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奈良県に行って平城京跡をみました。なぜあんな何も無い場所に平城京って作られたんでしょうか?高い山があって神々しいとかいう雰囲気もないですし、海からも距離が離れているし、大きい川があるわけでもないしで。盆地になっていて都が作りやすそうな感じはしますが、だったら現在の大阪市あたりでよかったんじゃないかと思ってしまいます。海も近いしで。

A 回答 (8件)

陰謀説がらみもあって、信憑性はいかにな話なんですが、、、



平安時代の前は奈良時代ですよね。
奈良時代は藤原氏の全盛時代。

奈良時代末期、彼らは天皇の血統を天武系から天智系へと以降させようと計画した。
で、、、、話長いんで略してしまいます。 すいません。

とにかく策略により成功したんですが、無罪でありながら処分した人たちの祟りを怖がっていたんですね。
桓武天皇は祟りから逃れるために遷都に踏み切った。

このとき大きく関わったのが、山背派。
彼らは豊富な資金を持っていた。

都を山背派の拠点に移す事にしたんです。
それが平安京のあった場所。

奈良からみたら田舎で盆地で実力を持った豪族がそこに住んでいて、山背国を支配していたのが秦氏集団。
山背に都を持ってくることでお徳をするのは誰か。
秦氏。

遷都プロジェクトを発案したのは桓武天皇。
彼の母親の系列を遡ると百済王氏にいきつく。
百済王氏の拠点は南山背。
ということで桓武天皇も山背派の人間。

最初の遷都において造営長官を務めたのが、藤原種継。
名前の通り藤原氏系列。
彼も山背派。

藤原小黒麻呂。
造営史使の長官も勤めた。
藤原小黒麻呂は藤原氏の北家の人間で山背派のメンバー。
妻が秦氏。その父親は秦氏の中でも有力者だった。
名前を秦島麻呂といい大地主。
彼が平安京の建設に当たって土地も資金も提供した。

これだけバックがついた小黒麻呂。
彼の娘は桓武天皇夫人の一人。
渡来人の秦氏が日本の支配階級に食い込んでいったわけですね。


そういうわけで、資金が提供されたから。
陰陽もあったようですが、その陰陽でいくといい土地に住んでいたのは秦氏だったというわけです。


平安京=エルサレムの日本語名じゃないかって説もありますが、、、
どうなんでしょうね。

平安京
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89% …
これTの文字に見えます?
着物の形だって説があるんですね。着物ってT字ですよね。
ううーん ただの偶然の気もしますが陰陽を重視し配置されたら十字架になったって面白いですね。
T字の十字架も意味があったと思います。
陰陽じゃなく、魔術的なものだったような。
どっちも占いか。
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わぁー難しそうは回答が一杯(^_^;



ちなみに大阪の古地図です。
http://www.pref.osaka.jp/nishiosaka/3kikaku/
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日本古代の宮都が営まれた土地は、基本的には交通の便がいいところです。

このことと、現在の奈良県が大和政権にとって本貫の地であったことから、平城京が現地に営まれたと考えられます。広いところと言うだけが選定の条件ではなかったと思われます。

平城京は、以下の通り、交通の便のいいところです。
まず陸上交通ですが、平城京は奈良盆地を南北に貫く幹線道路である下ツ道を朱雀大路に、中ツ道を東京極としています。現在でも下ツ道のルートは、狭いですが京都方面へ抜ける抜け道として使われているそうです。
また水上交通ですが、平城京には、佐保川と秋篠川が京域中央南端である羅城門前で合流していました。つまり平城京をV字型に川が流れていたと言うことですが、この流れは大阪湾へ注ぎます。このルートは下れば、大阪湾・瀬戸内海・朝鮮半島や中国へと行くことができます。一方上った先の山には、平城京の建物に吹いた瓦を焼く窯があり、材木の採取が行われたと考えられています。つまり宮都造営の面でも、交通路の面でも水上交通は大きな役割を果たしたといえるのです。
(川の位置関係は、平安京でも似ている)

なお平城京は北から南へなだらかな下りの傾斜になっており、排水・地下水の流れがスムースで、かつ天皇の宮が小高い地形におくことができたのも平城京後の地が選ばれた理由だと思われます。
(ちなみに藤原京が捨てられたのは、排水及び天皇の宮が窪地になることが問題の一つでもあったと考えられています)

小難しい話で失礼しました。
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元明天皇が708年に「平城の地に都を遷す」と宣言していますが、その中に「ソレ平城ノ地ハ四禽図(きんと)ニ叶ヒ三山鎮ヲナス」とあります。


つまり、四方を山に囲まれた広い土地という事であの場所を選んだのだと思います。

東大寺・西大寺という名前の通り、都の東西は春日山・生駒山、それぞれの山のふもと近くまであり、南側は現在の郡山市のあたりまでありました。
質問者さまがご覧になったのは、「平城京跡」ではなく、「平城宮跡」・・・つまり宮殿の跡で、都自体はもっと広かったんです。

当時の大阪=河内・和泉・摂津などの海でない所にはすでに渡来人たちがいっぱい住んでいて、都市をなしていましたし、四天王寺や難波宮のある上町台地は遣唐使船の発着する港として整備されていたので、それだけ大きな土地を確保するのは難しかったのではないでしょうか?
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詳しくはないですが・・・地元のものです。


天智天皇時代の白村江の戦いに負けたという事実に注目すべきですね。
九州から瀬戸内海沿いに水城を国力の疲弊も厭わず建設したことから
考えても、当時の天皇達が守りにくい大阪に都を置かなかったことは
想像に難くないですね。

実際、孝徳天皇あたりが離宮として難波の宮を持っていたことから
考えても、そのあたりに首都を作ってもおかしくはなかったのでしょうが、
現実としては選択の余地があったのかどうかですね。

まあ、天智から聖武までかなりの期間があり、大陸からの脅威は
さほどではなかったかもしれませんが。

藤原京が手狭になったので、さらに広い土地に材木を分解して
えっちら、ほっちら、牛にでもひかせて引きずって行ったと
考えるのが素直なような気もします。

一応、平城京も風水=当時は超先進国中国伝来の最新科学により
選ばれた土地ではあったんでしょうけどね。

それから、戦国時代くらいまでは今の上町台地より西側は
泥と葦原だったので、利用は不可能なはずです。難波宮も上町台地上ですし。
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何も無いところじゃないと都市は出来ないです。



特に奈良時代などは、大した土木建築工事技術もありませんから、
川とか山とかがあると都市は非常に作りづらかったのです。
平安京にしたって、出来た当初、鴨川は町の外れでしたしね。

また「大坂」などの低湿地は何かあると水浸しになるうえ、どうしても
湿気が原因の疾病を防げないので、港湾など特殊な目的の街ならとも
かく、当時の大都市には向かない土地なんです。

また、当時の「都市」は総人口と都市面積から考えて、碁盤目の全てに
家が建っていたのではなく、耕作地もまだらに存在していたはずです。
その意味からも、現在の奈良地域は結構都市向きの場所です。

奈良~平安時代の都市と、現在の都市を同じように考えないほうがいい
ですよ。
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こんにちは



それとその当時の決め方は
占いなどでも方向などが決められたりしていたようです
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今の大阪市があるところは昔はほとんど海の底か湿地帯でしたので人が住み難かったですし、知の高い人は奈良に沢山住んでいましたから。



奈良に都があってそこで広く平らな所があったので城というか町を作りやすかったと。大坂にはまだ猿しか住んでいなかった(^_^;

海が近くても、魚は猟師に持って来いと言える権力がありましたから、別に近くにするひつよーも無く。
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