
江戸時代の農村における身分と常夜灯について
以下の項目について知っておられる方、回答をお願いします。
1江戸時代の農村における身分は地域によって異なっているかとも思いますが、数か村を束ねる大庄屋、各村の庄屋、組頭(これはどんな単位のかしらでしょうか)、本百姓、水呑み百姓、小作人。これでいいのでしょうか。
2 松山地方には各地に常夜灯が多く残っています。ほとんどが自然石で作られたものです。この常夜灯に文字を入れるのは誰でしょうか。お寺の和尚さんかとも思うのですが。それとも庄屋か組頭みたいな人でしょうか。彫師はどんな人だったのでしょうか。
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
1.についてだけですが・・・
歴史を専門に勉強した者ではありませんので、多少誤認している所があるかもしれませんが、ご参考までに。
本百姓は自分が所有する農地で耕作している農民のこと。
水呑百姓は農地を持っていない農民。農耕をするには地主から農地を借ります。即ち小作人となります。本百姓でも所有する農地が少ない場合は土地を借りて耕作することもありました。
小作の場合耕作者は地主に借地料を払いますが、年貢は納めません。年貢は地主が受け取った借地料の中から納めるからです。
江戸時代の年貢は土地にかかったので(現代のような所得税ではない)土地を持つことは年貢を納めることを意味し、村での発言権を得ました。一般に水呑は村の会合等での発言権はありません。
組はいわゆる五人組のことで、組頭はそのリーダーです。年寄に次ぐ発言権があり、周囲から信頼される本百姓から選ばれました。
年寄は現代風に言えば議員さんといったところでしょうか。村に3~5人いて庄屋を補佐しました。
庄屋は村の最高責任者、村長さんといったところ。村の行政をすべてします。帳面付けから領主との折衝、時にはケンカの仲裁や警察官のようなことまでしました。
大庄屋は数ケ村に一人いましたが、村方の人というよりは領主側に近かったようです。熟練した庄屋の中から選ばれたようです。
以上、士農工商の分け方ではすべて農民になります。
No.3
- 回答日時:
こんばんは、#1です。
組頭などが世襲制だったか、とのご質問ですが、ほぼそうだったと思います。ただしあまり世襲制にこだわっていたようには思えません。こういった村役人は周囲の人々から一目置かれる存在でなくてはならず、そのような人(あるいは家系)は限られたため事実上の世襲制だったのではなかと思います。
何らかの不都合があればもっと適した人と交代することはよくあったようです。中には任期制・公選制で村役人を選んでいた所もありました。
小生の近所では倉敷村がそうです。現在の岡山県倉敷市。大原美術館があるあたりです。そのことを詳述したページではないのですが、貼っておきます。
http://gos.but.jp/kurahys.htm
ところで#1では主に近くの某村の様子を基に書いたのですが(この内容はどこの村でも大きくは違っていないでしょう)、役の名称や職務範囲は藩によって、また村によって違っていました。詳しくは各地方の郷土史料を調べて頂きたいと思います。
この村ではあと2つの役がありました。判頭と保頭です。
判頭はだいたい組頭が兼任していたようですが、本来は違う性格のもののようです。どう違うのかは小生にはわかりません。
保頭は村に一人おり庄屋に次ぐ高給を受けていましたが(この村では庄屋・保頭・年寄には村から給与が出た)、何をしていたか郷土史の専門家にもわかっていません。
さらに詳しいご解説を頂き、ありがとうございます。私が居る古い隣村にあたる場所に重要文化財となっている庄屋屋敷が残っています。近所にも庄屋屋敷跡の堀などがあります。しかし、私が居る村の場合庄屋跡がないので、それとなく調べてみると数人の「おとな」が交代で庄屋をしていたのではないかという説にぶつかりました。どうもその百姓は「年寄り」と呼ばれる身分だったようです。
この地の身分制度については、後で調べてみます。
庄屋屋敷に堀があるのは、何から身を守るためだったんでしょうか。百姓一揆は江戸時代後半に多いはずで、それ以前に堀があるのはどういうわけでしょうか。
お世話になりました。
No.2
- 回答日時:
農民の身分に関して、いろんな呼称が出てくるので私もしょっちゅう戸惑っています。
いま読んでいる山川出版社の『新体系日本史・法社会史』の中に、「世襲」についての記述があります。
「村役人の構成も、従来の名主(庄屋)・組頭のほかに、一般百姓の惣代として前二者を監視する百姓代があらたに登場し、いわゆる村方三役制が成立する。
そして、名主(庄屋)・組頭についても特定の家筋による世襲制を廃し、惣百姓の談合や入札による公選制を実現した村さえあらわれた。」
世襲でない場合は、村政文書を「組頭・百姓代・五人組頭」らの立会いのもとで引継ぎされています。
検索しますと、「福井県史」の中に世襲制でない具体例を見つけました。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …
この中には「肝煎」「長百姓」ほか、いろんな呼び名が出てきますが、解説できる知識は持っておりません。
また、本百姓の「本」の意味とか、百姓とはどう違うのか、水呑み百姓は(百姓身分ではないはずですが)百姓という名が付いているから百姓に入るのか、また小作人との違いは何かなど、疑問が次々出てきます。
前記の本には、
「百姓身分であっても、村内では同族団の総本家や有力分家が、「長オトナ(乙名)百姓」「年寄百姓」といった特権的身分階層を形成し、他の分家百姓を「平百姓」「小百姓」「脇百姓」などと称して差別し、支配した例は多い。」とあります。
さて、近くにも江戸時代の常夜灯があるので見てきました。
街道にある1基は、当村○屋のように宿屋9軒の名があります。
他の1基は、「願人為右衛門」とあり、世話人10名の名があります。
他の1基は、嘉永5年建立で「天下泰平、国家安全」と彫られていますが、施主や世話人の名があっただろうと思われる面は、残念ですがそぎ落ちてしまっていました。
神社の常夜灯には、当村(邑)氏子中と、あります。
商売人らしい屋号と名前を書いているものもあります。
彫った人は「石工」でしょう。
石工の名が彫られていたものもありました。
私は松山生まれの松山育ちですが、郊外のお陰で旧村には17基、南隣の村には16基の常夜灯が残っています。
常夜灯の前の文字は福井とは相当異なっていますし、石工の名前は見当たりません。多分各村に一人ぐらいの石工はいて、必要なかったのかもしれません。
表面の文字の多くは、「石、金、三」その下が「常夜燈」です。「石」は四国霊峰石鎚山神社、「金」は香川県の金比羅山、「三」は「三島神社」=「大山祇神社」を指しています。
作られた年代は古いもので明和5年(1768)から大正4年(1915)にわたります。ほとんどは江戸時代後期です。常夜燈のの横や前に「組中安全」とか「氏子中」という文字が散見されます。
なお、常夜燈の向きは上に上げた3つの内の神社がある方向のいずれかを向いています。
丁寧なご解説を頂き誠のありがとうございました。貴重な情報を感謝します。
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