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時代劇や時代小説ではよく道場が登場します。そこには必ず師範がいて「先生」だの「師匠」だの呼ばれています。この師範ですが、もちろん武家ですよね?
さて、そうなると師範の職業=武道家ですよね?武道家自体は「侍」とくくられるのでしょうか?例えば浪人さんが道場を開くなどはありましたか?(資金があれば)
よく殿様の子供に剣術を指南する、なんて話もありますがそう言う話が来るような道場は大きな有名どころなんでしょうか。
また道場を継ぐと言うのは嫡男であったり、養子であったり、腕のいい弟子なのでしょうか?
教えてください。

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A 回答 (4件)

「侍」よりも「士分」と理解している



浪人さんが道場を開くことはごく普通です
逆に、指南役という役職ならば、殿様から俸禄をいただいて家臣の武術を指導するのが務めで、道場主として指導することで収益を上げては利益相反になる

浪人さんが生計を立てる方法の一つとして、剣術を道場で教えるというのがあった

殆どの場合、道場主は髷を結っても総髪だったはず、其れは民間人であるという意味でもある

権威で成り立っているような道場であれば、道場主は座っているだけでいいので血統を重視することもあるかもしれないが
実力勝負の世界なので、弟子のうちで優れた腕を持つものを婿養子なんぞにして後継とする話は多い
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この回答へのお礼

さっそくありがとうございます!
>指南役という役職ならば、殿様から俸禄をいただいて家臣の武術を指導するのが務めで、道場主として指導することで収益を上げては利益相反になる
と言うことは、下級武士とか町人などを相手にせずに「殿御用達」みたいな立場なんですね?

>浪人さんが生計を立てる方法の一つとして、剣術を道場で教えるというのがあった
これは浪人本人が道場主と言う場合と、雇われ道場主みたいな場合があるのでしょうか。前者の場合は道場の収入の他に、浪人名物傘張りなんて内職もいたのでしょうか?

本当に何もわかってなくてすみません・・・

お礼日時:2012/11/14 17:48

江戸の三大道場の一つ


千葉周作の祖父、父とも中村藩の剣術指南でした。
父の幸右衛門(ウイキでは別名)は故あって浪人して
松戸で、馬医者を業としていました。
周作は浪人といっても武道の血筋の者です。

同じくその一つ練兵館の斎藤弥九郎は郷士の子
で旗本の家来の若党をしていたので、下級武士
です。

士学館の桃井春蔵は沼津藩士の田中の子です。
桃井道場の三代目の養子となり道場主を継ぎ、
発展させました。
剣術途)経営に優れたものが道場主であり師範でも
ありました。
勿論健康上とかで、道場主に代わり師範代が表に
立つこともありました。

農民出といっても名字帯刀を許された郷士出です。

大道場には各藩から藩士の鍛錬を頼まれ、彼らは
塾生として寄宿したので、藩より多額の援助金を受け
経営に寄与しました。

藩には藩校があり道場もありましたが、他藩の士と
交わることも目的のひとつでした。

幕臣、藩士以外にも郷士や裕福な庶民も剣術修行に
励んだといいます。
馬庭念流の道場に七日市藩の藩主が入門したことが
あります。

以上は江戸の大道場ですが地方については大都市を
除き、藩の町道場は江戸の小町道場と同じで経営は
苦しかったと思われます。
藩校に道場があり剣術指南役がをり、藩士の鍛錬は
ここで行われ、それにもれた下士がが通うくらいでしょう。

経済的にも剣術修行でもマーケットが小さいのです。

浪人も地方で生活は困難でした。
武士は学問があるので、寺子屋の師匠、医者それに
町道場ですが他には日銭稼ぎの内職や日雇い位でしょう。
小都市では少なく、浪人は江戸など大都市に流れて
いきました。
種々の職種があり、寺子屋、医者、町道場以外にも
仕事があり食っていけたのです。
大店の用心棒兼、教育係も多く、うまくいけば入り婿
になりおお店の主も狙えたでしょう。
ただし旗本の二、三男もこれを狙っていました。
豪商の中でも、鴻池、住友はそれぞれ尼子、柴田勝家
の家臣の末裔です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
>農民出といっても名字帯刀を許された郷士出です。
これは豪農だから許されたとか、地元に何らかの形で貢献したから許されたとかですか?
今回の質問からはずれますが、例えば伊能忠敬さんのような豪農で、たしか庄屋だったような気がしますが
この方も名字がありますね。

自分の知りたいことは皆様の回答でだいたい理解ができました。
どの方の説明もわかりやすかったのでBAは選らばずにおこうと思います。
またそれぞれの方に質問したことに対しても、お時間があれば回答をお待ちしております。

お礼日時:2012/11/15 23:17

”この師範ですが、もちろん武家ですよね”


    ↑
必ずしもそうではありません。
江戸三大道場のひとつ、神道無念流練兵館
の師範である斎藤弥九郎は農民出身です。

”浪人さんが道場を開くなどはありましたか”
    ↑
同じく、江戸三大道場の千葉周作は浪人です。

”殿様の子供に剣術を指南する、なんて話もありますがそう言う
 話が来るような道場は大きな有名どころなんでしょうか”
     ↑
この場合、殿様というのは大名の領主ということですね?
高禄の旗本の領主も殿様と呼びました。
殿様の子供の場合は、各藩に所属する剣術指南役がおりました
から、彼らの指導を受けた場合が多かったと思います。

”道場を継ぐと言うのは嫡男であったり、養子であったり、腕のいい弟子なのでしょうか?”
     ↑
ケースバイケースですね。

千葉周作の北辰一刀流玄武館は世襲でしたね。
子供が非常に能力がありました。
千葉の小天狗千葉栄次郎が有名です。

鏡新明智流の桃井春蔵、二代目は養子で
三代目は実子でしたが四代目は養子です。
養子というのは、有能な弟子を息子にした
ものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
農民出身の師範とのことですが、当時の農民は帯刀が許されていないのに、どうして剣術の師範になれたのですか?腕っ節がよくて養子とか後取りになったのでしょうか?

お礼日時:2012/11/14 22:57

玄武館を開いた千葉周作が有名だと思います。

小説やテレビドラマになったぐらいですから。武士は食わねど高楊枝といったところで、生計を立てる手段が必要です。リストラされた武士は何か武士に相応しい仕事を始めるしかないのです。吉田松陰で有名な松下村塾は、最初は松陰の叔父の玉木文之進が開いたものです。玉木文之進は長州藩士であって浪人でもなんでもないが副業だったわけです。町医者になって病院を開業したり、蘭学者になったり儒学者になった人もいる。武士の家に生まれても家督を継げるのはたった一人だけです。次男、三男は身を立てる為に学問を修め、新しい生業につくしかないのです。そういう数多い進路のひとつが道場の師範だったというだけの話。道場を継ぐというのは家督を継ぐことです。嫡男であったり、養子であったり、腕のいい弟子。はい、その通りです。将来見込みがない実子より、見込みがある弟子を養子にして家督を継がせようとするのです。それが家系という概念なのです。後継者と目していても若くして亡くなったりすることも江戸時代は多かったので、いろんなドラマがあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
>リストラされた武士は何か武士に相応しい仕事を始めるしかないのです
ずばり、リストラの具体例を教えてください。
>町医者になって病院を開業したり、蘭学者になったり儒学者になった人もいる。
しかしこれは、今ほど厳密な医師免許がなかったとしてもあんまりバカじゃなれないですよね?
大岡越前の榊原伊織先生はこの例なんでしょうか??
その場合も帯刀は許されたのですか?

お礼日時:2012/11/14 22:53

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Q江戸時代頃まであった総髪という髪型

昔の男性の髪型の「総髪」というのは、確か学者とか医者などの髪型だったと読んだことがあります。
幕末には、新撰組もそうですが、剣客にも総髪の人が多かったようですが、これはどういう理由からですか?

また、総髪という形で、頭頂部あたりを剃らずに髪を残したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

武士が月代を剃るのは、「戦の時は兜を被るから」です。実際は兜を一度も被らずに死んでいく武士も多かったでしょうが、武士である以上は「お召しがあればいつでも戦に出る覚悟」を示す象徴として月代を剃りました。

本来「武士以外の人」は月代を剃る合理的な理由はありません。ただ、江戸時代の平民で月代を剃るのはごく普通の風俗であったようです。以前「兜を被るはずのない平民が月代を剃るのは、『まともな人間』であるとアピールするため」という回答がありましたが、当時の平民に聞けば「他の人が剃っているから俺も剃る」と言う回答しか返って来なかったのではないでしょうか。

一方、武士と全く別な社会に生きている、武士の支配下には属さない公家や神官は月代を決して剃りませんでした。これは「武士の習俗は公家や神官には関係ない」からで、当たり前のことです。

「また、総髪という形で、頭頂部あたりを剃らずに髪を残したのはなぜでしょうか?」
質問の意味が良く分かりませんが、月代を剃らないのが総髪ですから…現代の男性で、自由業の方で髪を長くして後ろで結んでいる人がいます。あれをもっと長くして、髪を油で固めて後ろを持ち上げ、上の方で結べば「総髪」になります。

現代の「長髪男性」のように後ろで下向きに結ばないのは、公家や神主は冠(烏帽子)を被るからです。この場合、髪の毛を油で固め、結び目(髷)が上の方にあると、上からスッポリ冠などを被ることができます。

雛人形のお内裏様(親王様)が、冠を被っていない状態の写真
http://images.pingmag.jp/images/article/dolls09.jpg
を見てください。これが要するに「総髪」です。頭がこのような状態になっていないと、冠が上手く載りません。

武士が月代を剃るのは、「戦の時は兜を被るから」です。実際は兜を一度も被らずに死んでいく武士も多かったでしょうが、武士である以上は「お召しがあればいつでも戦に出る覚悟」を示す象徴として月代を剃りました。

本来「武士以外の人」は月代を剃る合理的な理由はありません。ただ、江戸時代の平民で月代を剃るのはごく普通の風俗であったようです。以前「兜を被るはずのない平民が月代を剃るのは、『まともな人間』であるとアピールするため」という回答がありましたが、当時の平民に聞けば「他の人が剃っ...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
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(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
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Q町奉行の与力や同心の採用資格?

以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上、勝重が他役に移動した後も請われて与力の仕事を続けましたが、当然身分は板倉家家臣ですから、奉行にとっては板倉家からの与力(寄力)ということになり、与力職を離れた後は板倉家に戻るというのが決まりであったと考えられます。

しかし、時代の流れとともに与力と板倉家の関係が希薄になり次第に幕臣に取り込まれていきました。元が中級の陪臣ですから、当然将軍への目通りや登城ができる資格がありませんでしたので、完全に幕府に取り込まれたのちも慣例として抱え席(後述)の目通り登城資格なしとなりました。

その後、江戸の市民も増加し、悪事を働く者もでましたので、寛永8年(1631)に家光が北町奉行に加賀爪民部少輔忠澄を、南町奉行に堀民部少輔直之を任命し(Wikiでは逆になっているが、それは間違いです)、板倉勝重の代からの与力と、新たに、関ヶ原の戦いなどで足軽大将を務めた者を与力に任命し、南北に各25騎ずつ計50騎を配置しました。

そして、与力は「御家人」と位置づけられましたが、正確には、「御家人」と「旗本」の中間くらいの位置づけでした。

旗本や御家人は、次の3つに分類されました。

★譜代・・・・・・世襲の家禄の家格。
★二半場・・・・役職(役料)を世襲で認められた家格。
★抱え席・・・・一代限りの役職(役料)の家格。


同心

(1)寛永8年(1631)に南北町奉行所が創設された時、与力の配下として関ヶ原の戦いなどで足軽を務めた者の中から選び出し、南北各60人ずつ計120人を任命しました。


>>以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

「与力」「同心」は、上記の「抱え席」であったため、自分が死亡した時は、原則的には役職を返上しなくてはならなかったのですが、「不浄役人」と呼ばれて、新たにその役に就く者がいなかったため、一旦は役を返上し、改めて、その子などに同じ役が与えられるのが現実でした。

従って、「非正規雇用」という観点からみれば、原則的には一代限りですので、不安定な立場だったと言えるでしょう。


>>ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

「与力」や「同心」は常に「不浄役人」と言われ続けてきましたので、家名は残したいが跡継ぎはイヤダと言う者も出てきて、「与力」1,000両、「同心」200両という相場で、町民(商家の次男、三男)などに「御家人株」が売買された例もあります。


>>採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

原則的には一代限り、しかし、実態は世襲と同じでしたので、試験も身辺調査もありませんでした。
さらには、嫡子が12~13歳になると、奉行所内での見習いをさせています。


(よもやま話)

(1)町奉行所の歴史
町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。

(2)町奉行は一人四役?
大岡越前守や遠山の金さんでおなじみの町奉行とは一体どんな役目だったのだろうか。町奉行は旗本から選ばれ、役人の花形であった。仕事は江戸の司法、警察、交通行政、民政の全般にわたった。また、四宿(板橋宿、内藤新宿、品川宿、千住掃部宿)を管理する役目も持っていたので、現在の「東京都知事」、「地方裁判所長」、「警視総監」、「東京駅長」を兼務していたようなものである。

(3)大岡越前守が有名になったわけ
享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

(4)町奉行の管轄
町奉行の管轄は、町地だけに限られていた。つまり、町人だけが対象であった。江戸の街には武家地、寺社地、町地の区別があり、武家地とは大名の上屋敷、下屋敷、(また中屋敷を持っていた大名もいた)、旗本の屋敷などを指し、この地に犯人が逃げ込んだときや神社仏閣地へ逃げ込んだときには、町奉行所はいっさい手が出せなかった。武家地に逃げ込んだときは、目付に犯人の引き渡しを申し入れた。また、神社仏閣へ逃げ込んだときは、寺社奉行に申し入れをして犯人を捕捉してもらった。

(5)奉行所が三つ?
すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。

(6)与力、同心の数
両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。

(7)南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。

(8)定町廻り同心の範囲
次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」範囲でした。しかし、時代とともに奉行所としての管轄範囲は広がりをみせています。
定町廻り同心の範囲  http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html

(9)割合平穏
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。

(10)奉行所付近の火事
奉行所または奉行所近辺で火事があると、髪結床が駆けつけた。「梅床」だとか「亀床」などという印のある提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと(現代の救急車みたいなもので)皆、道を空けたという。奉行所の書類は普段から箱に詰めて、麻縄が掛けてあったので、どんどん運び出したという。なぜ、髪結床だったのか?実は、髪結いの仕事は大変な力仕事だったのだ。武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力が必要だった。だから、男の髪結いが多かった。したがって、奉行所の火事には力のある髪結床が選ばれたのだ。では、大工も力仕事ではないか・・・。確かに、しかし、大工は仕事場がバラバラで結束しにくい。そこへいくと、髪結床は店を構えていて一箇所にいてくれたので集合しやすかった。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代の武家の女性装束について

江戸時代の武家の女性の装束ですが、庶民とはTVなどで異なるようです。ネットで画像を検索しているのですが中々、ヒットしません。
髪型や衣などについて詳しく解説されているサイトがあったら教えてください。髪形も武家は違うのですね。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBMQsAQwAA
島田髷の由来は、東海道島田宿の遊女が結ったのが名の起こりです。

衣服について。
武家も大商人たちもそうでしたが、女の元服19歳までは「振袖」で、結婚したり、元服を過ぎると「留袖」を着ました。
現代は、「留袖」と言うと「冠婚葬祭用」を言いますが、昔は、「振袖」に対して、袖が短い・・・という意味でした。
http://www.weblio.jp/content/%E7%95%99%E8%A2%96

また、一般的には「小袖(こそで)」といって、「留袖」よりは気軽な服装でした。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B0%8F%E8%A2%96&um=1&ie=UTF-8&ei=cE76SoXGOMuSkAW4vojDCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBwQsAQwAA

また、高貴な武家の奥方になると、その上に「打掛」を着ていました。
http://wedding-gyao.usen.com/glossary/word/006044002

この「打掛」も今では、結婚式の花嫁の衣装と思われがちですが、江戸時代は、身分の高い武家などでは一般的に羽織っていました。

写真を添付します。
解説には、
上流の女の装い
中央の武家の奥方は「打掛」(小袖の上に着る小袖)姿。
左右にいる祐筆と御側女中は半模様の小袖。
とあります。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=...続きを読む

Q旗本と大名

昔の日本で、旗本と大名どっちが偉かっんですか?
例えば、道ですれ違ったときに道をゆずるのはどっちとか

Aベストアンサー

それぞれが『殿様』と呼ばれていた階級です。大名は石高1万石以上で、格の高さは大名が上です。旗本から出世して大名になった者として吉宗時代の町奉行・大岡忠相です。綱吉時代に柳沢吉保も下級藩士から側用人を経て大名になりました。
江戸初期では旗本にはなるには直参であることが必要でした。しかし、幕末になると旗本株をお金で売買するようになりました。江戸城の無血開城談判で有名な幕格の勝海舟は祖父の代に旗本株を買った家系です。
旗本の中では書院番や幕格の旗本は格が高いのです。将軍のお側近くにはべるので特別なのです。外様大名は将軍に近づくことも出来ませんでした。江戸城松の廊下で『殿様』同士が出会うと格式の差でいろいろとあったでしょうね。
格から言うと徳川御三家、徳川御三卿家、松平家、親藩大名、外様雄藩大名、幕格旗本、外様小藩大名、旗本の順です。

Q現代剣道が武士の時代の剣術に通用するか?

剣道、剣術、居合にお詳しい方、質問宜しくお願い致します。前々から思ってたことなのですが、剣道の試合などを見ていると先に打ち込んだ方が一本をとる様ですが、その際、相打ち気味になるケースが多いと思われ、一本を取れなかった方も結果として相手に打ちこんでいるので結果的には、武士の時代となると完全にかわすか受けなければこちらも致命傷を負いかねない状態となります。そういった時代の剣術と現在の剣道の技術レベルにかなりな差異がある思われるのですが、いかがなものでしょうか?

Aベストアンサー

1.本来の剣道とは、剣術の奥儀であり、実際の立ち会い・いくさにおいて、「相手に一切ふれさせず一方的に斬り伏せて勝つすべ」またはそのすべを訓練する稽古(剣道・竹刀稽古)を言います。

これが剣術の極意です。
いくさでも水・味噌・ほしいいがつきないかぎり、何か月でも、斬り続けられます。

2.剣道の発祥は神道流=新當流(新当流)=影流=直心影流です。

文字による歴史というのは、そもそも、ウソを付くためのシステムですので、文字による歴史など信じてはいけません、
直伝直伝で伝えられてきた技・身体文化をこそ信じるべきです。

3.現代剣道の形骸化は、北辰一刀流などの悪影響と、大東亜戦争敗戦後のアメリカ合衆国による武術・武道禁止政策によるものです。

戦前の剣道と現代剣道はまったく異なります。
昭和の御代の剣道と平成の御代の剣道もまったく異なるようです。
どうやら戦前の剣道を習い育った昭和の世代の剣道剣士の先生方々が、お教えにならなかったようです。

ですが現代剣道をなさっている方が直心影流をお始めになると、0の状態から三年かかるところまで、半年で到達出来ます。

つまり、形骸化はしていても、剣道はやはり素晴らしいものをのこし、伝えてきているということです。

参考URL:http://www.nicovideo.jp/watch/sm13396172

1.本来の剣道とは、剣術の奥儀であり、実際の立ち会い・いくさにおいて、「相手に一切ふれさせず一方的に斬り伏せて勝つすべ」またはそのすべを訓練する稽古(剣道・竹刀稽古)を言います。

これが剣術の極意です。
いくさでも水・味噌・ほしいいがつきないかぎり、何か月でも、斬り続けられます。

2.剣道の発祥は神道流=新當流(新当流)=影流=直心影流です。

文字による歴史というのは、そもそも、ウソを付くためのシステムですので、文字による歴史など信じてはいけません、
直伝直伝で伝えられてきた技...続きを読む

Q侍の時代の浪人が着ていたような、少しはだけた着物の名称

侍の時代の浪人が着ていたような、少しはだけた着物は何と言う名称のでしょうか?
ああいう着物をネットで買いたいのですが、名前がよく分からなくて困っています。

ヘンな質問ですみません。
よろしくお願いしまっす!

Aベストアンサー

あれは「はだけた着物」があるのではなくて,普通の着物をはだけたように着ているだけですよ.
浪人ですから古ぼけて汚れていますが,もとはちゃんとした着物と思われます.

はだけたように着るには,着物を着てから腕を前あわせから出して(遠山の金さんみたいにですね)また袖に腕を通すといいと思います.
もしくは着付けた後に,襟を持ってちょっと引っ張ってみてもはだけますよ.

「着流し」というのも着物の着方のことで,長着(いわゆる着物のこと)だけを着た状態のことです.
これに袴をつけたり羽織を着たり,という着方があります.

この辺のサイトで男の着物について紹介していますので,ご参考まで.

http://www.kimono-taizen.com/
http://kimonoo.net/

Q上屋敷、中屋敷、下屋敷

それぞれどんな位置づけなのでしょうか。

よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別荘の役目にあたり、藩主の休息所や側室の住居、など内々の用途にあてられる事が多くいわば隠れた屋敷に相当します。 このため藩主の好みで庭園など上屋敷以上に凝った工事もあったようです。
詰める家臣も下級のものが当てられますが、上級の家臣は都度上屋敷から出勤する形が多かったようです。

中屋敷はそれを持てるのは限られていて江戸に常駐するなど幕府要職につくものに許されていました。
それぞれ用務が多いなど必要があったからです。
事務所のようなものと考えれられます。
側室の住居などが置かれる事もあったようです。

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別...続きを読む

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれ...続きを読む


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