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エジプトの新王国でアメンホテプ四世(イクナートン)が宗教改革を行い、唯一神アトンを信仰するよう改革を進めますが、その宗教改革が、「従来にない写実的なアマルナ美術を生んだ」とあります。
そこで、なぜ、宗教改革をすることにより「写実的な芸術が生まれるようになった」のでしょうか?

それまでのエジプトはアモン=ラーを主神とする多神教だといわれていますが、この時までは、イスラム教のような偶像禁止の風潮が存在していたのでしょうか?

A 回答 (4件)

その頃のエジプトでは神官達(当時は多神教のアモン信仰)が、政治的にも大きい権力を持っていました


絵や壁の浮き彫りを書くにも、神官の決めた多くの約束事があり、芸術家は制約を受けました。   例を挙げると人物の顔はすべて横向きもその一つです。体は正面向きでも顔は横書きです。    人体を書くにも取り決めがあり、格子目の下書きに定められたプロモーションで人物を書きました。    小さく書く人物には小さい格子目を使い、従いすべての人物が同じような体格です。
題材や表現法にも取り決めがあり、王の塑像なども画一的でした。  立体的表現や遠近法も禁止されました。
宗教的表現が重視されたためです。
芸術の進歩に従い、個性無視のこの約束ごとには不満が溜まります。 芸術家達は絵の下絵を写実的に書き鬱憤を晴らしました。    この下絵が発見されています。
芸術の閉塞感を打破したのが、アメンホテブ四世による宗教改革で、多神教アモン信仰から一神教アトン信仰への変革でした。   これは既にアメンホテブ三世がアモン信仰神官の力を削ぐため着手していましたが、都を移してまで本格的に行なったのが四世です。    新しい都アマルナには新しいアトン信仰神官が誕生し芸術の各種制約も大幅に解禁され、新しい芸術家たちも集まり写実的傑作も生まれるようになりました。
横向きの顔は変わりませんでしたが、王の家族絵が書かれるなど、題材も広がり、写実的ではネフェルティティの胸像など見事な作品があります。
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アトンという神についてご存知でしょうか。


アトンとは太陽の神です。
イクナトーン時代の壁画に描かれているアトンの姿を見ると、
円形の太陽から地上に光が伸びてくる姿で描かれています。

これはそれまでのエジプトの擬人化されたどの神々よりも、
太陽そのままの姿を描いたものです。
つまり神の描き方自体が写実的なのです。

彼らは唯一絶対の、かつ普遍的な神として太陽を選び、
その姿を誰が見ても明らかなように実際の太陽の姿で描いたのです。

この、神をありのままの姿で描くという精神が、芸術全体に影響を与えたのではないでしょうか。
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写実的な文化を生んだ、というより、「写実」は当時のエジプトの新発明だった、といった方が正確かも。



私たちは現代人なので「美術」と呼んでいますが、そもそも古代において、ものをつくる、ということはいささかでも宗教的な行為でもあったわけで。
それゆえ、#1さんが仰るように、教義の中に絵や彫刻の形式までもがとりいれられているわけです。

その点、アトンは新興の神様で、教義にもそれほどの縛りがなかったのでしょう。また、より新しい神様なので、昔ながらの決まりも少なかったのではないかと思います。
仮にアトン教がそのまま支配的な地位を保てたとすれば、やがてはアトン教なりの縛りや制限が目立つことになったのではないかと思います。
(実例:現在の世界で、原理主義に傾いているのはカトリックよりプロテスタントに多いし、またイスラームもユダヤ教やキリスト教に対する新興宗教だったが、今や・・・)
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図象と宗教が分離された。


ということになります。
多神教のエジプトにおいては、たとえば
トト トキ 知恵神
これが連結しておりますので、トキの画は神として定式化されていました。変更は涜神になります。

偶像崇拝が強かったが故に、偶像の方式が決まっていたので、写実的なものは作れなかったとも言えます。
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