは一日とかが多くて全くわかりません。ましてやほとんど初心者にはどうにもわかりません。

よほどの知識と人間判断がなくては体験入門では無理なところがあると思います。 

しかし、始めたからと言って師範を「100%信用する事は師範も期待していない」はずです。 また、師範自体も「信用や信頼を得るような意識的な努力」をすることさえ考えてはいけないでしょう。

とかく「独裁的」な雰囲気になるか「人気取り」になりがちな指導員と師範ですが、はっきり言ってそう呼ばれるだけの「物」を持っているかは「師範」と言う肩書きだけでは保証されている物では決してありません。 この世界には「自称師範」があまりにも多いのです。

時間をかけて、師範と言う責任者の実力と知識と更に指導力、また人間性・人柄など自分が求めている物とがマッチするかを比べながら教えを受けるようにしなくてはならないのです。

私や私の知っている師範は「私を疑って教えを受けろ」と第一日目から言います。 私が言っているから正しいのではなく、私の言っている事が間違っているかもしれない、と言う姿勢でいて欲しいからなのです。

ですから、当然のごとく、パンチを教え一撃必殺の実力を求める、と言う表現をすれば、なぜ「人道」を教えているのが空手だと断言しているにもかかわらず人を「殺す」事を教えるのでしょうか、と「感じ」そして「疑惑の念を持ち」私たちの考え方を疑問と持って欲しいのです。 疑惑があるから「質問」も出てくるのです。 師範に聞く事を失礼とみなすなんておかしいのです。 質問をしないから「言葉だけの知識」しかもらえないのです。 そう育てられた自称師範が「自分の考え」や「奥の深い観念」を持っていなし説明も出来ないわけです。 

今の日本の「武道」と呼ばれているものでどれだけの指導者と師範が本当に武道と言う物と「口からの奇麗事」とを説明でき、教える事ができるかと言うと非常に疑問に思う私なのです。

人を殺す実力を持たなければ、、、、、、、は最低限の師範としての実力です。 しかし、その上にピラミッドを作り上げていなく、「ただの」「私の先生がそういっている」としか教えられなく、自分としての何にも壊される事のない観念を持っていなくてどうやって「次の世代の師範」を作っていく事ができると言うのでしょう。

ですから、体験入門では道場の雰囲気、師範の表面的人格くらいしか分かりませんが、入門した後も師範に対する「人格テスト」は続くのです。 

選択権はいつまでたってもあなたにあるのです。 師範ではありません。 疑惑を感じることは自然ともいえるでしょう。 しかし、疑惑が確信となれば「あなたの心は師範から離れる」のです。

武道に「義理」はありません。 だからこそ、私個人のこの件に対する判断は自分が洗脳させられてしまう前に他の師範を求めてください、と言ったのです。

また書いてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。その後まだ在籍しております。
私は喧嘩をしないことでこのまま続けることにしました。
Gさんありがとうですw

お礼日時:2006/12/13 01:22

そんな道場はすぐに辞めたほうが良いです。


貴方の志と反する教え方なら、続けるだけで無駄な感じがします。
以前、私は移籍した道場で稽古をしていた時に見切りをつけたことがあります。
道場には道場長がいて、稽古を教えてくれたのですが、1ヶ月間に1度、本部道場からかなり偉い師範が指導にこられていました。
かなり有名な方で、私も指導者講習会などでお会いしたことがありました。
大勢の有段者の中で、それはニコニコして温和な印象を受けました。
達人ってこんな人を言うのだと勝手に思いました。
その方と移籍先の道場でお会いしたのです。
最初は学べるだけで充実感があったのですが、そのうちアレッて思うようになってきました。
全て先生と言って低姿勢でなくてはならなかったのです。
稽古中に逆切れされ、訳の分からない身内批判をされ、呆然としてしまいました。
話したことのない仕事のことまで説教じみたことを言われ、とうとう頭にきて辞めてしまいました。
いけすかない顔の爺さんの下で稽古をする情熱は失せました。
師範や先生と言われる人の中には、狭い世界でちやほやされ、天狗になっている方もいます。
世間的な常識がなくても通用している部分もあります。
貴方が目指す空手でなければ、道場を辞めることをためらう必要はありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/13 01:22

喧嘩の内容にもよりますが、違和感を感じると仰るのなら、そういう内容なのでしょうね・・・。



その道場の方々、先生は尊敬できる方ですか?尊敬できないような人なら、速やかに辞めてしまっては如何でしょうか。

私は、3年間も探した末に入会した居合道の道場で、違和感だらけの技、動作、道場生・師範の雰囲気等に嫌気がさしたことと、自分の求めていた武術との「距離」から、他の道場を探しました。入会して○ヶ月経った頃に、すばらしい先生に出会うことが出来、その流儀に入門させて頂く事が叶いました。居合道道場の方々は、「たった○ヶ月で来なくなったな、根性無いな」などと話しているかもしれませんが、もっと高いものを目指しているのですから、気になりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/13 01:23

アメリカで使える伝統空手と護身術を教えている者です。

(前にここでお会いしたみたいですが)

>空手は喧嘩に使っていいのでしょうか?空手は喧嘩のためにある
のでしょうか?わからなくなりました。

もちろんです!!

ちょっと待てよ、いつものGとちょっと違うんじゃないか、と思っている人もいると思います。

>空手は喧嘩に使っていいのでしょうか?

これは、空手と言う物をどう思っているかによって変わってくると言う事でもあるのです。

空手を単なるスポーツ技術とか殴ったり蹴ったりする技術と思い込んでいる人であれば、私が言っている事を理解してくれないかもしれません。

しかし、私はあえて言います。 「空手は喧嘩のために使うものでもある」と。 ただ、この表現への誤解を避ける為に一部変更しなくては私の言っていることは分かりにくいと思います。

変更すると、「空手は喧嘩を避ける為に使うものである」と言う事になります。 一撃必殺を目指す空手である以上、それを容赦なく自分の実力以下の人間(その人が空手をやっていようがいまいが)に対し使うと言う事は「必ず」相手は打撃を受けると言う事なのです。

つまり、打撃を与えると言う事に対しての意味を教えないから手は存在しない(はず)と私は教えます。

正当防衛でも同じ事なのです。 

なぜ崩しや捌きを教えるのか、と言う事を考えてください。

崩しや捌きは「相手を無防衛にする」と言う事意外に何の意味はありません。 つまり、崩しや捌きをする、という事は言ってみれば「相手を素人や幼児と同じにする」と言う事なのです。

自分の攻撃に対し防衛できない素人や幼児にどうやって打撃を与える事を正当化できるというのでしょう。 これを教えない限り空手を教えるとは言えない、と私は言います。

これが、「喧嘩に空手を使う」と空手に誇りを持つ私が断言する理由なのです。

喧嘩を避ける、という事は、空手なのです。 避け方を教えると言う事は空手である、と言う事なのです。 空手を使うからこそ喧嘩を避ける事が出来、相手へのダメージを少なくするかゼロにするかが出来るのです。

>近所のすごく大きくて有名な道場の師範も酒によって(酔って)喧嘩になって一般人のおなかを殴り、内臓を破裂させました。空手はこういうものなんでしょうか?

まさかです。 このような人を私は自称師範と呼んでいます。 自分で師匠と呼んでいる人と言うことです。 空手師範とは教える立場にいる人のことをいいます。 言い換えれば「空手を教える事の出来る人」なのです。 一般人の内臓を破裂させるほどのことをするような人がどうやって空手を教える事ができると言うのでしょう。

しかし、それが出来る実力は持たなくてはなりません。 内臓を破裂させる実力を持つと言う事とその実力を使うと言う事とはまったく別のものだからです。 

では、使わない実力をなぜ持とうとするか、ですね。 ひとつには、人の命の大切さを知る事なのです。 一撃で自分と同じ人間である人の命を奪える実力を持つことで始めて命の大切さを実感的に知る、と言う事なのです。 だからこそ、黒帯になるまでは、人を殺せる技術をまず習うわけです。 算数の数字、英語のアルファベット、と同じ事なのです。

技術を身に付けることが出来て初めてその数字やそのアルファベットを使って数学や英語を習い始めるわけですね。 すなわち、技術を身に付けて初めて、黒帯としての教えが始まるわけです。

なぜ、級があり段があるのか、誰も教えようとしません。 非常に大切な事なのに教えない、つまり、級と段との違いを「知らない」と言う事になります。 

級の事を考えてください。 十級から始まり一級になるのです。 なぜ一級から始め十級にならないのか。 教える人が今の空手業界にいるのでしょうか。 十級から始め一級になる事でゼロ級に「近づく」のです。 つまり、奇麗事的表現をすると、無に近づく、人間たる事への基本に近づく、と言う事なのです。

そして、なぜ一段と言わずに初段と言うのか。 単なる言葉遊びではないのです。 単なる階級を言っているのではないのです。

初段と言う言い方をして、弟子たちに、これから人間としての階段を上るのだと言う事を示しているのです。 (空手)人間として「最初」の「訓練場所」なのです。

私は(空手の)弟子たちに「5人がナイフを持ってかかって来たら一人は殺さなくてはならないだけの実力しか持っていない。 4人かかってきて一人を不随あるいは殺したら空手を教える事は辞める」と宣言して15年ほどになります。 今でもこの数字は変わっていません。

空手と言う物に対して何か人間として意味ある事を空手の一部として教えられないのであれば空手(Karate)と呼ぶなと私は言います。

>空手はこういうものなんでしょうか?

いいえ、決してそういうものではありません。 その自称師範のもとをすぐにでも離れ空手を教える事の出来る先生を求めるようにしてください。 そうでなければその人やその人についてきている人のように「洗脳」させられてしまいます。

私のプロフィールを見ていただけばお分かりになると思いますが、警察とのつながりがあるわけですが、このようなことを教える事に対して「刑事犯罪」であると言う事を法律にさせる運動をしています。 強い奴とは喧嘩しない臆病者であり、幼児虐待と同じレベルであるとするわけです。

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 

この回答への補足

回答ありがとうございました。
大体わかりましたが、良い師範はどうやって見分ければいいの
でしょうか?体験入門とかは一日とかが多くて全くわかりません。
ましてやほとんど初心者にはどうにもわかりません。

補足日時:2006/10/13 23:54
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2006/12/13 01:24

 ケンカで自慢というか戦績を誇れるのは高校生まででしょう。

それより年齢が上になってからのケンカは確実に自分の居場所を失う結果になります。質問者様の後半の例がぴったりでしょう。
>近所のすごく大きくて有名な道場の師範も酒によって喧嘩になって一般人のおなかを殴り、内臓を破裂させました。
 この人が職業師範でなく、例えば公務員であったとしたらどうでしょう。たとえ体育会系公務員でも職を失うと思いませんか。そう考えると、師範がケンカを奨励するかのような感じを持っているというのは、やはり外に目が向いていないのだなと自分は考えます。
 よく武道系の稽古前に、師範が道場に入って挨拶したら仕事などの日常のことは忘れて専心しろとおっしゃりますが、逆もしかりなんだと教えるべきと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2006/12/13 01:25

私は、柔道経験者ですが・・・


道場の中には、様々な考えの人がいることは当然です。
純粋に「喧嘩が強くなりたい」と思って習っている人もいるでしょう。

「ボクサーくずれ」とか「空手経験者」の暴力団員という言葉を聞いたことはありませんか?
彼らは間違いなく習得した技術を相手に対して、時には威嚇のみで、時には実践として使っています。

道場の中に志が違う人がいるのは、どこの道場でも同じです。
その中で、喧嘩を良しとする人達に影響されることなく、自分自身を鍛えられたらすばらしいですよね。

通っている道場の上の人のレベルを見極めて、続けるのか、別な道場を探すのか決断されてはどうでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とりあえず私は喧嘩をしないで
今のままの道場で続けております。これからはわかりませんが、空手はやめません。どうもでした。

お礼日時:2006/12/13 01:28

もしかしたら、誰もが通る道かもしれません。


世の中「力」と名の付くものには、大体「向き」があります。
経済力は、自分を中心に外に向かいます。
権力は、周りの権利を自分に集中させようとします。
生命力は、ただ前に進みます。
そして暴力は、必ず人に向く力です。
身体に暴力を修めると、意識していないと必ず人に向きます。
「力」ベクトルは必ず向きを持っています。
だからこそ、その力の向きを自分で与えなければいけないのですよ。
暴力を身体に修めてしまったら、普段は絶対に他人に向かせないようにしなければなりません。
「闘いはいつも自分の為、誰かを傷つけるためじゃない」

貴方は、自分の為の闘いをする為に暴力を修めたんじゃないですか?
自分の居場所を護る為に、自分の道を切り開く為に、暴力を修めたんじゃないんですか?
暴れる力だから、ちゃんと手綱を締めてないと、自分の為じゃなく、誰かを傷つける為だけに使っちゃいますよ。

誰もが通る路だと思います。
存分に悩んで下さい。

哀れみをもって人を助ける事を躊躇う事無かれ
怒りをもって敵を打つ事を躊躇う事無かれ
五情に呑まれずして、己が力と成せ

です。
武術とは、人を壊す技術です。
喧嘩の為ではなく、相手を壊す為ですよ。
ちゃんと使いこなして下さいね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2006/12/13 01:31

私は大人になってから中国武術をかじりました(本当にかじった程度です)。



ある時、勤めている職場で口論になりました。相手は後輩でしたが、あまりに身勝手な言いように「切れて」しまい、相手を殴ってしまいました。

一発で決着しましたが、そのことを誇る気持ちは当時も今もありません。むしろ、事あれば「相手を傷つける力を手に入れてしまったこと」が怖くなり、それ以降「怒ること」をしなくなりました。
制御されていない力は将に「暴力」です。

実戦に耐える技術を身につけることは必要だと思います。喧嘩にも使えないようでは意味がない、正にその通り!
ただ、それを誇ること(一般人を害して喜んでいること)は、技術の実戦性と関係ないのではないでしょうか。

ただ、それとは別に「付いていけない師匠」に無理に付いていくことはないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2006/12/13 01:32

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