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満州事変の背景を調べると、学校の教科書では「資源を求めて起こした。」などと書いてあり、ネットで調べてみると関東軍の暴走であったとしるしてあり、資源を求めたために行ったとは記されておらず、よくわかりません。
なぜ満州事変を起こしたのでしょうか?教えてください。

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A 回答 (4件)

満州事変の背景を知るには、当時の極東の状況を知ることが必要です。


本来、日本の満州経営の目的は、隙あらば満州を併呑しようとするソ連邦を阻止することが第一の目的でした。
当時日本としては、満州⇒朝鮮半島⇒日本本土と、樺太⇒日本本土という2正面で敵を受けることになるので、シベリア鉄道を制圧する拠点ともなる満州は非常に大切な場所でした。
そのため、日本による満州の社会資本整備は、日本国内と違いしがらみがないことも手伝って、大工業地域すら形成していきます。
そのため、周辺諸国のねたみと警戒心をあおり、それりが満州における共産党・馬賊・軍閥等への援助という形で顕在化していったのです。
その結果が反日・抗日運動であり、関東軍司令部の現状認識力不足のため、燎原の炎となって広がってしまったのです。
石原莞爾が「世界最終戦総論」を唱え、満州占領区拡大を図ったのが満州事変ですが、「頭の良い馬鹿」の陥る罠、「相手が有ることを考えない」おかげで、余計な反感を買い、周辺諸国等の警戒感を恐怖心に近いものとしてしまったのです。
最も悪い影響は、陸軍内部に統制に従わなくとも成功すればいい。という風潮を起こしてしまったことです。
始めてしまえば成功すればいい、成功できなければ、成功するまでやるという悪循環ですね。結果は、ご存知のとおり無残な敗戦ですが。
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捕捉しますと当時の中国では長らく列強に奪われ続けた自国の権益


を奪い返すべきとする「国権回復運動」というものが大々的に行われ、
またこの手の運動の常として次第に過激化していき、日本を含め各国
の既得権益に対する脅威となっていました。
この結果、進出した日本企業や日本人が危害を加えられたりテロに
あったりする事件が頻発していたのです。
これが現在であれば「そんな地域からはさっさと撤退しろ」という
事になるわけですが、満州事変当時の日本では満蒙への投資額が
15億円と大正後期の国家予算の総額に匹敵する額となり、また
何より「満蒙の権益は日清・日露の両戦役で血の犠牲を払って
獲得したもの」とする意識が強く、権益の放棄は国内政治の次元で
全く問題外でした。
このように関東軍の暴走を国民や議会が容認する下地があったのです。
また列強諸国も日本同様に国権回復運動の過激化には手を焼いていた
経緯もあって、強い態度には出てこないだろうという、少々甘い予想
もあったようです。
少なくとも初期の内は列強も日本にはある程度、同情的でしたがその後
日本政府が不拡大方針を公約するなか、関東軍が統帥権と国民世論の
支持を背景に政府の国際公約を無視する形で占領地を拡大し、政府も
これに引き摺られた結果、日本はドンドン国際的に孤立していく羽目に
陥ります。
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実行部隊は「陸軍」ですが


背景は多くの人と思惑がからみあっていると思います
動機は
・陸軍は「戦争するのが商売」、平和な時代では肩身がせまい
 代表的人物は板垣征四郎司令官、石原 莞爾参謀、上原大作大佐
・行政機関は満州で自由に政策とくに産業発展を目指したい
 代表的人物は実質的には岸信介内務官僚(戦後、首相)
 一次産業では農地、2次産業では市場がほしかった
・日本政府は領土が広くなること
・国民は(特に農家の次男、三男)内地では農地が持てない
 どこか移住できる広い土地がほしい
・産業界はものを売るための市場がほしい
  代表的人物は日産コンツェルンの鮎川義介氏
・亡命していた「清国(満州族が中心)」ラストエンペラー
 溥儀皇帝が存在しているのでこの人を利用すれば
 「傀儡政権」が簡単につくれるという状況があった
・中国と戦争しても短期に勝利できると考えた
・国民意識としてロシアと戦争した戦利品として
 満州には日本の権益が及ぶことがあたりまえという発想
・中国に資本投資した例えば満州鉄道などの資本財を
 中国にただで渡す(獲られる)は困る、永久に日本の
 主権が及ぶようにしておきたい
などなど・・・・・・
要は、軍部、行政、国会、産業界、国民の思惑が一致した
結果の「いけいけの精神」が満州事変の発生原因ですね

おたずねの資源という面では満州には「石炭」「鉄鉱石」
が出るということぐらいですから、要因としては
やや小さいものだと思います
広い意味での資源ということでは、「国土」「農地」「農作物」
「石炭」「鉄鉱石」「その他の金属元素」という多くの
要素を得ようとしてという意味の資源確保ということならば
資源戦争という面も否定できませんが。

軍部の暴走というのも一面的な見方であり、「国全体」が
それを許す、望むといった精神状況にあったというのが
原因だと思います
例というのも変ですが、談合事件が起きたら
その支店長が暴走したから・・・と言うようなものです
会社の社長や幹部全体が「会社利益のために火の玉に・・」という
雰囲気が満ち溢れた会社がそのような事件を起すわけですからね
火の無いところに煙は立たない・・です
(人物名は満州事変以降の満州国運営上の中心人物も挙げています)
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資源というよりも、土地そのものが目的だったと


考えていいんじゃないでしょうか。
満鉄の権益の付随して、石炭鉱山などはすでに
所有していたわけですから。
通説では、満州事変は、国策によって引き起こされたのではなくて
石原莞爾(本人が自分はA級戦犯だと主張したが無視された)や板垣征四郎(A級戦犯)ら
関東軍将校らの独断で行われたとされています。

理論的旗頭であった石原の考えでは、
日本の農地改革や世界恐慌後の不況から脱却するために
中国東北地方の広大な土地に、大規模集約型の集団農場をつくって
日本人の生存圏を拡大することだとしていて、
そういう観点からも満州が日本の生命線と思っていたようです。

ヒトラーやムッソリーニらも同様の拡張政策を行っていますが、
石原の場合は(他人の土地だが)満州の開拓に(分不相応の)夢をたくしたわけですが、
それ以上の拡大には反対したようです。

しかし石原らが行った既成事実をつくっておいてから軍部首脳や内閣に認めさせる手法や、
結果的に成功しさえすれば、命令無視などの違反行為も容認されるという
過剰な成果主義は、手柄を立てたいと望んでいた他の将校らを刺激して
さまざまな工作機関が、競って大陸侵略の路線に走ったようです。
結局、石原は置いてけぼりで、東条英機とも対立して、閑職に追いやられ
極東裁判ではそのおかげで重要人物ともみなされませんでした。

満州事変の背景には、手をつけることのできない国内改革への不満が、
対外政策、軍事拡張の成果によってこれを解消しようという動きにつながったということですが、
それが十五年余の戦争に日本を引きずり込むことになったわけで、
計画なき、暴走とされるゆえんです。

中国を侵略するにしても、最初からもっと計画があれば、
もっとましだったでしょうね。大陸侵略は行きあたりばったりで、
蒋介石が講和を求めた時に近衛首相が拒否したのは典型的。
中華民国と講和できたら、共産党と戦うだけでよかったので、
歴史はかわっていたでしょう。ま、無理な話ですが。
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この回答へのお礼

納得しました!
ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/30 23:44

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Q満州国建国の目的を教えて下さい。

なぜ日本は満州国という独立国を建国したのですか?当時の国際事情や国内事情などを踏まえながら、建国の目的を教えて下さい。

Aベストアンサー

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされたブロック経済化により日本製品は欧米やその植民地の市場では高額の関税を課せられる事となったために、その重要性がかなり誇大に意識されるようになっていたのです。
誤解を恐れず敢えて言えば「戦後の日本における一時期の憲法9条」のように、その是非を議論すら許されないという風潮があったのでした。
しかしながら第一次大戦以降の世界的なナショナリズムの高まりにより、中国においても列強に奪われた利権を奪い返す国民運動である「「国権回復運動」が起こりました。
ただしこのようなナショナリズムに根ざす運動は、現在でもそうですがしばしば過激化し、外国勢力への排撃運動に近いものになる事もよくありました。
その結果、日本人の多くは中国で獲得した利権が危機にさらされており、それが日本という国家の生存すら危うくしかねないという(現在の視点からすれば)かなり大げさな意識がもたれていました。
これは戦後の日本でも「日米安保は戦争の道」「PKO活動で日本は軍国主義化する」とか後から見ると馬鹿馬鹿しい話が大きな政治問題になったことを考えれば、理解しやすいのではないかと思います。

ただし満州事変当時の日本政府はまだ国際協調路線を取って、交渉で穏便な事態解決を望んでいました。
ところがその前にロンドン軍縮条約で引き起こされた「統帥権干犯問題」のため、政府は軍の統制を取ることが出来ず、満州事変により日本軍は政府の不拡大方針を無視して満州の殆どを制圧し、一気に「特殊権益問題」の解決を図ったのでした。
この行為は現在では「軍の暴走」とされますが、当時の日本ではマスコミは拍手喝采して支持し、事態の不拡大を計った「政府の弱腰外交」を非難しています。
そしてこの国民世論の後押しを受けて建国された満州国について、欧米との対決を望まなかった当時の犬養毅首相は承認を渋りますが、五・一五事件で暗殺され(犬養は統帥権干犯問題を引き起こしてこの事態を招いた張本人のひとりであるので、自業自得の一面もあります)、日本政府は軍の暴走と国民世論に引きずられる形で満州国を承認、欧米との全面対決、そして国際連盟脱退へと向かってしまいます。

このように満州国の建国は決して日本が国家意思として行ったものではなく、当時の日本人の「満蒙の特殊権益」に対する過剰な意識と中国側の反発、そして軍の統制問題などが絡み合ったために、一部の暴走を国家が追認するという非常に危ういものでした。
しかしそれが当時は「大成功」を収め、国民からも高く評価されてしまった事で、その成功体験が後の日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、大日本帝国を滅ぼしてしまうのです。

なお満州事変当時の日本国民の意識について論じた本で、簡単な書籍としては「日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む(光人社)」などがあります。

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされた...続きを読む

Qイキサツ 満州事変

満州事変について資料をみても、あまり理解できません。満州事変とはどういういきさつで起きたことで、どんなことがあったのですか? また満州事変が起きたことで、なにか大きな戦争や、事件、問題のようなものは歴史上や現在ありますか? 今まで勉強不足だったもので、できるだけわかりやすい言葉がいいです。お手数ですが、どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

>満州事変とはどういういきさつで起きたことで

そうですね、深く説明するときりが無いですが、簡単に経緯だけ。。

まず日本は、19世紀の終わりに朝鮮半島を巡って中国(清)と対立、戦争をして勝利、朝鮮半島を影響下におきます。
朝鮮半島国境(今の北朝鮮中国側国境)に隣接たところが満州と言われる地域ですが、ロシアがこの地域への進出を狙っていました。

1900年に、清が国内の外国勢力に宣戦布告すると(義和団事件)、ロシアは大軍を満州(正確には中国東北部)に送り込み、朝鮮半島にも圧力をかけ始めました。このため、日露戦争となり、アメリカの調停によって日本は満州の鉄道の利権を得ます。

これを足がかりに、日本は満州の権益を確立してゆきます。第一次世界大戦後、満州における利権の拡大のため、当時内戦状態だった中国(清は滅亡)で、満州を支配していた張作霖と手を組みます。しかし、利用価値がなくなったと知るや、満州の警備に当たっていた関東軍は、張作霖を殺害してしまいます。

張作霖の息子が満州地方での指導者になると、ここから日本の勢力を取り除こうとしました。陸軍の関東軍はこれに危機感を募らせ、武力によって満州を中国の主権から切り離して、日本の支配下におこうと計画します。

そこで関東軍は、自ら経営している南満州鉄道を爆破し、それを中国軍の仕業だとして軍事行動に出ます。そして、満州の各要地をことごとく占領します。この一連の軍事行動が「満州事変」と言われるもので、1931年9月から翌年3月まで続きました。

3月になると、滅亡した清の最後の皇帝(映画ラストエンペラーの人物)を迎え、「満州国」の建国を宣言しました。

>満州事変が起きたことで、なにか大きな戦争や、事件、問題のようなものは歴史上や現在ありますか?

まず、この日本軍(関東軍)の行動は国外で強く批難されました。国連の調査団がきて、日本軍の撤退要求が出されると、日本は国際連盟を脱退して、国際的に孤立するようになります。

更に日本は、華北方面(北京の方)にも侵略を企てようとして、翌年中国軍と激突し、日中戦争がはじまります。
日中戦争が泥沼化する中、今度は中国の日本進出を快く思わないアメリカと対立が深まり、紆余曲折を経て日米開戦に至ってしまいます。

また、満州国が建国されてから、日本政府は積極的に国内の日本人を満州に移住させようとして、多くの日本人が満州に移り住みました。
しかし、終戦直後にはソ連が満州に侵入し、多くの日本人が殺され、また捕虜として捕らえられシベリアに抑留されました。中国残留日本人孤児は、このときの混乱によって置き去りにされた子ども達です。

簡単に、、、と言いましたが、長くなってしまいました。
でも、これでもかなり省略しましたので、本当はもっともっと複雑な国際関係が絡んでいます。
まずは簡単な世界史の本でも読んでみることをお勧めします。

疑問点がありましたら、またお尋ねください、かなりはしょって書いたので。。。

>満州事変とはどういういきさつで起きたことで

そうですね、深く説明するときりが無いですが、簡単に経緯だけ。。

まず日本は、19世紀の終わりに朝鮮半島を巡って中国(清)と対立、戦争をして勝利、朝鮮半島を影響下におきます。
朝鮮半島国境(今の北朝鮮中国側国境)に隣接たところが満州と言われる地域ですが、ロシアがこの地域への進出を狙っていました。

1900年に、清が国内の外国勢力に宣戦布告すると(義和団事件)、ロシアは大軍を満州(正確には中国東北部)に送り込み、朝鮮半島にも圧力をかけ始め...続きを読む

Q韓国併合~満州事変の歴史的背景

無知なため簡単な歴史的流れを教えていただければ助かります。
まず、韓国を日本が植民地化していた時期が韓国併合にあたるのですね。日本と韓国は戦争はしていませんよね。どうやって支配下におけたのですか?そして何のために?

私が思っているのは、ロシアから日本にせめてくるのをストップするために位置的に朝鮮に軍隊をおきたかった。朝鮮には日本がくることにより仕事が増え、国が発展するといいきかせ、実際は侵略であった。
韓国人が日本語を強要されたり、虐待をうけたりして日本をきらっているとききますが、この時代におけることですよね?靖国問題なども批判するのはその時代の軍人がまつられているから。

その後満州国設立する必要があったのはなぜですか?
ロシアが朝鮮に攻め入るのを防ぐためですか?
関東軍が満州事変で自身の鉄道を爆破し、一方的に攻め入り占領して満州国をつくったのですね。
この鉄道は南満州鉄道で日露戦争で勝った際に譲渡されたものですね。

韓国併合と満州事変のつながりや歴史的背景がよくわかりません。
その時代の戦争は特に名前はついてないのですか?日露戦争~日中戦争~第二次世界大戦までの時代ですね。

意味不明なことを書いていたらすみません。知識のあるかた、簡単でいいので侵略理由や背景、流れを教えてください。
よろしくお願いします。

無知なため簡単な歴史的流れを教えていただければ助かります。
まず、韓国を日本が植民地化していた時期が韓国併合にあたるのですね。日本と韓国は戦争はしていませんよね。どうやって支配下におけたのですか?そして何のために?

私が思っているのは、ロシアから日本にせめてくるのをストップするために位置的に朝鮮に軍隊をおきたかった。朝鮮には日本がくることにより仕事が増え、国が発展するといいきかせ、実際は侵略であった。
韓国人が日本語を強要されたり、虐待をうけたりして日本をきらっていると...続きを読む

Aベストアンサー

朝鮮半島を支配下におきたかった明治政府の目的は、仰るとおり対ロシアです。ウラジオストックから睨まれてる上、満州・朝鮮半島までロシアに抑えられると、日本を守りきれないという危機意識があったので、せめて朝鮮半島へのロシア進出を食い止めたかった。

どうやって、かというと、まず当時の李朝朝鮮は清の属国でしたから、日清戦争を行い、国際政治的にどこにも属さない独立国とさせました。もちろん、日本の支配下に置ければ安心だったのでしょうが、ロシアを含む欧米列国の手前そこまではできなかったのでしょうし、貧乏国日本が朝鮮半島を抱えても投資を回す経済的余裕もなかった・・・という判断が働いて、まずは独立国とさせたのだと思います。

しかし、本音では日本は朝鮮半島をロシアにとられる前に自分のものにしたかったし、清・ロシアも狙っていた。李朝も各国と結びついた派閥争いが激化して不安定な状態でしたので、李朝と信頼関係でつながるよりも、ロシアと雌雄を決することに決めておきたのが日露戦争です。

満州事変は、先の回答にある通り、石原完爾主導によるものです。ただ、石原完爾の思想を理解してないのに軍や国民の多くが満州国建設を支持したのは、当時のブロック経済化の影響だと思います。

第1次世界大戦後から大恐慌に至る世界的な経済不況の中で、列国は自国経済を支えるために、植民地の囲い込みをはじめました。自国製品だけが売れるように、他国製品の締め出しを行いだしたのです。これで、植民地を多く抱える英仏、もともと移民が多く国内植民地(とでもいうべきフロンティア)を持つアメリカ、ロシア革命により孤立していたことが幸いしたロシアは希望がありましたが、遅れて列国入りしたドイツ・イタリア・日本は自国製品を売るべき植民地が小さく、新たな植民地の開拓を目指しました。その意識が満州国建設を支えましたが、逆に英米ロシア中華民国との対立を決定的にしてしまいました。

朝鮮半島を支配下におきたかった明治政府の目的は、仰るとおり対ロシアです。ウラジオストックから睨まれてる上、満州・朝鮮半島までロシアに抑えられると、日本を守りきれないという危機意識があったので、せめて朝鮮半島へのロシア進出を食い止めたかった。

どうやって、かというと、まず当時の李朝朝鮮は清の属国でしたから、日清戦争を行い、国際政治的にどこにも属さない独立国とさせました。もちろん、日本の支配下に置ければ安心だったのでしょうが、ロシアを含む欧米列国の手前そこまではできなかった...続きを読む

Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む

Q日本史で近代・現代の区分

日本史で近代・現代ていいますよね。近代はペリー来航からだとおもうんですが、近代終了と現代の開始がわかりません。明確な区分を教えてください。

Aベストアンサー

まず、「古代・中世・近世・近代・現代」といった歴史区分法ですが、これは西洋の歴史学を日本が輸入したために出来た歴史区分法です。

西洋では、ルネッサンスによって「古代ギリシア・ローマ」を意識し始めました。
そこで、「古代ギリシア・ローマ」の文明・文化が失われた自体として「中世」が位置づけられていきます。
そして、「中世からの脱却」として「近代」が位置づけられました。
その後、時代が下るにつれて「中世」と「近代」の間の時代として、「近世」が出来ました。
「現代」についても、二つの世界大戦後に「現在進行形の歴史」として意識されるようになりました。
そして、新たに「同時代史」が現在意識され始めているようです。

日本史も、この流れに沿って西洋史と対比するために位置づけようとされています。
しかし、西洋と日本では歩んできた歴史が違う。
第一、「古代ギリシア・ローマ」にあたるモノが日本には無い。
故に、「古代・中世・近世・近代・現代」といった歴史区分法は日本史にはそぐわないのではないか、、、という議論があります。
また、西洋史にしてもどこから「中世」でどこからが「近代」なのかを明確に分ける線なんて存在しない。
「歴史」は連続しているものですから、歴史区分法によって明確に分けるのは間違いであるという意見もあります。

そういった意見を紹介しつつ、主流と思われる、時代区分です。

縄文・弥生時代・・・原始
古墳~平安中期・・・古代
平安中期~安土桃山時代初期・・・中世
安土桃山時代~江戸時代・・・近世
明治~終戦まで・・・近代
終戦~・・・現代
(平成からは同時代史とする見方もある)

しかし、日本史において、上記のような歴史区分法はそぐわないとする意見に個人的には賛成です。

まず、「古代・中世・近世・近代・現代」といった歴史区分法ですが、これは西洋の歴史学を日本が輸入したために出来た歴史区分法です。

西洋では、ルネッサンスによって「古代ギリシア・ローマ」を意識し始めました。
そこで、「古代ギリシア・ローマ」の文明・文化が失われた自体として「中世」が位置づけられていきます。
そして、「中世からの脱却」として「近代」が位置づけられました。
その後、時代が下るにつれて「中世」と「近代」の間の時代として、「近世」が出来ました。
「現代」についても、...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q対米開戦はなぜ避けられなかったのか?

 近・現代史にお詳しい方にお尋ねいたします。
 なぜ、日本はアメリカを相手に太平洋戦争をしなければならなかったのでしょうか?言い換えれば、当時の日本を支配していた軍部首脳はなぜ、大国アメリカに戦いを挑んだのでしょうか?
 数年前に初めてニューヨークを訪れて以来、そのことがわかりません。エンパイアステートビルディングなど、空をも貫くようにそびえ立つ摩天楼の多くは、既に20世紀の初めから建設されていたはずです。あれを見れば、当時の日米の国力の差は歴然としていたはずです。子犬が巨象に挑むがごとく、あのアメリカに正面から戦をしかけるなど、私には全く理解できません。現に、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は十分に国力の差を承知していました。「アメリカの国力を知りたいならば、デトロイトの自動車工場を見れば一目でわかる」とまで言っておりました。山本五十六は大正から昭和にかけて何度かアメリカに勤務した経験があったからだとは思いますが。
 それとも、当時の軍首脳たちは全くアメリカの国力を分析することなく、戦争になれば元寇のような神風が吹くから必ず勝てる、とでも信じて開戦に踏み切ったのでしょうか。もしそうならば、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法も知らなかったこととなり、敗戦は当然の結果となりましょう。ちなみに、開戦時の首相東条英機は訪米の経験がなかったようです。たしかに、国連脱退による孤立、ABCD包囲網、アメリカからの石油の禁輸など、日本に対する国際状況は日増しに厳しくなっており、日本としてもやむを得なかったのかもしれません。
 しかし相手が資源豊かな大国であることを考えた場合、どう見ても無謀な戦いであったような気がしてなりません。太平洋戦争はどうしても避けられなかったのでしょうか?
 ご存知の方は、どうか私の素朴な疑問にお答えくださるようお願い申しあげます。

 近・現代史にお詳しい方にお尋ねいたします。
 なぜ、日本はアメリカを相手に太平洋戦争をしなければならなかったのでしょうか?言い換えれば、当時の日本を支配していた軍部首脳はなぜ、大国アメリカに戦いを挑んだのでしょうか?
 数年前に初めてニューヨークを訪れて以来、そのことがわかりません。エンパイアステートビルディングなど、空をも貫くようにそびえ立つ摩天楼の多くは、既に20世紀の初めから建設されていたはずです。あれを見れば、当時の日米の国力の差は歴然としていたはずです。子犬が...続きを読む

Aベストアンサー

 日本という国には、資源がありません。工業用原料も無いし、我々国民の食糧も、米を除けば無いわけです。だから、国民の生活資源も、産業・工業用原料も含め、あるいは石油も含めて、1億2千万人が生活していくのにどうしても必要なのは、船のトン数にして6億トン。
 これだけの資源を海外から買ってきて、そして国民が一生懸命働いて、これを製品にして、別の表現をすれば付加価値を付けて、そして輸出をしているわけです。6億トンの資源を入れて、ソロバンを合わすためには、6000万トンを輸出しなければなりません。
 それは戦前も同じでした。そして、この代金の決済には外国に置いてある資産(ドル)で行われるのです。
 しかし、昭和16年7月25日アメリカは『在米日本資産の全面凍結令』を公布し、続いて26日にはイギリス、次いで27日にはオランダ・香港も日本の在外資産を全面凍結しました。

 在外資産の凍結を受けると、日本には石油が1滴も入ってこなくなります。いや、石油だけではなく食糧、工業用原料一切が輸入できなくなります。これらは、在外資産(ドル)を持っていて初めて買えるわけですから。
 言葉を換えて言えば、日本はアメリカに『死ね』と言われたのです。江戸時代のように2千万の人口だったら自給自足もできたかもしれませんが、戦前の日本の人口は8千万で外国からの輸入なくしては生きていけません。
 戦後、日本が戦争に突入した理由をマッカサーは『安全保障』だったと言い、東京裁判のパール判事は、『ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクでも矛(ほこ)を取ってアメリカに立ち向かうだろう』と言いました。

 それでもまだ、日本は基本的には『和』を目指していました。8月5日に、日米関係の危局を打開するために、日本は仏印(フランス領インドシナ)以外の領域には進出しない、米国比島(フィリピン諸島)の中立を保障する、米国との正常な通商関係を回復する、など新たな提案をアメリカに対して行っています。

 そして、その2日後の8月7日に近衛首相は天皇に拝謁をして、『アメリカへ行ってルーズベルト大統領とトップ会談をして、事態の打開を図りたい』と申し上げて、許可を得て、アメリカに向かいました。しかし、トップ会談は拒否されたのです。

 9月6日の御前会議では、結局『和』と『戦』の両用の決定が下されました。それは、10月までに日米交渉がまとまらなかったら、改めて、対米開戦を検討するというもので、対米交渉の色々な条件が決められました。そして、昭和天皇は、『対米交渉の努力をもっとやれ』と実質的に『和』の方の決定を下されたのです。
 当時、戦の準備で一番時間がかかるのは、海軍の連合艦隊でした。日本の連合艦隊は、戦艦大和をはじめ約130万トンの艦隊兵力を擁していて、世界第二位でした。戦争をするとなると、それらがみんな横須賀や呉や佐世保のドックに入って、人間ドックのようなことをやらなければならない。それに、戦艦の大砲もみんな新しいものに取り替えなければならない。それまでは平時の大砲で、それだって撃てなくはないのですが、いざ戦争となった時には取り替えることになっていて、それを海軍では、出師(すいし)準備と言い、二ヶ月ぐらいの期間を要しました。
 海軍の出師に対して、陸軍は動員と言い、これは人と鉄砲と馬さえあればできるので、海軍よりもはるかに早くできました。

 11月に入った26日、国務長官のハルが野村・栗栖大使に有名な『ハル・ノート』を渡します。このハル・ノートに書かれていた事は9月初めの要求と全く同じで、三国同盟からの脱退と中国大陸からの全面撤兵、それに満州国の解体でした。
 このハル・ノートの全文を見て、政府と大本営は協議を重ねた結果『開戦止むなし』の結論に達し、12月2日の御前会議で開戦の正式決定がなされました。
 
 これが日本が戦争に突入した理由と直前の状況です。早い話『窮鼠猫を噛む』と言うか、だまっていても、飢え死にだし、それだったら少しでも可能性のある方にと言うことです。だからアメリカとの戦争計画なんて無いし、慌てて突入せざるをえなかったのです。(まとめれば数行ですむことを長々と書いてすみません。)

 日本という国には、資源がありません。工業用原料も無いし、我々国民の食糧も、米を除けば無いわけです。だから、国民の生活資源も、産業・工業用原料も含め、あるいは石油も含めて、1億2千万人が生活していくのにどうしても必要なのは、船のトン数にして6億トン。
 これだけの資源を海外から買ってきて、そして国民が一生懸命働いて、これを製品にして、別の表現をすれば付加価値を付けて、そして輸出をしているわけです。6億トンの資源を入れて、ソロバンを合わすためには、6000万トンを輸出しなけれ...続きを読む

Q朝鮮戦争の原因は何ですか?

映画「BROTHERHOOD」を観ました。
突然に北側から攻撃が始まるのですが、この戦争の原因は何でしょうか?
主義が違うからといっていきなり同じ民族同士で戦争を始めるというのが理解できません。
また韓国にはアメリカ軍もついているわけですから、勝てる見込みもありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり、補給も中国を経由して確保できますから短期決戦で勝利出来る計画でした。
開戦当初は計画とうり戦車部隊を先頭にした北朝鮮が優勢でしたがアメリカ軍がその背後の仁川に逆上陸し、補給路を切断したので補給を絶たれた北朝鮮軍は敗北後退し、アメリカ軍の優勢な空軍力により中国国境近くまで追いつめられました。

緩衝地帯の消滅を恐れた中国が義勇軍を送り中朝連合軍と国連韓国連合の戦争になり持久戦となりました。

この時点で中国とアメリカの戦争になったのです。

戦争に残虐な行為はつきもので、双方の兵士、民間人を問わず戦場になった所は悲惨な運命にあいます。

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Qなぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む


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