出産前後の痔にはご注意!

キリスト教とローマ帝国との関係ですが、ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?
また簡単でよいのですが、ローマ帝国はキリスト教にどう関係するのでしょうか?
すみません、教えてください。

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A 回答 (6件)

今月3日夜6:30~TBSで放映された「新春超歴史ミステリー 古代ローマ1000年史!! 空前の巨大帝国全解明スペシャル」


http://www.tbs.co.jp/program/rekishi_20080103.html
という番組の中で説明されていたことの転載(?)になってしまいますが…。

>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?

既に回答されてらっしゃる方のおっしゃる通り、ローマ帝国と都市としてのローマ(市)とはイコールではありませんから、国家としてイタリア半島の中だけにあったわけではありません。ですからその意味では違います。しかしながら、バティカン市国がローマ市内にあり、そこに堂々とローマン・カソリックの総本山たるサン・ピエトロ大聖堂があるという「宗教的な」意味においては非常に密接なつながりがあります。どういう関係にあったかは後にご説明します。

>ローマ帝国はキリスト教にどう関係するのでしょうか?

ローマ帝国における宗教はもともと多神教でした。ちょうど日本の神道が「八百万の神々」を崇拝していたのと同様に。ローマにはもともと、ユピテル(英語名:ジュピター)、ユノー(英語名:ジュノー)とあともう1人(名前は忘れました)の神様がいましたが、ローマが版図を拡大し、植民地(属州)を増やしていく過程で、実に巧みに植民地経営を行っていきました。

古代ローマの伝統的な価値観に「寛容」(ラテン語:Clementia)の精神というのがあります。簡単に言ってしまえば、被征服者たる異民族の異質性を認めた上で、自らの価値観=宗教を押し付けることなく、異民族の宗教・信仰の自由を認めるということをやってのけたのです。また、ユリウス・カエサルの征服したガリアにおいては、ガリアの土着の神とローマの神を結び付けるということもしました。こうした“Clementia”の精神こそまさに古代ローマ帝国が1,000年もの長きに渡って繁栄し存続し得た要因だったわけです。

ところでキリスト教は一神教で、ローマ帝国内でも信者の数が増していきます。ローマ市民は当初、一神教であるキリスト教徒に対しては白眼視していました。

そこに目をつけたのが、あの悪名高き暴君ネロです。ある日、ローマで大火災が発生しました。ネロは自ら先頭に立って消火活動に務めます。都市計画にも非常に積極的だったネロはまた、芸術好きでもありました。最初のうちは積極的な消火活動や焼け跡の復興を好意的に受け止めていたローマ市民でしたが、ネロが黄金宮殿の建設を計画していることを知ると、あれはネロの放火の仕業でないかと噂するようになります。

そこでネロはキリスト教徒をスケープ・ゴートにすることを思い立ちます。彼は無実のキリスト教徒を磔にし火で焼き殺してしまったのです。しかしその後キリスト教徒が無実であることが分かると、今度はネロを糾弾する動きが起こり、ネロは海外への亡命を余儀なくされましたが、自害してしまいます。

その後ローマ帝国内のキリスト教徒の数は増えていきます。それでもパックス・ロマーナと呼ばれた最盛期になり五賢帝の時代を迎えても、キリスト教徒への迫害は続きました。

キリスト教が公認されるのは313年の皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発してからで、さらに国教となるのは後のテオドシウス帝の時(380年)でした。

コンスタンティヌス1世は、それまで皇帝はローマ市民から統治権限を委託されるという、非常に民主的というか、後の立憲君主制のような政治体制を改め、皇帝は神すなわちキリストから君主たる地位を授けられたとする、後の絶対王政期における王権神授説のごとき主張を行い、自らの地位を絶対的なものとするために宗教を利用しました。

それまでのローマ皇帝は、いわばローマ市民から統治を委任された存在で、たとえ皇帝であってもローマ市民から皇帝不適格の烙印を押されると退位しなければなりませんでした。ネロの時代もそうでした。しかし、市民ではなく神から統治権限を与えられたとすれば、たとえどのような悪政を行おうともローマ市民から皇帝の地位を剥奪されるようなことはなくなります。

こうしてローマ帝国で公認の宗教となったキリスト教は、ローマ市内の中心部に総本山たるサン・ピエトロ大聖堂を建設しました。「サン・ピエトロ」とは「聖ペテロ」の意味で、コンスタンティヌス1世がキリストの使徒の1人であるペテロの墓を参拝するために設けた殉教者祈念教会堂として建設したものでした。
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おはようございます。
少しバタバタしてました。
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お礼日時:2008/01/28 09:14

ローマは元々はイタリアの小さな都市国家として始まりましたが、最盛期には、地中海周辺の全てとイギリスまでを支配した大国家に成長しました。



キリスト教はユダヤ教から分派した宗教です。ユダヤ人はローマの支配を受けていました。ローマの属州支配は比較的穏健なものであり、税金さえ払えば余りうるさいことは言われません。しかし、ユダヤ人の中にはローマによる支配を屈辱として感じ、対ローマ独立戦争も辞さないような過激派もいました。キリストは政治的には穏健でセンスのよい人物なので、周囲がキリストに反ローマ過激派のレッテルを貼ろうとわなを仕掛けるのですが、毎回のようにわなは失敗してしまします。例えば、あの有名な「神のものは神へ、カエサル(ローマ皇帝)のものはカエサルに返せばよい」というセリフは、特に宗教的な発言ではなく、「ローマによる支配がそんなにも不満か。税金くらい払えよ」という意味なのです。

キリスト教は当初、ローマの中では危険分子と見なされ弾圧されていました。しかし、キリスト教の信者は増え続け、最後にはローマの国教にまで上りつめます。キリスト教がギリシャ・ローマ文化になじんだ人たちの間に浸透したのは、ユダヤ教や後世のイスラム教が宗教上の義務としている割礼(ペニスの包皮を切り落とすこと)は不要であると宣言したのが大きな要因といわれていますし、ユダヤ教の選民思想を廃して、全ての民族が平等に扱われる世界宗教への脱皮に成功したことが重要なポイントです。

ちなみに世界最初のキリスト教国はローマではありません。アルメニアです。

ローマはその後、首都をローマからコンスタンチノープル(現イスタンブール)に移動します。これにより、アナトリアの豊かな麦を効率よく管理することが出来るようになり、イタリア都市ローマのうるさい元老院から皇帝が解放されるというメリットがあったからです。

その後、ローマは東西に分裂します。西ローマはイタリア都市ローマを含む国です。東ローマはもともとのローマではなく、コンスタンチノープルを首都とする国です。

西ローマはカトリックの国で、ゲルマン人の侵入などにより早い段階で滅亡します。その後、カトリック教会は、ローマ皇帝の肩書きをドイツの諸侯の間で使いまわすことで、ローマ帝国の復活という名目的行動を取るのです。これが、いわゆる神聖ローマ帝国というもので、実質的にはドイツ人系小国家群の緩やかな連合です。神聖ローマ帝国は早い段階で無意味化していたのですが、最終的にはナポレオンにより解体されます。また、カトリックから分派したプロテスタントも西ローマ系の宗派です。

東ローマは、もともとのイタリア都市ローマとのつながりを失ったことで、ギリシャ化が進み、公用語もラテン語からギリシャ語に切り替えられます。こちらの国は西ローマよりもしつこく生き延び、東方正教会という、カトリックやプロテスタントとは別の宗派のキリスト教を維持し続けます。東方正教会の国には、現在、ギリシャ、ロシア、グルジアなどがあります。

東方正教会とカトリック・プロテスタントの違いで一番分かり易いのは、クリスマスの日程です。東方正教会は、クリスマスを伝統的に1月に祝います。カトリックは布教上の戦略として、太陽神信仰の習慣に合わせて、12月にクリスマスを動かしてしまいます。アルメニア正教会は理論的には独自路線ですが、教会やイコン(聖人像)の様式は東方正教会に近いものとなっていますし、クリスマスは1月です。

東ローマは最終的にはオスマン・トルコによって滅ぼされ、首都コンスタンチノープルはトルコ語風発音のイスタンブールに名前が変わって終わります。ただし、東ローマが残した高度な古代ギリシャ・ローマの文明は、東欧やイスラム教徒に受け継がれます。西ローマ滅亡時に過去の文明的遺産が失われ、西欧人が後世になってルネサンス時代に古典古代文明を再発見したのとは全く逆の状況で、文明史の断絶がありません。
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お礼日時:2008/01/28 09:16

No。

3です。

また間違えた すいません

>ヤコブの殺害に関与したペトロは

ペトロじゃなくてパウロでした。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …

上のサイトをご覧になるとわかるとおもいますが、ローマ帝国は時代によってどこまでが支配下か違うんです。
一時は今のイギリスまで支配下にあったんです。

ローマ帝国とキリスト教の関係は、、、
ヘロデ大王という人がローマ皇帝よりユデアの国王の地位をもらうんですね。
(そのいきさつは省きます)
独立国家としてローマに擁護されたユデアは、ローマ兵力の資金源でもあり、友好関係にあったんです。
しかし、ヘロデ大王が死去したあと、ユデアはまたローマの属州になるんです。
しかし、属州であっても、ユダヤ教を信仰していてよく、その見返りとして、10分の一税 今の日本でいうなら所得税が10分の1なので、所得税をローマ帝国に納めていたわけです。

ところがローマから派遣された総督がどれもひどい人たちで、ローマ帝国に保護されているユダヤ人を嫌っていたんです。
それでユダヤ教を馬鹿にしたり、市民を挑発したりして、さんざんなことをやったのですが、神殿の祭司や議員たちは、市民をなだめてローマに逆らわず友好関係を保とうと苦心したんです。

ところがある総督がエルサレム神殿に異教の神の偶像を設置しようとしたり、神殿の財宝をローマが欲しているからといって、奪ったりしたとき、もうユダヤ人の忍耐の限界だったようで、それでローマ兵に逆らうようになったんです。
総督達はローマに財宝を持っていくといって、実際はネコババしていたわけで、その悪事が本部に知れるとやばいわけで、なんとかユダヤ人を挑発して、ローマと仲が悪くなって欲しかったわけです。

それで挑発に挑発を重ね、聖なる神殿に異教の神の像を設置しようとしたとき、ユダヤ人はキレたわけです。

総督たちの思惑が成功して、ユダヤ人はローマに反逆し、なんどか小競り合いがあり、ユダヤ戦争に突入したわけです。

最初はすぐ鎮圧できると思っていたが、ローマは撃退されてしまうわけです。
それで、本腰を入れてエルサレムを鎮圧することになり、各地のローマ支配地区に散らばっていた兵力を集めて、エルサレムに向けて出陣させたんです。
集中砲火であっというまにやられてしまった。
地獄絵のような状態になり、ユデアに神殿が建っている限り、彼らはローマに逆らうとして、神殿も破壊してしまったんです。
阿鼻叫喚で市民達はつぎつぎ殺され、殺されるのを免れてもローマ帝国各地に奴隷として売られていったわけです。
そしてイスラエル人がエルサレムに入ることを禁止した。

その前からユダヤ教の分派 今のキリスト教はあったのですが、エルサレム教会はユダヤ戦争が始まる前に、エルサレムを脱出しているんですね。
こちらはイエスの実弟ヤコブが初代のリーダーだったのですが、パウロらに殺されているんです。
その後誰がひきついだかわかりません。
そして戦争が始まる前に脱出したが、どこに行ったのかもわかっていません。


ヤコブの殺害に関与したペトロはイスラエル人から憎まれ、殺されそうになったので、ローマ帝国側は彼を保護し、エルサレムから脱出させたようなんですね。
どうやら彼はローマ帝国の上層階級の人の親戚だったようです。
それで保護されたんですが、彼はイスラエル人に憎まれていたので、エルサレム以外のローマ帝国の各地の領土にいるユダヤ人たちに自分のイエス理解を布教してまわったんです。

今のトルコを拠点として、ローマ帝国の各地を回ったようです。
で、西側と東側にキリスト教というかユダヤ教のナザレ派は分かれ、それぞれがイエスの話を伝えていったわけです。
恐らくですが、迫害を受けた方はパウロ側じゃないと思えるんですね。

で、ローマ帝国には多くのイスラエル人が住んでいた。
コンスタンチヌスって人が皇帝になったとき、今のトルコのイスタンブールに拠点を移した。
ローマ帝国も分裂していて、何人も皇帝がいて、コンスタンティヌスはトーナメント制で勝ち抜いていき、拠点をもうけ そこをコンスタンチノープルってしたんです。
で、市民はどの宗教も信仰していいと認めたんです。
今のトルコには多くのイスラエル人が住んでおり、パウロらの拠点もそこにありまして、ユダヤ教のナザレ派 というか パウロ派も多くいたようです。

どの宗教を信仰してもいいとなったとき、パウロ派は認められたことで布教がはかどるようになり、どんどん力をつけていき、他の宗教の人たちも取り込んでいくんです。
そして、コンスタンティヌスが臨終の時に洗礼を受けたとして、コンスタンティヌスも認めた宗教として、権力を持っていくようになるんです。
実際はコンスタンティヌスは、どの宗教も認めればどの神様からも嫌われないだろうからと、臨終間際に洗礼も受けたというのが事実らしいです。

で、コンスタンティヌスからお墨付きをもらったとして、どんどん権力を増大させ、他の宗教を迫害していき、国教になるまでになったんです。

で、田舎町に最初は東ローマ帝国を作ったが、どんどん領土を広げていき、勝ち抜いていって、西ローマ帝国の領土も東の領土にしていったわけです。
で、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により滅亡して領土を取られ消えたんですが、(東)ローマ帝国が取り返したりするんです。

で、領土の拡大、縮小を繰り返し、15世紀頃までローマ帝国は続いていた。
その後オスマン帝国によって滅亡させられるんです。

その後神聖ローマ帝国というものもできたんですが、、、、


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF% …

『その後は、ローマ帝国の後継を主張する神聖ローマ皇帝、ローマ教皇、東ローマ皇帝によって分割され、イタリアの統一を試みる者もいたが、教皇庁の思惑もあって分裂状態が続く。18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年、彼が失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。

1861年2月、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一に成功し、イタリア王国を建国する。』

だそうです。


>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?

ちょっと違います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …

『都市国家ローマから王政ローマを経て、共和政ローマ・ローマ帝国の首都となり、100万人が居住する当時としては世界最大の都市となった。コンスタンティヌス1世が第2のローマと呼ばれたコンスタンティノポリスに遷都するまで、世界帝国の中心として君臨し続けた。』


で、なんでローマ帝国という名前かって私も思っていたんですが。

『伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。』

だそうです。
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お礼日時:2008/01/28 09:15

ローマ帝国というのは、都市国家ローマの市民権を持っている市民のいる、ローマの元老院の統治が及んでいる地域を言います。


ローマ帝国 あるいは Roman imperial という表現は後代のヒトが名付けただけであり、当時のヒトの意識では Senatus Populusque Romanus (SPQR)「ローマの元老院と市民」を意味しています。
なので、ローマ帝国も末期になると、西ローマ皇帝の居住地はミラノやラヴェンナになっています。これは皇帝の仕事の重要な一つが蛮族からローマを守ることであり、そのためには現在のイタリア半島北部に常駐していた方が便利だからです。ローマの最盛期においても、ほとんどローマ帝国内を移動してローマに居着かなかった皇帝もけっこうおります。

ローマ帝国とキリスト教は話が長くなりますが、
国家の統一原理として、皇帝よりも宗教の方が便利なので、キリスト教を採用したというような話になります。
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お礼日時:2008/01/28 09:15

ローマ帝国はもともとローマが首都です。


ただ、末期になってくると皇帝が複数になったり、いろいろ紆余曲折があって皇帝がキリスト教を信仰するようになって、国教となりましたが、ローマでは旧時代の名残が多いので新しい首都としてコンスタンチノープル(イスタンブール)を建設しました。
そののち、ローマ帝国はローマを首都とする西と、コンスタンチノープルを首都とする東の帝国に分かれましたが、政治的な対立や信仰上の対立などからカソリック(西方面)とギリシャ正教(東方面)になりました。
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お礼日時:2008/01/28 09:15

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Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Qローマ帝国の公認宗教

キリスト教が国教になる前のローマ帝国には、いくつかの公認宗教があったという話を聞きました。

ローマ帝国で公認されていた宗教の名前を教えてください。

Aベストアンサー

ローマ帝国に、公認宗教というものはありません。
ただキリスト教だけが禁止されていただけです。
キリスト教が国教とされてからは、キリスト教のみが公認宗教となりまする

キリスト教が国教とされる前のローマ帝国には、古代ローマの神々を信仰する宗教、ギリシャ系の神々を信仰する宗教、エジプト系の神々を信仰する宗教、パルティアなどのオリエントの神々を信仰する宗教、ヘレニズム系のグノーシス的考え方をする宗教、ケルト系の神々を信仰する宗教、ギリシャ哲学を基礎とするオルフェウス教などがありましたが、キリスト教が公認される直前にもっともローマ帝国内で信仰されていたのは、ミトラ教です。

Qキリスト教って何で迫害されたんですか?

ローマの支配は宗教的にもとても寛容だったと記憶しているのですが、それなのにどうしてキリスト教は迫害されたのですか?
ネロ帝による迫害だけなら民衆の不満逸らしという気もしますが、迫害をしている皇帝はネロ帝だけではありません。ディオクレティアヌス帝もしていますし…。何かもっと理由があるような気がします。
中世ヨーロッパのカトリックの横暴を考えれば、確かに弾圧して然るべきだったのかもしれませんが、当時の為政者たちはそこまで見越して迫害していたのでしょうか。

Aベストアンサー

ローマ帝国では、帝国に反感を示さない限り、宗教には立ち入らない方針を貫いていました。
そのため、ローマ帝国内には、エジプトのイシス神が大ブームを引き起こしたり、オリエントのミトラ教が広く信仰されたり、ギリシャ哲学の流れを組むオルフェウス教などが広まっていました。
ローマによるユダヤ滅亡においては、ユダヤ人がローマに反抗したために起きた事件で、ユダヤ教を弾圧したわけではありません。
マニ教やイスラムの弾圧は、キリスト教がローマの国教となってからの話で、当時のローマ帝国には存在していませんでした。

その中で、キリスト教だけが絶えず迫害を受けていました。
これは、キリスト教が当時の貧民層に広がっていったためです。
従来の宗教が、現世の利益をもたらす事を説いているのに対し、キリスト教は、死後の安泰を求める宗教でした。
現世において苦境にある貧困層にとって、脱出できない現状を捨てて、来世に望みをつなぐキリスト教は、当時唯一縋れる宗教だったため、貧困層に広まっていったと思われます。

現世よりも来世に望みをつなぐ宗教は、当時の為政者には不都合なものでした。
死を恐れないキリスト教貧困者は、為政者のいう事を聞かず、反感や暴動などに簡単に参加する事になります。
こういった危険な宗教に対しては、払底的に弾圧して消滅させるか、体制内に取り込むかしかありません。
コンスタンティヌス帝以前は、弾圧し消滅させる方向でしたが、弾圧せせきれないほど大きくなってしまい、最後には体制内に取り込む事で、キリスト教をコントロールする事になります。

キリスト教の弾圧を行ったのは、
ネロ帝(64年)、ドミチアヌス帝(95年)、トラヤヌス帝(107年)、ハドリアヌス帝(118年)デキウス帝~ヴァレリアヌス帝(250年~260年)、ディオクレティアヌス帝(303年)が、年表に記載されています。

ローマ帝国では、帝国に反感を示さない限り、宗教には立ち入らない方針を貫いていました。
そのため、ローマ帝国内には、エジプトのイシス神が大ブームを引き起こしたり、オリエントのミトラ教が広く信仰されたり、ギリシャ哲学の流れを組むオルフェウス教などが広まっていました。
ローマによるユダヤ滅亡においては、ユダヤ人がローマに反抗したために起きた事件で、ユダヤ教を弾圧したわけではありません。
マニ教やイスラムの弾圧は、キリスト教がローマの国教となってからの話で、当時のローマ帝国には存...続きを読む

Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Qイエスキリストはどうして処刑されたのですか?

イエスがなにか変なことをしたがために処刑されたのでしょうか?

Aベストアンサー

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律主義」に走っていました。

そんな中に現れたのは、洗礼者ヨハネ(十二使徒のヨハネとは別人)とその教団でした。
彼らは、そんな議会派や民衆派の事を激しく批判していました。
そこに現れたのがイエスでした。
彼は、洗礼者ヨハネの主流2派の批判には納得していました。
しかし、完全には洗礼者ヨハネの言うことに納得は出来ませんでした。
そして、修行をするウチに「救世主(キリスト)」として目覚めていきました。(ただし、イエスは自分では「私は救世主だ」とは言ってません)
そして、ユダヤの各地を遊歴して弟子を得ていきました。

やがて、イエスの主導する勢力はだんだんと大きくなり、その影響力は洗礼者ヨハネをも超えていきました。
また、洗礼者ヨハネはヘロデ王も批判していたので彼に捕まり処刑されてしまいました。

ここに来て、主流2派にとってはイエス派の勢力を無視出来なくなってきました。
特に、議会派の人々はイエス派の人々が反乱を企てローマが怒るのを恐れました。
また、付き従っていた人々の中にもイエスが「救い=ローマからのユダヤの解放」をしてくれないので不満が募ってきました。
そこで、紆余曲折を経てイエスをとらえました。
しかし、イエスを裁判で罪にしても死刑にする権限はユダヤの議会にはありませんでした。
そこで、ピラトの元に行き
「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」
と言いました。
ピラトはイエスの事を調べましたが、嫌疑不十分であるとして「ユダヤの事はユダヤで決めよ」と言い、ヘロデ王に任せました。(ヘロデ王は、イエスの故郷ガリラヤの支配者でした。)
ヘロデ王もイエスを取り調べましたが、やはり「罪」は無いと言い、ピラトに送り返しました。

ピラトは、「罪が無い」と言っているにもかかわらず、ユダヤの人々は「死刑にせよ」と要求します。
このままでは反乱になると恐れたピラトは、人々に取引をもちかけました。
当時とらえられていた「殺人犯」と「イエス」どちらかを「死刑」とし、どちらかを解放しようと。
「どちらを解放するか?」
とのピラトの問いに、人々は「イエスを十字架に」と叫びました。
この結果、「殺人犯」は解放され、イエスは十字架に架けられることになりました。

と、以上が大まかなイエス処刑の経緯です。
つまり、議会派の人々はローマを恐れる余り、民衆はイエスが「神の国」と言ってるわりには「ユダヤをローマから解放」してくれない事への不満のため、イエスは十字架に架けられることになったのです。
しかし、イエスは一言も「ユダヤをローマから解放する」とも「私は救世主です」とも言っていません。(救世主については、弟子には言わせてましたが、、、。)
そして、イエスのいう「神の国」はあの世の事だったのですが、民衆は理解しませんでした。
結論としては、議会派の人々による「冤罪(ローマに反乱を企て、ユダヤの王を僭称した罪)」に、民衆がイエスを「誤解」していたために議会派の人々の提案(扇動)にのった結果、イエスは十字架上で死んだのです。

余談2・イエスが言った一番良い言葉なのに、キリスト教ではあまり実戦されてない言葉に「皇帝のモノは皇帝に、神のモノは神に」があります。
このことからも、イエスはローマへの反乱の意志はなかったと推測できます。

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律...続きを読む

Qヨーロッパでキリスト教がひろがった理由は?

キリスト教は、最初はユダヤ人の一部の人たちが信仰する宗教であり、異端であるとされて迫害されていたようです。
それがいつのまにかヨーロッパ中にひろがったのはどういう理由によるのでしょうか?
統治者が国教として採用したと想うのですが、どういうメリットがあったのでしょう。

またユダヤ人のイエスを神とあがめながら、ユダヤ人を迫害するといった矛盾があります。
ヨーロッパ人にとってユダヤ人とはどういった存在でしょうか?
無理やりイエスとユダヤ人とを切り離しているような気がしてなりません。

またユダヤ人にとってキリストは異端にすぎないのでしょうか?
それともある程度の尊敬をあつめる存在なのでしょうか。

また今後もキリスト教は信仰されつづけるでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教は、社会で疎外されている人々、例えば売春婦やらい病患者に手を差し伸べた宗教です。当時、犯罪や病のため地域社会から追われれば、野垂れ死ぬか、同様の境遇にある被差別民の社会で生きるしかありませんでした。キリスト教は、神の前での平等という観念から、そのような被差別民に(元の村へ)帰りなさい、と言ってくれたのです。
また、キリスト教は、当時のユダヤ教、特に神殿に依拠する特権階級であったサドカイ派を厳しく批判し、庶民の心を少しずつ捉えていきました。

しかし、キリスト教がユダヤ教の亜流であり続けたとしたら、これほど広く教線を延ばすことはできなかったでしょう。キリスト教は、ギリシャの殖民都市であるアレクサンドリアに伝わることによりギリシャ哲学の影響を受けて変質しました。特に、ユダヤ教式の厳しい戒律が緩められた(割礼の省略など)ことが布教に弾みをつけたと考えられます。

ローマ帝国がキリスト教を公認したように、君主が教線の拡大に一役買っているのは明らかですが、キリスト教自体の魅力として、不平等が当然の社会にあって神の前での平等という破天荒な理想を掲げ、被差別民さえ救済してくれる宗教、しかもとっつき難い戒律も少ない、ということで多くの信者を獲得することができたのでしょう。

キリスト教は、社会で疎外されている人々、例えば売春婦やらい病患者に手を差し伸べた宗教です。当時、犯罪や病のため地域社会から追われれば、野垂れ死ぬか、同様の境遇にある被差別民の社会で生きるしかありませんでした。キリスト教は、神の前での平等という観念から、そのような被差別民に(元の村へ)帰りなさい、と言ってくれたのです。
また、キリスト教は、当時のユダヤ教、特に神殿に依拠する特権階級であったサドカイ派を厳しく批判し、庶民の心を少しずつ捉えていきました。

しかし、キリスト教が...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qユダヤ教とキリスト教の違いって?

パウロはユダヤ教からキリスト教に変わったんですよね?
では、そのユダヤ教とキリスト教の違いってなんでしょうか?
教えて下さい!!お願いします!

Aベストアンサー

一番、大きな違いはイエスを救世主と認めるか認めないか。
もしくは神として認めるか認めないかでしょう。
次は、ユダヤ教の聖典は旧約聖書とトーラー(律法書、厳密には聖典という言葉は合いませんが)で、キリスト教の聖典は旧約新約聖書であるという点ですかね。
勿論、厳密に違いを挙げるとすればここに書ききれないですけど。

追記ですが、ユダヤ教とキリスト教を考える場合に必ず捉えて欲しい点があります。
それは「ユダヤ教からキリスト教が派生した」訳ではなく、「キリスト教からユダヤ教が生まれた」という事が本質的には一番正しいということです。
歴史の流れとしては「ユダヤ教からキリスト教が派生した」様に見ることも間違いではありませんが、キリスト教というのはイエスの時代に変質に変質を重ねたユダヤ教に対し、イエスが真の(源)ユダヤ教の教えや奥義の一部を証したものだからです。
だからこそ、イエスはユダヤ教の権力者達に狙われ木にかけられてしまったのです。

ユダヤ教キリスト教もそれぞれ色々な宗派(教義)がありますから、それまで考えるとキリがなくなりますけど、最初の二つを大きな違いとするのが一番良いと思います。

一番、大きな違いはイエスを救世主と認めるか認めないか。
もしくは神として認めるか認めないかでしょう。
次は、ユダヤ教の聖典は旧約聖書とトーラー(律法書、厳密には聖典という言葉は合いませんが)で、キリスト教の聖典は旧約新約聖書であるという点ですかね。
勿論、厳密に違いを挙げるとすればここに書ききれないですけど。

追記ですが、ユダヤ教とキリスト教を考える場合に必ず捉えて欲しい点があります。
それは「ユダヤ教からキリスト教が派生した」訳ではなく、「キリスト教からユダヤ教が生ま...続きを読む

Qキリスト教の唯一神の名は何ですか

ユダヤ三教はいずれも一神教です。

例えば、
1.ユダヤ教の唯一神の名は「エホバ(ヤハウエ)」、
2.イスラム教の唯一神の名は「アッラー」です。

それでは、
3.キリスト教の唯一神の名は何ですか。ご存じの方、教えて下さい。

Aベストアンサー

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源)という呼び名もあったが、
・現代のキリスト教では、単にGod(神)と大文字で表記し、普通名詞としてのgodと区別することが多い。
唯一神なのだから、単に、固有名詞の「神」だと考えればわかりやすい。
・日本の信者間での通称は、「主」(しゅ)が一般的である。
・私が子供の頃は、「天主」という呼び方もあったと記憶している。古い教会で「浦上天主堂」などと呼ばれているのはその名残。多分「天使」と混同するから使われなくなったのだろう。

・尚、カトリックでは、「三位一体」説というのがあり、神には、「父」と「子」と「聖霊」の3つのペルソナ(人間なら「人格」と訳すが、神なので「位格」と訳す。英語のパーソンに相当)があるが、本来は同じ一体の「神」の別の表れ方という解釈がなされている。
→ http://www1.tcat.ne.jp/eden/Hst/dic/trinitas.html
仏教の阿修羅のように、一体なのに、顔が四方についているイメージを思い浮かべば、イメージしやすいかもしれない。

この内、「父」は、「天の父」であり、
「子」は、「神の子」でありながら、人類の救いのため、人間の姿になって地上に降られた「イエス・キリスト」であり(その意味で、「イエス・キリスト」は「救い主」(メシア)と呼ばれる。)
「聖霊」(「精霊」ではない)は、イエスの誕生、洗礼及び復活のとき、イエスの中に満たされるとともに、今日ペンテコステ(聖霊降臨の日)と呼ばれる日に舌の形で弟子たちのもとに下り、一瞬の内に出身国・国語の異なる弟子たちの言葉が通じ合い、喜びに満たされた、という話があり、今後も「聖霊」が人類に与えられることによって救いが完成すると言われています。
→ http://www.pauline.or.jp/spirit/sps3.php

このように、三位一体説は、非常にわかりにくい教義で、3つのペルソナの中で、すぐにイメージしやすいのは「子」であるイエス・キリストのみであり、教会内にキリスト像ないし十字架上のキリスト像があるが、あとの2つは、像もなく、目に見えにくいイメージですね。

神=イエス・キリストという回答も間違いとは言えませんが、正確には、イエス・キリストは神の3つのペルソナの一つであり、「キリスト教の唯一神は固有名詞の「神」Godという呼称で呼ばれています。」という回答の方が、現代では一般的だと思われます。

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む


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