準・究極の選択

禅は、未来に希望などもってはならないと教えますよね。
全てやることそれ自体から果実を得てしまいなさいと。
それは時間に直せば、「無時間モデル」なわけです。

一方、キリスト教は「永遠の命」というものを仮定します。
いつくるかはわからないけど、いつかはくるという最期の審判。
願いがかなうまえに死んでしまえば願うことにも意味はないと普通の人は考えるけれど、
永遠の命があるとするならば、いつかは願いがかなうと信じることそれなりに合理的ですよね。
これを言葉に表せば「永遠時間モデル」とでもいうことになりますよね。

時間に関する考え方について禅とキリスト教は極めて対極的だな~と考えるのですが、
この考え方について皆さんはどのようにお考えになられますか。

御回答よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

 禅は、いま・ここ この瞬間を生きるという、今しかないという時間の概念を持っています。


 キリスト教は、わかりませんが、有名な哲学者のベルクソンは円錐の頂点を現在として、内部には過去が体積されていると 時間の概念を述べています。
 大森荘蔵は、過去は現在振り返ることにより、初めて在るといっています。
 また、物理学的な時間と 我々が感じる時間は、違います。個人的には、時間的概念=記憶が自我だと思います。

 時間は、世界の根本をなす概念ですから、難しいですよね。
 
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ぜんに対する認識が


ちとおかしいが。
いやまったく。
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頭でっかちになったってどうしようもない。


実践されてはじめて
宗教が
その人の哲学になる。
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対照的ではなく同じものでしょう。


単にアプローチの仕方です。
いつか来る幸せのために今をがんばるのか、今をがんばるから幸せになれるのか。
幸せという命題に対し演繹法と帰納法で考えただけです。
時間の解釈についても表現が違うだけで同じことを言っているように思えます。もちろん表現が対極というならそのとおりですが。
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おちょくられておるのか


どうなのか
そんな簡単な問い。

人を試すのも
馬鹿にするのもええ加減にせぇよ。
みんなが解っているような当たり前のことを
調子に乗って
べらべらしゃべる
自分が恥ずかしい。

と今の僕はこの場をかりて言いたい。
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興味深いご考察だと思いました。

有限の寿命を無限にする方法としては永遠という概念を作る方法ともうひとつ時間を細かく切って時間が立たないようにする方法があるのかなと思いました。一長一短というかどちらでも安心できれば良いのだろうと思います。
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