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私は、現代において悲劇というものが存在するかどうかについてご意見をいただきたいです。特にラシーヌのような悲劇舞台を観て、私達は本当に感動できるでしょうか。色々な場合を考えてみても悲劇が存在するのかどうか・・・。あいまいな質問だとは思いますが、ご意見を待っています。

A 回答 (3件)

悲劇が存在するかどうかとの事ですが、演劇(絵空事)としての悲劇でしょうか。

それとも日常新聞などを騒がせている事件(現実)としての悲劇でしょうか。

 悲劇という呼称は古代ギリシャ悲劇(ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデス等)からとられています。ある高潔な人物がどうしようもない人生の歯車に狂わされて悲劇的に人生の幕を閉じるというもの。彼がその転げる坂道から抜け出せないことを観客全員が知っているというもの。運命の力に英雄的に抵抗する人間の姿。神々の支配の中で恐るべき危機に直面した人間の克己の姿の高貴さ。などなどが描かれています。

 で、悲劇は存在するかですが、悲劇自体は存在したとしても悲劇に感動できる民衆は存在するかということでしょうか。私は仏文はまったく暗いのでよく知りませんが、ラシーヌのような(小難しい)劇をみても感動するかということでしょうか。

 私は悲劇自体は既にあるので存在すると思います。それに感動するかどうかは個人の自由で、古典で有名で昔の人が感動したからいいものにちがいないというものではありません。多分私はラシーヌは楽しめないでしょう(好きな方、ごめんなさい)。ただ演劇は、時代背景や言葉遣いや舞台は変わっても、人間や人生についてある普遍的なものを型として扱っていると思いますので、現代であろうと古代であろうと関係無く感動するものには感動すると思います。

 ‘色々な場合’というのが何をさすのかわかりませんが、付けたしとして、現実の事件によく新聞の見出しなどで「またも一家惨殺の悲劇!!」というのは‘惨劇’の間違いです。

 以上、以前聞きかじったことを資料もなしに語ったので、もしかすると誤記があるかもしれません。とりあえず参考にしてみてください。
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「悲劇」という言葉を「バッドエンドの物語」、たとえば最後に主人公が死んでしまうような物語と定義して、それが現代に存在し、受け入れられ、感動を与えうるのか。


作品としての出来不出来に対する評価は除外し、大衆に受け入れられるかの例としてなら、テレビドラマ「ビューティフルライフ」の記録的高視聴率が挙げられます。
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 この質問、ずーっと気になっていました。

大きくて深い問題ですので、考えをまとめるのに時間がかかりました。
 僕は文学の専門家ではありませんので、悲劇に関しても知識があるとは言えません。が、とりあえず知っている限りのことから考えを組み立てて述べたいと思います。

 まず結論的に言うと、現代では《本格的な》悲劇は存在しにくい、と考えます。
 《本格的な》というところ、本当はあまり適切な言い方とは思っていません。他に適当な言葉が見つからなかったのでこうしました。ここでは「非常に広い範囲の人間に、精神の深いレベルでの感動を与えるような」という意味に考えてください。

 で、「存在しにくい」理由です。
 文学における「悲劇」には、「二つの、あい対立しあう大きな理(ことわり)」があって、そのはざまで引き裂かれ、すり潰される人間がいる、というドラマツルギー(ドラマ作りの文法)があるのではないかと思います。この場合、読者がその「対立しあう理」の両方に深く共感できる場合にこそ、その間で引き裂かれる人間の姿を見てその苦しみや痛みを共にし、深く感動できるのではないでしょうか。
 例えば、ソフォクレスの『アンティゴネー』という作品があります。都市国家テーバイに新王・クレオンが即位するにあたり、ポリュネイケスが反対し、討ち死にします。クレオンは、古代ギリシアの習俗(神が定めた掟)に反して、ポリュネイケスの埋葬を禁じます。が、ポリュネイケスの妹であるアンティゴネーは、あくまでも神の掟に従い、兄の遺骸を埋葬するのです。命令に背いたアンティゴネーに、クレオンは死を宣告。これを知ったアンティゴネーは、逮捕を前に首を吊って自害します。こののち、彼女の婚約者であり、クレオンの息子でもあるハイモンが、あとを追って自殺…あとには悲嘆に暮れるクレオンが残される、という話です。
 ヘーゲルは、この話について、「神々の掟と人間の掟の相克」を背景に、あくまでも神々の掟を守ろうとして死んだアンティゴネーに悲劇的英雄の姿がある、としています。ヘーゲルは、この作品を大変に愛していました。
 が…どうでしょう? もちろん…人にもよるでしょうが、東洋人であり、現代人である僕たちにとっては、ストーリーそのものを楽しむことはできても、「深く魂を揺さぶられる」ほどには、感動しないのではないでしょうか。だとすればそれは、古代ギリシアの人々にとっての「神々の掟」や、仇敵憎さに遺骸の埋葬を禁じる権力者の姿(人間の掟)が、現代に生きる日本人にとって「イマイチぴんとこない」ので、そこで苦しむアンティゴネーの心境にも、いま一つ共感できない、ということなのではないかと思うのです。古代ギリシアの人々にとっては、それこそ、ほとんど肉体感覚さえも伴うほどに、身近で大きなものだったでしょうが、僕たちにとってはそうではない。(余計なことですが、それが古典の名作とされているからという理由で「感動しなければいけない」とか思うのは愚かなことでしょう。)
 さてここで、「現代」という時代を考えます。今この時代に、ほとんどすべての人にとって「大きな理」と感じられるものがあるでしょうか。価値観が多様化している時代です。国ごと、地域ごと、世代ごとに、人々が大切に思う対象は多様化し、こう言ってよければ、散乱し分裂しています。僕にとって大切なものと、あなたにとって大切なものとは、おそらく同じではない。だとすれば、僕とあなたとは、一つの悲劇についての感動を共にすることはできないでしょう。この場合に言えるのは、「ある程度似通った価値観の持ち主同士ならば、ある程度似通った感動を共有できる…かもしれない」ということでしかありません。
 こうなると、悲劇に限らず、およそすべての芸術作品は、「個人的な趣味の問題」の域を一歩も出られないことになるでしょう。その、「おれの趣味はこうだもんね」という壁を突き破ってまでも人に感動を与えうるような作品を作るのは極めて困難、いや、不可能と言っていい。だとすれば、作品自体の出来がいかによかろうとも、それが与えうる迫力というか、スケールの大きさというのは、小さいものにならざるをえないと思われます。
 「《本格的な》悲劇は存在しにくい」と言ったのは、このような意味です。
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