1つだけ過去を変えられるとしたら?

ずっと考えていた事なのですが、頭の中がぐるぐるしてきたので、質問させて頂きます。
まず、タイトルにある3つの言葉の意味(定義)は、以下の通りです。
・偶然・・・何の因果関係もなく予測していない事が起こること
・必然・・・必ずそうなると決まっている事
・運命・・・生まれた時から定まっている、人の運

個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。最悪の場合、命を落とされる方も多いのですが、ここで質問です。

1:こういった場合あなたなら、(生死に関わらず)その原因は「偶然・必然・運命」のどれに当てはまると思われますか?お答え頂けるのであれば、なぜ、そう思われますか?
2:「世の中に偶然はない」という言葉を信じますか?
  具体的に、そう思った出来事などはありますか?

私は、「偶然・必然・運命」というのは、言葉やそれぞれの意味は違っても、もしかして同じ事なのかなぁと思い始めています。偶然が世の中になければ、全ての出来事は「必然的」に起こっている事になりますよね?その「必然的」に起こっている事柄の中にいつもいる私達は、それが「運命」なのでしょうか・・・。
この辺りで、頭がぐるぐる状態です(-_-;)

上手く伝えられないのですが、皆様の考えや意見をお教え下さい。私は哲学の専門家でも何でもありませんので、直感的な回答でも構いません。色々な意見を聞きたいです。

A 回答 (17件中1~10件)

直感的で良いとの事なので書きます。


「起こりやすい事」が「必然」で「起こり難い事」が「偶然」
そして起こってしまった事全てに対して起こった瞬間から「運命」と呼ぶのだと思います。
つまり、飛行機墜落は起こり難い事ですが起こってしまえば「偶然の運命」でしょう。
「運命的な出会い」とは出会いが起きた瞬間であり、その可能性を考えると多くの場合「偶然」が当てはまるかと思います。
甚だ簡単ではありますが、私はこのように考えます。
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この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございます!何度も読み返して、「なるほど」と思いました。簡潔ながら、とても濃い回答です。必然・偶然・運命の解釈も、勉強になります。私が、ややこしく考えすぎなのかもしれませんね(-_-;)

お礼日時:2002/08/30 19:39

偶然=過程


必然=過程から生まれた結果
運命=その過程から結果までの全ての総称

という考え方が私は好きです。
偶然の積み重ねが結果を呼び、つまりそれが必然的であったという事実に変わること。
これを運命とすると私としてはすっきりします。
というか自分はこれで納得できます。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!なるほど、そういう捉え方も出来ますね。私はそのような考えが浮かびもしなかったので、考えても考えても、ずっと「ぐるぐる状態」でした。ちょっと、目の前が開けた感じです。

お礼日時:2002/08/30 21:51

わたしも読んでいてふっと浮かんだ事を答えますね。



>個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。最悪の場合、命を落とされる方も多いのですが、ここで質問です。

1.「偶然・必然・運命」すべてです。
3つはつながっているように思います。
だって、偶然そこに居合わせて、そういう災害にあったら怪我をするのも、死んでしまうのも必然で、運命なんじゃないかなぁと思います。
偶然でもそこにいなければ、死ぬ運命も必然もありえませんから。(逆に、偶然でもその場を逃れれば、助かったのも運命で必然ですよね)

2・偶然はあると思います。
1でも回答したように、偶然がなかったら運命も必然もつながらないと思うんです。

変な回答ですよね・・・。すいません。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!kanoyuさんも、3つは繋がっていると思われるのですね。言葉の持つ意味って何なのでしょうね・・・。あ、また深みにはまりそうなので余計な事を考えるのはやめます。

>偶然がなかったら運命も必然もつながらない
そうですよね・・・。3つが繋がっているとするならば、「偶然」の存在(!?)は必要ですものね・・・。

>変な回答ですよね・・・。すいません。
いいえ、こちらこそ、私の変な質問にお答え下さって嬉しいです。

お礼日時:2002/08/30 21:59

1.必然


 自分としては、何事にもリスクはあると思うので、何らかの行動を起こす時は、そのリスクを承知して行動している。
 事故に巻き込まれたこと自体、リスクを承知しながら、そうゆう選択をしてしまった自分に落ち度があると考える。
 ゆえに、自分の答えは「必然」。

2.信じます
 かつて自分は、運が勝負を左右するといわれる世界に一時身を置いたことがあります。その経験の中で、奇跡的とも言える逆転劇を見ましたし、自分自身経験したことがあります。それは一見、運命が味方した偶然の勝利に見えますが、私はそうは思いません。自分自身の勝利を信じ、勝つ可能性を突き詰めたからこそ手にした必然の勝利であると思っています。
 ですから自分は、「世の中の全てのことは自らの選択による必然」であると思っています。

「世の中に偶然はない」とすれば「人の運命は生まれたときから決まっている」との結論が出そうですが、私はそうは思いません。
 自分は、「運命は自分の選択によって作られる」と思っています。決して未来は決まっていません。

 
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!「うぅむ、なるほどー」と思いました。1に関しては、これも私にとっては新しい考え方で、一理あるかも・・・と思いました。私は常々、人間は何事に対しても、「選択」と「決定」を繰り返していると考えています。vrogさんのお考えは、それにも近いと思いました。

2に関しては、実体験を教えて頂きありがとうございます。
>「世の中の全てのことは自らの選択による必然」
というフレーズも、説得力がありますね。

>「運命は自分の選択によって作られる」
>決して未来は決まっていません
力強く、何だか元気が出そうです。再び、「なるほど!」と思ってしまいました。こういった考え方、ポジティブでイイですね!!

お礼日時:2002/08/30 22:14

●まず つぎのことは言えるとおもいます。


 すべては必然である ←言える可能性はある。
 すべては偶然である ←言えない。

 運命とは 状況を見て過去・現在・未来に対して
 の事象のつながりを各々が形容する言葉であって
 文学的 もしくは宗教的ニュアンスのある言葉だと思います。

●さて 必然とはデジタルな世界です。
 偶然とはアナログな世界です。
 空間と時間はデジタルらしいですが そこに働く
 力はどうでしょう? アナログかもしれませんよね。
 もし 力もデジタルなのであれば この世は
 すべて必然であると言えるし そうであるならば
 すべては運命の上にあることになります。
 分かりやすく言い換えれば 分析可能なのか
 不可能なのかということです。デジタルであれば
 有限ですから 分析可能です。この世にアナログが
 存在するのであれば それは無限に内側に細分化できてしまい
 分析不可能です。
 現在 必然・偶然ということばが それぞれに使われているのは
 物理的に あらゆるものが デジタルなのか?
 アナログなのか? だれもわからないからだと思います。
 いずれ科学の進歩により 全ては必然なのか?
 あるいは 偶然を含んでいるのかの解は示されるでしょう。
 また どのような解が示されようとも
 運命という言葉は 各々が各々の感性で使用するたぐいの
 ことばであろうと わたしは思います。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!偶然をアナログ、必然をデジタルという捉え方は初めて知りました。私にはなかなか高度な内容で、何度も読み返して考えました(^_^;)

「運命」が、文学的・宗教的ニュアンスを持っている事や、各々の感性で使用する類の言葉、というのは私もそんな気がします。

偶然・必然・運命が科学の進歩で解き明かされるかもしれないという発想も私の中にはなかったので、これも新しい発見です。

お礼日時:2002/08/31 12:37

火山の麓に住んでいれば、噴火の被害に遭いますよね?


車が走っているのであれば絶対事故は起こります。
人がいろんな考えを持つ故に争いは必ず起こります。
1.は必然です。「立ち物は転び物」(だったかな?)ってヤツです。
 でも、たまたま急な出張が入り、出発したら家の周りで大災害が起こって助かった。急な出張は必然じゃないでしょう。助かったのは偶然です。
 この場合、偶然=運命と言ってもいいかもしれませんね。

 人は生きているから必ず死ぬ。これは必然で、よく人はそれを「運命」と呼んでいます。

 ということは偶然と必然はあるんです。
 偶然=運命で必然=運命なんですけど、偶然=必然じゃないって事ですね。 
 何かの本で、「地球は偶然、生命が生まれるのに適した距離で太陽の周りを回るようになった」とか、「地球の生命誕生は偶然の繰り返しである」ってのも読んだ事があります。
 また、生物の進化だって、その生物が生きるために必要に駆られて突然変異という「偶然」が起こり、「必然」的にそれが増えて行くんじゃなかったでしたっけ?
 ボクは運命とは偶然と必然が混ざりあった「この世界そのもの」じゃないかと思います。
 
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!
>偶然=運命で必然=運命なんですけど、偶然=必然じゃない

という文章、妙に納得させられました。私の中では、3つ全てがイコールかも?という考えだったのですが、bunzaさんの回答を読んで、違うかも?と思えてきます。また、
>生物の進化だって、その生物が生きるために必要に駆られて突然変異という「偶然」が起こり、「必然」的にそれが増えて行く

というのも、今まで考えた事がなかったのですが、言われてみればそうだよなぁ、と思いました。また、新しい発見が出来ました。

お礼日時:2002/08/31 12:48

まず問題設定がちと詰めが甘いので、混乱しているのだと思います。

(以下引用文はgooの国語辞典からです)

偶然:事象の因果系列に対して、それに含みえない事象または因果的に予測できない事象が生起すること。

必然:必ずそうなると決まっていること。それ以外になりようのないこと。また、そのさま。

で、ここで問題になるのが、「必ずそうなると決まっていること」ってなによ?ということです。なにによってきまっているのでしょう?「因果系列」ですね。もっと簡単にいえば、「因果法則」ですね。つまり、科学的ルールや宗教的ルール、哲学的ルールによって、場合によっては個人の主観に基づくルールによってきまるということになります。つまり、”そのときどきによって決定するルールが違うので、「必然」は普遍的にきまったものではない”のです。
では、「偶然」はどうでしょうか。因果論自体がきまったものではないので、「偶然」の範疇もその時々で変わってきてしまいますね。
つまり、「偶然」v.s.「必然」には、前提として共通するルールがなければ議論自体が崩壊してしまいます。よって、以後の回答はすでに挙げた角度からお答えします。

「運命」ですが、これは他の2つとは次元が違うものです。宗教的、主観的ルールにおいては存在しえますが、これは科学的ルールにはないものです。よって、運命については宗教の研究(哲学はキリスト教前提であることをおわすれなく。)の勉強をしてみるといいと思います。ということで、とばします。

1:「こういった場合」を交通事故による死、と仮定します。
科学的ルール→交通事故による死は毎年コンスタントに出ている。よって、これによる死はさまざまな要素のデータを無視したとしても可能性としては当然あるものです。よってただ単にその交通事故死の1例になっただけで、交通事故死自体は必然。交通事故死の一例になったこと自体は偶然。

宗教的ルール→宗教によって違うのでなんともいえませんが、それまでの行いによって当事者が死んでも当然とされた場合は必然。どう考えても死ぬにはあたらない場合は偶然。

2:「世の中に偶然はない」
偶然が普遍的に定義できないために、この言葉自体が意味をなしていない。
仮にあるとするならば、主観的ルール、宗教的ルールによって決定された因果律によって、すべてが説明できる、という自信の表明程度の意味があるだけ。
まぁ、そう思うこともあるにはあるんですけどね。

結論:共通するルールを決定しない限り、「必然」と「偶然」の対立は存在しえない。「運命」は宗教的、主観的ものであり、「必然」と「偶然」の対立と、必ずしもかかわるものではない。
です。

参考になったでしょうか・・・(汗
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!問題設定の詰めが甘いコトも教えて下さり、感謝致します。

>その時々によって決定するルールが違う
というのも、「なるほどなぁ」と思いました。2つの質問に対する回答も、理解出来ました。私が問題提起した言葉の裏には、「ルール」が存在していたのか!と思いました。

余談ですが、私は哲学に特別な興味もなかったのですが、この件以外にも最近ぐるぐると考えている事柄は、哲学の類のようだ、と気付きました。これをきっかけに、哲学や宗教の本を読んでみるのも、理解を深める手段になるかなぁと考えています。

お礼日時:2002/08/31 13:03

1.すべての現象は、その原因が必ずあって「必然的」に起こります。


全知全能の神であれば、その原因を把握できますが、人間の知能では何が原因であるか分からない事が多すぎますね。その場合、一般には偶然に起こったものとみなされます。しかし、現象の発生そのものは必然と思われます。

2.信じます。

運命とは本来、自由に変更可能なものです。
しかし、最初から定まっていると思っている人にとっては、それは変えられない宿命のようだとも言えます。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!とてもシンプルながら濃い回答で、私にもスッと理解出来ました(^_^;)

>現象の発生そのものは必然
>運命とは自由に変更可能
というnyozegamonさんのお考えは、共感出来る部分があります。

>最初から定まっていると思っている人にとっては、それは変えられない宿命のようだ
これも、そう言えますね。過去に似たような言葉を聞いたのを、今思い出しました。

お礼日時:2002/08/31 13:26

 


存在世界の事象・できごとの生起は、どういう法則によって決まっているのか、というのは、存在世界の側で規定されているのだとも言えるのですが、他方、哲学的には、主観がこの「法則」をどのように把握するか、把握のための「概念」の展開によって見え方・捉え方が違って来るのだとも言えます。

詳論できませんが、事象の生起の「法則」についての主観つまり人間の主体精神の側の「概念の発達」によって、世界の事象生起の見え方が違って来るということです。ここで、「偶然」「必然」「運命」というような、法則概念の前提に、「主体の自由意志」という概念が重要な意味を持つのです。

原始人や幼児がそうである、そうであったと考えられるのですが、初期には、主体の自由意志の発動というものは意識されていないのです。世界の事象の生起は、舞台の劇を見ているように勝手に流れているのであって、自分もその劇に登場していても、自分が何かをしようとして、話やできごとが進行するのではないのです。

こういう捉え方は、偶然でも必然でも運命でもないのです。そこに世界が自分も含めてあって、展開しているという状態です。原始偶然とも、原始必然とも、原始運命とも呼べるのです。

ところが、主体が主体的に、何かを希望し意志し、そのように世界の事象や自己に関係ある何かの状態を、希望の方向へ、形へと展開を望んだとき、展開を意志した時、ここから偶然とか必然という「概念」が成立するというか、主体精神に把握されてくるのです。

「必然」という概念は、比較的、後になって把握されてきます。「自由な志向意志」に対する「抵抗」として、「偶然」と「運命」が把握されるのです。

さいころを投げて、特定の目が出るように意志しても、自由に出る目を決めることができないのです。また、狩猟にでかけて今日は大きな獲物が欲しいと思っても、希望や意志の通りにことが運ぶとは限らないのです。有名大学に入学したいと希望しても、意志の思い通りにはなりません。

このような希望や意志の思い通りにならない世界の事象の生起の法則というか、ありようを体験すると、これを把握・解釈するのに、最初に「偶然」という観念ができるのだとも言えます。入試が成功するかしないかは偶然だと考えるのです。

しかし、意志に抵抗する偶然の事象生起について、そういうことが起こるという事実に意味を見出そうとすると、偶然であるが、それは「意味あることなのだ」とすると、これは「運命」なのだ、ということになります。戦争に勝つも負けるも時の「運」だという把握です。神が偶然のさいころを振って決めているのかも知れないが、それは我々には「運命」であるという把握です。

しかし、事象の起こり方を色々経験し観察もしていると、偶然だと思ったことが、実は、規則性があるということが分かります。例えば、温度や風の具合によって、獲物の収獲に違いが出てくることが分かると、獲物とする動物の行動に、ある規則性があることが分かります。熟練の狩猟者は、こういう規則性を利用して、自己の希望や意志を実現するのです。技術的応用とも言います。

また雨や晴れや暴風などは、偶然に、でたらめに起こったり止んだりすると最初は考えるのですが、そこにまた規則性が発見されます。世界はでたらめに生起しているのではない、という考えが出てきます。起源がよく分からないが、ある「必然」で動いているように思える、という把握をしたとき、「必然」の概念が生まれるのです。

必然は、意志や希望に抵抗することもあるのですが、必然の規則性を利用して、意志や希望を実現することもできるのです。ある季節のある時刻頃には、大風が吹くというのは、必然で、意志では、この風を止めたり、遅らせたりできないとしても、この風を利用して、狩りを有利に行い、獲物を獲得できるというようなことが可能になるのです。

大学の入試は、テストがあって、それである一定の点数を獲得しないと合格できないのです。これは意志に抵抗する必然条件だとも言えます。幾ら祈祷したり、神に祈ったり、「必勝祈願」だとか考えても、必然条件に合わないと、入試には落ちます。

しかし、逆に、試験問題を調べ、その種類の問題を解く練習を繰り返し行い、大学受験塾などで、入試試験問題に対し十分に準備すると、試験で一定の点数を取ることができ、合格できます。点数で合否が決まるという必然法則に対し、意志の技術的応用で、必然があるので、それに準拠して、成功の方法が分かるということになります。

しかし、入試は、合格最低点数があると共に、獲得点数の上位から200人とかを合格にしてゆくという必然システムもあり、ある年度の入試では、獲得点数で合格できたのが、同じ獲得点数の実力なのに、もっと点数を取る受験生がなぜか、入試に加わって、200人の外に押し出されて不合格ということも起こるのです。

入試システムの必然に応じて、可能な準備をして、入試に臨んでも、合格するかどうかは、ときの運、あるいはその年度の偶然によるという事態も生じるのです。

こうして、世界の事象の生起について、「自由意志」への抵抗として、「偶然」と「必然」があり、偶然と必然を技術的に利用して、意志の希望を実現しようとする人間の知恵の展望には、実は、「未来の成り行きの先取りヴィジョン」というものがあるのです。

システムの「必然性」は、未来のヴィジョンを築くのに有効なのです。こうすれば、こうなるという必然法則・因果法則があれば、未来がどうなるか予測できるのです。しかし、偶然という要素が、予測を不完全にします。偶然はさいころを投げるようなことで、結果がわからないのです。

ここで、未来のヴィジョンを前もって展開できるという人間の未来展望能力から、「未来と時間経過の結果」についての、「背後に隠れている構造」を構想した結果の「把握態度・構想態度」という精神の態度が出てくるのです。できごとの生起について、「楽観的」か「悲観的」かというような態度がありえるでしょう。

結局、あらゆる知力、知識を尽くして、未来を予測しようとして予測できないとき、未来に対し、「すでに定まっている」という把握態度を取るか、「定まっていない」という把握態度を取るかです。これは、知識を超越した次元での世界の隠れている構造要素・原理が問題となっているのです。

この把握態度と、「意志の能動性の態度位相」というものが交錯すると、未来展望に幾つかのヴァリエーションが出てくるのです。「既定+能動意志」の場合、能動意志を含めてすでに決まっている運命である(積極的運命従属)。「未定+能動意志」の場合は、決まっていない未来を、意志で切り開こう(積極的運命開拓)。「既定+消極意志」では、運命の前、なすすべもない(消極的運命従属)。「未定+消極意志」では、未来は分からないので、なるようになるしかない(意志放棄運命従属)。

>個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。

1)「巻き込まれた」という限りは、「偶然に巻き込まれた」のであるが、巻き込まれた事実において、それは「必然」である。ただし、予見でき回避できた場合は、「必然」とは言えないでしょう。回避しようと思ったが、偶然巻き込まれたか、回避の努力も空しく巻き込まれた、という場合、「必然」ではないでしょう。巻き込まれざるを得なかった場合、必然です。

それを、「運命」とするかしないかは、或る意味、意味のない問いとも言え、未来が既定の場合も、未定の場合も,両方とも、そういう運命だという把握は可能なのです。「運命などない」というのは、意志によって運命を切り開けるというヴィジョンです。

従って、この問いの場合、それは「運命」であった、ということになります。人生のあらゆるできごとは、偶然も必然も含めて、運命だと言えるからです。

2)「世のなかに偶然はない」ということはありません。偶然が一杯あります。さいころの例になりますが、さいころを振って出てくる目が、何であるか、神か悪魔か天使が、一々決めているとは考えがたいので、偶然で決まっているとするのが自然でしょう。

ただし、人生のヴィジョンにおいて、人間の意志や知恵や策謀を超えた彼方で、何ものか人知を超えた法則で、人生の運命は決まっているという展望をした場合、「世のなかに偶然はない」ということになります。これは、そういう事実・事態が「ある」というより、人間の側の認識・把握の問題です。

「世のなかに偶然はない」ので、それゆえ、何を試みても無駄だという考えにもなれば、そうであるが故、運命を切り開いて、未来を切り開くのだ、という考えにもなるのです。

「偶然はない」ので、意志しても、定まった運命は変わらないとも感じられれば、「偶然はない」ので、意志すれば必ず道は開かれる、失敗した場合は、努力が足りなかったのだ、と両方出てくるのです。

人生について、偶然、必然、運命というようなことを考えると、先に述べたように、予測・予見できない次元でのありようが問題になってきて、それをどのように見積もり、意志的に展望するかで、偶然、必然、運命というのはぐるぐる回って行くのです。

一切は必然だと展望すると、そのように展望した世界の運命は、何ものかの気まぐれによる偶然に支配されているとも考えられ、更に、そのような何ものかの気まぐれも、また必然で、偶然ではないのだ、という風に、幾らでも、予見できない次元の決定項について、偶然と必然を入れることができるのです。

わたしは、「運命を切り開くことのできる人間」というヴィジョンが好きです。わたし個人は、力尽きて倒れようと、人類は、その運命を切り開き、星々の未来へと到達するであろうと、展望しています。逆に言えば、経験として、わたし自身について、自己の運命を切り開くのは難しいと痛感しているということです。

しかし、どこまでも希望と意志は持ち続けて行きたいと思っているのです。
 
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。具体例をいくつも挙げて詳しく回答頂き、感謝致します。

asterさんの回答の中で、「主体の自由意志」「概念」という事について初めて考えました。ちょっと難しい部分もあったのですが、偶然・必然・運命に関して、少し理解が深まったように感じています。

私も、「運命を切り開く」という言葉自体が好きですし、そういう人間になりたいです。希望と意思を持ち続け、運命を切り開いて行きたいですね。哲学も、ちょっと学んでみたい気分です。

お礼日時:2002/08/31 13:40

●まず 人間の精神は必然です。


 その構成要素である ニューロン・電流・時間が
 すべてデジタルである可能性が高いからです。
 つまり きまぐれで何かを行っていても そうする
 脳内の処理は ちゃんと決まっているということです。

 さてサイコロの出目については どうでしょう。
 構成要素の力というものが アナログな可能性が
 ありますが 実際に動くサイコロも空間も時間も
 デジタルなわけですから 実質的には
 サイコロに与えられたモーメント・ベクトル・
 ころがるテーブルの表面の状態などすべてが
 分析可能な範囲にあることが わかります。
 したがって サイコロの出目は必然であると言える
 可能性は 高いと思うのです。 ただし サイコロに
 あたえられた最初の力が アナログであったならば
 空間の最小単位を進むのに そのアナログをどのように
 デジタルに置き換えるのか?という疑問はのこります。
 その点に於いて 偶然を含む可能性も否定できません。
 わたしの感ですけれども サイコロの出目は たぶん必然だと思います。

 人間の精神は 宇宙の摂理の部分集合でしかなく
 映画「アキラ」のアキラのように たとえあたらしい
 宇宙を作れたとしても それすら宇宙の摂理の中の
 できごとなのです。人間がどのように あがき苦しみ
 もがいても 所詮宇宙の摂理のなかの必然にすぎません。
 もし 宇宙の摂理をこえた「モノ」を作りだせたなら
 そこに偶然は 存在する可能性はあるとおもいます。
 また「究極の運命」を変えれる可能性はあると思います。
 しかし いまだそれができた人はだれもいません。
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この回答へのお礼

再びの回答、ありがとうございます!私には、アナログ・デジタル、という捉え方がまだ難しいのですが、全ては「宇宙の摂理の中の必然」という事でしょうか。うーん、なるほど・・・。

お礼日時:2002/08/31 13:44

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