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荀子の勧学篇第一に有名な
「青は藍より出でて藍より青し」の一節があります。
ネットでこの原文を調べていたところ、行き着いたサイトに
青、取之於藍、而青於藍→「青は藍より取りて藍よりも青し」
と出ていました。
「出でて」で慣れていたのでこの「取りて」に非常に違和感を感じます。
しかし調べてみるとこの二通りの白文が両方かなりの数見つかり、
「どちらが原文なんだ」と混乱しています。

よく出藍の誉れなどと言いますし、「出でて」が正しいと感じるのですが、「取りて」と変化していることがあるというのも奇妙な感じです。

また広辞苑を調べますと、
荀子勧学「青出于藍而青于藍」と出ておりネットでよく見かける
「青出之於藍」の白文とも違い、ますます分からなくなりました。

何が正しいと言うことではないのかもしれませんが、
1. 原文はどうなっているのか。
2. なぜこのように何通りかで知られているのか
についてご教示ください。

A 回答 (3件)

#2です。


コメントを拝見しました。
確かに『荀子』の原文は「勸學篇」の冒頭にあり、「学は以て已むべからず」を論述するための譬喩ですから、
「優れた才能を持って生まれてきても、先人の著作や同時代の人の説に学ぶことをしなければ、せっかくの優れた素材に磨きをかけることができずに終わってしまう。
(藍が藍のまま青にならず、水が水のまま氷にならない)」
というのがその論旨でしょう。
前回引いた最後の部分は、『論語』爲政篇の
○子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あやう)し。
○…子曰く、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎みて其の餘を言えば、則ち尤(とがめ)寡(すくな)し。多く見て殆きを闕き、慎みて其の餘を行えば、則ち悔(くい)寡し。言に尤寡く行に悔寡ければ、禄は其の中に在り。
を思わせます。
「博学」も「参省(三省)」も『論語』に見える言葉ですね。

ただし、中国でも後世「青出於藍」で「弟子が師を凌駕する」「後人が先人に勝る」の意味に使われています。
白居易の作品にも例があります。
宋代の胡仔の文章に、
「東坡は蓋(けだ)し徐浩の書を学び、山谷は蓋し沈伝師の書を学ぶ。皆な青の藍に過ぎたる者なり。」
とあります。
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この回答へのお礼

後世には元々のたとえが変化して用いられることが多くなったのですね。

私も「師を弟子が越える」という意味で今まで理解していた言葉ですが、
調べ、また教えられていただき、とても心に残る物となりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/16 14:33

まず、「出之於藍」は全くの誤りで、漢文として意味をなしません。


「之(これ)」は目的語ですから、「出」は他動詞で「いだす」と読むことになります。
「藍出之」(藍、之を出(いだ)す) ならあり得ます。
下に引く原文の「水為之」がその形です。

「取之於藍」は、「之を藍に取りて」 (「之を藍より取りて」でも可) となりますね。
* 「於」=「于」です。後世、標準的には「於」が使われましたが、現在の中国簡体字では「于」と書きます。

次に、「出于藍」なら「出」は自動詞で、「藍より出(い)づ」となります。

つまり「取之於藍」「出于藍」のどちらかということになります。
「出藍の誉」という言葉がある以上、「出于藍」とする本があったことは事実でしょう。
ただし、格言というものは出典の文字そのままでなく、分かりやすい字に置き換えたり、字数を整えたりされることが多く、「引用」と言うのでなければ、誤りとは言いません。
「衣食足りて礼節を知る。」も、『管子』の原文は「倉廩實則知禮節。衣食足則知榮辱。」です。
(「倉廩(そうりん)実(み)つれば、則ち礼節を知り、衣食足れば、則ち栄辱を知る。」)

私は下記の原文に拠り、これを次のように訓読します。
「青は之を藍に取れども、而(しか)も藍よりも青し」
(「而も」は読まなくてもかまいません。)
格言として「青は藍より出でて藍より(も)青し」と言うことは、また別の話です。

《荀子・勸學篇》
君子曰。學不可以已。青取之于藍。而青于藍。冰水為之。而寒于水。…君子博學而日參省乎己。則知明而行無過矣。
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この回答へのお礼

文法的に解説していただき大変参考になりました。
なるほど、おなじ置き字なのですね。

他の格言の例も挙げていただき、「引用のはずだ」との思い込みが誤りであると分かりました。

ただ、日本で言う「出藍の誉れ」とは、「弟子が師よりもすぐれていること」のたとえといったように使用されますが、原文を通しての意味は
「学問をせよ」といった感じで「師よりすぐれている」といった意味はあまりないように感じます。(私が理系の人間で、漢文の素養も日本語読解力もないせいかもしれませんが・・・)
この格言はその出典と意味まで違うというということなのではないか、と思うのですが誤りでしょうか。

お礼日時:2007/02/14 22:51

 大学で国語学を専攻した者です。


 明治書院『新釈漢文大系 荀子』では「取」でした。『荀子』には多くの異本があり、「出」としているものも複数あるとのこと。どうして二通りの記述があるのか、ということを明らかにするには、文献学的に本文批判(テキスト・クリティーク)を重ねていくしかなさそうで、これは専門の研究者の領域でしょう。
 前掲書の解説を読むと、本文の来歴が簡潔に解説されていますので一読をおすすめします。大きな公共図書館や、高校・大学の図書館ならあるはずです。
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この回答へのお礼

文献を紹介していただき感謝いたします。
さっそく大学の図書館で探してみたいと思います。

お礼日時:2007/02/14 22:37

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