痔になりやすい生活習慣とは?

合力米とは何でしょうか?
「西条藩は、伊予国新居郡西条を藩庁とした親藩小藩。1690年紀州藩徳川頼宣次男松平頼純が入封した。同氏は家門の定府大名で、宗家との血縁も深く、合力米三万石が支給された。 」
「小倉新田藩 知行地一万石では、立ち行き難いので、小倉藩より合力米として別に一万石を与えられていた」
「武蔵の細川家における待遇は、十七人扶持・堪忍分の合力米十八石・ 客分扱い」
検索すると上記のような記述がありますが、説明がみあたりません。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

>合力米とは何でしょうか?



「本家から分家への援助」「知行地の代わりに現物(米)支給」と理解して下さい。

(伊予)西条藩の場合。
初代松平頼純は、紀伊藩内で5万石の賄い料で分家として独立しました。
(独立と言っても、立藩ではありません。この土地をやるから、自分で生活しろ!との意味です)
その後、初代伊予西条藩3万石藩主として伊予西条へ転勤。
西条藩領地3万石と(賄い料)5万石ですから、実質8万石の大名誕生。
そこで、公表石高とのバランスから(紀州藩内の)賄い料2万石を本家へ返還しました。
それでも、未だ実質6万石の大名です。
紀州藩、「親族といえ、藩内に他藩の知行地があるのは問題だ」
西条藩、「飛び地があるのは、管理が問題だ」
そこで、「西条藩は知行地を返還する代わりに、紀伊藩は現物(米2万石)を支給する」事になったのです。
この、現物支給される米が「合力米」です。
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Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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