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- 回答日時:
>私の疑問は、包囲されている場所からどうやって歳三は逃げることができたのかということです
近藤勇は流山で捕まった訳ではありません。
当初は、大久保大和と名乗って、徳川家公認の治安隊であると主張しました。
近藤勇の面体を知る者がいて見破られて板橋宿で捕縛されています。
土方以下の連中は流山にいました。
徳川家公認の治安部隊の指揮官が出頭して来たとなれば、当然戦闘は一時休止となります。
流山にいた連中はその間に移動できました。
下記のサイトに説明があります。
新選組の足跡 ~流山編:近藤勇・土方歳三離別の地~ - 中年になっての ...
blogs.yahoo.co.jp/miyahamakisa/44975428.html
>それとなぜ投降を勧めたのか、ということも疑問です。
元々甲府へ行くことを目的としていましたが、モタモタしている間に難しなってしまいました。
止む無く、水戸もしくは奥州を目指す腹積もりだったようです。
奥州会津藩は最後まで抵抗しました。
単なる投降ではなく、不利な戦闘を回避して兵力を温存すべく交渉に向かっただけです。
全面降伏の投降であれば、大久保大和などという偽名を名前を名乗る必要はありません。
流山で無駄死にするよりも、水戸または奥州で陣営を立て直すべきだというのが土方の考え方であったようです。
土方自身流山を離れた後、宇都宮城奪回や松前城陥落などで戦場の指揮官として戦い続けています。
最後に榎本武揚と合流して函館の五稜郭に立てこもりましたが、籠城を好まずに打って出て戦死しています
新撰組は京都で薩長の連中を多数殺害していますから、薩長軍としては絶対に見逃せない一団でした。
一方で包囲軍の中に土佐の連中がいて、連中は、坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺の犯人を新撰組と信じて近藤勇を仇敵と看做していましたから、報復懲罰を主張しました。
包囲軍の指揮官である薩摩藩兵、有馬藤太は、新撰組による身柄奪回襲撃を恐れて土佐の連中の主張を受け入れて近藤を切りました。
報復懲罰ですから、武家としての切腹ではなく罪人としての斬首でした。
後に、薩長の本陣の人達から、近藤勇は生かしておくべき人物であって、無駄な処刑は何事か、と激しく糾弾されています。
現に函館で抵抗した榎本武揚は明治になってから新政府の高官として働いています。
とまぁ~伝えられてはいますが、本人の供述が残っていませんから、本人達が本当のところ何を考えていたかは分かりません。
ただ、誰も戦闘のための戦闘などという無駄なことはやっていなかったということです。
何らかの目的を達成するための手段として戦闘行為を続けていただけです。
目的達成のためなら戦闘の休止、交渉、撤退などなんでもやります。
ドンパチやったり切ったはったが目的なのは、ヤクザ者の喧嘩ぐらいです。
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