人の回答を書いていて気づいたのですが。
私という自我は他人や社会との関係によって存在している。もっと言えば関係こそが私という自我そのものじゃなかろうかと。
もし、この世にたった一人で生まれたとしたら私という自我は発現しなかっただろうと思われます。
・人が悪を嫌うのは他者との「関係」が壊れることにより、自我もまた損傷するため。故に悪とは他者との「関係」を破壊する行為の総称。
・人が孤独を嫌うのは自我の因子である「関係」を本質的に必要とするため。
・人が死を嫌うのは肉体が死ぬと、他者と関係することができず、それによって「関係」そのものである自我も消滅することを知っているため。
死とは「関係」の消滅である。それゆえ未知の死を恐れることができると思われる。
こんな感じで、私の中では点と点が線でつながってきたんですが、どっか間違ってます?
A 回答 (7件)
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No.7
- 回答日時:
素人の空想ですが、木村敏さんが間について書いておられますがアイダというのは関係のことではないかと思います。
自我というのは主体と客体の間の関係と考えれば他者というのも客体であるので、それを他者との関係と考えることに一致すると思います。主体というものは客体にならない(詰まり認識できない)とすると死というのはむしろすべてが主体となってしまうので認識すべき客体が存在しなくなった状態ではないかと思います。このことを関係が消失することと考えることは可能だと思います。>すべてが主体となってしまうので認識すべき客体が存在しなくなった状態
これは面白いですね。悟りの境地もこんな感じなのでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
No.6
- 回答日時:
先般は心理学カテゴリにて非力ながら、お相手をさせていただきました。
その時いただいたお礼の欄で述べていらっしゃいましたことですね。仰ることは私にも理解できるように思います。
ところで「嫌う」というのは、それ自体が一つの関係性です。
たとえ没交渉であっても、嫌いだから交渉を持たない、というかたちの関係性です。ですから、嫌いなのだ、だから交渉を持たないのだ、という点で、それも自我の発露です。
むしろ、嫌っていることを自らに隠し、無理をして交渉を保つことのほうが、よほど自我の損傷に繋がるかもしれません。
実際、その関係を保ち続け交渉し続けることが自分という存在を破壊することもあり得るでしょう。そのような実例を見てきております。
問題は自覚、ということにあるようにも思えます。
御質問本文で挙げていらっしゃる
>他者との「関係」が壊れることにより、自我もまた損傷するため。故に悪とは他者との「関係」を破壊する行為の総称
たとえば嫌いなので没交渉、関係を持とうとしないということが本人の自我を守り自分の存在を守っている場合も現実には、よくあることですので、自分が嫌っていることを自らに隠し無理に交渉を保ち続けることが自分の存在を危うくするのであれば、それは、まさに「関係の破壊」行為に他なりません。
要するに自己の存在、存続の保全これを私は人間の通常の善悪の判断を超えたところにあるとしなければしかたがないものと考えておりますが、それでもここでは自我の保全を損なうものを「悪」と名づけるのであれば、単に「嫌うことが悪」、ということで済まされなくなってきます。
問題になってくるのは、いかにして他者との「関係を保全」していくか、その働きかけということになります。これは双方向性を持ったものにならなければならないと考えます。一方的なもの、強制的な交渉であれば、それは片方を「殺す」ことになるからです。
本当に孤独が厭であれば、いかにして「関係」を保全していくかを考えなければならないことになります。そして、あるべき健康な関係性というものは一方的なものではあり得ないでしょう。
いかに多くの他人と「関係」を持っているとして誇ったとしても、それでも孤独やみ難い人がいるのも、また現実です。
私は自分にとって非常に重要な、掛け替えのない存在を死によって失うという経験をしてきておりますが、死をもってしても「関係」が失われるということがないという実感があります。
実際、死によって分かたれて以降、生活のなかで死んだ相手からの実際的な働きかけは途絶えるわけですが、それはそれとして尚且つ、相手との関係性は、いまもなお日々に変化していく余地を残しています。その意味で「死が関係の消滅」であるとは思いません。
善悪というものが立場によって影響される相対的なものであるとは、言い古されているくらい、よく言われることのようですが、その立場というのは、突き詰めていけば結局、「自己の」立場です。その自己の立場、自己の存続を保全することが第一義的善である、とするならば、自己の存続に最低限必要である境界を明らかにしなければなりません。そうでないと現実の世界で見られるように、争いは、いくらでも起きてきます。
ただ、倫理哲学が目指しているのは、単に自己の存続、自我の保全を第一義の善とすることにとどまっているのかどうか。。。
レヴィナスは私もムシの好く哲学者、思想家です。
その節はありがとうございました。
ご指摘のとおり、完全な「無関係」というのはありえないのでしょう。死してもなお関係が続いていくというのも理解できます。そういう意味では生者も、死者も、生物も、無生物も、現実も、観念も、あらゆるものが私を構成しているのかもしれません。そう考えると、記憶というものが自我の構成物質?のようにも思いますが、なぜ単なる記憶が「私」を名乗るに至るのかよく分かりません・・・
「関係こそが自我の因子」とご大層なことを言いましたが、これも視点のひとつに過ぎないと思います(自分ではいい線行ってると思ってますが)。
いつの日か善悪、自我、因果を超えたいですね。
No.5
- 回答日時:
大変失礼します、
前半部分は、面白いですし、他者によって自分が存在できる、と言った考え方は、最近良く見かける論点です。
ただ、以下、病人の戯言ですが、気を悪くなさらず。
レヴィ=ストロース以来の関係論的な考察では、関係自体が制度として定着していることに注目していますから、個々人の個別な関係ではなく、言語化・象徴化された制度としての関係を問題にしているようです。例えば、親族関係の名称は「親」とか「兄弟」という関係そのものが実在している、といった論点です。
ただし、難しいのは、上記の関係と、ソシュールの言語における関係は若干違っているようですし、そもそも、語の一般的意味での「関係」「因果関係」等々も同じ「関係」という言葉を使いますが、どうも違うようです。
レヴィ=ストロースは社会の制度が「関係」として、「社会」と「関係」をほぼ同義としていますが、なかなか難しく、頭の痛いことが多いです。
>どっか間違ってます?
見方によりますね、社会学的に見ると、少し違和感が、
個人的な自我論でしたら・・・よく判らない。
まぁ、あまり参考になさいませんよう。
哲学史の知識のない私には難しすぎる様です。
過去の偉大な哲学者には申し訳ないのですが、何か木を見て森を見ていないような感じがします。
単に興味の対象が違うだけなのかもしれませんが、なんかこう解説者的なポジションのような印象を受けます。
私は私の自我論で行きたいと思います。
ご回答ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
現代思想チックですね。
でも、例えば下の人の意見にもあるように(根本的に私の意見は下の方と違いますが)、他者との「関係」を破壊する行為を悪と定義してしまうと、関係性を設けて共生している共同体に対して、一義的/一神教的な原理主義の思想を持っている集団は、(関係を破壊してくるので)"悪"ということになってしまいます。
個人的な問題をネイションまで拡大していくと、
イスラム原理主義に攻撃されたアメリカの報復は絶対善か?
という問題にまで発展します。
"現実"を考えるうえで非常に難しいところです。
関係性を保つ善なる「共生」とは、別の価値観を持つ人間や組織を排他的に追い出して成立するわけですから、"善"と定義せずに、"悪"の総称を根本的に突き止める必要があると思います。一般的な概念で"悪"と決め付けずに、"悪"とは何かが問われなければなりません。友好的とは同時に差別的でもあるのです。友好的に結ばれた集団から跳ね除けられた第三者を如何に擁護するか、また第三者は如何に良識を持つか考えなければならないと思います。
「たがいに責任をおう個人の間には正義の秩序が生まれるが、これは自我と他者の相互性を回復するためではない。わたしにとっての他者である相手のかたわらに、第三者がいる。そして別の他者であるこの第三者のために、正義の秩序は生まれるのである。Byレヴィナス『われわれのあいだで』」
レヴィナスの正義とは、
質問者さんの定義した"悪の総称"への配慮であり、
悪人への配慮と悪人の配慮という価値観が共有できた世界が、
バランスのとれた世界なのではないかと思います。
なるほど、回答者さんのご意見を読んでいてふと思ったのですが、
・善は悪の、悪は善の反対物だろうか
・そもそも善悪という物差しは本質的に不完全なのではないだろうか。
・だとしたら善悪を超えることはできないだろうか。
・善悪を問題にしているのは誰(何)だ。
立場によって善悪が変わってくるということは、立場というものがその生みの親なのだろうか・・・
秋の夜長に最適なご回答ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
#2、補足です。
警察や刑務所は、その国で定めたルール(法律)に従って、
人を裁判で裁いているに過ぎません。
ネパールの兵士が正義だと考え日本人のライターを射殺したことを、
あなたは悪だと云っても、相手は善だと考えたかも知れません。
人の数だけ善があれば悪があります。
それは倫理を考える上で大切な基本です。
ゴキブリを好きな人も居ます。
好きではなくとも撮影の為に、
洞窟で何か月もコウモリとゴキブリを撮影し続ける方もいます。
ギネスの為にゴキブリと共に生活される方もおられます。
彼らにとって必ずしも何かを嫌いだからと言って、
一緒にいないとは限らないでしょう。
これは人間を相手でも同じことです。
肉体の死が魂の死を意味しないとはどこに証拠があるのでしょう?
大切なのはそれを受け入れつつも前進することではないでしょうか。
人も生き物も必ず死を迎えます。
あなたの自我がそれで失われないと自信を持って言えるのなら、
それはそれで良いですが、何よりご自身でご存じのはずです。
自我の探求には言葉で説明するより、
ものごとをもう少し深く理解されるよう願います。
神や仏でない限り、全体像としての自我を知ることはできないでしょう。
阿頼耶識という言葉ぐらいは聞かれたことがあるでしょう。
哲学とは考えることにあります。
余りにも適当に質問されているのは私は好みませんし、
努力のない書き込みには書き込みません。
>暇人
これでも真剣に仕事と両立していることなので、
あなたにとやかく言われることではないでしょう。
ご回答ありがとうございます。
どうも気分を害されたようですみません。
>人の数だけ善があれば悪があります。
基準はどうあれ善悪という概念がこの世にはあり、人はそれにしたがって生きているということですね。回答者さんは絶対的な悪を言っておられるようですが、私は絶対だろうと相対だろうと悪はあるということ、人は善悪を行動の指針としている、という事実のみを見ています。
>彼らにとって必ずしも何かを嫌いだからと言って・・・
仕事や何か特別な理由の関係ではなく、普通に言うところの嫌うということです。普通の人はゴキブリにえさを与えたりはしませんし、嫌いな人を食事に誘ったりはしません。
>肉体の死が魂の死を意味しないとはどこに証拠があるのでしょう?
証拠がなければ否定するのですか?現時点で科学が解明できないことは無数にあると思いますが。
>神や仏でない限り、全体像としての自我を知ることはできないでしょう。
まさに神でも仏でもない我々が、なぜ「知ることができない」と言えるのでしょうか。哲学は探求するものではありませんか?
>暇人
これは私のことです。哲学および自分自身につよいプライドをお持ちなのですね。
No.2
- 回答日時:
世の中には善も悪もありません。
それを決めつけている時点ではまだ本質は得ていないと思います。
shift-2007さんは質問の中で、
人間社会という価値観で全ての事象ものごとを
決めつけておられるように見受けられます。
人の自我には確かに質問のような要素も含んでいますが、
それらが絶対ではなく全てでもないのです。
この世にたった一人生まれても、
人は食をし共に生きるものを求めるでしょう。
食をすれば何かの命は失われます。
今そこにあったものが消えることは何故か?
そうしたことにに対し疑問を抱くのは
人の知恵の成せる業です。
これは別の回答でもしている内容ですが、
自我には浅いものと深いものがあります。
今あなたに見えているのは地面から出ている竹の子の
芽の部分ぐらいでしか過ぎず、
見えない部分は無数の関係(縁)で繋がっているのです。
あなたが生まれてきたこと、あなたが生きてきた全て。
もちろん見えないのでそれらを知ることは簡単には叶わない。
しかし、それでも知ろうとするのが人というものです。
私は人の本当の関係が「嫌う」ぐらいで簡単に壊れるとは思えないし、
人が孤独を嫌うのは「安心」を得たい要素が大きいと考えます。
嫌おう嫌わざると、人は肉体の死滅に伴って意識を消失します。
そうした当り前の世界の中で私は生かされていると考えています。
ちなみに、私は回答者として善悪では書き込みません。
たとえ参考になってもならなくても、
何か回答があれば安心するでしょうし、
誰かの役に立てるのであればそれでよいと思っています。
・・もっと気軽に気長に行きませんか?
ご回答ありがとうございます。
>世の中には善も悪もありません。
この部分はどういう意味でしょうか。警察も司法も刑務所も存在している世の中です。少し補足していただけ無いでしょうか。
他人という存在が無ければ私という自我の存在はありえないのではないでしょうか。それは白人がいなければ黒人がいないようにです。
自我の全体構造を理解しなければ、そこが浅い部分か深い部分かはわからないはずです。そもそも自我の全体像を探求するものにとって、今立っている部分が浅いか深いかに何の意味があるでしょう。
嫌うことは破壊というよりすでに関係を拒絶することではないでしょうか。人は嫌いな人間と積極的に交流を持とうとするでしょうか。ゴキブリをカブトムシのように飼うでしょうか。
肉体の消滅とともに意識を失うかどうかは確認することはできません。正確には死んでしまうとその人の意識を確認するすべがないということではないでしょうか。私たちは肉体の死は知っているけれども私(自我)の死は知らないのではないでしょうか。
気楽で気長かはわかりませんが、答えがあるかどうかわからない哲学をする人間ほど社会的には暇人になるのでしょう。
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