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「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」という内容を目にしたのですが、どうして米中心の経済制度が崩れると改革が失敗に終わるのかそのメカニズムが解りません。どなたかご存知の方いらっしゃいますか?

A 回答 (8件)

三大改革の失敗の理由として


享保の改革 徳川宗家の財政再建には成功。但し、自由経済に統制を加えようとしたことには失敗。
寛政の改革 保守本流を目指しながらも、結局後ろ向きの方向性のため失敗。
天保の改革 上2者よりも出自の劣る水野忠邦が足許掬われて失敗。
と思っていました。

現代でもそうですが、『何を言ったか』より『誰が言ったか』と言うことも重要な要素になるんじゃないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
『何を言ったか』より『誰が言ったか』と言うことも重要な要素になる
、とはどういう意味なのでしょうか?スミマセン。呑み込みが悪くて…

お礼日時:2007/07/10 00:20

 流出する前から日本は異常に大量の金銀を抱えていました。

流出量も異常な保有量からしてみればごく一部ということです。中世に日本で産出された金銀は、世界の3~4分の一といわれています。戦国時代の鉱山開発が非常に激しかったというわけです。そして徐々に鉱脈がかれていくわけですが、江戸時代にも盛んに産出しています。明治時代になると鉱脈がほとんど枯れ、主な鉱産資源は銅へと打つって行くわけですが、これはまた別の話ですね。特に銀については、世界最大の鉱山であった石見銀山の世界遺産登録でホットな話題なので、ネットを漁れば面白い記事があるかもしれません。
 ただ世界的な保有率をいうと難しいです。新大陸発見があってから新大陸の金と銀(特に銀)が大量にヨーロッパにもたらされました。これはそれまで世界史的には存在しなかったものが突如扱われるような感じです。新大陸には文字による記録などなかったので推測のしようもないです。突如歴史上現れた新大陸の金銀をどう評価するかによって、世界的に保有率を上げたという評価が妥当かどうか変わるでしょう。
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この回答へのお礼

確かに『世界的に保有率をあげた』という表現は適切では
なかったです。すみません。なのに丁寧に回答くださって
有難うございます。

新井白石の長崎貿易制限というのは銀の流出を抑えるためと
昔授業で習ったのが記憶にありまして、そこからその当時で
既に銀の保有率がヤバい所まで来てたのでは?と勝手に思い
込んでいました。

お礼日時:2007/07/10 00:16

経済活動はどんどん膨らむのに、つねに一定の米を税として集めるだけでは、取り残されていくということです。



”ならば質問の内容も「米中心の経済制度が『崩れてきた』から。」よりも、「米中心の
経済制度が『世間では崩れてきたのに武士の間で取り残されていた』
から。」という考え方をしてもよいでしょうか?”
おおむねそんなところです。

通常”江戸の三大改革失敗”を語るときその八割は幕府(および旗本)財政の改善ができなかったという観点で、日本経済についての話ではありません。あと江戸時代の日本経済全体での問題点は、貨幣不足があります。これは実体経済の成長に、貨幣の流通量が追いつかなかったという話です。ただこれは、金貨、銀貨、兌換紙幣(江戸時代には少ないが)を扱っている限り、国内での金銀の保有量以上のことはできませんので、抜本的な改革は難しいです。(もっとも世界的に見ると、日本国内での金銀の価値は低く、国内に異常に金銀が多く流通している状態でしたが。)
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この回答へのお礼

回答有難うございます。日本経済についての話ではないって所に
試験勉強をする側と学問を追究する側の閉鎖性を感じてしまうのですが、ここで回答していただける方がいらしてあり難いと感謝の念です。

ちなみに新井白石が金銀流失にストップをかけた後の日本経済は金貨、
銀貨など世界的に保有率を上げたと解釈してよろしいでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 14:10

>しかし米中心の経済制度が崩れてきたから江戸の3大改革は失敗した、という理由はバカな自分にはピンときません。

回答の中にヒントがあるのでしょうか?
 元禄の頃には日本の社会が既に工業化社会に入り込んでいたと思われます。GDPの中で農業から工業および第三次産業から生れるものに比率が移って来たのです。それを認識できなかった定信、忠邦は時代錯誤の典型で、殖産興業を行ない、そこから生れる利潤に税をかけることで政府がうまく機能し、武士階級の困窮も救えた筈なのです。米沢藩の上杉鷹山は意識していたかどうかは別として結果的にはその方向で藩政改革を行なったために藩の財政は急速に好転し、以後は惨憺たる東北の諸藩の状況を尻目に、明治に至るまで一人の餓死者も出さなかったという実績が残りました。
 現在ではバーチャル世界のGDPが伸び始めています。これに着目した政策を展開することが現在の財政赤字を救う大きな原動力になることを自民党政権は全く気付いていません。後世の評論家からはこの点を叩かれるに相違ないですよ。バーチャル世界は資源を殆ど浪費することなく、無限にGDPを増やすことができるのです。人々はその中では王侯貴族のようなゴージャスな生活を享受でき、またそこから上がる利潤で、現実の世界でも実りある生活を送ることができるようになるのです。
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この回答へのお礼

なるほど。産業の芽生えを察知し、そこに税金を掛けることが
できなかった幕府の先見の明のなさが武士の困窮を救えなかった
ということでしょうか?
ところでバーチャル世界に税金かけるって例えば、この「教えて~」
にも質問する度に数円をとるということもあり得るってことですよね。
まあ、数円ならって納得もできなくはないですが…。
回答有難うございました。
 

お礼日時:2007/07/09 14:02

>「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。



 「へー そうですかねぇ」って感じなので、その言葉を発した人の考えを十分に理解しているとは言えない私ですが、

 たぶん、その意見はこういうことなんじゃないかと思います。

 昔は米が中心で、どれくらいの米と交換できるかという価値観で物の価格が判定されたから、米を増産し、節約し、ため込めば、それだけ財産を殖やしたことになったわけですわ。

 ところが貨幣経済になると、米は一つの商品でしかなくて、米を増やしたって財産を殖やしたことにならないんですわ。

 まあ、、例えば米1俵が2両だったときより、米を2倍増産して2倍ため込めれば、米の価値は半分の1両になるわけです(実際はそんな単純に計算できる話ではないのですが、まあ価格が下がるという話)。

 となると、いままで100俵(200両)あった蔵に2倍の200俵の米をためこんでも前と同じ財産(200両分)でしかないわけですね。

 すると、財産家になったはずなのに、武士の生活はよくならない。よくならないのに、米は貯まったからよくなったはずだと思って2倍の贅沢をするヤツが出てくる。でてくる、というより、全員そうだったというほうが正解かな。

 すると、その贅沢者に着物や家具、刀などの商品を売り込んだ商人が儲かる。米を売れば、取り扱った商人が口銭をとって儲かる。「おかしい。幕閣のやらせていることはおかしい」「改革、失敗だよね」という話になるわけです。

 上記の意見も、そんなことを言っているのではないでしょうか。

 しかしね、これは武士の観点、武士の救済という点で眺めるから失敗なんで、日本国全体からいうと、さほど悪影響はないような感じがする・・・ って話は、今回の質問とは関係ないので省略。

 それに、けっこう商人は運上金や店舗税(間口の幅を基準にしてかけられたので、昔の店舗は『うなぎの寝床』と言われる、縦に細長い造りになっている)などを取られているんで、米中心の改革だった、という見方もどうかという気はするんですけどね。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。僕も実はこの質問の内容には疑問があったので
す。(自分で振っておきながらどう書いてよいのか解らなくてこのよう
な質問になってしまったのですが。)
武士階級は米中心の資産を持っていて、新田開発や足高の制等による
米の増産は武士の持っている米のデフレを促進し、改革の割りに武士の
暮らしがよくならないことを改革の失敗とみなす、という理解でよいでしょうか?
ならば質問の内容も「米中心の経済制度が『崩れてきた』から。」よりも、「米中心の
経済制度が『世間では崩れてきたのに武士の間で取り残されていた』
から。」という考え方をしてもよいでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 03:54

経済は景気の波を繰り返すもので、好況は過熱するとインフレを引き起こし、不況は放っておくと恐慌にまで悪化します。

しかしこれの調節は大変難しく、現代でも橋本内閣が大失敗したように、特効薬のような手段は未だに存在しません。
三大改革のうち亨保の改革はかなり巧く行ったのではないでしょうか。吉宗の政権が長すぎたので晩年にみそをつけてしまったのが惜しまれます。残りの二人は全く経済音痴の為政者で、ただ引締めれば世の中が巧く行くという単純な発想しが持ち合せていなかったのは橋本元首相と似通ったところがありますね。景気の過熱をさますにはグリーンスパンがやったように絶妙のコントロールが必要で、これには経済に対する深い知識とセンスが必要です。
 これは田沼親子がかなり分っていたのではないでしょうか。荻原重秀もかなり分っていて貨幣の改鋳を悪く云う人がいますが、経済が膨張すると貨幣の量が必要なのであり、これは必要悪だったのです。新井白石はこれに対する認識が全くなくて経済を不況のどん底へ落してしまいました。それを救ったのが吉宗ということになるのでしょう。また、吉宗の末期の跡始末は田沼親子がそれを担ったということですね。
 勤倹節約は経済にとっては悪なのです。浪費はいけませんが通貨の回転をよくする方法をいつも講じていないと経済は行き詰るのです。江戸時代はこれがかなり巧く機能していました。それは教養を身につけることにかなりのお金が使われていたことが幸いしました。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
吉宗、田沼、荻原が比較的改革を成功に導いたということですね。
しかし米中心の経済制度が崩れてきたから江戸の3大改革は失敗した、
という理由はバカな自分にはピンときません。回答の中にヒントが
あるのでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 03:10

ものすごく乱暴なことをいえば、改革の究極の目的が「武士階級の救済」だからです。

そのために、その他の階級が困ってもかまわないというものですから。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
改革の究極の目的が「武士階級の救済」だと、米中心の経済制度が崩れ
て3大改革が失敗するという繋がりがよくわからないのですが。

お礼日時:2007/07/09 03:15

経済における米の割合が相対的に下がってきたので、国内総生産におけ税収(年貢)の割合も下がったから。

これが幕府財政が悪化する理由なのだから、米以外のところから徴税するのが解決策であるが、商人相手の税の補足や徴税が行われなかったりうまくいかなかった。さらに財政の不足分を節約によって乗り切ろうとしたため、一部でデフレスパイラルに陥った。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
自分は呑み込みが悪くて回答がすんなりと頭に入りません。
米中心の経済が崩れているのと年貢の割合が下がるのとはどう
繋がるのでしょうか?

お礼日時:2007/07/09 03:33

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