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「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」という内容を目にしたのですが、どうして米中心の経済制度が崩れると改革が失敗に終わるのかそのメカニズムが解りません。どなたかご存知の方いらっしゃいますか?

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A 回答 (8件)

>「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。



 「へー そうですかねぇ」って感じなので、その言葉を発した人の考えを十分に理解しているとは言えない私ですが、

 たぶん、その意見はこういうことなんじゃないかと思います。

 昔は米が中心で、どれくらいの米と交換できるかという価値観で物の価格が判定されたから、米を増産し、節約し、ため込めば、それだけ財産を殖やしたことになったわけですわ。

 ところが貨幣経済になると、米は一つの商品でしかなくて、米を増やしたって財産を殖やしたことにならないんですわ。

 まあ、、例えば米1俵が2両だったときより、米を2倍増産して2倍ため込めれば、米の価値は半分の1両になるわけです(実際はそんな単純に計算できる話ではないのですが、まあ価格が下がるという話)。

 となると、いままで100俵(200両)あった蔵に2倍の200俵の米をためこんでも前と同じ財産(200両分)でしかないわけですね。

 すると、財産家になったはずなのに、武士の生活はよくならない。よくならないのに、米は貯まったからよくなったはずだと思って2倍の贅沢をするヤツが出てくる。でてくる、というより、全員そうだったというほうが正解かな。

 すると、その贅沢者に着物や家具、刀などの商品を売り込んだ商人が儲かる。米を売れば、取り扱った商人が口銭をとって儲かる。「おかしい。幕閣のやらせていることはおかしい」「改革、失敗だよね」という話になるわけです。

 上記の意見も、そんなことを言っているのではないでしょうか。

 しかしね、これは武士の観点、武士の救済という点で眺めるから失敗なんで、日本国全体からいうと、さほど悪影響はないような感じがする・・・ って話は、今回の質問とは関係ないので省略。

 それに、けっこう商人は運上金や店舗税(間口の幅を基準にしてかけられたので、昔の店舗は『うなぎの寝床』と言われる、縦に細長い造りになっている)などを取られているんで、米中心の改革だった、という見方もどうかという気はするんですけどね。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。僕も実はこの質問の内容には疑問があったので
す。(自分で振っておきながらどう書いてよいのか解らなくてこのよう
な質問になってしまったのですが。)
武士階級は米中心の資産を持っていて、新田開発や足高の制等による
米の増産は武士の持っている米のデフレを促進し、改革の割りに武士の
暮らしがよくならないことを改革の失敗とみなす、という理解でよいでしょうか?
ならば質問の内容も「米中心の経済制度が『崩れてきた』から。」よりも、「米中心の
経済制度が『世間では崩れてきたのに武士の間で取り残されていた』
から。」という考え方をしてもよいでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 03:54

三大改革の失敗の理由として


享保の改革 徳川宗家の財政再建には成功。但し、自由経済に統制を加えようとしたことには失敗。
寛政の改革 保守本流を目指しながらも、結局後ろ向きの方向性のため失敗。
天保の改革 上2者よりも出自の劣る水野忠邦が足許掬われて失敗。
と思っていました。

現代でもそうですが、『何を言ったか』より『誰が言ったか』と言うことも重要な要素になるんじゃないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
『何を言ったか』より『誰が言ったか』と言うことも重要な要素になる
、とはどういう意味なのでしょうか?スミマセン。呑み込みが悪くて…

お礼日時:2007/07/10 00:20

 流出する前から日本は異常に大量の金銀を抱えていました。

流出量も異常な保有量からしてみればごく一部ということです。中世に日本で産出された金銀は、世界の3~4分の一といわれています。戦国時代の鉱山開発が非常に激しかったというわけです。そして徐々に鉱脈がかれていくわけですが、江戸時代にも盛んに産出しています。明治時代になると鉱脈がほとんど枯れ、主な鉱産資源は銅へと打つって行くわけですが、これはまた別の話ですね。特に銀については、世界最大の鉱山であった石見銀山の世界遺産登録でホットな話題なので、ネットを漁れば面白い記事があるかもしれません。
 ただ世界的な保有率をいうと難しいです。新大陸発見があってから新大陸の金と銀(特に銀)が大量にヨーロッパにもたらされました。これはそれまで世界史的には存在しなかったものが突如扱われるような感じです。新大陸には文字による記録などなかったので推測のしようもないです。突如歴史上現れた新大陸の金銀をどう評価するかによって、世界的に保有率を上げたという評価が妥当かどうか変わるでしょう。
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この回答へのお礼

確かに『世界的に保有率をあげた』という表現は適切では
なかったです。すみません。なのに丁寧に回答くださって
有難うございます。

新井白石の長崎貿易制限というのは銀の流出を抑えるためと
昔授業で習ったのが記憶にありまして、そこからその当時で
既に銀の保有率がヤバい所まで来てたのでは?と勝手に思い
込んでいました。

お礼日時:2007/07/10 00:16

経済活動はどんどん膨らむのに、つねに一定の米を税として集めるだけでは、取り残されていくということです。



”ならば質問の内容も「米中心の経済制度が『崩れてきた』から。」よりも、「米中心の
経済制度が『世間では崩れてきたのに武士の間で取り残されていた』
から。」という考え方をしてもよいでしょうか?”
おおむねそんなところです。

通常”江戸の三大改革失敗”を語るときその八割は幕府(および旗本)財政の改善ができなかったという観点で、日本経済についての話ではありません。あと江戸時代の日本経済全体での問題点は、貨幣不足があります。これは実体経済の成長に、貨幣の流通量が追いつかなかったという話です。ただこれは、金貨、銀貨、兌換紙幣(江戸時代には少ないが)を扱っている限り、国内での金銀の保有量以上のことはできませんので、抜本的な改革は難しいです。(もっとも世界的に見ると、日本国内での金銀の価値は低く、国内に異常に金銀が多く流通している状態でしたが。)
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この回答へのお礼

回答有難うございます。日本経済についての話ではないって所に
試験勉強をする側と学問を追究する側の閉鎖性を感じてしまうのですが、ここで回答していただける方がいらしてあり難いと感謝の念です。

ちなみに新井白石が金銀流失にストップをかけた後の日本経済は金貨、
銀貨など世界的に保有率を上げたと解釈してよろしいでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 14:10

>しかし米中心の経済制度が崩れてきたから江戸の3大改革は失敗した、という理由はバカな自分にはピンときません。

回答の中にヒントがあるのでしょうか?
 元禄の頃には日本の社会が既に工業化社会に入り込んでいたと思われます。GDPの中で農業から工業および第三次産業から生れるものに比率が移って来たのです。それを認識できなかった定信、忠邦は時代錯誤の典型で、殖産興業を行ない、そこから生れる利潤に税をかけることで政府がうまく機能し、武士階級の困窮も救えた筈なのです。米沢藩の上杉鷹山は意識していたかどうかは別として結果的にはその方向で藩政改革を行なったために藩の財政は急速に好転し、以後は惨憺たる東北の諸藩の状況を尻目に、明治に至るまで一人の餓死者も出さなかったという実績が残りました。
 現在ではバーチャル世界のGDPが伸び始めています。これに着目した政策を展開することが現在の財政赤字を救う大きな原動力になることを自民党政権は全く気付いていません。後世の評論家からはこの点を叩かれるに相違ないですよ。バーチャル世界は資源を殆ど浪費することなく、無限にGDPを増やすことができるのです。人々はその中では王侯貴族のようなゴージャスな生活を享受でき、またそこから上がる利潤で、現実の世界でも実りある生活を送ることができるようになるのです。
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この回答へのお礼

なるほど。産業の芽生えを察知し、そこに税金を掛けることが
できなかった幕府の先見の明のなさが武士の困窮を救えなかった
ということでしょうか?
ところでバーチャル世界に税金かけるって例えば、この「教えて~」
にも質問する度に数円をとるということもあり得るってことですよね。
まあ、数円ならって納得もできなくはないですが…。
回答有難うございました。
 

お礼日時:2007/07/09 14:02

経済は景気の波を繰り返すもので、好況は過熱するとインフレを引き起こし、不況は放っておくと恐慌にまで悪化します。

しかしこれの調節は大変難しく、現代でも橋本内閣が大失敗したように、特効薬のような手段は未だに存在しません。
三大改革のうち亨保の改革はかなり巧く行ったのではないでしょうか。吉宗の政権が長すぎたので晩年にみそをつけてしまったのが惜しまれます。残りの二人は全く経済音痴の為政者で、ただ引締めれば世の中が巧く行くという単純な発想しが持ち合せていなかったのは橋本元首相と似通ったところがありますね。景気の過熱をさますにはグリーンスパンがやったように絶妙のコントロールが必要で、これには経済に対する深い知識とセンスが必要です。
 これは田沼親子がかなり分っていたのではないでしょうか。荻原重秀もかなり分っていて貨幣の改鋳を悪く云う人がいますが、経済が膨張すると貨幣の量が必要なのであり、これは必要悪だったのです。新井白石はこれに対する認識が全くなくて経済を不況のどん底へ落してしまいました。それを救ったのが吉宗ということになるのでしょう。また、吉宗の末期の跡始末は田沼親子がそれを担ったということですね。
 勤倹節約は経済にとっては悪なのです。浪費はいけませんが通貨の回転をよくする方法をいつも講じていないと経済は行き詰るのです。江戸時代はこれがかなり巧く機能していました。それは教養を身につけることにかなりのお金が使われていたことが幸いしました。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
吉宗、田沼、荻原が比較的改革を成功に導いたということですね。
しかし米中心の経済制度が崩れてきたから江戸の3大改革は失敗した、
という理由はバカな自分にはピンときません。回答の中にヒントが
あるのでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 03:10

ものすごく乱暴なことをいえば、改革の究極の目的が「武士階級の救済」だからです。

そのために、その他の階級が困ってもかまわないというものですから。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
改革の究極の目的が「武士階級の救済」だと、米中心の経済制度が崩れ
て3大改革が失敗するという繋がりがよくわからないのですが。

お礼日時:2007/07/09 03:15

経済における米の割合が相対的に下がってきたので、国内総生産におけ税収(年貢)の割合も下がったから。

これが幕府財政が悪化する理由なのだから、米以外のところから徴税するのが解決策であるが、商人相手の税の補足や徴税が行われなかったりうまくいかなかった。さらに財政の不足分を節約によって乗り切ろうとしたため、一部でデフレスパイラルに陥った。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
自分は呑み込みが悪くて回答がすんなりと頭に入りません。
米中心の経済が崩れているのと年貢の割合が下がるのとはどう
繋がるのでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 03:33

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Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q江戸幕府の財政悪化~享保の改革前~

享保の改革において吉宗の最大の課題は財政再建でしたが、どのような経緯で幕府財政は悪化していたのでしょう。商品作物栽培の進展から貨幣経済が農村にも浸透していき、「米価安の諸色高」という状況になり、それまで年貢米を中心に徴収していた幕藩領主が困窮したということなのでしょうか?それは、享保の改革の最中に現出した状況であって、享保の改革前に幕府・藩の財政が悪化していたという理由としては適切でないとも思ったりしてます。それとも、上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか?それならば、納得がいくんですが。ご存知の方、どうでしょう?

Aベストアンサー

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税率はさらに下がります、ある資料によると農業収入の1~2割だそうです

結果として、幕府や藩の収入は江戸初期からほとんど変わらないのに、武士以外の収入は漸次増加して行き、生活レベルが向上してきました
社会全般のレベルが向上し、費用が余計にかかるようになっても 幕府・藩には増収の手立てがありません
これが根本的な原因です

商工業にも課税しようとした田沼意次のような為政者もいましたが、大勢の賛同を得られませんでした、

縮小均衡を図ろうとする吉宗のような為政者が賛同されたため、財政は悪化の一途をたどってしまったわけです

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q田沼意次はどうして賄賂政治を行ったのですか?

田沼意次の時代は、賄賂政治が行われ、
政治が腐敗していたようです。
庶民からは嫌われていました。
一方で、その政策は、商業改革中心で、時代に即したものだった
ようです。
老中の位であり、お金もあったはずですが、
どうして賄賂をとるような不平等なことを行ったのでしょうか?
また賄賂政治を行いながら、20年近くも政治を牛耳って
いられたのはいかなる理由からでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 私も田沼父子のために弁護を行いたいと思います。田沼ファンです。大河でやってくれないか、と思ってます (^o^;

> 政治が腐敗していたようです。

 やっていたことから判断すると、今より立派です。例えば今は、賄賂は取らないですが、年金資金などで豪華な公務員宿舎を建てて自分たちは住み、流行るはずもないホテルをたてては1000円くらいで売却して、おかげで年金資金は不足して、多くの庶民が困っています。


> 庶民からは嫌われていました。

 改革を推進すると、概して推進者は嫌われますよ。
 戦時に平和を説く人も嫌われる。日露戦争でしたか、講和条約を締結した人(名前失念)は、日本に帰るのが怖かったという話を読んだことがあります。庶民に暗殺されそうで。

 ちなみに、田沼の後継者はもっと嫌われたようですよ。「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」でしたっけ? そんな狂歌が読まれたりして。


> 一方で、その政策は、商業改革中心で、時代に即したものだったようです。

 そこですよねぇ。本当に賄賂をとっていたのかどうか、疑問を感じさせる点は。人というものは、賄賂を取って、正しいことをやるものでしょうか。


> 老中の位であり、お金もあったはずですが、
> どうして賄賂をとるような不平等なことを行ったのでしょうか?

 外様などを中心に、大名を貧乏にするのは幕府の政策だったため、重臣への贈り物が多額でも、問題視されなかったという話もあります。これは小説ですが、「重臣に賄賂を多く出すのは幕府に対する忠義の現れ」と言われていた、というような話も。

 ちなみに、白河さんの書いた日記に、自分も若いときに猟官のため賄賂を贈ったが、少額だった、と書いてある由。


> また賄賂政治を行いながら、20年近くも政治を牛耳っていられたのはいかなる理由からでしょうか?

 表面的には将軍が支持していたから。本当のところは、優秀な人が、時勢に合ったことをやっていたからではないでしょうか。

 田沼時代の幕僚が、強権をもって反対派や庶民を弾圧した、という話は見たことがありません。

 私も田沼父子のために弁護を行いたいと思います。田沼ファンです。大河でやってくれないか、と思ってます (^o^;

> 政治が腐敗していたようです。

 やっていたことから判断すると、今より立派です。例えば今は、賄賂は取らないですが、年金資金などで豪華な公務員宿舎を建てて自分たちは住み、流行るはずもないホテルをたてては1000円くらいで売却して、おかげで年金資金は不足して、多くの庶民が困っています。


> 庶民からは嫌われていました。

 改革を推進すると、概して推進者は嫌われま...続きを読む

Q歴史 大塩の乱が起きた原因とその影響は?

中学で歴史を学んでします。
大塩の乱が起きた原因とその影響について、分かる方具体的に教えてくださいませんか?
お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の改革」を見習って、あの「三大改革」の中でも最も一番厳しい改革だったんです。

そんな中、当時「天保の飢饉」というのがあって、各地で深刻な「米不足」が起こりました。米不足の影響で、いろんなところで一揆などが多発していて、世間は大混乱な状態だったんです。
その飢饉の影響はもちろん、大塩平八郎が住む「大阪」にも及びました。彼は飢饉で苦しむ聴衆を救うべく、自らの著書(彼自身、有名な陽明学者だったので、彼の著書は結構なお金になりました。)を売って、貧しい民衆に分け与えるなどの活動をしていました。ところが、それは奉行所から「売名行為」だと判断され、処罰されることになったんです。

それだけなら、まだ良かった・・・さらに大きな問題があったのですが、何と、その大阪の奉行所が飢饉なのにもかかわらず大量にお米を買い上げて「独占」していることが分かったんです。というのは、当時江戸のような主要都市でも深刻な米不足に陥ってたので、大阪の奉行所がそのお米を買占め、江戸に搬送していたんです。でも・・・苦しいのはみんな一緒。それなのに、結局将軍様が江戸にいるからって、そのためにお米を買い占めて良いのか?良いわけありませんよね?大阪の人々に生活はさらに苦しくなるって言うのに、それを無視しても良いのか?

そこで大塩平八郎は、奉行所にこう訴えました。

「あなたたちが米を買い占めているせいで、民衆の生活がさらにひどくなっているんだ!彼らに少しでもいいから、お米を分け与えてやってくれ!」

ところが奉行所は「そんな余裕はない!生活が苦しいなら、苦しいなりに自分たちでどうにかしろ!」と言って、拒否したのです。というのは、やはりこういう世情だったんです。「天保の改革」は民衆などに「自分たちの生活が悪いのは、自分たちが無駄遣いなんかをするから悪いんだ。だから、自分でどうにかしろ!政治のせいにするな!」っていうようなスタンスだったんです。だから、奉行所もこう言って大塩平八郎の言うことなんかに耳を貸さなかったんですね。

利益を目先に米を買い占め、それを売る「豪商」、今の世情に大塩平八郎の怒りはついに頂点に達しました。そこで先ほど言ったとおり、彼はすべての著書を売り、民衆にお金を分け与え、そして家族や知人とも縁を断ち、すべてを覚悟して「決起」に望んだというわけです。これが、「大塩平八郎の乱」です。

しかしこの計画は奉行所のほうに未然に発覚していたために、わずか半日でつぶされるということになったのです・・・彼は諦めて探索方に囲まれた中で自害をしました。

でも、大塩平八郎の意思を継ぐものはたくさんいました。それを「大塩残党」とか言ったりするのですが、その中でも有名なのは「生田万」という人物です。彼もまた、大塩平八郎の意志を継ぎ、「生田万の乱」というのを起こします。

さて、ここからがおそらくどの教科書にも載っていない部分です。その後、幕府はこの混乱をどうにかしなければ!と思い、「豊作祈願」のために儀式を行うことにしました。ですが儀式にも大量のお金が必要で、今のご時世に幕府にそんな余裕はない。そこで幕府は「朝廷」に費用を求めました。これがいけなかったんです。今まで幕府と朝廷の間には、お互いのやることに口出しはしないというような暗黙の了解みたいなものがあったのですが・・・幕府が「朝廷」に費用を借りようとする、ということでそのルールが少し崩れ始めていくことになるのです。そして、その影響はあのペリー来航の際に、欧米諸国と条約を結ぶのに、朝廷の許可を得ようとまでするようになり、幕府と朝廷の間にそのような均衡がなくなることになります。そして、それが影響して公武合体論、尊王論、そして・・・倒幕へと歴史は足を進めることになるのです。

というようなことなのですが、分かったでしょうか?

まぁ、ここまで中学のレベルで知る必要はありませんし、おそらく高校にいってもここまで詳しくはやらないと思います。こんな感じなんだよーっていうのを「なるほどー」っておもって聞いてくれればいいです。

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の...続きを読む

Q田沼意次・松平定信 デメリットメリット

田沼意次と松平定信のデメリット メリットを教えてください。
今度どっちの政治がいいか討論?みたいなものをします。
ちなみに私は田沼派です。この前ちょっとしたんですが、ぼろ負けでした・・・
松平の政治の悪いところ、また良いところ
田沼の政治の悪いところ、また良いところ
教えてください!詳しく書いてくださったら幸いです(#^.^#)
あと、田沼の弱いとこつかれたらなんて返せばいいと思いますか?
こう、立場ひっくりかえせるような返し方はないですか?

早めにご回答お願いします。

Aベストアンサー

田沼意次と松平定信は、「ほぼ正反対」の政治姿勢(経済対策)で、メリット,デメリットは表裏一体の関係です。
従い、ボロ負けと言うのは、ちょっとおかしい話ですよ。

両者ともに共通する課題は、幕府の財政再建ですが、田沼は、いわばバブル経済を目指したワケですよ。
経済政策で言えば、印旛沼の干拓事業など、現在の公共事業に費用を投じるなどして、経済を活発化しました。
ルーズベルト大統領のニューディール政策の先駆け的なこと、約150年も早くやってます。
ただ、その結果、物価の上昇(≒インフレ)や、利権が生じ、贈収賄の様なことが行われたワケです。

一方、田沼の後を引き継いだ松平は、財政再建を目指し、緊縮財政の「倹約」路線。
これも財政再建としては、常套手段ですが・・・まあ誰でも考える経済対策で、江戸幕府を中興した徳川吉宗の「享保の改革」を手本にしたとも言われ、まあパクリです。

また、田沼政治の悪い部分を改善しようとしたのは判りますが、田沼のバブル路線から、いきなり180°正反対の路線になりましたので、プラス成長からマイナス成長,インフレからデフレなど、重要な経済指標が反転し、市中経済は混乱するばかり。
従い、松平定信の「寛政の改革」は、「享保」「天保」と共に、江戸時代の三大改革と言われるものの、失敗改革とも言われます。
江戸時代の経済が、米本位経済から貨幣経済へ以降しつつある等、経済が近代化,複雑化する中、吉宗時代に遡る「徳治政治」の様な、古い体制に引き戻そうとして、失敗しちゃった格好です。

定信は、学問や剣術を奨励したり、社会保障的な政策に力を入れるなど、真面目な政治家ではありますが、田沼もそれらを全く無視していたと言うことでもありません。

逆に、治水や普請なども、田沼以前から経済対策的には行われていましたが、それを国家レベルで行ったと言う点では、恐らく田沼が日本初であり、世界的にもかなり先駆者と言えるでしょう。
田沼の方は、近年で言えば、田中角栄に近い様な感じかも知れません。
角栄氏はロッキード事件などの当時は、金権政治の権化の様に言われ、日本の政治を腐敗させたA級戦犯扱いでしたが、現在は再評価を受けており、田沼も同様に、再評価する向きも多いです。
田沼も角栄氏も残念な点は、セコくない舛添前都知事みたいな感じで、政治的汚職にも手を染めた部分ですが、田沼の時代には、現在ほど「汚職」と言う概念も、乏しかったのではないかな?

すなわち定信は、厚労省や文科省,総務省あたりの大臣としては優秀ですが、こと経産省あたりになりますと、田沼が圧倒的に優秀有能です。
その両名が、首相や財務大臣として、どちらが優秀か?と言う様な話ですが。

田沼を失脚させると共に、田沼政治を全否定に近い方針で、経済政策や財政再建を推し進め、失敗した定信は、稀代の政治家であろうとは思いますが、ちょっと度量が小さいと思います。
失脚させた後も田沼を残留させ、この両名が得意分野を担当し協力していれば、素晴らしい政治が行えたのではないか?とも思われますので。

ちなみに、徳川吉宗が大岡越前を起用した様に、定信は鬼平犯科帳で知られる長谷川平蔵(鬼平)を起用した人物で、人を見る目が無かったわけでもなさそうですから、なおさら残念・・。

田沼意次と松平定信は、「ほぼ正反対」の政治姿勢(経済対策)で、メリット,デメリットは表裏一体の関係です。
従い、ボロ負けと言うのは、ちょっとおかしい話ですよ。

両者ともに共通する課題は、幕府の財政再建ですが、田沼は、いわばバブル経済を目指したワケですよ。
経済政策で言えば、印旛沼の干拓事業など、現在の公共事業に費用を投じるなどして、経済を活発化しました。
ルーズベルト大統領のニューディール政策の先駆け的なこと、約150年も早くやってます。
ただ、その結果、物価の上昇(≒インフレ...続きを読む

Qどうして日本はキリスト教を弾圧してきたのか?

日本でのキリスト教は
織田信長は保護
江戸幕府(家光以後)は禁止⇒踏み絵等で弾圧
明治初期は禁止(五傍の掲示)で欧米の反発で削除
ですよね
どうして弾圧されるのですか?
仏教には身分があってキリスト教は身分が無く平等だから駄目だと聞きましたけど仏教も平等ですよね?
キリスト教派は大名などにも大勢いたのでは?

Aベストアンサー

キリスト教が植民地支配の先兵であることが分かったから
例:南米、フィリピン

Q質の悪い貨幣が流通すると物価が上がる理由

こんばんは。
今日日本史の勉強をしていたら、江戸時代末期の開国後の日本で『金が国外に流出し、質の悪い貨幣が流通した結果、物価の上昇を招いた』というような記述があったのですが、まず質の悪い貨幣とはどういうものですか、またなぜ質の悪い貨幣が流通すると物価が上がるのでしょうか??
よくわからないので、どなたか教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします。だけど受け取る人は、質の悪い小判だったら2枚じゃないと1万円の価値のあるものと交換しないよ、と言うでしょうね。
だから額面上の物価があがるのです。
もうひとつのことわざ、悪貨が良貨を駆逐する。
理由はお分かりですよね。
因みに今の紙幣も昔は兌換紙幣と言って、例えば1万円(当然当時の額面は銭の単位でしょうけれど)の紙幣を日銀に持っていけば1万円分の金と交換してくれました。現在は不換紙幣なので交換してもらえません。兌換紙幣の時はインフレは起こりませんよね。
これは質問と関係ありませんでしたね。

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします...続きを読む

Qアルトリコーダーの運指を教えてください

アルトリコーダー(バロック式)の初心者です。
ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。
以下の運指は、間違っていませんか?
お教え下さいますでしょうか。

ソ … ●   ●●● ●●● ○
ラ … ●   ●●● ●●○ ○
シ … ●   ●●● ○●● ○

ド … ●   ●●● ○○○ ○
レ … ●   ●●○ ○○○ ○
ミ … ●   ●○○ ○○○ ○
フア … ●   ○●○ ○○○ ○
ソ … ○   ○●○ ○○○ ○
ラ … ◎   ●●● ●●○ ○
シ … ◎   ●●● ○●○ ○
ド … ◎   ●●● ○○○ ○

レ … ◎   ●●○ ○○○ ○
ミ … ◎   ●●○ ●●○ ○
フア … ◎   ●○○ ●●○ ○


親指(裏の穴)
◎じるしは、少し開ける

アルトリコーダー(バロック式)の初心者です。
ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。
以下の運指は、間違っていませんか?
お教え下さいますでしょうか。

ソ … ●   ●●● ●●● ○
ラ … ●   ●●● ●●○ ○
シ … ●   ●●● ○●● ○

ド … ●   ●●● ○○○ ○
レ … ●   ●●○ ○○○ ○
ミ … ●   ●○○ ○○○ ○
フア … ●   ○●○ ○○○ ○
ソ … ○   ○●○...続きを読む

Aベストアンサー

全てバロック式のアルトの指使いで合っています。

それからこれは余計なことですが、「◎じるしは、少し開ける」とご本人が書かれているように '少し開ける’で正しいです。
昔、リコーダーを小学校などで教わった時に「半分あける」と教わった人も多いようですが、実際には1~2ミリくらいのものです。

リコーダーを始めるに当たって、アルトを選択し、しかもバロック式で始められたというのは最良の選択だと思います。がんばってくださいね!

Qよく社会の教科書に「貨幣経済が浸透し商業が発達したために、没落する人々

よく社会の教科書に「貨幣経済が浸透し商業が発達したために、没落する人々がでて反乱が起きた~」のようなことが書いてありますけど、いまいちピンと来ません。
なぜ「貨幣経済が浸透」すると、あるいは「商業が発達」すると人々が没落(困窮)するのですか?
貨幣経済が行き渡ったり商業が栄えると金を蓄えて「貧富の差」が出来るのならわかりますが、生活の絶対的な水準が下がってしまうのが分かりません。上流階級だけがより豊かになるだけだと思うのですが。
もしかして貨幣経済が浸透したがために豊かになると物価が上がるからですか?教えてください!

Aベストアンサー

貨幣経済が浸透するというということは、商品流通が活発になるということを意味します。

商品流通が活発になるということは、自給自足社会・地域コミュニティーの崩壊を促します。

具体的に言うと、余剰生産品を換金し贅沢品を購入するというような場合には何の問題もなく、暮らしが豊になるのですが、貨幣経済の浸透と商業資本の興隆はそういう生やさしいことでは済みません。まず、商品流通が活発になると、生産性の高いものと質のいいものが他の類似商品を駆逐します。売れるものを造っているものたちや地域は、その商品生産に特化するようになります。これにより、自給自足は崩壊し、社会的な分業がおこります。

社会的分業はますます貨幣経済を浸透させます。必要品を購入しなければならないからです。さらに、商業資本が強くなると、利益の大きなものを優先してつくられるようになります。理屈で言うと曖昧なので、いくつか事例を書きます。

イギリスのエンクロージャー(囲い込み)というのは、羊毛工業が利益が非常に高いという理由でイギリス中の農耕地が囲い込まれて羊の牧草地に変わってしまった。多くの農民が耕作地を失い「羊が人を食う」と揶揄された。

江戸期の武士は給与を年貢米で換算されていましたが、実際はその米を大阪などの米問屋に売却して生活していました。そして、米を買って食っていました。これは年貢を納める農民も同じです。

ごく最近の話ですが、世界中で食料難で食うモノがない人たちがいるにもかかわらず、トウモロコシはバイオ燃料の原料になり、高騰した。

貨幣経済が浸透するというということは、商品流通が活発になるということを意味します。

商品流通が活発になるということは、自給自足社会・地域コミュニティーの崩壊を促します。

具体的に言うと、余剰生産品を換金し贅沢品を購入するというような場合には何の問題もなく、暮らしが豊になるのですが、貨幣経済の浸透と商業資本の興隆はそういう生やさしいことでは済みません。まず、商品流通が活発になると、生産性の高いものと質のいいものが他の類似商品を駆逐します。売れるものを造っているものたちや...続きを読む


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