No.6ベストアンサー
- 回答日時:
今月3日夜6:30~TBSで放映された「新春超歴史ミステリー 古代ローマ1000年史!! 空前の巨大帝国全解明スペシャル」
http://www.tbs.co.jp/program/rekishi_20080103.html
という番組の中で説明されていたことの転載(?)になってしまいますが…。
>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?
既に回答されてらっしゃる方のおっしゃる通り、ローマ帝国と都市としてのローマ(市)とはイコールではありませんから、国家としてイタリア半島の中だけにあったわけではありません。ですからその意味では違います。しかしながら、バティカン市国がローマ市内にあり、そこに堂々とローマン・カソリックの総本山たるサン・ピエトロ大聖堂があるという「宗教的な」意味においては非常に密接なつながりがあります。どういう関係にあったかは後にご説明します。
>ローマ帝国はキリスト教にどう関係するのでしょうか?
ローマ帝国における宗教はもともと多神教でした。ちょうど日本の神道が「八百万の神々」を崇拝していたのと同様に。ローマにはもともと、ユピテル(英語名:ジュピター)、ユノー(英語名:ジュノー)とあともう1人(名前は忘れました)の神様がいましたが、ローマが版図を拡大し、植民地(属州)を増やしていく過程で、実に巧みに植民地経営を行っていきました。
古代ローマの伝統的な価値観に「寛容」(ラテン語:Clementia)の精神というのがあります。簡単に言ってしまえば、被征服者たる異民族の異質性を認めた上で、自らの価値観=宗教を押し付けることなく、異民族の宗教・信仰の自由を認めるということをやってのけたのです。また、ユリウス・カエサルの征服したガリアにおいては、ガリアの土着の神とローマの神を結び付けるということもしました。こうした“Clementia”の精神こそまさに古代ローマ帝国が1,000年もの長きに渡って繁栄し存続し得た要因だったわけです。
ところでキリスト教は一神教で、ローマ帝国内でも信者の数が増していきます。ローマ市民は当初、一神教であるキリスト教徒に対しては白眼視していました。
そこに目をつけたのが、あの悪名高き暴君ネロです。ある日、ローマで大火災が発生しました。ネロは自ら先頭に立って消火活動に務めます。都市計画にも非常に積極的だったネロはまた、芸術好きでもありました。最初のうちは積極的な消火活動や焼け跡の復興を好意的に受け止めていたローマ市民でしたが、ネロが黄金宮殿の建設を計画していることを知ると、あれはネロの放火の仕業でないかと噂するようになります。
そこでネロはキリスト教徒をスケープ・ゴートにすることを思い立ちます。彼は無実のキリスト教徒を磔にし火で焼き殺してしまったのです。しかしその後キリスト教徒が無実であることが分かると、今度はネロを糾弾する動きが起こり、ネロは海外への亡命を余儀なくされましたが、自害してしまいます。
その後ローマ帝国内のキリスト教徒の数は増えていきます。それでもパックス・ロマーナと呼ばれた最盛期になり五賢帝の時代を迎えても、キリスト教徒への迫害は続きました。
キリスト教が公認されるのは313年の皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発してからで、さらに国教となるのは後のテオドシウス帝の時(380年)でした。
コンスタンティヌス1世は、それまで皇帝はローマ市民から統治権限を委託されるという、非常に民主的というか、後の立憲君主制のような政治体制を改め、皇帝は神すなわちキリストから君主たる地位を授けられたとする、後の絶対王政期における王権神授説のごとき主張を行い、自らの地位を絶対的なものとするために宗教を利用しました。
それまでのローマ皇帝は、いわばローマ市民から統治を委任された存在で、たとえ皇帝であってもローマ市民から皇帝不適格の烙印を押されると退位しなければなりませんでした。ネロの時代もそうでした。しかし、市民ではなく神から統治権限を与えられたとすれば、たとえどのような悪政を行おうともローマ市民から皇帝の地位を剥奪されるようなことはなくなります。
こうしてローマ帝国で公認の宗教となったキリスト教は、ローマ市内の中心部に総本山たるサン・ピエトロ大聖堂を建設しました。「サン・ピエトロ」とは「聖ペテロ」の意味で、コンスタンティヌス1世がキリストの使徒の1人であるペテロの墓を参拝するために設けた殉教者祈念教会堂として建設したものでした。
No.5
- 回答日時:
ローマは元々はイタリアの小さな都市国家として始まりましたが、最盛期には、地中海周辺の全てとイギリスまでを支配した大国家に成長しました。
キリスト教はユダヤ教から分派した宗教です。ユダヤ人はローマの支配を受けていました。ローマの属州支配は比較的穏健なものであり、税金さえ払えば余りうるさいことは言われません。しかし、ユダヤ人の中にはローマによる支配を屈辱として感じ、対ローマ独立戦争も辞さないような過激派もいました。キリストは政治的には穏健でセンスのよい人物なので、周囲がキリストに反ローマ過激派のレッテルを貼ろうとわなを仕掛けるのですが、毎回のようにわなは失敗してしまします。例えば、あの有名な「神のものは神へ、カエサル(ローマ皇帝)のものはカエサルに返せばよい」というセリフは、特に宗教的な発言ではなく、「ローマによる支配がそんなにも不満か。税金くらい払えよ」という意味なのです。
キリスト教は当初、ローマの中では危険分子と見なされ弾圧されていました。しかし、キリスト教の信者は増え続け、最後にはローマの国教にまで上りつめます。キリスト教がギリシャ・ローマ文化になじんだ人たちの間に浸透したのは、ユダヤ教や後世のイスラム教が宗教上の義務としている割礼(ペニスの包皮を切り落とすこと)は不要であると宣言したのが大きな要因といわれていますし、ユダヤ教の選民思想を廃して、全ての民族が平等に扱われる世界宗教への脱皮に成功したことが重要なポイントです。
ちなみに世界最初のキリスト教国はローマではありません。アルメニアです。
ローマはその後、首都をローマからコンスタンチノープル(現イスタンブール)に移動します。これにより、アナトリアの豊かな麦を効率よく管理することが出来るようになり、イタリア都市ローマのうるさい元老院から皇帝が解放されるというメリットがあったからです。
その後、ローマは東西に分裂します。西ローマはイタリア都市ローマを含む国です。東ローマはもともとのローマではなく、コンスタンチノープルを首都とする国です。
西ローマはカトリックの国で、ゲルマン人の侵入などにより早い段階で滅亡します。その後、カトリック教会は、ローマ皇帝の肩書きをドイツの諸侯の間で使いまわすことで、ローマ帝国の復活という名目的行動を取るのです。これが、いわゆる神聖ローマ帝国というもので、実質的にはドイツ人系小国家群の緩やかな連合です。神聖ローマ帝国は早い段階で無意味化していたのですが、最終的にはナポレオンにより解体されます。また、カトリックから分派したプロテスタントも西ローマ系の宗派です。
東ローマは、もともとのイタリア都市ローマとのつながりを失ったことで、ギリシャ化が進み、公用語もラテン語からギリシャ語に切り替えられます。こちらの国は西ローマよりもしつこく生き延び、東方正教会という、カトリックやプロテスタントとは別の宗派のキリスト教を維持し続けます。東方正教会の国には、現在、ギリシャ、ロシア、グルジアなどがあります。
東方正教会とカトリック・プロテスタントの違いで一番分かり易いのは、クリスマスの日程です。東方正教会は、クリスマスを伝統的に1月に祝います。カトリックは布教上の戦略として、太陽神信仰の習慣に合わせて、12月にクリスマスを動かしてしまいます。アルメニア正教会は理論的には独自路線ですが、教会やイコン(聖人像)の様式は東方正教会に近いものとなっていますし、クリスマスは1月です。
東ローマは最終的にはオスマン・トルコによって滅ぼされ、首都コンスタンチノープルはトルコ語風発音のイスタンブールに名前が変わって終わります。ただし、東ローマが残した高度な古代ギリシャ・ローマの文明は、東欧やイスラム教徒に受け継がれます。西ローマ滅亡時に過去の文明的遺産が失われ、西欧人が後世になってルネサンス時代に古典古代文明を再発見したのとは全く逆の状況で、文明史の断絶がありません。
No.3
- 回答日時:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …
上のサイトをご覧になるとわかるとおもいますが、ローマ帝国は時代によってどこまでが支配下か違うんです。
一時は今のイギリスまで支配下にあったんです。
ローマ帝国とキリスト教の関係は、、、
ヘロデ大王という人がローマ皇帝よりユデアの国王の地位をもらうんですね。
(そのいきさつは省きます)
独立国家としてローマに擁護されたユデアは、ローマ兵力の資金源でもあり、友好関係にあったんです。
しかし、ヘロデ大王が死去したあと、ユデアはまたローマの属州になるんです。
しかし、属州であっても、ユダヤ教を信仰していてよく、その見返りとして、10分の一税 今の日本でいうなら所得税が10分の1なので、所得税をローマ帝国に納めていたわけです。
ところがローマから派遣された総督がどれもひどい人たちで、ローマ帝国に保護されているユダヤ人を嫌っていたんです。
それでユダヤ教を馬鹿にしたり、市民を挑発したりして、さんざんなことをやったのですが、神殿の祭司や議員たちは、市民をなだめてローマに逆らわず友好関係を保とうと苦心したんです。
ところがある総督がエルサレム神殿に異教の神の偶像を設置しようとしたり、神殿の財宝をローマが欲しているからといって、奪ったりしたとき、もうユダヤ人の忍耐の限界だったようで、それでローマ兵に逆らうようになったんです。
総督達はローマに財宝を持っていくといって、実際はネコババしていたわけで、その悪事が本部に知れるとやばいわけで、なんとかユダヤ人を挑発して、ローマと仲が悪くなって欲しかったわけです。
それで挑発に挑発を重ね、聖なる神殿に異教の神の像を設置しようとしたとき、ユダヤ人はキレたわけです。
総督たちの思惑が成功して、ユダヤ人はローマに反逆し、なんどか小競り合いがあり、ユダヤ戦争に突入したわけです。
最初はすぐ鎮圧できると思っていたが、ローマは撃退されてしまうわけです。
それで、本腰を入れてエルサレムを鎮圧することになり、各地のローマ支配地区に散らばっていた兵力を集めて、エルサレムに向けて出陣させたんです。
集中砲火であっというまにやられてしまった。
地獄絵のような状態になり、ユデアに神殿が建っている限り、彼らはローマに逆らうとして、神殿も破壊してしまったんです。
阿鼻叫喚で市民達はつぎつぎ殺され、殺されるのを免れてもローマ帝国各地に奴隷として売られていったわけです。
そしてイスラエル人がエルサレムに入ることを禁止した。
その前からユダヤ教の分派 今のキリスト教はあったのですが、エルサレム教会はユダヤ戦争が始まる前に、エルサレムを脱出しているんですね。
こちらはイエスの実弟ヤコブが初代のリーダーだったのですが、パウロらに殺されているんです。
その後誰がひきついだかわかりません。
そして戦争が始まる前に脱出したが、どこに行ったのかもわかっていません。
ヤコブの殺害に関与したペトロはイスラエル人から憎まれ、殺されそうになったので、ローマ帝国側は彼を保護し、エルサレムから脱出させたようなんですね。
どうやら彼はローマ帝国の上層階級の人の親戚だったようです。
それで保護されたんですが、彼はイスラエル人に憎まれていたので、エルサレム以外のローマ帝国の各地の領土にいるユダヤ人たちに自分のイエス理解を布教してまわったんです。
今のトルコを拠点として、ローマ帝国の各地を回ったようです。
で、西側と東側にキリスト教というかユダヤ教のナザレ派は分かれ、それぞれがイエスの話を伝えていったわけです。
恐らくですが、迫害を受けた方はパウロ側じゃないと思えるんですね。
で、ローマ帝国には多くのイスラエル人が住んでいた。
コンスタンチヌスって人が皇帝になったとき、今のトルコのイスタンブールに拠点を移した。
ローマ帝国も分裂していて、何人も皇帝がいて、コンスタンティヌスはトーナメント制で勝ち抜いていき、拠点をもうけ そこをコンスタンチノープルってしたんです。
で、市民はどの宗教も信仰していいと認めたんです。
今のトルコには多くのイスラエル人が住んでおり、パウロらの拠点もそこにありまして、ユダヤ教のナザレ派 というか パウロ派も多くいたようです。
どの宗教を信仰してもいいとなったとき、パウロ派は認められたことで布教がはかどるようになり、どんどん力をつけていき、他の宗教の人たちも取り込んでいくんです。
そして、コンスタンティヌスが臨終の時に洗礼を受けたとして、コンスタンティヌスも認めた宗教として、権力を持っていくようになるんです。
実際はコンスタンティヌスは、どの宗教も認めればどの神様からも嫌われないだろうからと、臨終間際に洗礼も受けたというのが事実らしいです。
で、コンスタンティヌスからお墨付きをもらったとして、どんどん権力を増大させ、他の宗教を迫害していき、国教になるまでになったんです。
で、田舎町に最初は東ローマ帝国を作ったが、どんどん領土を広げていき、勝ち抜いていって、西ローマ帝国の領土も東の領土にしていったわけです。
で、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により滅亡して領土を取られ消えたんですが、(東)ローマ帝国が取り返したりするんです。
で、領土の拡大、縮小を繰り返し、15世紀頃までローマ帝国は続いていた。
その後オスマン帝国によって滅亡させられるんです。
その後神聖ローマ帝国というものもできたんですが、、、、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF% …
『その後は、ローマ帝国の後継を主張する神聖ローマ皇帝、ローマ教皇、東ローマ皇帝によって分割され、イタリアの統一を試みる者もいたが、教皇庁の思惑もあって分裂状態が続く。18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年、彼が失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。
1861年2月、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一に成功し、イタリア王国を建国する。』
だそうです。
>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?
ちょっと違います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …
『都市国家ローマから王政ローマを経て、共和政ローマ・ローマ帝国の首都となり、100万人が居住する当時としては世界最大の都市となった。コンスタンティヌス1世が第2のローマと呼ばれたコンスタンティノポリスに遷都するまで、世界帝国の中心として君臨し続けた。』
で、なんでローマ帝国という名前かって私も思っていたんですが。
『伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。』
だそうです。
上のサイトをご覧になるとわかるとおもいますが、ローマ帝国は時代によってどこまでが支配下か違うんです。
一時は今のイギリスまで支配下にあったんです。
ローマ帝国とキリスト教の関係は、、、
ヘロデ大王という人がローマ皇帝よりユデアの国王の地位をもらうんですね。
(そのいきさつは省きます)
独立国家としてローマに擁護されたユデアは、ローマ兵力の資金源でもあり、友好関係にあったんです。
しかし、ヘロデ大王が死去したあと、ユデアはまたローマの属州になるんです。
しかし、属州であっても、ユダヤ教を信仰していてよく、その見返りとして、10分の一税 今の日本でいうなら所得税が10分の1なので、所得税をローマ帝国に納めていたわけです。
ところがローマから派遣された総督がどれもひどい人たちで、ローマ帝国に保護されているユダヤ人を嫌っていたんです。
それでユダヤ教を馬鹿にしたり、市民を挑発したりして、さんざんなことをやったのですが、神殿の祭司や議員たちは、市民をなだめてローマに逆らわず友好関係を保とうと苦心したんです。
ところがある総督がエルサレム神殿に異教の神の偶像を設置しようとしたり、神殿の財宝をローマが欲しているからといって、奪ったりしたとき、もうユダヤ人の忍耐の限界だったようで、それでローマ兵に逆らうようになったんです。
総督達はローマに財宝を持っていくといって、実際はネコババしていたわけで、その悪事が本部に知れるとやばいわけで、なんとかユダヤ人を挑発して、ローマと仲が悪くなって欲しかったわけです。
それで挑発に挑発を重ね、聖なる神殿に異教の神の像を設置しようとしたとき、ユダヤ人はキレたわけです。
総督たちの思惑が成功して、ユダヤ人はローマに反逆し、なんどか小競り合いがあり、ユダヤ戦争に突入したわけです。
最初はすぐ鎮圧できると思っていたが、ローマは撃退されてしまうわけです。
それで、本腰を入れてエルサレムを鎮圧することになり、各地のローマ支配地区に散らばっていた兵力を集めて、エルサレムに向けて出陣させたんです。
集中砲火であっというまにやられてしまった。
地獄絵のような状態になり、ユデアに神殿が建っている限り、彼らはローマに逆らうとして、神殿も破壊してしまったんです。
阿鼻叫喚で市民達はつぎつぎ殺され、殺されるのを免れてもローマ帝国各地に奴隷として売られていったわけです。
そしてイスラエル人がエルサレムに入ることを禁止した。
その前からユダヤ教の分派 今のキリスト教はあったのですが、エルサレム教会はユダヤ戦争が始まる前に、エルサレムを脱出しているんですね。
こちらはイエスの実弟ヤコブが初代のリーダーだったのですが、パウロらに殺されているんです。
その後誰がひきついだかわかりません。
そして戦争が始まる前に脱出したが、どこに行ったのかもわかっていません。
ヤコブの殺害に関与したペトロはイスラエル人から憎まれ、殺されそうになったので、ローマ帝国側は彼を保護し、エルサレムから脱出させたようなんですね。
どうやら彼はローマ帝国の上層階級の人の親戚だったようです。
それで保護されたんですが、彼はイスラエル人に憎まれていたので、エルサレム以外のローマ帝国の各地の領土にいるユダヤ人たちに自分のイエス理解を布教してまわったんです。
今のトルコを拠点として、ローマ帝国の各地を回ったようです。
で、西側と東側にキリスト教というかユダヤ教のナザレ派は分かれ、それぞれがイエスの話を伝えていったわけです。
恐らくですが、迫害を受けた方はパウロ側じゃないと思えるんですね。
で、ローマ帝国には多くのイスラエル人が住んでいた。
コンスタンチヌスって人が皇帝になったとき、今のトルコのイスタンブールに拠点を移した。
ローマ帝国も分裂していて、何人も皇帝がいて、コンスタンティヌスはトーナメント制で勝ち抜いていき、拠点をもうけ そこをコンスタンチノープルってしたんです。
で、市民はどの宗教も信仰していいと認めたんです。
今のトルコには多くのイスラエル人が住んでおり、パウロらの拠点もそこにありまして、ユダヤ教のナザレ派 というか パウロ派も多くいたようです。
どの宗教を信仰してもいいとなったとき、パウロ派は認められたことで布教がはかどるようになり、どんどん力をつけていき、他の宗教の人たちも取り込んでいくんです。
そして、コンスタンティヌスが臨終の時に洗礼を受けたとして、コンスタンティヌスも認めた宗教として、権力を持っていくようになるんです。
実際はコンスタンティヌスは、どの宗教も認めればどの神様からも嫌われないだろうからと、臨終間際に洗礼も受けたというのが事実らしいです。
で、コンスタンティヌスからお墨付きをもらったとして、どんどん権力を増大させ、他の宗教を迫害していき、国教になるまでになったんです。
で、田舎町に最初は東ローマ帝国を作ったが、どんどん領土を広げていき、勝ち抜いていって、西ローマ帝国の領土も東の領土にしていったわけです。
で、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により滅亡して領土を取られ消えたんですが、(東)ローマ帝国が取り返したりするんです。
で、領土の拡大、縮小を繰り返し、15世紀頃までローマ帝国は続いていた。
その後オスマン帝国によって滅亡させられるんです。
その後神聖ローマ帝国というものもできたんですが、、、、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF% …
『その後は、ローマ帝国の後継を主張する神聖ローマ皇帝、ローマ教皇、東ローマ皇帝によって分割され、イタリアの統一を試みる者もいたが、教皇庁の思惑もあって分裂状態が続く。18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年、彼が失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。
1861年2月、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一に成功し、イタリア王国を建国する。』
だそうです。
>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?
ちょっと違います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …
『都市国家ローマから王政ローマを経て、共和政ローマ・ローマ帝国の首都となり、100万人が居住する当時としては世界最大の都市となった。コンスタンティヌス1世が第2のローマと呼ばれたコンスタンティノポリスに遷都するまで、世界帝国の中心として君臨し続けた。』
で、なんでローマ帝国という名前かって私も思っていたんですが。
『伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。』
だそうです。
No.2
- 回答日時:
ローマ帝国というのは、都市国家ローマの市民権を持っている市民のいる、ローマの元老院の統治が及んでいる地域を言います。
ローマ帝国 あるいは Roman imperial という表現は後代のヒトが名付けただけであり、当時のヒトの意識では Senatus Populusque Romanus (SPQR)「ローマの元老院と市民」を意味しています。
なので、ローマ帝国も末期になると、西ローマ皇帝の居住地はミラノやラヴェンナになっています。これは皇帝の仕事の重要な一つが蛮族からローマを守ることであり、そのためには現在のイタリア半島北部に常駐していた方が便利だからです。ローマの最盛期においても、ほとんどローマ帝国内を移動してローマに居着かなかった皇帝もけっこうおります。
ローマ帝国とキリスト教は話が長くなりますが、
国家の統一原理として、皇帝よりも宗教の方が便利なので、キリスト教を採用したというような話になります。
No.1
- 回答日時:
ローマ帝国はもともとローマが首都です。
ただ、末期になってくると皇帝が複数になったり、いろいろ紆余曲折があって皇帝がキリスト教を信仰するようになって、国教となりましたが、ローマでは旧時代の名残が多いので新しい首都としてコンスタンチノープル(イスタンブール)を建設しました。
そののち、ローマ帝国はローマを首都とする西と、コンスタンチノープルを首都とする東の帝国に分かれましたが、政治的な対立や信仰上の対立などからカソリック(西方面)とギリシャ正教(東方面)になりました。
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