プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

仏教などでもそうだと思いますし
私の好きな歌手も同じような事をいっているのですが
「せっかく生まれたんだから今を大切にして悔いのない様に一生懸命生きましょう」
などと言われるのですが私も楽しく人生を
過ごしたいと思うのは共通するのですが
「どうせ死んだら全部が無になってしまうし、一生懸命生きたって何
にもならない」
と凄く悲観的なのですが皆様はどう思いますか??

また、これに関係してか分かりませんが私は未来に全く希望が
持てません。
「私はどうせ幸せになれない」「もっと楽しく生きたいけど私には無
理だろうな」って思ってしまうんですが、これは精神病の1種だったり
するのでしょうか?

宜しくお願いします

A 回答 (22件中11~20件)

人生の意味を考えてみることは時にはいいことだと思います。


でもそればかりを考えているようになると注意が必要かもしれません。

なぜなら人生の意味を見つけ出すことが重要なことだと思ってしまって
いるかもしれないからです。
そうなると人生の意味が見つかるまでは何かをすることが無駄のように
思えるようになるかもしれません。

自分のやりたいことに打ち込んでいる人は多分人生の意味について
考えている時間が取れないと思います。
とするならば,何かに打ち込むには人生の意味が分からなくても何も
問題がないということです。
もちろんあとから意味を見つけてもいいですが。

何もしてなくてある日突然に幸せを感じられるようになったり、楽しく
生きられるようになったりすることはないと思います。
でも諦めないで何かをやり続けてある日突然に幸せとはこういうものか
とか、人生って意外と楽しめるものだと思える時が来るかもしれません。
でもそれは保証されたものではありませんが、自分が見つけだそうと
しなければ見つからないと思います。
誰かや何かは自分を救い出す手助けはしてくれますが,自分が抜け出す
行動をしなけばいつまでもそこにいなければならないのです。
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創価学会の者です。



人間の一生においては、悲しいことや辛いことなど、マイナスの出来事(我々は「宿命」と呼んでいます)に出会うことが多いですね。 そのたびに人は、何とかそれらを解決したいと苦しみもがきます。しかし、創価学会の実践している法華経の教え(南無妙法蓮華経)においては、これらは悲観すべきものではなく、すべては信心の偉大さを証明するための仮の姿であり、幸福へと転換するチャンスである、と捉えます。

池田名誉会長は、次のような指導をされています。
「人生において、さまざまな悩みにぶつかることもあるだろう。どうにもならない現実に直面することもあるに違いない。しかし、同じ状況にあっても、ある人は、生き生きと進む。ある人は、嘆き、悲しむ。喜びというのは、心が感じるものだからだ。この人生を、喜んで、楽しんでいければ、その人は「勝ち」である。ゆえに、大事なのは、心を変革することだ。これが仏法である……私たちの運動は、この幸福の根本の軌道を教えているのである。信心に生き抜くならば、「生も歓喜」「死も歓喜」の人生となる。いかなる山々も悠々と乗り越えて、楽しく、にぎやかに進んでまいりたい」

「弱い希望しか持たない人の落ち着くところは太平楽か暴力である。強い希望を持つ人は新しい生命のあらゆる兆候を見つけて、それを大切に守り、まさに生れようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備をととのえている」(エーリッヒ・フロム『希望の革命』)
「希望」こそ、人生や社会における最大の活力です。貴方も、「どうせ死んだら全部が無になってしまうし、一生懸命生きたって何にもならない」などと投げやりなことを仰らず、何かに希望を見出し、貴方にもあるであろう、この世で果たすべき使命というものを自覚されんことを望みます。
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生きることも苦であり、刻一刻と老いに向かうことも苦であり、病に倒れるのも苦であり、確実に自分にも訪れるであろう死を考えることも苦です。



老いに向かうと、容色は衰え、体は自由に動かず又痛み出し、聴力視力は衰え、好きな食べ物も食後の不快感があったり、医師に禁止されたりして食べられず等々と、若いときの悩みなど如何ほどばかりのものであったかと振り返ることでしょう。

とりわけ今日は、若者本位の文化であり、めまぐるしい変化の中で、いつまでも若々しいことを善しとするため、心と身体の乖離はより深刻です。ある時期、身体の突然の裏切りによって、急激に年齢を感じる仕組みになっています。また成長しないことが美徳であるため、老成という言葉は老害という言葉に置き換えられ、わがままな年寄りを産みだし続けるかにみえます。

身に死が一日一日と迫ることは若い人も同じことですが、願いとしてはその時がきたときは、見苦しくなく、また家族に迷惑を掛けないで、又苦痛が少なく、そっとその時が訪れるのを望むのは贅沢でしょうか。

若い人は、人生の残りがあまりに永いと感じるため、その始末に困ってしまうのではないか。あまりに先の先を思い煩うことがあるのではないかと感じます。一日一日は物理的には同じ時間でも、加齢とともに飛ぶように無為に過ぎ去っていきます。わたしなどは、無為に年齢を重ね、自分の人生がいかに恥じ多い人生だったかと感じます。全部が無になればそれも帳消しにしてもらえます。

どなたかの本に、もっと勉強しておけばよかったというような感想が書いてありました。それは立身出世につなぐような話ではなく、個人的な楽しみとして現在の自分の人生がもっと豊かであろうということだと思います。若いころ身に付けたものも刻々と自らの手を離れ消滅してゆきますが、それでも幾分かは持ち続け楽しみを残せます。興味のまま新しいことに挑戦することもできます。

仕事や作業、また入院中の時でさえ、全体で見れば苦痛でも、部分部分、局面の中に、興味が持てたり楽しいことが、幾分かは含まれるでしょう。ポリアンナのよかった探しではないですが、幸せであったり、楽しく生きるというのは、状況ではなく心の中にあるのではないかと思います。

誰にとっても、行くも戻るも苦であることは原則ですが、感じやすいことは、人に優しくできるすぐれた特質だと思います。苦労が多いかもしれませんが、人を幸せにできる性格だと思います。あなたの周りの人から幸せにしてあげてください。仏教でもあいさつをする(愛語施)、笑顔を見せる(和顔施)というようなことが布施の一つであるとしています。

この布施を受け取れず、返事の返ってこない人もあります。餓鬼道では空腹で食べものを食べようとすると、食べ物が炎となり食べられないといいますが、善きものも受け取れない心の状態を表しているものと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%93%E9%AC%BC
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創価学会壮年部の者です。


質問の冒頭に『仏教などでも、、、、』とありましたので、宗教を持つ者の立場から意見を書かせていただきます。

>「どうせ死んだら全部が無になってしまうし、一生懸命生きたって何
にもならない」

仏教では、人間の体である「物質」の消滅は説いても、「生命」の消滅は説かないばかりか、「過去世」・「現世」・「来世」の三世間を説き、その中で生命の永遠性を説いています。
私たち人間の生命には、「九識」といって九つのハードディスク(これは譬えですが)みたいなものがあって、全てを記憶しているのです。
但し、この九つのハードディスクからのデータは全て人間の意思で取り出せるものではないのです。
また、「人間は何のために生きるのか?」。この疑問は、多くの人間が色々な論を持っていると思います。
仏法の時限から言えば、自分から望んで現在(プレゼンスの意味です)に生まれ、正法を弘め人々を幸福へと導く為と云われています。生きる地域や出会う人々は、世間的には貴方に全く関係ないように思えても、実は貴方の生命に応じて、全てが関係している事だといわれています。
実生活の上で言えば、大なり小なり仕事や社会生活を通して、人のために成れる様努力したりすることが大切なのではないでしょうか。

>「私はどうせ幸せになれない」「もっと楽しく生きたいけど私には無
理だろうな」って思ってしまうんですが、これは精神病の1種だったり
するのでしょうか?

全く病気ではありません。ご安心いただいて良いと思います。
一概に「幸せ」、「楽しい」と言ってもその度合や感じ方は人様々です。
基準が無いのです。
貴方の「幸せ」、「楽しい」ということを、一言で現すことが出来ますか?
それが身近な友達にしても、「同じ価値観で生きている」とは限らないのです。
ただ、何に価値を見出すか千差万別ですが、人間における『絶対的幸福』の確立だけは、必ず成し遂げられるものなのです。その為に、仏は『法』をこの世に残してくださいました。『法』に生き、人のために生きることで人間は自己の生命の変革をし、幸せの軌道に沿った人生を開く事が出来るのです。
これは何も特別な人間だけがなれるのではなく、万人が可能な事なのです。
そもそも「衆生所遊楽」といって、人間はこの世の中を楽しむ為に生まれてきているのです。
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私も(

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1394160.html )でのNO5では「生きている」のが空しい云々とカキコんだクチではあるのですが、「人生の意味とは」?との哲学的質問の、しかも定番中の定番のそれを投掛け続ける限り、"意味ある人生"を質問者さんなりに送られていると思いますよ!!(少なくとも私の思索的拘りに鑑みる時には・・・)

尚、>これは精神病の1種云々と質問者さんは吐露されていますけど、社会通念的には病苦だと思い込む必然性はゼロでしょうし、実の処、正真正銘の(!?)病の一歩手前だとしても、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1456099.html のNO10での2)aで触れた如く、通院し、投薬された折でも、それはサービスの購入即ち、顧客なのであり、何ら悪びれる事は有得ぬのです。
結局ファミレスで飲食したりするのと、一切変りありません。
そして、「深刻に考え過ぎ、自分を追込むのは今回の件に関する限り得策とは言えない!!」と、締め括って置きましょうか。
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有名人になって自分の功績を後の世代に伝えたいという欲求があるのでもない限り、悲観的に生きる必要はありません。

あなたの周りの友人や親戚にとっては、あなたが生まれてきたこと、あなたが生きていることだけでも、重大な事実であり、あなたの死後も間違いなく、あなたという人がいたということが数世代の間は語り継がれることでしょう。
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今がなければ希望を持つことができず、希望がなければ今を充実することができません。



「どうせ死んだら全部が無になってしまう」という考え方はあまりにも個人的な考え方です。自分というものの捉え方があまりにも狭すぎます。
 一個の生命としてのみ考えるのであれば、それは動物と同じようにただ何も考えす、生命を永らえていればいいだけです。

ただ人である以上生まれた段階で、家族に属し、社会に属し、人類に属します。
 もし死んだとしても、生命としては消滅しますが、人としては消滅しないんです。あなたの大好きな人はあなたの中からも消滅して無になりましたか?

 現在まで人類はながい歴史をへて現在があります。僕たちはいいことも悪いことも全時代から受け継いで今があります。人類としての視野から見るなら、次の世代にこのバトンを渡さなくてはいけません。社会、家族としても同じことが言えます。僕たちは長い歴史の中の微点なのかもしれませんが、その点がなければ人類の未来も存在しないのです

 希望が持てないといいます。確かに今の時代は希望が持てないほど、悪化しています。それならば「次の世代に希望を渡す」ということを希望にすればいい。希望というものは自分にだけ与えられるものではないと思います。与えることも希望になると考えています。

幸せもそうです。与えられるものだけではないのです。与えることだって幸せです。


一生懸命いきること、それは誰かのためにきっとなります。だから幸せとか、希望とかが手に入るんです。だから、今が充実して、楽しくなるんです。

自分のためだけに生きているやつなんて信用できないでしょ。
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人の幸せが自分の幸せであることを、


アナタは知らないから自分が見つからないのですよ。

>「どうせ死んだら全部が無になってしまうし、
> 一生懸命生きたって何にもならない」
>「私はどうせ幸せになれない」
>「もっと楽しく生きたいけど私には無理だろうな」

あなたの問いはすべて"ご自身"の問題です。

何を為しても何にもならないと思うのは、あなたがホンノ少しでも他人にたいして何かしてあげようとしていないからですよ。なぜ他人の事を考えていないのに、なぜ他人に尋ねるのですか?ずうずうしいですよ。自分の幸せの為に他人を巻き込まないで下さい。

他人はあなたにとって何ですか???愛されたことがありませんか?では、愛してみませんか?他者を介在しないから、あなた自身も自身が無意味に感じるのです。かといって「自分が意味無い」のに他人を幸せにしてもむなしいでしょう…なんだか変に厳しい言い方になりましたが、もっと自分が社会(人間の中に居ること)を意識して、自分を見つけなければ幸せになれませんよ…とただ言いたいです。

これは、読書をして行動して人間と携わって、ご自身で見つけて考える問題です。
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こんばんは。



人間を生物の一種と見なせば、
「生きる」ということの意味は、「生きようとする」ことではないでしょうか。
そして、「生きようとする」は、自分自身のことでもありますが、周りの人との協力のことでもあります。
多くの場合、同種の生物達は、助け合っていきています。

つまり、私が言いたいのは、
「人を助け、人に助けられ」
という精神で生きるのがよいということです。

望ましくは「(借り手ではなく)貸し方の人生」ということだと思います。(私が尊敬するお方の名言)

大したことのない例ですが、私が、ここのQ&Aサイトを利用している理由の一つは、それです。


なお、
鬱(うつ)になっているか、専門医に診てもらうべきかどうかのチェックは、下記の2つのリンクでできます。
病院・診療所でやれば有料の、プロが使うツール(しかも、ただ)ですので、信用してやってみてください。

http://mental.heart-warm.net/check/utu/sds.html

http://www.jtu-net.or.jp/cgi-bin/selfcheck/e-sel …
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この回答へのお礼

分かりました。

ありがとうございます

お礼日時:2008/03/04 15:26

究極的なことを言ってしまうと人は「生きなさい」以外なにも


分からない生き物です。
だから人生の意味とはどう生きるかを絶え間なく考え、実践していく
事だと思います。
答え合わせはしてくれませんし、正解、不正解もないのだと思います。

自分と他者とが「良い」と思う生き方を模索する旅なんじゃない
ですかね?
答えがないと不安だというのならあなた自身で答えを決める以外
ないと思います。たとえ人が言った言葉通り生きるのだとしても。

もし、それでも不安ならあなた自身のほかに大事な他人を作っては
いかがですか?他者のために生きる=自分のために生きる
を実践していらっしゃる方はたくさんいますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私は他人の為に生きたいです。
あまり自分に価値がある人間だと思ってないので。

ただ大事な人が出てきてくれるのかが不安です

お礼日時:2008/03/04 15:25

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