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こんにちは。
高2のflankです。

いま、世界史でオスマン帝国のあたりを勉強しています。
そこの、スレイマン1世のところでイェニチェリがでてきたのですが、
なぜ、イェニチェリにはキリスト教徒を使ったのでしょうか?

イスラム教のオスマン帝国ならイスラム教の人を使えばよかったと
思うのですが・・・。

返信よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

イエニチェリは、皇帝に使える奴隷戦士です。


奴隷と言いますとアメリカにおける黒人奴隷を想像してしまいますが、イスラム圏での奴隷は、全く異なり、イスラム圏で出世するためには、奴隷になる事が、最も確実な出世方法でした。
イスラム圏での奴隷は、主人の代理としての権限を持ちます。
場合によっては、大臣や総督、貴族になる事も可能でした。
その代わり、主人への徹底した忠誠を求められました。
主人に見捨てられたり裏切った奴隷は、惨めな最後となります。
そのため、奴隷は、主人に対し徹底した忠誠が求められ、その代わり栄誉や利益が主人から与えられます。
一方一族の者は、相続順位が確立していない事もあり(実力のある者が支配者となる原則があった)、信頼できる家臣ではなく、スキを見せればすぐに裏切りかねない人達でした。
そのため、主人が心を許せるのは、奴隷達だけといった状況でした。

そのためイエニチェリは奴隷ですが、皇帝の近衛隊として戦争に投入されました。
近衛隊ですから、最前線に配属される事はほとんど無く、他部隊に比べ損害も少なく、追撃などに使われたため、手柄や栄誉を手に入れ安い部隊でした。

イエニチェリとして、キリスト教徒を利用したのは、イスラム教徒に比べ利権にかかわっていない事があげられます。
皇帝の近衛隊として近くにいる者が、皇帝の敵対人物の近親者であったり、敵性人物と関係の深い人物であると、寝首を掻かれる可能性があるため、それを避ける意味がありました。
また、キリスト教徒から改宗させ育てる事により、キリスト教世界からも切り離す効果もありました。

また、初期のオスマン=トルコでは、キリスト教社会、特にビザンツ帝国に憧れる面が有ったように見えます。
そのため、首都もブルサから東欧のアドリアノプール、コンスタンティノープル(イスタンブール)へと移しています。
その中で、皇帝の身の回りには、キリスト教圏の奴隷が多く存在するようになります。(文官や女官も)

また、トルコでは、キリスト教徒のイスラムへの改宗は、極力行わせない方針で臨みました。
そのため、トルコの進出により勝手にイスラム教徒となったボスニア人に限っては、キリスト教徒とみなされて統治されました。
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皇帝直属の軍隊は、皇帝個人にのみ忠誠を誓うという意味で、すべて奴隷でした。


あるいは、軍隊は兵隊になる人間を「購買して」一生涯生活を保障するという意味でも皇帝の私的財産という意味で、奴隷と言うしかありません。
皇帝の直属軍を奴隷をもって構成するのは、オスマン帝国独特の制度ではなく、当時のイスラム圏においては通常の行為です。そもそもトルコ人自体が、奴隷として軍人にするために中東地域に移民(?)してきた経緯があります。
一般的な奴隷という意味と違うことに関しては、そのものずばりインドの奴隷王朝に関する下記の説明をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7% …
上記にもありますが、エジプトのマムルーク朝も、軍人として奴隷になったになりマムルークと呼ばれた人々が王様になったのでマムルーク朝と言われています。

オスマン帝国の場合、現在の東欧圏が主要な支配範囲であり、初期の奴隷供給が戦争に敗れた人々(=キリスト教徒)であったことから、すんなりとキリスト教徒が皇帝の私的軍隊の中核になっていきました。
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オスマン帝国がイスタンブール周辺に誕生し、その後帝国を広げて


いく訳ですが、当時周辺にはビザンツ帝国の領民であったキリスト
教徒が多くいました。
イスラムを国教とするオスマン帝国にとって、彼らキリスト教徒の
処遇は「皆殺し」「追放」「改宗」の3つしか方策はありません。

「皆殺し」の場合、強い抵抗にあうし、他のキリスト教国家の反感も
ありえます。それに、キリスト教徒たちは教育を受けて高い知識を
有する者が多く農業・建築技術に長けている人材が多かったので、
「皆殺し」は得策ではありません。
「追放」だと、国外で反オスマン勢力を組織する可能性が高い。
結局、「改宗」させて帝国内に取り込む方策をとりました。

その手順として、キリスト教徒の親もとから子供だけを連れ出し
イスラムの家庭や農場で働かせて、時間をかけ丁寧にイスラムに
改宗させていく方法を実行しました。

その結果、イスラムや帝国や皇帝に強い従順な意思を持った人間が
出来上がったのです。
彼らは、純粋培養で育ったので向学心に富み連帯感も相当なもでした。
彼らを兵士にしない手はありません。
こうして、イェニチェリが誕生します。

「イェニチェリをキリスト教徒から作り上げる」という思考ではなく
「キリスト教徒出身の子供をイスラムに教育したら、イェニチェリに
なれた」というのが正確な表現です。
つまり、「思いもがけない産物」だったわけですね。

その後イェニチェリの有効性を知り、積極的にキリスト教徒からの
イェニチェリ編成が行われるようになったわけです。

帝国が東欧に進出するに従って、「材料」のキリスト教徒はいっぱい
いましたしたから、無理にイスラム教徒から引っ張ってこなくても
よかったのです。
それに、イェニチェリ同志の連帯感は相当なものですので
既存のイスラム教徒は入りづらかったようです。
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イエニチェリは全てイスラム教徒です。


キリスト教徒の少年から選抜しイスラム教に改宗させて、スルタンのみに仕える有給の近衛軍団を形成していました。

彼らは家族を持つことは許されませんでした。 これは戦意が減少する事を防ぐためです。
このようなシステムでしたから彼らは戦場で勇猛に戦い、重要な局面に集中投入され、勝利に貢献する事がおおかったのです。

少年時代から戦闘訓練だけを集中して施された為それ以外の事に無知でした。

オスマントルコの軍隊は多くの種族からなる混成軍で必ずしもイスラム教徒だけで編成されていた訳ではありませんでしたからスルタンは近衛兵だけは純粋なイスラム教徒からなるイエニチェリを身辺においたのです。
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イエニチェリはキリスト教徒の子供をまだなにもわからない小さい頃につれてきてムスリムとして徹底的に教育し、スルタンの忠実な近衛兵としたものです。


同じムスリムの子供をそのように扱うのはイスラム教の教義上からも問題りますので、異教徒のキリスト教徒の子供をつれてきたのでしょう。
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