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明治の内閣総理大臣はどのように決められていたのでしょうか。

また、第一議会、第二議会という表現も見つけたのですがどういう意味なのでしょうか。

あと、大隈重信は開拓使官有物払下げ事件で政府を辞めされられたのに、黒田清隆内閣の外相だったのはなぜなのでしょうか。この事件の当事者の黒田が総理になったというのは、どういう事情でしょうか。

たくさん質問して申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

>明治の内閣総理大臣はどのように決められていたのでしょうか。


No1さんご指摘のように、だいたい薩長の間でたらい回しにされました。のちには明治維新の功労者=元勲や総理大臣経験者を「元老」とし、彼らが総理大臣候補者を天皇に奏推し天皇が任命しました。ちなみに元老と呼ばれたのは「伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望」の九人です。

>第一議会、第二議会という表現も見つけたのですがどういう意味なのでしょうか。
帝国議会の開会議会Noです。明治23年の第一議会から明治27年の第六特別議会までを、特に「初期議会」といいます。

>大隈重信が黒田内閣の外相になった事情
これには、条約改正問題と自由民権運動が関係しています。伊藤博文内閣で条約改正交渉にあたった井上馨の交渉方針や欧化政策に批判が高まり、井上は外相を辞任します。さらに旧自由党系や改進党に属するかつての民権運動家たちは「大同団結」を唱え政府を攻撃していきます(「三大事件建白運動」)。伊藤内閣は保安条例などで弾圧しますが、一方では「穏健派」の大隈や(自由党系の)後藤象二郎などを入閣させることで運動を切り崩そうとしました。これが大隈(や後藤)入閣の背景です。(もっともカチカチの反政府の人々から見れば「裏切り」ですが)
黒田からすれば面白くないでしょうが、民権派の政府批判を切りくずためには我慢するしかなかったでしょう。(ちなみに黒田が首相になったのは、伊藤=長州だったので次は薩摩出身の黒田、というところでしょう。)

<この事件の当事者の黒田が総理になったというのは、どういう事情でしょうか
払下げ事件を外部にリークした黒幕が大隈です。当時は憲法制定をめぐって保守派=薩長と、「進歩派」=自由党系、改進党系が鎬を削っていた時期でした。薩長主流派からすれば、「進歩派」大隈の「陰謀」で盟友の黒田を失うわけにはいかない(汚職ぐらいのことで・・・)という「理由」でしょう。
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この回答へのお礼

この時代はいろいろな利害が絡んで難しいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/23 10:34

こんばんは。



当時の詳しい(細かい)政局の話はもう回答されてますので、疑問に対する回答だけでも。


> 明治の内閣総理大臣はどのように決められていたのでしょうか

大日本帝国憲法(明治憲法)を全部読んでみても、内閣総理大臣の決め方は書いてありません。

一応、大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が自分の意見に従うような内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与しませんでした。天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣を任命するだけでした。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statute …


では、誰が選んでいたのでしょうか?

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3% …
http://www.promised-factory.com/100years_after/p …


上の一覧やNo.1さんの回答をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでしょうが、その内部ではいろいろ権力闘争はあったようです。

そんな功労者の人々が内閣の各大臣となって、憲法発布後の「帝国議会」にのぞむことになりました。その帝国議会は番号がつけられており、第一回帝国議会=第一議会、第二回帝国議会=第二議会、……、ということになります。

その初期議会は、選挙で選ばれた政党が衆議院の多数を占めて政府の予算案・法案に反対して、内閣と議会が対立していましたので、明治維新の功労者達の間で、総理大臣を誰が引き受けるかでモメた時期もあったようです(予算案や法案が通らなくてどうしようもない、という貧乏くじを誰も引きたがらない)。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7% …


つながりの悪い文章になっちゃいましたが、こんなところで。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
難しいからこそおもしろいですね。
また何かありましたらよろしくお願いします。

お礼日時:2005/10/23 10:37

>>明治の内閣総理大臣はどのように決められていたのでしょうか。



薩摩と長州のバランスと順番で決められていました。

 1代 伊藤 博文 長州
 2代 黒田 清隆 薩摩
 3代 山縣 有朋 長州
 4代 松方 正義 薩摩
 5代 伊藤 博文 長州
 6代 松方 正義 薩摩
 7代 伊藤 博文 長州

 第8代で肥前出身の大隈重信が就任し、薩長交代が崩れます。
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この回答へのお礼

なるほど、ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/23 10:32

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