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自分は人生の半ばを過ぎております。すでに下り坂に入ってきている。そこで、いままで見聞したり練習したり訓練したり追及したり刺激を受けたり、いろいろ経験してきて、かなりのインプット自分に与えたものだと感じます。その結果、少なくとも若いときにはおぼろげにしかわからなかった感覚が、もっとくっきりとおそらく確からしく思われるまでになったことが多いです。自然科学人文科学の断片的知識とか、人間心理とか、スポーツを練習した結果のコツとか真髄とか、芸術の本質とかさまざまなものが、ある程度の確からしさを持って自分で把握できます。

また、自分の能力についても、若いときまるっきりだめだった(英才教育など受けていないので物心つくまでになにかこなせるようになっていたわけでもなかったので)のに、訓練によってつくものだなという感覚があり、自分自身の可能性というものにも一種の感動を覚える(もっともこんな低いレヴェルで感動しているようでは先が知れていますが)外国語能力とかスポーツの身体的動きとか、よくもこんなことできるようになったなという気がします。

そういう、いろいろなインプットで総合された、悟りのような感覚というのが、どうも感動的であると同時に、その背後に広がる世界の広さを感じて、恐ろしい感覚があります。天才のやることはすごい、でもその一端を垣間見る私という凡人は、そういう深みに対する恐ろしさがある、そういう恐ろしい感覚というのは、人間の成長に伴って付きまとうものなのでしょうか?本当に天才ならば、そんなのへの河童だといって、どんな真髄を見ても動じないのでしょうか?そんな、感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心を持っていてはだめなものでしょうか?

A 回答 (7件)

若輩者ですが、よろしくお願いします。



確かに、天才の残した作品や、長年の歴史に裏打ちされたものは、非常に感動的です。私の場合、哲学史や美術史に、特にそういった感動を覚えます。

多くの作品は、同じ人間が作ったものであり、究極的には理解が可能なものです。本当に理解不能なものは、作った本人も議論をまとめ切れていないのか、精神を病んでいる人が作ったのか、意図的に意味不明にしているのかの、いずれかです。まあ、統合失調症やその他の精神の病気の人が描いたアートには、時として、非常に感動的なものもあるのですが。

どんな天才も、感動する心を持っています(自閉症の数学的天才は除外しましょう)。哲学者カントはルソーの素晴らしさに圧倒され、規則正しい時間帯に散歩をする習慣を忘れ、ルソーに読みひたってしまいました。若い頃のヘーゲルはフランス革命のニュースに狂喜し、自由の木を植えました。晩年になってからも7/14(バスチーユ襲撃の日)は世界史上で最もめでたい日だと言って、晩酌をすることをやめなかったそうです。

感動する心を失ってはいけません。また、恐れる必要はありません。人間、無限の時間があれば、どんな天才の作品も、世界の真実の姿も、理解できるはずです。ただ、時間が有限なだけです。
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この回答へのお礼

たいへん実のあるお話ありがとうございます。天才も人間であり、感動もあれば恐れもあり、その底が非常に高いのだということなんでしょう。カントヘーゲルの話にフランス革命とか啓蒙派が絡んでいるのは面白いし共感できますね。民主化ということは天才にとってもうれしいことなんでしょう。

お礼日時:2007/11/17 19:45

 わたしも、フォン・ノイマンの業績とかを見ると、「ああ、この世には、ほとんど人ならざる人がいるのだなぁ」とどこか恐ろしい気分に陥ります。

質問者さまの質問は質問の呈をなしていませんが、その感覚はなんとなくわかるような気が致します。
 我々は訓練によって、おそらく人類の99%ができないであろうことを難なくこなせるようになる感動を味わうことができる。それは同時に人類のうちの99.999%は、おそらく逆立ちしてもノイマンのような人にはかなわないのだろう、という限界を提示し、そのことに対する絶望をも与える。その両方の感情が同時に押し寄せてくる。そういった事実は確かに、我々になんとも言えぬ戸惑いを与えますね。
 ノイマンは、世界最初のコンピュータとの計算勝負に勝ち「俺の次に頭の良い奴ができた」と言い、ナッシュ均衡の論文を見て「くだらない」と一瞥したそうですね。とてもではないけれども、我々と同じ人類とは思えない。
 その戸惑いをいかにして処理すべきなのか。その戸惑いをどう考えるべきなのか、ということは凡人である我々にとっての尽きないテーマであるという気はします。

 おそらく質問者さんより遙かに若輩者だと思いますが、二冊の本の推薦を持って回答に代えさせていただきたいと思います。

1.スティーブン・ピンカー『心は「空白の石版」か』上中下巻
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81 …
 人間の能力が遺伝的なものか、環境的なものか。この論争がどのような形で受容されてきたのか。認知科学者が手際よくまとめたものです。

2.アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』
http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E6%9C …
 超有名なので既読かもしれませんが、もしお読みでなければどうぞ。圧倒的な能力の差、というものが半分のテーマになっています。
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この回答へのお礼

本を薦められたのですが、ちょっと読む気力がないかなと感じています。しかし、天災の力っていうのは、本人にとって普通なのでしょうが、凡人にとっては困ってしまいますし、驚愕に耐えない。お互い精神に悪いでしょうね。

お礼日時:2007/11/19 08:45

色んな方がいるんですね~。


わたしは天才にはなりたくないです。そこまでの自由度を背負うのも受難だし 恐ろしく孤独な可能性があるし。
>感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心
少なくともこの心があるうちは自分を楽しんで生きていけるじゃないですか。「背負い水」っていう言葉ご存知ですか?

人が生まれたときに、自分の一生の間に使う分の水を背負って生まれてくる、自分の分というものを持って生まれてきている、分というものを大切にして生きなさいということですが
背負い水が枯れないうちは生きていけるじゃないですか。
何も感じない心になって生きていくのはほんとにしんどいと思います。

深みに恐ろしさや好奇心を感じて生きていけるのはメンタルにも均整がとれ、人間として知性を発揮してるということでベストな状態のように思われるのですが。うらやましい話だと思います
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この回答へのお礼

天才は孤独でしょうね。よっぽど気晴らしがあればいいんですが、自分のレヴェルに誰も達していないという寂しさというかもどかしさは、実は精神の毒なのでしょう。逆に何も感じないで生きるのもまたつらいでしょう。今度は周りと折り合おうとしても折り合えない。塩梅がいいという常態が一番でしょう。

お礼日時:2007/11/19 08:43

[感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心を持っていてはだめなものでしょうか?]


[感動しやすいとか恐れやすいとかいう軟弱な心を持つ」のでよいのだと思いますよ。ただ定点を持てばその定点から「不動心」を得ることはたしかですけど。
天才と狂人、月とすっぽん、天と地、光と闇、これらはすべて対比語ですが殆どの人はこれらを紙一重と見てしまうのですね。特に人間観察にかかわる部分では間違いやすいですね。その人間の思考の奥に広がるものが月なのかすっぽんなのか、あるいは光の世界なのか闇の世界なのかの識別が難しいからですね。だから畏敬や感動と同時に恐れがあって当然ですね。認識力というのは、どこかに本人が信じる定点(世界観)をもって観察することですが「一般常識」という定点観察では怖いものがありますね。「私は・・・を信じる」の信じるを何に置くかできまりますね。例えば、釈尊は「私の会得した認識を信じる」を定点にしましたが普通はそうはいきませんね。定点つまり認識力は悟りですからより高い悟りを目指すしかないんでしょうね。 参考程度に
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この回答へのお礼

自分を確立して、不用なあるいは過度な感動恐れなどをもたないことが、精神の健全化にはよろしいですね。おっしゃるとおりだと思います。

お礼日時:2007/11/18 07:48

質問者さんの感じるままでいいと思います。


天才だから全てが正しい訳ではありません。
本当に物事が分かるとはその奥に何かあると感じることです。
これが出来ないようでは天才と言われている人でも表面的な部分しか見えていないと言う事です。
学問でもスポーツでもその道を究めるとは終わりの無い探求です。
探求が終わればその人はそこまでです。
常にその奥にあるものを感じられる事が本質を見ようという事に繋がると思います。
感じられなければそこで終わりですから。
そういう点では質問者さんは本質を見ようとする能力があるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

探求、それこそが確信であるかもしれません。はっきり言って、答えはないんですね。流動的な確からしい事はあっても確信はおそらくない。だから探求に陥っていく。感じられることは大事だと思います。

お礼日時:2007/11/13 07:13

天才でなくても、それは訓練で身に付くものだと思います。


上澄みしか知らないのでは、ご自身の中で世の中はその程度で
終わってしまうのかも知れません。
半ばまで色々なことに挑戦されてきたことは素晴らしいですが、
支えになる基軸を持たれて来なかったように感じます。
今はご自身の見つめて来られた人生を、
より深める時期に来ておられるのかも知れません。
自ら深みを知れば、自ずと軟弱な心をも許せるでしょう。

インドには四住期という考え方があります。
まず人は学ぶ時期を過ごし、次に家庭を築く。
そしてそこから引退し、更に自らを高める旅に出る・・。
それが素晴らしいとされる人生の在り方なのだそうです。

この回答への補足

回答者の皆様には後ほどお礼を書きます。

補足日時:2007/11/09 17:02
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たいしたことはありませんが、私なりにやってきた総括をして、ちょっと意識を明るくしたいです。春夏秋冬的なたとえは多少無理がありますが、そう考えるとなめらかです。

お礼日時:2007/11/10 09:44

ある程度の確かならいいと思います。



善悪の加減、強弱の加減もできるので。

でも、反面、出ることも出来ません。
臆病になるとも、
若造がすみません。
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この回答へのお礼

逆に、確信がもてるので臆病じゃなくなるんですよ。若いときは出る杭は何とかという心持がありましたが、それは結局物事に暗いからなんですよね。

お礼日時:2007/11/07 23:44

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