幼稚園時代「何組」でしたか?

政治的な問題は別にして、占領下の日本と今の日本とで、一般市民の生活上の占領下ならではの事情といったものはあったのでしょうか?
市民生活には大きな違いはなかったのでしょうか。

A 回答 (4件)

 米国がやったことは、いわゆる民主化、軍備放棄、教育改革、農地改革、その他いろいろあると思います。


 農地改革ではトクをした人も損をした人が出ましたが、これらも限られた人たちでしょう。
 公職追放やレッドパージなどもありましたが、これも一部の人ということになります。

 できるだけ政治的な問題を抜いて、一般庶民と進駐軍の関係についてお話させてもらいます。
 終戦後も日本の行政機能は維持されていましたので、進駐軍が占領行政の仕事として、一般市民と直接接触することはありませんでした。
 MPが日本人の犯罪者を捕まえるということも、原則的にありません。
 でも彼らは、宿舎にじっとしているわけではありませんので、街中へ出てきて一般日本人と接触します。
 最初は子供との交流です。チュウインガムやチョコレートをばら撒いては子供の歓心を買っていました。
 日本人の店で物を買ったりすることもあるわけですが、キチンと金を払い、概して米兵の評判は良かったと思います。
 良家の婦女子の防波堤として売春宿が設けられたり、パンパン(米兵相手の私娼)、オンリー(特定米軍人の専属妾)などのような女達も出現し、一般の婦女子が強姦されるようなことは少なかったと思います。
 MPは割合キチンと米兵を取り締まっていたようですし、そういう事件が起こっても、米軍の情報統制により、新聞ラジオは現在のように大々的に報道することは、しにくかったと思います。
 当初思っていた「鬼畜米英」「男は強制労働」「女は強姦」ということでは全くなかったわけですから、一般市民は一安心したわけです。
 米兵との通訳を頼まれた教養人は、発音が通じないので筆談したら、向こうはスペルがムチャクチャで驚いたという話もありますが、そりゃ兵隊のなかにはそういう人もいるでしょう。日本兵だって同じです。
 その後、米民間人が多く入ってくるようになり、概して彼らは教養があり、身なりもよかったので『外人さん』と、さん付けで呼ばれるようになりました。日本の庶民より等級が上で、このような感情がなくなったのは、つい最近のこと(2~30年前)でしょう。
 食糧難の時代でしたから、米国の食糧援助は大きかったですね(脱脂粉乳、メリケン粉、缶詰、とうもろこし・・・)。
 まあ、進駐軍が米軍でよかったと思います。これがソ連軍だと悲惨なことになっていたでしょう。
 富める国の占領行政と日本人の国民性(長いものに巻かれろ?)がうまくマッチして、米国の占領行政は成功したということでしょう。
 反抗的な日本人が米兵を殺害したなんてことは、ほとんどなかったですし、ゲリラ活動なんかはゼロでした。

 >市民生活には大きな違いはなかったのでしょうか。
・・・一般の庶民にとっては、悪いことは余りなかった。猛スピードで未舗装路を疾駆する進駐軍のジープにひき殺されないように注意すること・・・これくらいしかなかった、というのは言い過ぎでしょうかな。 
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この回答へのお礼

米兵が菓子を子ども達に与えていたという話は聞きますが、一部ではなく多くの米兵がしていたのでしょうか。

パンパン・赤線というのは聞いたことがあります。
一般の女性への防波堤にもなっていたのですね。

食糧難の時代の援助は大きかったのですね。

>これがソ連軍だと悲惨なことになっていたでしょう
シベリア抑留の悲惨さを聞くにつけ、そう思います。


一般市民にとっては特に悪い事もなかったのですね。
その居心地の良さからか、未だに独立しきれておらず、忠実な飼い犬に甘んじているというのは問題ではありますが・・・
その点はちゃんと自立して仲間もたくさんいるドイツが羨ましいです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/31 06:09

ラジオ体操がGHQによって一時中断されたそうです。


人が集まるといかんとか、軍隊っぽいとかそんな理由らしいですが・・・。

市民生活・・・というのかわかりませんが、
東京にある大きな建物がいろいろと米軍に接収されて使われていたそうです。
第一生命ビルは有名ですが、銀座の銀座ライオン(ビアホールの)だとかデパートだとかも米兵が使っていたそうです。

http://www.amazon.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81 …


※沖縄は長らく占領されていたので、自動車が右側通行とか通貨がドルとかいうのがありましたね。
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この回答へのお礼

#3が言われる、集会結社の自由が制限されていたことの一環としてラジオ体操も中断されていたのですね。
そういう点はかなり不自由だったのですね。

復帰前の沖縄は裁判も陪審制が採用されていたようです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/31 06:15

集会などを勝手に開くことはできませんでした。


例えば学園祭の最後に生徒がグラウンドに集まって大きな焚き火の回りで歌を歌う、なんて場合にも進駐軍の許可が必要でした。
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この回答へのお礼

集会結社の自由は非常に重要な人権ですが当時は保障されてなかったのですね。
生徒のキャンプファイヤーにも当局の許可が必要だったのですね。
そういう点では規制がかなり厳しかったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/31 06:13
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この回答へのお礼

URL拝見します。
ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/31 05:52

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