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なぜ薩摩・島津家の分家に生まれた於一が、江戸幕府の13代将軍・徳川家定の正室になれたのでしょうか?教えてください。
 関ヶ原の戦いで西軍についた薩摩は譜代大名なので、とても将軍の正室を出せる家柄ではないはず。本来なら徳川家と肩を並べるぐらいの由緒ある家柄の女性が正室になるはずだと思います。 大河ドラマでは、島津斉彬の裏工作は詳しく放送できないと思います。水面下でのえげつないかけ引きの内容でもかまいませんので於一が将軍の正室になれた真実を教えてください。お願いします

A 回答 (5件)

他の方の回答にもありますが、将軍御台所が外様である島津氏から出たというのは


篤姫が最初ではないんですよね。11代将軍御台所茂姫も島津氏の出身です。
宮尾登美子さんの原作では斉彬の計略で嫁がされるという風に書かれていますし、
ドラマでもそのように描かれるようですが、最近の研究では幕府側からの要請だったといわれています。
家定の正室が二人続けて早世していることから、「今度こそは丈夫な御台所を」という期待からでした。
実は斉彬も支藩の娘や親戚筋にあたる大名家の娘をあたっているのですが、すでに婚約済みだったりして該当者がいなかったようです。
篤姫に順番が回ってきたのは偶然のめぐり合わせという部分も大きいのです。
また、斉彬と篤姫はいとこ同士なので親近感もあったのではないかと思われます。

ちなみに、島津氏と徳川宗家の関係はけっこう深いものなんですよ。
5代将軍綱吉の養女だった竹姫は島津家にお嫁入りしています。
茂姫が11代将軍家斉に嫁いだのも、この人の遺言だったようです。
くわえて、外様とはいっても前田家に次いだ雄藩であること。
公家筆頭の近衛家とも密接なつながりがあること。(鎌倉時代にまで遡ります)
さらには幕末の複雑な政治事情があいまって、篤姫輿入れは実現したというべきでしょう。
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まず


「関ヶ原の戦いで西軍についた薩摩は譜代大名なので」
鹿児島藩島津家は「外様大名」です。お間違えなく。

「本来なら徳川家と肩を並べるぐらいの由緒ある家柄の女性が正室になるはずだと思います」
その通りです。
徳川将軍と嫡子の正室は「皇族」または「五摂家」の女性に限られていました。なお、二代将軍秀忠の正室は、浅井長政の娘ですが、「関白太政大臣豊臣秀吉の養女」の資格で徳川家に嫁いでいます。三代目以降は全て「皇族」または「五摂家」の女性です。(養女を含む)
ご質問の篤姫もその例に漏れず、あくまでも建前上は「五摂家である近衛家の女性」として将軍家に嫁いでいます。

なお、将軍家の正室が「皇族または五摂家の女性に限る」というのは、戦前の「皇太子妃=将来の皇后」の選定基準とも同一です。

孝明天皇の『女御』:英照皇太后 (九条夙子)
※ 孝明天皇の生前に、本来であれば「立后」されて皇后となるべき方でしたが、立后の前に孝明天皇が崩御してしまい、「孝明天皇の女御」のままでした。「孝明天皇の正室」には間違いありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1% …
明治天皇の皇后:昭憲皇太后 (一條美子)
大正天皇の皇后:貞明皇后 (九条節子)
昭和天皇の皇后:香淳皇后 (久邇宮良子女王)

江戸時代の日本では、
「皇族」「五摂家」「徳川将軍家」
が同格の存在であったということです。
例えば
「徳川将軍家に次ぐ家格である御三卿、紀伊家、尾張家の女性が徳川将軍家の正室になる」
ことも「身分違い」として有り得ませんでした。

質問者様の疑問のメインは
「島津家の分家の女性が島津斉彬の養女になり、次いで近衛家の養女になり、将軍家に嫁ぐというまどろこしいことが行われたのは何故か」
でしょうか。
「なぜ島津家、それも分家から」については既に他の方が解説しておられるとおりですが、補足すれば
「島津斉彬に適当な実の娘がいなかったから」
という単純な理由です。斉彬に良い年頃の実の娘がいれば、わざわざ分家の女性を養女にはしなかったでしょう。
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まず、誤解があります。


島津家から将軍の正室になったのは、於一が初めてではありません。
11代将軍の徳川家斉の正室は島津藩主の島津重豪の娘です。

この島津重豪は島津斉彬の曽祖父にあたります。
又、重豪は当時としては長命の89歳で死去しており、ひ孫の斉彬が元服した後も存命していました。
斉彬は彼の影響を強く受けており、斉彬が持つ西洋の知識や改革主義は彼の影響によるもの、とも言われています。

そして、於一を将軍の正室にしようと考えた事も重豪を手本にしており、
姫を婚姻させるに当たって、いったん近衛家の養子とした事もその時の事をなぞっています。
他にもなんといっても11代将軍に嫁いだ姫の名前は「篤姫」と言いました。
つまり於一は、この11代将軍に嫁いだ姫の名前をちなむ事になります。

ただし、11代将軍に嫁いだ姫が島津藩藩主の実子であったのに対して、於一は島津家分家の出身であり、
本来なら将軍の正室になれる身分ではありませんでした。

そこで質問の答えになりますが、於一が将軍の正室になれたのは、

・島津家出身の11代将軍の正室が男子を生んでいたため、将軍家がその慶事にちなんだ。
(正室が男児を生んだのが、2代徳川秀忠以来の事で大変な慶事とされていました。)

・鎖国体制に揺らぎが出てきたために、歴史的に外交経験が豊富な島津藩主で、しかも当時から英才といわれていた島津斉彬を、
幕府がブレーンとして引き込みたかったから。

の2点が特に言われています。
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宮尾登美子さんの原作にはそのへん、全部書いてありますが……。


あの時代の江戸城表を動かしていたメンバーに水戸さん島津さん阿部さんなどがいて、彼らの間でひ弱くちょっぴり頭も心配な次の将軍さまを、しっかりコントロールするため(攘夷論と開国論の問題もあり)だれか自分たちの手駒になって操れる娘を……ということに決めたのです。
徳川300年もすでに終末期に近づき、親藩・外様という以外の力の強弱がはっきりとでている時期のことですから。
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すごーく期待されてるかもしれませんが、すごく単純なんです



13代家定の嫁が二人(公家の娘なんで)続けて死んじゃって、こらあかんぞって事でどーしよーか?ってお母さんに聞いたら、おばあちゃんに当る広大院みたいに薩摩の女なら丈夫だろー、ってことで篤姫が選ばれただけなんです(^_^;
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この回答へのお礼

この回答を読んで「そうだったのか・・・」と体のちからが一気に抜けてしまったんですが・・・簡潔な即答ありがとうございました。
 思うんですが普通の人は戦争嫌いなはずなのに、大河ドラマで人気をはくすのはだいたい日本史のそれぞれの時代の戦争を含む期間の出来事です。なんか矛盾してますよね。私もふくめて

お礼日時:2008/03/05 18:41

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