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選挙の投票に行かなかったとする。
選挙結果が出て1票差または同数で決まった時だけ、投票をしていれば意味があったことになる。
なぜなら1票差または同数でないならば投票してもしなくても結果は同じだから。
1票差または同数になる確率はかなり低いと思うので、かなり高い確率で選挙には行っても行かなくても結果は同じということになる。
このように考えた場合、どこかおかしな点はありますか?

A 回答 (18件中1~10件)

結果から見ると、それは正しいと思います。



ただ、皆がそうなった場合に行われた選挙は、地元に地盤を持つ権力者などが当選します。
それから、権力の世襲化が起こります。
全然、民主主義ではなくなります。

というわけで、地盤のない立候補者は皆さんの一票を必要として、選挙運動を行います。
地盤がある者も挽回されないように、ちゃんとした政治を行うようになります。

結果的に一票差や同票は、あまりありません。
村議レベルであれば、まれにあるくらいです。
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>選挙結果が出て1票差または同数で決まった時だけ、投票をしていれば意味があったことになる。


⇒ 何を持って「意味がある、ない」とするのかが不明ですが、当選者に投票されなかった票いわゆる「死票」を「意味がない」とすることでよろしいでしょうか。
そうであれば、それは逆に言えば、当選した者に入れられた票は意味があるということになります。
また、結果が出た後に、わざわざ当選しなかった者に投票すれば当然意味がありませんし、逆に当選したものに投票すれば意味があります。
しかし、結果が出た後では、NO17さんの言うとおり、投票できません。

>1票差または同数になる確率はかなり低いと思うので、かなり高い確率で選挙には行っても行かなくても結果は同じということになる
⇒ 同数になるような確率がかなり少ないということは、得票に差があることがかなり多いということですよね。そうすると、当選した者に投票した票が多いのですから、先の「死票」の考えでは、むしろ、意味がある票が増えるということになります。
したがって、「同数になるような確率がかなり低いということは、高い確率で意味のある投票ができる(死票が経る)」ということになるかと思います。

例えば、投票をこう考えるのもいいかも知れません。
投票は、「票を投じる」と書きますね。その票をボールとしてみてください。あなたは、そのボールを一つ持っています。みんな一つ一つです。みんなで、そのボールを上にある袋に入るようにまさに「投げ」てください。そう、玉入れです。
あなたは、赤組の袋に入れるとします。袋に入った玉の数は、白組と同数になる事はほとんどないとどこで判断できますか?
仮に、同数になることがほとんどない事が分かったとして、玉を投げるのは意味がありませんか?むしろ、投げないほうが玉が無駄になり、それこそ意味がないのではないですか?
同数だろうと差があろうと、赤組が勝つために、あるいは、赤組を勝たせるために、とにかく「投げる」これが選挙なのだと思います。

したがって、あなたがご質問の理屈を別の方に問われたらこう答えてください。この一言でおしまいです。
「やらなきゃわかんねーんだよ」。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
No.16の補足をご覧ください。

補足日時:2007/03/27 00:06
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(1) 開票しないと同数かどうか分かりません。


(2) 開票した後には投票できません。

したがって、ご質問の理屈は、初めから同数かどうかが分かっている超能力者のみが使える理屈になると思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
No.16の補足をご覧ください。

補足日時:2007/03/26 23:59
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>>確率の問題であることもお忘れなきよう願います<<



では確率の問題としてお答えします。

論理的に正しくないことは確率論においても正しい(高い確率でそうなる、という意味のご質問のようですので、その意味で「正しい」と言っています)はずがありません。ですから、ご質問は正しい認識の表明ではありません。以上。


で終わってもいいのですが、蛇足的に補足すると。「選挙に行っても行かなくても結果は同じである確率はいくつですか」というご質問だとしたら、答えようがありません。確率論として考えるならば、すべての有権者の行動は事前には分からない、という前提と同時に「ある候補者にある有権者が投票する確率」が分からないといけません(言うまでもありませんが、そうでないと「結果が同じである」という結論を導くことが出来ない)。ですが、この2つは相互に矛盾しているからです。開票結果を見て「私が一票を投じても意味がなかった」と感じるのは勝手ですが、それは論理的な思考ではなく単なる気持ちの問題であり(その理由は前回の回答で縷々述べているとおりです)、あなたのおっしゃる確率論ではありません。

また「現象的にみて、選挙がたくさんある中で1票差または同数の得票は少ない。従って、私がその選挙にあたる確率も低い。だから私が投票に行っても行かなくても結果は同じである」という考え方が正しいかどうか、という質問であるならば、これは確率の問題ではなくて論理学の問題です(ある命題が正しいか、正しくないかは論理学の問題で、確率で求めるものではない)。だとするならば、私の前回のお答えでつきているわけですが、そもそも、「1票差、または同数の選挙にあたる確率」というのは求めることが出来ません。それは、こういう選挙結果は全くの独立事象として発生するものではなく、大変な激戦であるか、それとも新聞でよく「事実上の信任投票」といわれる選挙なのか、地域的に自民党が強いか民主党が強いか無党派が多いのか、天気はどうか、など、選挙以外の要素によって大きく変動するからです。
ですから、経験的にそういう選挙が少ないということは言えますが、だからといって単純に「(1票差の選挙の数+同数の選挙の数)÷選挙全体の数×100」で求められるものではなく、ですから「あなた」がそういう選挙にあたる確率というのも求めることは出来ません。だから確率的に低いとは言えず、従って、投票してもしなくても結果は同じだということも言えません。

これが、私が最初の方で述べた「論理的に正しくないことは、確率論的にも正しくない」ということの意味です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
まとめて補足させて頂きます。
選挙に対する意識を問うているわけではないと初めに明言するべきでした。申し訳ありません。
例えば、多くの人が私も含めて明日も日は昇ると思っています。過去そうだったからといって明日もそうなるとは限りませんが経験的にそうなるだろうと信じています。たとえ論理的に間違っていてもそう思わなければ生きていくのが困難だからです。質問はこれと似たような意味のつもりでしたのですが意図をうまく表現できませんでした。そうすると質問は自明なことなので質問する必要はなかったということに今気づきました。これは確率の問題ではないのですかね。勉強不足で申し訳ありません。

補足日時:2007/03/24 15:39
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>考え違いをされているようですが、私は選挙に行っていないとも、行っても行かなくてもいいとも、行くのが嫌だとも、「一票の重み」というモノを得たいとも言っていません。

勝手な推測は遠慮願いたいです。

と、なると「一体何が聞きたいの?」ということになりますね。
おそらくNo.13以前の回答者の方々は(私を含めて)「どうせ、自分一人が選挙に行ったところで何も変わりはしない、選挙なんて行くのは無駄だ」と主張しているように受け取ったと思うし、普通に読めば大抵の人はそう読んでしまう文章だと思いますが…。

単純に「開票後の結果を見るとA候補は100万票、B候補は10万票、これじゃ自分が投票しても、投票しなくても、A候補の当選は変わりないじゃないか?」と言うのなら「そうだね、だから何?」と言うしかないんですが…。

>私が選挙に行っても行かなくても、選挙に行かない他の人に選挙に行くような影響をあまり与えないと思います。
全くないとは言えないんじゃないですか?
身近に、政治に関心があり選挙にはほぼ必ず行っている人がいる場合と、周りの全てが政治に無関心で誰も選挙に行こうとする人がいない環境では、微妙にその人の選挙に対する関心も違ってくると思いますけど。
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被選挙人が2人,投票結果が60票と40票ならば,1票差または同数でないから,


全員の投票が無意味で「投票してもしなくても結果は同じ」だろうか.
ゲーム論的な推論をしたいなら,各プレイヤーの読みの有無と内容について言及しなきゃ.
とりあえずゲーム理論の入門書でも読めばいいです.

あと言うまでもないが,用語の定義や状況設定が曖昧で確率の問題などといえるシロモノじゃない.
せめて一意に読めるように.
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>1票差または同数になる確率はかなり低いと思うので、かなり高い確率で選挙には行っても行かなくても結果は同じということになる


そうですね、既に他の方も言ってますが、
その考えが「あなた一人」だけで(選挙権を放棄するので)あるならば、仰るとおりだと思います。
そして、その結果として「あなた意外の権利を行使した人々の意思が反映された、あなた以外の権利を行使した人々の都合の良い社会になってしまう」と、も考えられるわけです。
仮にあなたの(かしこい?)考えと同じ人が有権者の70%を締め、みなが権利を放棄したならば、その国は有権者のたった30%の中の過半数で「その他の全国民の生活に影響を及ぼす、国民の代表者」が決められ、その彼らに私たち全国民の社会のルールや国の進む方向を決める権限を与えることになります。
もちろん、それでも国民は基本的に等しいルールの下で、みな税金は払うことには変わりません。

この社会は民主主義国家として、「正しいかたち」と言えるでしょうか。
そして、その国民は「かしこい考えをもっている」のでしょうか。

ところで、となりの北の国はさらに圧倒的に少ない特権階級層のその中のごく一部で国の方向や社会のルールを決めています(もちろん罰則も)。
そして、それ以外の圧倒的多数の国民は、「それに参加する(関与する)行動の権利さえ」持っていません。
いえ特権階級層の大半も、自由に発言する権利さえ無いのが実情ではないのでしょうか。

北の例は極端だ、とお思いになるかもしれませんが、これは「歴然とした現実」です。
いえ、その他にもまだまだ世界中の国には、選挙をする権利を持たない国民がたくさんいます。

私たちの国では、20歳以上の国民には(基本的に)誰にでも選挙権が与えられています。
それでも、自分の権利を行使せずに(責任を負わずに)、文句は言い要求だけはして眠っていてくれる国民はいつも有権者の40%弱はいます(100%を目指せと極論を言いたいわけではありません)。

さて、この状態で利益を得る事が出来るのは誰でしょうか(心の中で笑ってるのは?)。
「結局、何したってアイツらは文句言うだけ。行動する(責任を負う)気はサラサラ無い、何したっていつでも従順に(税金を)貢いでくれる(実際には最終的に責任を負う=増税・社会福祉負担増など」だろう。
「私たちは、それ相応の恩恵はこうむるよ(政・官・業の癒着による税金無駄遣い放題、天下りなどのおいしい仕組み)。

だから平気で前回(一昨年ですね)の衆院選のような、露骨な戦略を許してしまう。
現在、いちばんこの社会構造の中で不利益を得ている層の多くこそが、あの衆院選で彼らに投票した層と言われています。
これは、初めから投票率がそれ程変わらないと想定できるのであれば、その中の自分たちに都合の良い層に絞って戦略を立てた方が効率が良いと睨んだわけです。
結果、まんまと描いた通りになったわけです。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b9%a5%ea%a1%bc …
http://tetsu-chan.com/05-0622yuusei_rijikai2.pdf
つまり、この層は馬鹿にされ、利用されたわけですね(誰によって?=あの選挙で一番ほくそえんだ方々です)。
あのとき彼らに投票した方々からよく聞いた理由が
「総理の、あの演説に感動した!」です。
自分たちの生活のルールや国の進む方向を決める私たちの代表を選ぶ「私たちの最大の唯一の公式な行動(権利)」を、一回の演説聴いただけで判断する「その層の方々」に見事に効果があったわけです。

でも、あと(たかが)数パーセントでも投票率が伸びていれば、必ずしも彼らの目論見通りには行かないはずです。
現在の小選挙区制の制度では、ほんの数パーセントの違いで『間逆の結果』は簡単に起き得るのです(というか、そこが狙いの制度でもあります)。

さて質問者さんは、それでも私たちの一票は何の効力も成し得ないと考えますか。

もし私たちが、政治家のしていることに関心を持たずに見つめる事をしないで、また選挙による自分の権利を行使しなければ、のちのち自分(や家族・友人)の生活に不利益なことが起きたとしても、自分が考えても無い方向に国が進んだとしても、もしかしたらそれはしょうがないのかもしれません。
だって、彼らを放っておいたのは自分自身だし、権利を放棄したのは自分自身だからです。
いやな言い方をすれば、うまいこと政治家を取り込んで、当然の権利を行使した者たちだけが住みやすい世の中になってしまうわけです。

説教くさくなって申し訳ございません、少しでも参考にしていただけたら幸いです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
まとめて補足させて頂きます。
考え違いをされているようですが、私は選挙に行っていないとも、行っても行かなくてもいいとも、行くのが嫌だとも、「一票の重み」というモノを得たいとも言っていません。勝手な推測は遠慮願いたいです。確率の問題であることもお忘れなきよう願います。
皆が私の質問と同じように考え行動するとまずいことが起こると言っている方がいますが、そのようなことが起こる確率はかなり低いので考えなくていいと思います。
また、私が選挙に行っても行かなくても、選挙に行かない他の人に選挙に行くような影響をあまり与えないと思います。

補足日時:2007/03/23 23:35
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こういう考えの方が多いのでしょう。


従って投票率が上がらない。
投票率が仮に90%を超えたら、自●党は惨敗するでしょう。

ちなみに、No.11さんも言っておられますが、
選挙に行かない奴に文句を言う資格なし!
と私も思っていますので、文句を言いたいために投票に行く、というのはいかが?
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ココにゴミを捨ててはいけないけど、もう、たくさん捨てられてるし


今更、私1人が捨てるのを止めたところで、結果は変わらないから
捨ててもいいよね。どこか変な点はありますか?

この調子で、何でもこんな風にいえるんで、屁理屈言っても無駄なのに、、、とは思います。
理屈と筋道通したところで、意味ないと思います。
国民主権となるためには、組織票から外れた人が、いかに自由に投票するかに、かかっている
しかし、行っても行かなくても同じと思っている人は行かない方が
考えて行った人の票が有効的になるから良いかも知れないですね。
そのような人は、政治が不合理でも文句言わずに甘んじる必要もあります
やらないのに文句言うなってことです。
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まあ、ここ30年間、私の1票が当選した候補に投じられたことは一度もありません。


国政選挙に限ってですが、いつも、決まって落選します。
でも、決して無意味な1票だとは思っていません。
これからも、当選の可能性の有無に関わらず1票の権利を行使し続けます。

数年前に、一気に、<非正規雇用全盛時代>の扉が押し開かれた気がします。
米国流新自由主義の考えに基づく政策の推進者に票が集中した結果です。
そういう意味では、<非正規雇用全盛時代>は、国民の大多数が選択した流れです。
が、この先に待っているのは<貧困層再生産時代>であることは確か。
資源のリサイクルは大いに結構なことです。
「現貧困世代=>劣悪な環境下での出産・育児=>新貧困世代」
しかし、この「貧困のスパイラル」はいただけません。

僅か1票ですが、<貧困層再生産時代>に対して「NO!」の意思表示をし続けます。
1票の重みとか意義とかではなく、これは意地の問題です。

Q、このように考えた場合、どこかおかしな点はありますか?
A、意地も何も持ち合わせていないので話しになりません。
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