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どなたか幕末の町奉行の石谷因幡守の詳細について教えてください。
色々調べたのですが、生年や人物、来歴がほとんど分かりません。何か良い資料などもございましたらよろしくお願いします。

A 回答 (2件)

石谷因幡守(穆清)は、江戸初期に五百石の旗本として、北町奉行を勤めた、石谷貞清の子孫でしょう。


1849年から1852年の間堺町奉行、続いて1854年まで大坂西町奉行と、関西系の事務官僚としての履歴をたどった上で、1855年から1858年まで勘定奉行となっています。

1858年に大老となった、井伊直弼とは親しい仲だったようで、同じ年に安政の大獄が開始されると、江戸の治安を司る北町奉行となっています。ただし、1860年の桜田門外の変以降も、1862年まで北町奉行を勤めています。

井伊とは書簡のやりとりもあったようで、リンク先の東京大学史料編纂所による、大日本維新資料についての記述には、そのことについて触れられていますので、このあたりから当たっていくのがいいのではないでしょうか。
ただ、幕末の武士の場合、かなり著名な人物でも、いつのまにか不明になっていたり、来歴不明で急に現れたりすることもあるので、やはりそれだけの混乱期ということで、詳細に跡付けることは、難しいかもしれません。

参考URL:http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/02 …
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この回答へのお礼

石谷貞清の子孫ですか、初期の先祖も町奉行とは面白いですね。300年経っても「家筋」が色褪せないと言う事でしょうか(笑。井伊直弼や安政の大獄とかかわりが合ったんですか、とても興味深いです。確かに町奉行の割には全然情報が見つからないなと思っていましたが、やはり混乱期はそういうものなんですね。 大日本維新資料、探してみようと思います。とても参考になりました。ありがとうございます。7

お礼日時:2007/10/17 10:50

検索してみました。


石谷穆清(イシガヤアツキヨ)
大阪町奉行(嘉永五年(1852)五月十九日~安政元年(1854)五月二十日)
勘定奉行(安政二年(1855)八月九日~安政5年(1858)五月二十四日)
江戸町奉行(安政五年(1858)~文久二(1862))
一橋家家老・西丸留守居(文久2)同年安政の大獄の処置を咎められ免職。

江戸初期の町奉行に石谷貞清なる人物が居るのでその家系でしょうか。だとすれば家系は藤原南家二階堂氏流でしょう。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/isigaya.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%B0%B7% …
『地獄物語』なるものにも登場しているそうです。
http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/db/e_collect/jigok …

これ以上の情報は、穆清の職歴については『寛政譜以降旗本家百科事典』(小川恭一著、東洋書林)で石谷氏の項を引けば載っていると思います。石谷氏については『寛政重修諸家譜』で石谷氏を引いてください。ただし
寛政期までしか載ってません。あとは『国史大辞典』に石谷穆清の項目があるかもしれません。
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この回答へのお礼

寛政譜以降旗本家百科事典ですか、早速探してみます。国史大辞典なら近所の図書館にもありそうですね。地獄物語もかなり興味ある題材なので探してみたいです。それにしても西丸留守居→免職とはなんともあからさまな左遷という感じもしますね。教えて頂いて本当に助かりました。どうもありがとうございました。7
----※)また生没年などもご存知の方がいらっしゃったら、どなたかよろしくお願いいたします。僕自身もアドバイス頂いた資料で色々探してみたいと思います。

お礼日時:2007/10/17 10:59

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