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前から不思議に思ったんですけど、どうして武田は北条氏の介入を予測できなかったのでしょう。それとも、北条と戦ってまでもという決意で駿河に侵攻したのでしょうか。

A 回答 (3件)

完全な推測ですが、武田の真の目的は、上洛ではなく関東制圧であったのではないかと思っています。


つまり真の敵が北条で駿河侵攻は、側面の支配を固めるためだと。

信玄としては、「織田・徳川との同盟で背後を守り、駿河を支配する事で甲斐の南方を安定化させて、関東進出をはかる」といった構想があったのではないかと。
織田は、一向一揆などとの抗争で勢力を伸ばせないという事も考えて。

当時の武田家としては、上州方面で北条と対立を抱えていました。
特に箕輪城周辺の支配権をめぐっては、同盟関係よりも敵対関係といった状況になっていました。
管領上杉の勢力が上州から消滅した段階でこの上州の支配権争いが、北条との対決を決断させてもおかしくありません。
また武田の本拠地甲府と北条の本拠地小田原は近すぎて、相互に奇襲を受ける可能性があった事も関係しているかもしれません。

実際はどうなのかは分かりませんが、そういった空想をめぐらすのも歴史の楽しさだと思います。
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この回答へのお礼

信玄の狙いが関東だったとは想像してませんでした。てっきり上洛しか頭にないと思ってましたから。確かに、将来敵となる可能性があるならば早いうちに叩いておいた方がいいかもしれませんね。事実、屈服はできませんでしたが、同盟関係は復活して信玄は上洛に専念できるようになりましたから。

お礼日時:2007/12/26 12:25

 あくまで推測になるのですが・・。



 武田家と北条家は同盟を結んでいました(今川を含めた三国同盟の一環としてですが)。信玄の息女は、北条の嫡男(氏政)に嫁いでいます。
 また、三国同盟の少し前までは、北条家は駿河国の駿東郡(北条早雲が最初に居城にした興国寺城はこの郡にあります)を領していましたが今川家に奪われた経緯があります(もっとも今川家は駿河国守護職ですから、当然権利がある訳ですが)。信玄としては、駿東郡を北条家に譲れば(徳川家に遠江を譲ったように)、何とかなると考えていたのではないでしょうか。
 想像ではありますが、家康の領分として合意していた遠江に兵をいれ、徳川家に(今川氏真が籠もっていた)掛川城を落とすために、北条家をも巻き込んだ計略を考えさせたことが、この時の最大の失敗だったと思います。それがなければ、今川領の分割はあっさりと終わっていたと思います。
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この回答へのお礼

信玄が欲をだしすぎたのが原因だったんでしょうか。回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/26 12:21

武田と北条は、今の群馬県で争っていました。


しかし、一時的に和睦もしています。
武田の駿河進出は、あくまで近畿進出の足がかりを作るためであり、ある程度の北条進出は、許容範囲であり、かつ、後方地域の安定を図るため、積極的に北条を利用しようという意思もあったと思います。
しかし、徳川でも、それは判っており、北条も、武田の勢力拡大を脅威と考えたので、武田に対し、介入したのです。
幾つもの勢力が、利をもって調略を行っていたのです。
このときは、徳川の打った手が、うまくいったということです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。北条の介入は徳川の調略によるものだったんですね。

お礼日時:2007/12/26 12:20

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