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唯心論と唯物論の論争には決着が付いていないのでしょうか?
だとすれば今はどちらが有力ですか?

A 回答 (3件)

 


>唯心論と唯物論の論争には決着が付いていないのでしょうか?

哲学的には、このような形而上学的問題に決着は付きません。少なくとも人間の精神や認識のありようが、カントの述べたような構造であれば、決着がついたというのは、独断になります。

どちらかが正しいというのは、信念あるいは信仰の問題になり、自然科学の提示する世界のありようを、そのまま実在のありようと考える人は、唯物論の立場に立っているとも言え、また、素朴には人は、唯物論の立場に立っていますが、また呪術や宗教などを信じている人も多数おり、一般的に、自然的に世界を考えている人たちは、ある面では唯物論的に見え、別の面では唯心論的に見えます。

唯心論と唯物論というのは、世界の基本実体、根本の実体は、観念・精神か、または物質・物体実在かという世界の根本実体をどちらに考えるかの違いです。精神や観念の存在や現象、あるいは物質や物体の現象、存在を、唯心論でも唯物論でも否定するものではありません。

世界には、物体や物質があるが、しかし、観念・イデアー・形相・精神もあり、根源的で原理的なのは、後者の方で、物質や物体の存在・現象は、精神からの二次派生だとするのが、唯心論です。

この逆に、精神や観念、心や意識の存在・現象は認めるが、それらは、根源の物質の二次的派生であるとするのが唯物論です。

唯心論と唯物論の対立はまた、認識論的には、観念論と実在論の対立と考えられます。唯心論は観念論とほぼ同じ意味を持ちます。ただ、観念論に対する認識的立場が「実在論」というのは、言葉が少し不適切な気もします。というのは、観念論は、精神・観念を実在としているのであり、実在論が実在としているのは、観念や認識過程の彼方の物質現象の実在だからです。

スピノザの哲学は一元論とされますが、それは彼の哲学は、「神=自然」を根源実体とする哲学で、物質と精神は、神の属性あるいはモード的現れの二つの位相だと考えられているからです。スピノザの神は、物質でもあれば精神でもあるのです。

スピノザの哲学で、唯心論と唯物論の対立は解決したのかといえば、解決はしていないのです。スピノザの物質は、「延長実体」であり、延長実体の認識が超越的にいかにして可能かということは問題になっていません。

物質・延長実体のありようが、認識のなかの精神の把握と、どうして一致するのか、スピノザの考えでは、両者は神=自然の二つの位相であるので、一致しているのが当然であり必然であるということになります。ただし、こういう構想がどう根拠つけられるのか、スピノザの神秘的直観が基礎付けるとも言え、また彼の目的は、「必然の倫理学」を構成することでしたから、その一元論は唯心論的な方向に偏っているとも言えます。

しかし、世界の概念や存在は、感覚経験の蓄積の組織化で成立し、感覚外部の実在については、不可知であり、実在も疑わしいという英国経験主義に対する、スピノザやデカルト、ライプニッツの哲学は、大陸合理論の名がありますが、唯物論に比較的に近いとも言えます。

「唯心論」は「観念論」とも言います。プラトンの哲学は、感覚的実在、つまり物体や物質の存在は認めるのですが、精神や観念・イデアーもまた実在であるとし、世界において、根源的であるのは、感覚的物体ではななく、直観が把握できる精神・概念・イデアーであるとします。それゆえ、プラトンの哲学は、観念論、唯心論だと考えられます。

中世スコラ哲学のなかで盛期スコラ哲学のトマスの哲学では、存在物(レース)は、「質料+形相」の「合成実体」であるとされます。質料(マテリア)とは物質だとも言えるでしょうし、形相(フォルマ)は精神だとも言えます。世界について、すべてのレースは、合成実体であるとして、それらを支え、存在を与える者として超越者の神を考えたのです。

これは二元論を一元論に上昇させたもので、唯心論と唯物論が統一されているのだとも思えます。しかし、形相とは何かというと、性質を与えるもので、それは本質(エッセンティア)であるとされます。本質のない質料存在はあるのかというと、最低の質料実体として、ヒュペケイメノン(基体)というものを考えました。

ヒュペケイメノンに何かの性質つまり形相が加わって、「何かのもの」が成立するのです。すると、根源の物質とは、何でもない何か、だとなります。すべての形相を備えているもの、というより、最高の形相を持っているもの、最高の形相そのものを、純粋形相と呼び、これが「神」であるとします。

純粋形相である神は、物質・物体が、何かであることの本質の形相を与え、更に、「存在」まで与えます。これは唯心論ということになります。

唯心論あるいは観念論の緻密な体系的哲学は、ドイツ観念論哲学で成立するのですが、カントは、「もの自体」の存在はあるとしました。ただ、それが何か認識できないということです。カント以降の哲学者は、「もの自体」も観念であって、実在はないという考えを提示しました。ヘーゲルは、精神が自己展開しているのであるとしました。

これに対し、近代の科学者・技術者は、物質の実在は確実であり、物質こそ、世界の根源的な実体で、精神や意識や認識や概念などは、二次的派生ではないのかという考えを持ちます。彼らは、唯物論を提唱します。

なかでも、もっとも体系的かつ多くの賛同者を得たのは、マルクス主義唯物論で、弁証法的唯物論とも呼ばれるこの哲学では、歴史上の多数の観念論との対決ということを鮮明にしました。彼らは、古代のギリシアの自然哲学者たちや、ローマ時代のルークレティウスの哲学は、唯物論であるとし、プラトンの哲学はイデアリズムであり、観念論、唯心論であるとします。

中世哲学も無論、観念論であり、ドイツ観念論哲学がそのもっとも体系的な学説であるとし、ヘーゲルの哲学は逆立ちしているとします。弁証法的唯物論は、スピノザの自然観に似ています。スピノザが神と呼んだものを物質と呼び、精神を、物質の二次的派生とするのが、弁証法的唯物論です。

人間の「生」が、従来考えられていたものよりも遥かにダイナミックで本質的な意味を持っているとする哲学は「生の哲学」と呼ばれますが、「生」を物質と精神のどちらに位置付けるのか、弁証法的唯物論は、この哲学を観念論,従って唯心論に入れます。

現象学や実存主義哲学、論理実証主義やプラグマティズムなどの哲学思想が生まれ、構造主義やポストモダニズム思想も、その後、展開しました。これらは観念論の様相を持ち、唯心論のようにも見えます。

しかし、現象学は、観念論を志向していたのでありませんし、「ものをものとして把握する」というのは、従来の唯物論、唯心論の考えとは少し異なるところがあります。

弁証法的唯物論は、形而上学を観念論の哲学とし、自己はその反対の位置にあり、「科学的社会主義」を標榜しました。しかし、この唯物論の根本テーゼは、上空飛翔的と言われるように、形而上学的命題に他ありません。

唯物論か唯心論か、という問題の立て方が、実は形而上学での議論なのです。現象としての物質と精神は、誰も疑わない訳で(疑っている人も,実は大勢います。英国経験主義のバークリーなどは、明らかに物質の存在を疑っていました)、どちらが、世界において「根源的な原理か」という問いかけ、排他的選択は、実は形而上学的態度なのです。

二十世紀の哲学は、十九世紀のニーチェを先駆者として、形而上学を克服する、あるいは、この枠組みに囚われない世界の把握を考えました。二十世紀末のポストモダニズムでは、形而上学を否定し、現象の多様性や、「構造性」「機能性」が大きな関心事になりました。

>だとすれば今はどちらが有力ですか?

唯心論か唯物論かという排他的選択問題は、形而上学の問題であり、その答えはないのです。一般の人や自然科学などに携わる人は、物質が根本であるというようにも考えつつ、他方、精神の根本性も生活の別の位相では考えています。

哲学的問題としては、弁証法的唯物論の古い哲学者は、唯物論の優位性を主張しているでしょう。また、古い哲学者は、唯心論の優位性を主張しているかも知れません。しかし、精神の実体と物質の実体というような対立構造を置き、どちらがより根源的かというような問題は、興味が失われたのだとも言えます。そういう対立の歴史そのものを、懐疑すると共に、実体よりも機能の問題として、精神や物質も捉えるようになったのが現代哲学だとも言えます。

以上は、わたし個人の見え方・考え方です。その限りで「自信あり」にしますが、哲学史的な正確さというのは、分かりません。
 

この回答への補足

大変勉強になりました。ありがとうございました。

補足日時:2002/09/10 01:09
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神様は目的を持ってテロを行なわしたのじゃ。

空爆も神の意志じゃ。
神は生け贄がたーくさん必要なのじゃ。なんとも食いしん坊な神様じゃて。
下のレスは,スピノザの神を言いたいのじゃろうが,所詮,キリスト者じゃ。アインシュタインの真似は,そう簡単にパンピーができるものではない。黙って,キリストを信じないから救われそこなうんじゃ。
心は,いわゆる物理現象(あらゆる脳細胞の量子状態の重ね合わせ)の一種じゃ。その物理現象を調べるのも脳が行はなければならん。ここが,痛い所じゃ。
宇宙を作った神を創った神を造った神様は,実はわしじゃ。わしが,五分前に…
ご,ごっほん。よって唯脳論が一番堂堂巡りに適している屁理屈の一種じゃ。(抵抗勢力?)
どっかで読みかじった物理学の知識は,トンデモさんになりやすいので要注意のこと。
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アインシュタインのE=MC2というのがありますよね。

これ
は、質量はエネルギーを持っていると同時にエネルギーは質量
を作り出す力をもっていると言い換えることも出来るのではな
いでしょうか?私の勝手な想像ですが・・・。

ですから、神が宇宙を創造したときに、目的性を持った心情的
な動機を中心としてご自身のエネルギーを作用させたとすれば、
そこに目的性をもった波動、粒子が生成され、素粒子が形成さ
れるであろうことは、想像することができなくはないですね。

つまり、素粒子は、原子形成の目的のため、原子は分子形成の
目的のため、分子は細胞形成の目的のため・・・というように、
全てが目的性をもった連帯として存在しています。ということ
は、目的性・法則性の背後には、何らかの意思を認めざるを得
ず、その意思に従って、方向性が定められたエネルギーがさま
ざまな質量を構成していると推測できます。従いまして、唯心
論と唯物論は、心と体の関係同様に、原因と結果、主体と対象
の関係であり、それが、現象化した世界では、2元論的に扱わ
れたりしますが、神の次元まで遡れば、それぞれは、神の属性
として統一された一元論として存在していると考えられます。
エネルギーは目に見えませんが、質料の元になるのですね。
ゆえに唯心論でもなく、唯物論でもなく、本質的には、唯一論
であり、両者は心と体の関係であり、どちらも必要なものなの
であります。つまり、勝ち負けは無しであります。
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