ローマ帝国の版図が、北はScotland、南はカルタゴ、東は東地中海まで広がり、「ラテン語」が軍事・行政用語として、各地で通用しました。
 東西分裂(AD395)以降の、東ローマ帝国(1453のオスマントルコ占領まで)の公用語についてお尋ねします。

 東ローマ帝国の最晩期(ビザンチン帝国)の領土は、{ギリシャ島嶼部・マケドニア・小アジア半島}でした。
Q1 東ローマ帝国は、ローマ(伊)の言語(ラテン語)を引き継いでいたのか?
Q2 東ローマ帝国は、その地勢上の理由から、(古典)ギリシャ語に回帰していたのか?
Q3 キリスト教のうち{ギリシャ正教}(東方教会?)をコンスタンチノープル市が主宰していたのですが、経典語は(ローマ)ラテン語? それとも何?
Q4 {ギリシャ正教}はその後、現在の{ロシア正教}に引き継がれますが、その教典が(ギリシャ語?)からキリル文字への移行があったのでしょうか?

A 回答 (4件)

ローマ帝国の東西分裂時の東ローマ帝国の公用語は、ラテン語でした。


しかし、住民の間では、ギリシャ語が普通に話されていました。
しかし、ユスティヌス朝時代では、公式の公用語はラテン語でしたが、宮廷内での標準語は、ギリシャ語となっていました。
ユスティヌス朝の創始者であるユスティヌス1世(518~527)は、ラテン語の読み書きができず、甥のユスティニアヌス1世(527~565)を秘書として使い、後に後継者としました。
ユスティニアヌス1世は、ローマ法大全を編集しますが、これは公用語であるラテン語で書かれています。
つまり、この時期
公用語 = ラテン語
標準語 = ギリシャ語
となっていました。

ユスティヌス朝の後急速にギリシャ化がすすみます。
そのため、一般には、その後の東ローマ帝国を「ビザンツ帝国」と呼びます。
ヘラクレイオス朝(610~717)では、完全にギリシャ語に置き換わっています。

という事で、
1.東ローマ帝国に分裂時は、ライン語を引き継ぎました。
2.ギリシャ語に変化しました。
3.聖書は、そもそもがギリシャ語の文章をラテン語化したものです。
東ローマ帝国時代は、公式にはラテン語が使われていたのですが、その後ギリシャ語化します。
その時期は私は知りませんが、偶像崇拝問題などの時代にギリシャ語化したと思われます。
4.正教会は、国ごとの典礼を行う事が特徴です。
つまり、ロシアへの布教には、当初からロシア語が使われています。
これは、他の国(セルビア、ブルガリアなど)も同様です。
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ローマ帝国の公用語はラテン語であったのが、東ローマ帝国はいつのまにか完全にギリシア化してしまいます。

いつ頃からそうなったのか、興味があります。Q1,Q2については#3さんの回答でほぼいいと思います。日本語版、英語版Wikipediaでも皇帝ヘラクレイオス(575 - 641, 皇帝在位 610 - 641)のとき東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったと書かれています。ここでいうギリシア語とはもちろん古典ギリシア語(擬古文ですが)のこと、権威のないコイネーなどではありません。コイネーは教養のない民衆が話していた話し言葉に過ぎません。
Q3ですが、新約聖書はギリシア語で書かれました。教典の言葉は当然ギリシア語です。西方においては初期の布教はギリシア語で行われました。今でも、グレゴリオ聖歌のもっとも古い曲のひとつキリエ(Kyrie)はギリシア語で歌われます。ローマ帝国西方においても初期の典礼はギリシア語で行われたのです。 権威あるラテン語訳聖書『ヴルガータ』( Vulgata )が作られたのは400年頃ヒエロニュムス(Hieronymus)によります。この『ヴルガータ』が使われたのはもちろんラテン西方だけです。
Q4 伝統的には修道士キュリロスとメトディオス兄弟がスラブ世界にギリシア正教を伝え、その際、いわゆるキリル文字を考案したとされていましたが、最近は、二人が考案した文字はグラゴール文字とされているようですね。いづれにしても、スラブ語をギリシア文字だけで表記するには無理があったわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5% …
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コイネー


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A4% …

ラテン語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%86% …

イタリック語派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF% …


わかりにくいですね。

東ローマ帝国に関するビデオを過去に見たことがあります。
私の記憶が正しければ、ローマ帝国には4つに分かれていた時期があり、それぞれに別々の皇帝がいた。
つまり皇帝が4人いた。

名前は忘れましたが、その一人が田舎町のコンスタンチノープル(今のイスタンブール)に拠点を置いて、東側の勢力を抑えていたと思います。
そしてトーナメント方式で、他の皇帝をうちやぶっていき、分裂していたローマ帝国を吸収していって、最終的に一つに統合した。


東がコイネーで、西がラテン語だったのではないかと。

従って上のコイネーのリンクにも書かれていますが、Q1の答えはコイネーではないかと。

Q2 
住民の多くがギリシャ系だったので、必然的にその当時その地域で話されていた言葉はコイネーだったと思います。
従って回帰していったわけではないと思えます。

Q3 コイネーだったと思います。
西はラテン語が公用語だったようですが、東はコイネーだったので。

Q4
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA% …
ということで、初めて知ったのですが、キリル文字は宣教のために東方正教会の宣教師が考案したグラゴール文字もが元になっているようですね。
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もともと ローマ帝国においては 東では ギリシャ語が公用語ですので、回帰するまでもありません。



q3
キリスト教の聖典は、アレキサンドリア(エジプト)で作られた60人訳、そもそもの原典です。5つあった大主教座のうちの四つが東ローマであり、ゆいつ西にあったのがローマ教会。
キリスト という表現自体が、ギリシャ語です。

q4
ロシア正教の自称であって、引き継がれていない。
聖典はあくまでギリシャ語。
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Q●東ローマ帝国の公用語は何?

 ローマ帝国の版図が、北はScotland、南はカルタゴ、東は東地中海まで広がり、「ラテン語」が軍事・行政用語として、各地で通用しました。
 東西分裂(AD395)以降の、東ローマ帝国(1453のオスマントルコ占領まで)の公用語についてお尋ねします。

 東ローマ帝国の最晩期(ビザンチン帝国)の領土は、{ギリシャ島嶼部・マケドニア・小アジア半島}でした。
Q1 東ローマ帝国は、ローマ(伊)の言語(ラテン語)を引き継いでいたのか?
Q2 東ローマ帝国は、その地勢上の理由から、(古典)ギリシャ語に回帰していたのか?
Q3 キリスト教のうち{ギリシャ正教}(東方教会?)をコンスタンチノープル市が主宰していたのですが、経典語は(ローマ)ラテン語? それとも何?
Q4 {ギリシャ正教}はその後、現在の{ロシア正教}に引き継がれますが、その教典が(ギリシャ語?)からキリル文字への移行があったのでしょうか?

Aベストアンサー

ローマ帝国の東西分裂時の東ローマ帝国の公用語は、ラテン語でした。
しかし、住民の間では、ギリシャ語が普通に話されていました。
しかし、ユスティヌス朝時代では、公式の公用語はラテン語でしたが、宮廷内での標準語は、ギリシャ語となっていました。
ユスティヌス朝の創始者であるユスティヌス1世(518~527)は、ラテン語の読み書きができず、甥のユスティニアヌス1世(527~565)を秘書として使い、後に後継者としました。
ユスティニアヌス1世は、ローマ法大全を編集しますが、これは公用語であるラテン語で書かれています。
つまり、この時期
公用語 = ラテン語
標準語 = ギリシャ語
となっていました。

ユスティヌス朝の後急速にギリシャ化がすすみます。
そのため、一般には、その後の東ローマ帝国を「ビザンツ帝国」と呼びます。
ヘラクレイオス朝(610~717)では、完全にギリシャ語に置き換わっています。

という事で、
1.東ローマ帝国に分裂時は、ライン語を引き継ぎました。
2.ギリシャ語に変化しました。
3.聖書は、そもそもがギリシャ語の文章をラテン語化したものです。
東ローマ帝国時代は、公式にはラテン語が使われていたのですが、その後ギリシャ語化します。
その時期は私は知りませんが、偶像崇拝問題などの時代にギリシャ語化したと思われます。
4.正教会は、国ごとの典礼を行う事が特徴です。
つまり、ロシアへの布教には、当初からロシア語が使われています。
これは、他の国(セルビア、ブルガリアなど)も同様です。

ローマ帝国の東西分裂時の東ローマ帝国の公用語は、ラテン語でした。
しかし、住民の間では、ギリシャ語が普通に話されていました。
しかし、ユスティヌス朝時代では、公式の公用語はラテン語でしたが、宮廷内での標準語は、ギリシャ語となっていました。
ユスティヌス朝の創始者であるユスティヌス1世(518~527)は、ラテン語の読み書きができず、甥のユスティニアヌス1世(527~565)を秘書として使い、後に後継者としました。
ユスティニアヌス1世は、ローマ法大全を編集しますが、これは公用語である...続きを読む

Q王政ローマと、共和政ローマと、ローマ帝国って違うの?

王政ローマと、共和政ローマと、ローマ帝国って違うの?

この3つは全部、違うの?

Aベストアンサー

古代ローマは王制からスタートしました。当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王のタルクィニウス・スペルブスの時代になるまでにローマは近隣の中では目だって大きな国に成長していたのですが、内紛が絶えずまた政変が相次いだり王族の横暴などもあり、タルクィニウス・スペルブスを追放し王制を廃して共和制に移行することになりました。

これによりローマは王制から共和制になるのですが、その政治体系は執政官を2人選挙で選出し、毎年交代しながら首相のような役職を勤めました。
ちなみに、ローマには王制時代から民会があり、王であっても市民集会の投票を得ないでは王に選出されることはなく、戦争を行うにも(相手から攻めてきた時は別ですが)市民集会の議決が必要でした。またこれとは別に王制時代に元老院という助言機関があり、これもそのまま共和制ローマに残ります。この二つが共和制ローマの発展と、ローマ帝国への変貌のきっかけになっていきます。

これには少し説明が必要だと思います。
さきにローマの始まりは暴力団みたいなもの、と書きましたが、当時は自分の出身地を追放されたり、土地を借金などで失って食い詰める人々がたくさんいました。初代の王とされるロムルスとレムルスの兄弟は、もともと高貴な出てあったようで、このような者を引き連れてローマを建国しました。
その頃には先進国のギリシャが近隣にあり、民主的な政治体系があったため、かなり初期のころから市民集会の原型はあったようです。これは戦争になれば「死」を覚悟して戦う義務があるゆえに、権利として獲得したものでありました。

これが共和制になっても引き続き有効とされ、市民には市民集会のほかに護民官(按察官)という役職も与えられ、今でも「拒否権」と呼ばれるVETOを持つ強大な権力を有していました。これに対して貴族とか富裕者のサロンでもある元老院は、執政官を排出できる人材が集まる集団として隠然たる権力を保持していました。(執政官は戦争時に指揮官になるため、高度な教育を受けられる貴族などに限定されていたため)

この二つの勢力が、ローマ自体が段々強力になり勢力と国土を広げていく間に何度もぶつかり合います。理由のひとつとして、国土が広がるとその土地に住んでいる部族をローマ市民にするため、平民も増えること、もうひとつは国土が広がると富裕者はさらに富裕になることで、平民格差が広がったからです。富の再分配に対して国内紛争がなんども起きました。

これを最終的に解決する方法を考え出したのが、かの有名なユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)です。彼は地中海全体に広がったローマ共和国の版図を統治するには元老院と市民集会の対立が邪魔になるとして、終身執政官+終身護民官+最高神祇官(これは元々終身)になる役職を考え出します。それも市民集会も元老院もどちらも賛成多数で、カエサルに与えるはずでした・・
と、ここで起こったのが元老院によるカエサル暗殺です。

これによりカエサルが筋道をつけた「皇帝(エンペラー)」にカエサルの養子であったアウグストスが着任することになります。
これにより内政問題がほぼ片付いたため、ローマは帝国としてますます発展するのですが、王とは成り立ちが違っても、所詮は独裁権力であることは同じであるため、代を重ねるごとに皇帝も腐敗し、ローマ帝国の滅亡に至るのです。

最後にエンペラーについて
もともとインペリアルと呼ばれたもので、軍の指揮権を意味します。つまり最高軍司令官です。
こうしてみると、皇帝とは、最高軍司令官・最高行政長官(内閣総理大臣みたいなもの)・護民官(拒否権を持つ平民の長)・元老院第一人者(結果として元老院の議長のようなものになる)・最高神祇官という大国ローマの最高の権力者であり、現在の世界情勢とローマの覇権・周辺国への影響を比較してみれば、アメリカ大統領とローマ法王と安全保障理事会をひとりで行っているようなものでしょう。

このようにして王制ローマからローマ帝国までは一連の流れがあるのです。

古代ローマは王制からスタートしました。当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王...続きを読む

Q東ローマ帝国の歴史的意義とは?

東ローマ帝国の歴史的意義とはなんでしょうか?

Aベストアンサー

まずはイスラム勢力に対する欧州の防波堤であったこと

無論、イスパニア、シチリアなどの例外はあるものの
イスラム勢力とビザンチンは決定的対立していたわけではないですが
ビザンチンの存在で大々的な欧州侵入は免れていたといえます

ビザンチン滅亡後100年程度でオスマンがウィーン近くの欧州中心部まで侵入してきました


次いで西欧に対し古典ギリシア・ローマ文化をある程度までビザンチンが継承し伝えたこと
建築や絵画などはビザンチン時代になってから創成され西欧に影響しましたが


11世紀頃から西欧における農業革命による農業技術の発達、北イタリア諸都市の造船技術、海運技術の発達がビザンチンのそれより凌駕し発達しました

ビザンチンの財政状況の悪化から海軍力、海運はヴェネツィア、ジェノヴァ等北イタリア都市に頼ざるを得なくなりました

北イタリア都市にとりビザンチンは莫大な利益を得られる東方交易の拠点としての存在意義に変質していきました


ただ当時の西欧から見るとビザンチンは陰湿で不誠実、不審な行動をとる「ギリシア人」の帝国であったのは否定できません

コムネノス朝のマヌエル1世が友好関係、準同盟関係にあった神聖ローマ帝国、ヴェネツィアを裏切り敵と結び付いたりして怒らせたり
突然、帝国内で商業活動していたヴェネツィア商人を一斉に逮捕したりしました

その一斉逮捕事件時、ヴェネツィアの大使だったダンドロはこの事件で失明しました
ダンドロはその後にヴェネツィアに帰還し総督となりました
この事件が遠因になったかどうかわかりませんが
ダンドロは第4回十字軍を起こすことになるのです

まずはイスラム勢力に対する欧州の防波堤であったこと

無論、イスパニア、シチリアなどの例外はあるものの
イスラム勢力とビザンチンは決定的対立していたわけではないですが
ビザンチンの存在で大々的な欧州侵入は免れていたといえます

ビザンチン滅亡後100年程度でオスマンがウィーン近くの欧州中心部まで侵入してきました


次いで西欧に対し古典ギリシア・ローマ文化をある程度までビザンチンが継承し伝えたこと
建築や絵画などはビザンチン時代になってから創成され西欧に影響しましたが


11...続きを読む

Qイスラム帝国とローマ帝国について

例えば、エルサレムやアフリカの地中海沿いの地域なんかは
イスラム帝国の時代もあれば、ローマ帝国の時代もあった訳ですが
言葉があきらかに違います。

この地域にた普通に暮らしている住民はどう対応したのでしょうか?
支配国が代わる度に覚えさせられたのですか?

Aベストアンサー

言語は支配国が変わる度に変わるわけではない。変わるのは税金の納入先が変わるだけです。帝国とはそういうものであり、属州とはそういうものです。ただし個別の都市に限って論じれば、元の住民が追放されたり、虐殺されたり、自発的に他の地域に移住したりしてまるっきり中身が入れ替わってしまうこともあるので言語の継続性は保証されません。

世界的な人口の増加は、近代の産業革命や農業革命による飛躍的な食糧増産が可能になってからのことであって、古代においては現代人が考えるような人口じゃないんです。大規模な自然災害や伝染病の流行で、いともたやすく都市が廃墟になったり住民が入れ替わったりします。言語は、新しい住民の流入や新しい文化や新しい宗教の流入によって相互に影響しあい長い歴史によって自然と変わっていくものです。

Q双頭の鷲のマーク

このしるしは、
ビザンチン帝国 ロマノフ王朝 ハフスブルグ家の紋章
につかわれていますが、それぞれどのような関係があるのでしょうか?
中学せいでも解るよう簡単に解説してください

Aベストアンサー

双頭の鷲の紋章は
・東ローマ帝国→ロマノフ家
・神聖ローマ帝国→ハプスブルグ家
とそれぞれ別に伝わったのだと思います。
(上の二つの流れはそれぞれ国家として継承関係にあるといえます)

なので、

>この紋章の東ローマ帝国とハフスブルグ家との関係
>ハフスブルグ家とロマノフ王朝の関係はどのようなものなのですか?

私は「無関係」だと思うのですが。
偶然同じ紋章になったと考えればいいのではないでしょうか。
現代でも、インドネシアとモナコの国旗は見た目がまったく同じですが、お互いに影響を受けてそう決まったとは考えにくいです。

Qローマ帝国とかイスラム帝国の武将って誰が有名なの?

 日本では戦国時代や源氏・平氏などいろいろありますし

 中国の三国志などで多くの武将が紹介されていますが

 ローマ帝国などにも猛者っていなかったのですか?

 ヨーロッパの方では武将みたいなのは存在しないのでしょうか?

Aベストアンサー

 もちろん,いっぱいいますよ。
 ローマ帝国関係なら,ハンニバルを破った大スキピオ,ポンペイウス,カエサルあたりが名将として日本でも知られていますし,『ローマ人の物語』を読めばそれ以外にも名の知られた人物は沢山いることが分かると思います。
 イスラム関係は,日本ではあまり知られておらず,比較的知名度が高いのはサラディンとバイバルスくらいですが。

Q東ローマ帝国のコンスタンチノープルが都市の大きさでローマを抜いたのはいつ?

西ローマ帝国の首都としてのローマはいつ、コンスタンチノープルに抜かれ、キリスト教圏最大の都の座を奪われたのでしょうか?

Aベストアンサー

テオドシウスがコンスタンチノープルに常駐するまでは、地方都市だったらしい。
(在位 379年 - 395年)
402年にイタリア本土が西ゴート族に侵略されたとき、西ローマ皇帝のいたラヴェンナ以外は破壊されたらしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rome
によれば476年に西ローマ帝国が無くなったときには2万人程度。
402年がくさいですね。

Qスレイマン1世在世のオスマン帝国において、ローマ帝国の事を「青りんご」と呼んだ所以は?

こんにちは、お世話になります。

1500年代、スレイマン1世の在世のオスマン帝国史の歴史フィクションを読んでいるのですが、その本の中でローマの事を「青りんご(the Green Apple)」呼んでいます。

理由が気になって、検索してみたのですが、「ローマ帝国 青りんご」で検索しても、それらしき記事がヒットしません。ウィキペディアでもヒットせず、お手上げです。

ご存知の方教えていただけますか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

ギリシャには、トルコ人に奪われたイスタンブールを取り戻したのちその地は「赤りんご」 (kokkini milia) と呼ばれるという予言?伝説?があります。ビザンチン陥落の前にこの地をMonodendron「一本の木」と呼ばれました。いつどのような理由で「赤りんご」に変わったのかは不明です。

ウィキペディア ギリシャ語版
http://el.wikipedia.org/wiki/%CE%9A%CF%8C%CE%BA%CE%BA%CE%B9%CE%BD%CE%B7_%CE%9C%CE%B7%CE%BB%CE%B9%CE%AC

トルコ人にとってイスラムの都「赤りんごの木」K?z?l-Elmaの建設は小アジア進出の究極の目標です。
http://www.sav.sk/journals/aas/aas197.htm#7

どちらが先かは分かりませんが「赤りんご」=「小アジア」=「イスタンブール」とみなしてよさそうです。 これに対立するものとして ローマ=青りんご なのでしょうか。

Qフランク王国と東ローマ帝国(再質問です)

以前、同じ質問をさせて頂きましたが、
調べるにつれて再び質問が出ましたので、お尋ねします。

レポートの作成をしています。
レポート課題は「メロヴィング期のフランク王国とローマ帝国の関係を述べよ」(以前はカロリング期、だったのですが変更になりました)
メロヴィング家が実権を握っていた時代、に限ってしまうと
幅が狭すぎるので、
私なりの解釈で
カロリング家が台頭してきてからも「メロヴィング朝」が存続する間は
レポートの内容に入れています。

フランク王国は、ロンバルト族のラヴェンナ占領以来、教皇から厚い信頼を得て、役に立たなかった東ローマに代わり教皇の保護者になりますよね?
いくら調べても、教皇と東ローマの関係又は、教皇とフランクの関係しか読み取ることが出来ません。
東ローマがフランクに歩み寄るのはレオ3世の死後で、
この時代には「メロヴィング朝」は終わっています。

とすると、「関係」というものは一体どのような感じでしょうか?
戦争はしていませんが、
やはり敵対関係とみて良いのでしょうか?

Aベストアンサー

1番、2番です。

>レオ3世を継いだ幼い皇帝は、母に実権を握られ

これは、おかしいです。

皇帝レオ3世を継いだ、コンスタンティヌス5世は、719年生まれで、皇帝となったのが、741年ですから、21歳~22歳です。
幼い皇帝とは言えません。

多分、レオ4世を継いだコンスタンティヌス6世が、10歳で皇帝となり、母親イレーネが、摂政として統治を行っていますから、その事を勘違いされていると思われます。

この時は、フランク王国は、カロリング朝となっており、ビザンツ帝国は、ブルガリアとイスラムの挟撃に遭い、滅亡の危機に瀕していました。
そのため、偶像崇拝問題で、カトリックと和解し、カール大帝の西ローマ帝国皇帝を認め、支援を求めます。

Qギリシア正教とローマ・カトリックの違い

ギリシア正教とローマ・カトリックの違いを教えてください。

Aベストアンサー

4番の方が、かなり誤った事を言っていますので、修正します。

教会建築ですが、正教会は基本的にビザンツ様式ですが、カトリックの場合ロマネスク式とゴシック式があります。
これは、教会のできた地域や時代の流行であり、教義内容とは根本的に異なります。
教会としてそれを規定したわけではありませんから、カトリックと正教会の違いとはなりません。

5大総主教座(5大教会)のけんですが、ローマ教会の権威が増すのは、教皇レオ1世の時代です。
西ローマ帝国の滅亡寸前の時に、フン族がイタリアに押し寄せた時、皇帝が逃げ出してしまい、教皇がフン族と交渉しローマを守った事によります。
しかしこれは、他の4つの大教会には全く影響を与えませんでした。

ちなみに、アンティオキア教会の信徒が後にヤコブ派、アレキサンドリア教会の信徒がコプト教徒となりますが、とちらもカトリックと正教会から異端とされて排斥されます。(単性派教会)
後に十字軍時代に、ヤコブ派をカトリックに改宗させて組み入れたのが、レバノンのマロン派教会(単意志派)です。

ちなみに西ローマ帝国の首都は、ローマではなく、ミラノ(395年~410年)とラベンナ(410年以降)です。
それ以前は、コンスタンティノープル(東ローマでは分裂後も)です。

東西教会の分裂は、教義内容と偶像崇拝問題です。
正教会がわが離脱したのではなく、相互に破門しあったのです。

>イコンを認めないのがギリシア正教でした。

イコン(聖画)を崇め、像を否定したのが正教会です。
偶像崇拝問題が、ビザンツ帝国で持ち上がり、国を大混乱に巻き込んだ結果として、「聖像は認めないが聖画は認める」という結論に至ったのです。

4番の方が、かなり誤った事を言っていますので、修正します。

教会建築ですが、正教会は基本的にビザンツ様式ですが、カトリックの場合ロマネスク式とゴシック式があります。
これは、教会のできた地域や時代の流行であり、教義内容とは根本的に異なります。
教会としてそれを規定したわけではありませんから、カトリックと正教会の違いとはなりません。

5大総主教座(5大教会)のけんですが、ローマ教会の権威が増すのは、教皇レオ1世の時代です。
西ローマ帝国の滅亡寸前の時に、フン族がイタリアに押...続きを読む


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