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ジャンルをどうすればいいのか分からなくて、とりあえず心理学にさせてもらいました。

普段から欺瞞屋の人が、ある機会に「私は欺瞞屋なのよ」とか、普段から嘘つきの人が、ある機会に「私はうそつきなのよ」とか、自己申告することには、どういった意味合いがあるでしょうか?それを行う事によって、地の「欺瞞屋」「嘘つき」という条件は、大きく変容しますか?

A 回答 (2件)

2つ考えられるように思います。


まず、相手を陥れるために嘘を普段から意図的に行使しているような人の場合。
嘘つきであることを自己申告することによって、
→自分に不利なこと(嘘つきであるということ)をわざわざ嘘をついてまで自己申告するはずがない
→自己申告の内容は真実なのだろう
→ということは彼は嘘つきではなかったのだ!
という錯覚(ちょっと考えれば明らかにおかしな理屈ですが、表面的なイメージとしては錯覚という形で受け入れられてしまうこともあるでしょう)を与えることによって、自らの地位を挽回しようとする意識的な防御という意味合い。

もうひとつは、相手を怖れるゆえに普段から防御的に嘘をついてしまいがちな人の場合。
こういった人の場合は、相手に気圧されるようにほぼ無意識的に嘘をついてしまうわけで、自己申告するというのは、そういった自分と向き合って心許せる相手に自身の内面を吐露しているという意味合い。

いずれにせよ、完璧な正直者がいないように完全なる嘘つきも存在しないと思われます。
その質や程度の問題なわけですが、人間が、遺伝的気質→性格→人格といったような変遷を辿るとすれば「>変容」するかどうかということは、それを申告された側の対応次第ではないかという気がしてきます。
 
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この回答へのお礼

うその上塗りのほうは私もあると思いました。本質的なほうはどうかと考えたいと思いました。やはり、畏怖とか防御によって行うとお考えですか。あるいは、心許せる人にだけ開示する。もっともなことだと思います。ただ、私は第3の可能性があると思って、それは、アナーティックな動機といいますか、無目的に規制価値観を否定するという姿勢です。

変容は受け止める人による、まさに言えてますね。人間的つながりの変容なんでしょう。

お礼日時:2007/08/02 11:47

人のすべての行為が意味から発生しているわけでもなければ、嘘つきがすべて嘘しか言わないわけでもないですが。


とりあえず、嘘というのは必ずしも間違ったことではなく、真実をわざと一部だけ語りそれによって誤解させる手法もありますし、自分が嘘つきだという情報と組み合わせ間違った結論に誘導させる気かもしれません。また、他人が騙されるさまを楽しんでいるなら自分のいうことが本当かどうか悩ませて楽しむのかもしれません。
それが地なら変容はしないでしょう。
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この回答へのお礼

あくまで、姿勢を変えないで行っているのだったら、本質的にうその上塗りでしかありませんね。

お礼日時:2007/08/02 11:43

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