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会津若松と萩を旅行してきて素朴な疑問です。日本史の勉強不足なのですが、なぜ討幕運動は西国から起こったのでしょうか。やはり外様だったことが大きな要因ですか。「長州ファイブ」なる小冊子を買ってきたのですが、当時海外へ目を向け、禁制と知りながら渡航しようとしたのは長州藩士だけだったのでしょうか。話が飛んで申し訳ありませんが、最後まで会津若松が幕府についていたのはなぜですか。徳川一門ならほかにもいるのに。ただ将軍の加冠役だったからというわけじゃないですよね?

A 回答 (6件)

●幕府への(関ヶ原以来の)恨み。


●幕藩体制確立期での大幅な領地削減。
●西欧や大陸(清国)との接する機会の多い西国。
●他の藩に比べ黒字経営だった藩財政。
●外様大名という疎外感と不安感。
●国内の辺境から中央政府への不満や羨望。
●密貿易による海外情報の入手。
●吉田松陰や島津成彬といった傑出した人物の登場。
●下関砲撃・薩英戦争等で外国の強大さと日本の後進性を実感できた。
これらの事柄が必然的にも偶然的にも「要素」として集まったのが
長州、薩摩だったからです。
また、これほどの「要素」は揃わなかったものの、土佐、肥前、伊予
宇和島藩もそれぞれにいくつかの上記「要素」がありました。

とは、言うものの、こんな答えでは質問者さんの疑問解決には
ならないですね。
上に挙げた「要素」も歴史の結果から導いただけで、
『何故その「要素」がそろったら倒幕運動につながるのか?』が
わかりませんね・・・・。

なぜ戦国末期に三河・尾張は、信長・家康・秀吉らを輩出できたのか?
なぜ一時期、福岡出身のミュージシャンが多かったのか?
なぜ関西出身のお笑い芸人が、全国的に人気が出たのか?
なぜアジアで最も早く憲法を発布したのが日本だったのか?
なぜイギリスみたいな小島国が世界を支配できたのか?
なぜ中東の土着宗教であったキリスト教が世界宗教にまでなったのか?
結果から観たら、いくらでも原因や理由を指摘できますが
それは、結果を知っているからであり、『なぜ、その原因や理由で
なければならなかったのか?』は、わかりません。
そこが歴史の奥深いところでもあり、歴史研究や人類学や社会心理、
ひいては経済学や哲学そして心理学などのあらゆる「人間」を研究対象
とした学問が発達してきた根源なのでしょうね。

会津が幕府と心中、いや幕府以上に滅ぼされたのは
ひとえに松平容保が、京都守護職に就いたからです。
そして東北人特有の「生真面目で実直で頑固で、あいまいなことや
いいかげんだと言われることを最も恐れる気質」からまじめすぎる
ぐらいに京都で不逞浪士の取り締まりを行ったため、長州土佐から
ひどく恨まれてました。
会津の人達は、たとえ不戦で降伏しても長州土佐から必ずひどい報復
があると思っていましたので、
それだったら戦って死のうと決意していたのです。
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この回答へのお礼

そうだったんですね。容保はまじめにやりすぎたんですね。納得です。
bossnassさんがおっしゃるように、歴史に時々訪れるこういった偶然の集大成みたいな時代、本当に不思議です。その積み重ねだとはわかるんですが、なぜこの時期にこの地域に集中して?と考えさせられます。
見つかったら死罪になるとわかっていて渡航した長州の人と、お城が燃えてると思い込んで自決した白虎隊と。なんだか不思議な気分です。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/24 15:53

No.5です。



>幕末の歴史に大きな影響を与えたんですね。
>知りませんでした。肖像を見ると穏やかな感じですが、
>すごいことしてたんですね。

私は坂本竜馬らがやってしまった・・・と思いました。

今の日本で一番重い罪は売国です。
殺人よりひどいことです。
外国と結託して日本国内が動乱になるように工作したり、海外に情報を流して手を組んで日本が戦争になるように仕組んだりする行為は、もはや鬼畜にも劣る行為だというのが現在の日本の倫理です。

<刀を捨てた若者がいた>
    ↓
<まんまと利用された馬鹿者がいた>

が正確な表現だと思います。

革命ではなくクーデターとも言いがたく、、、
日本に大量の武器を持ち込み戦争を誘発し、、、、、
武器を捨てるどころか武器を大量に仕入れて、あげくにそしらぬ顔をして善人ぶって権力を外国人に与えられた飼い犬たち。

と、ここまで言うともともこもないので、海外の秘密結社のいい部分を全部だと思って工作員として養成され、その見返りとして黒幕からしてみればほんの微々たる金と(もしかしたら女もかも)権力を与えてもらって、自分が善人だと思ってつっぱしった方々 という感じでしょうか。

やってくれました・・・・

幕の裏にはアヘン商人がいたなど気づきもしなかったでしょうね。

日本はほんと暢気です。
海外の黒幕がこの映画を見たら、腹をかかえて笑ったでしょうね。
彼らが馬鹿すぎてよかった 日本人はやっぱり今でも馬鹿だと。
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一部のみの回答です。



以下は私の認識です。

>なぜ討幕運動は西国から起こったのでしょうか。

トーマス・グラバーが長崎にいたから。


>当時海外へ目を向け、禁制と知りながら渡航しようとしたのは長州藩士だけだったのでしょうか。

渡航させたのは、死の商人とも言われることのあるトーマス・グラバーです。
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/2004082 …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC% …
【薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもしている。】
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この回答へのお礼

グラバーって、長崎に行ったときはグラバー邸もチラッと見ただけだったんですけど、幕末の歴史に大きな影響を与えたんですね。知りませんでした。肖像を見ると穏やかな感じですが、すごいことしてたんですね。これも勉強してみます。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/24 15:56

実は日本人も恨みは中々長く持つタイプで、吉良と赤穂は和解しましたが、会津と長州はまだ早いとして和解していません。

もっとも赤穂・吉良は藩主だけの問題で、会津では沢山の人が死んでいますから恨みの深さも違うのでしょうが。
さて幕末に関しても同じように、薩摩・長州には関が原の恨みが元と言う説が有力で、時代小説も殆どそういった書き方をされています。
#2さんのご指摘の様に会津の忠誠は保科元君の定めを追ったもので、それに井伊大老暗殺などが重なりああいった悲劇を生みました。
最近読んだ「落花は枝に還らずとも」と言う本にも、そういった側面が良く書き込まれていましたが、多分そのテーマに書かれたどの本でも同様と思いますので、一度読まれて見たら如何でしょう。
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この回答へのお礼

はい、読んでみます。高校時代の歴史はこの辺からアレルギーで好きじゃなかったんですが、旅行をして興味がわきました。幕末の本はたくさんあるので、読んでみます。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/24 15:47

様々な要因が絡み合っていますので一概には難しいでしょうが。



西国の場合、地理的に長崎が近いと言うこともあります。
また、薩摩の場合は琉球経由での貿易実績もあります。
また、鎖国以前の海外貿易の歴史も無視できないでしょう。

一方会津藩の場合は、藩祖の保科正之氏は二代将軍の落し種という経緯もあり、幕府(将軍家)への忠節が家訓として受け継がれている。
そういう意味では、きわめて保守的という事も言えるでしょう。
また、気候風土から来る保守的な人心も考えなければなりません。
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この回答へのお礼

そうなんですよね、会津を訪れてボランティアの方がお城を案内してくださったんですが、「徳川慶喜大嫌い」と公言してました。確かにあの気候は人々の人格形成にも影響を及ぼすと思います。その土地の空気を吸って納得しました。 ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/24 15:45

薩長にしても、会津にしても


外様・親藩というのも勿論ありますが
それも含んで形成された文化、思想などを受けて育った
「人物」というのが大きな要因だと言われています。
代表的なところで言えば
やはり長州では吉田松陰、会津では藩主松平容保ですね
このカリスマ性を持った人物が先頭に立っていたことにより
歴史が形成されたのではないでしょうか
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この回答へのお礼

そのカリスマ性を持った人物が、幕末期に集中したって言うのはすごいですね。高校の日本の歴史は、この辺から時間がなくなって早足になるので、また基本から勉強しなくては。 ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/24 15:41

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