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旧日本海軍はハンモックナンバー主義だったといわれてますね?
そこで質問なんですが、海兵のみ海大未の場合、
1.どこまで出世できたのでしょうか?(餞別昇進含む、殉職昇進含まず)
2.また旧陸軍では陸士を出てない叩き上げでも士官になった者も
多数だったらしいですが、本当ですか?
3.陸軍と海軍のこの昇進の違いはなぜなんでしょうか?
 入った瞬間に先が見えている海軍よりも一発当ててやろうと
 陸軍を志望するものが多くいたというのも本当ですか?

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A 回答 (5件)

1) 大将や中将に昇進する士官が海大甲種学生を経ているケースが多かったのは事実です。

しかし、海大甲種学生を経ていなくても、中将に昇進した例は珍しくありません。

有名な例は、

大西 瀧治郎 中将
http://homepage2.nifty.com/nishidah/px40.htm#v007
栗田健男 中将
http://homepage2.nifty.com/nishidah/px38.htm#v009

他にも探せば数十人はいるのではないでしょうか。
将官に昇進した海軍士官については、下記のサイトにほぼ全員の履歴が載っていますのでざっと眺めてください。「海大甲種学生を経ずに出世コースを歩んでいる」例を少なからず見つけられるでしょう。
なお、大西中将も栗田中将も海兵の席次が比較的上(上位20%程度)であることに注意して下さい。
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_index.htm# …

2) 質問の趣旨が良く分からないのですが、陸軍でも海軍でも、士官学校や兵学校を出た正規の士官(将校)と、兵卒から叩き上げた士官が並存していました。陸軍でも海軍でも「兵卒から昇進した士官の最高位は通常は大尉、稀に少佐昇進と同時に予備役編入」であったのも同じです。
海軍の叩き上げ士官(特務士官)は「軍鑑で高度の熟練を要する仕事のプロフェッショナル」、陸軍の叩き上げ将校は「陸士出身正規将校だけでは小隊長や中隊長を充足できないので人数を補う」と言う点で違いがあったようですが。
なお、陸軍でも海軍でも「兵卒から叩き上げて将官に昇った人」は存在しないと思います。
※ 明治時代の陸軍に存在した下士官養成機関「教導団」に入り、そこで実力を評価されて、「改めて士官学校に入学して正規の士官となり」、最終的に大将や中将まで昇った人は何人もいますが、これは「兵卒からの叩き上げ」には当たりませんよね。
陸軍教導団
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D% …
3) 質問の趣旨が良く分かりませんが、陸海軍の昇進の基準は大雑把に言うと

海軍:海兵の卒業時の席次が最重要。海軍では、全ての士官が海兵の卒業期と席次をリンクさせた「先任順」が明確にあり、定期的に先任順の名簿が更新されていました。なお、先任順は海兵を卒業した後も事情により動くことがあり、海兵卒業時は下だった人が、大佐になる頃には上になっていた例も珍しくはなかったようです。

陸軍:陸士の卒業成績はそれほど重要ではなく「陸大を卒業したか否か」が最重要。陸大卒業者は「天保銭組」と呼ばれ、人事権が陸軍省から参謀本部に移り、特段の事情がなければ必ず将官に昇進したようです。
一方、陸士を出た正規の将校であっても、陸大に行けなかった「無天組」は軍人生活のほとんどを「隊付将校」として送り、最高位は「連隊付中佐」、大佐昇進と同時に予備役編入、が平時は普通だったようです。無天で中将・第一師団長に就任した堀丈夫中将のような稀な例もありますが、海軍とは違い「大学校を経ずに将官に昇るのは奇跡」でした。
堀丈夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E4%B8%88% …
※ 支那事変、大東亜戦争と戦争が長く続きますと、無天組でも将官になる人、中将に昇進して師団長になる人が多く出ました。
ただし、無天の場合は特設師団の師団長どまりで、軍司令官や方面軍司令官には就任できなかったようです。
私自身がした質問ですが、下記の質問も参考にしてください。
「無天で将官に昇った堀井富太郎中将(南海支隊長)」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3754309.html

また、陸軍でも海軍でも、華族で爵位を持っているから優遇される、と言うことはありませんでした。例えば、ロサンゼルス五輪で馬術で金メダルを取ったことで有名な西竹一陸軍大佐(通称 バロン西)は、男爵位を有し、戦前の「国民的英雄」でしたが、陸軍の内部では「単なる無天組将校」であり、全く優遇は受けていません。

「入った瞬間に先が見えている海軍よりも一発当ててやろうと陸軍を志望するものが多くいたというのも本当ですか?」
そういう話は聞いたことがありません。
反対に
「陸軍では、幼年学校出身者が出世しやすい。中学校を出て軍人になるなら、陸軍士官学校より海軍兵学校に行く方が良い」
と身内に言った陸軍軍人の話は知っていますし、陸軍で幼年学校出身者が出世した例が多いのは事実です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
完璧です!
こちらの知りたい情報が網羅されています。

お礼日時:2008/04/14 10:21

 参考までに。



 日本陸軍の兵力

 1931年の満州事変当時、日本陸軍の総兵力は約45万
 1937年の日華事変勃発時まで、あまり増えず50万弱。
 1941年、日米開戦までの中国戦線の拡大・泥沼化で兵力200万
 1945年、終戦時には戦闘力の低下を兵力で補うため、650万

 このため当然必要な士官の数は急増し、経験年数の少ない仕官が急速に昇進し、たたき上げ仕官も増えました。
 兵士も精鋭で軍紀の厳正な現役兵部隊から、応召兵(召集令状で集められた人)主体となりました。
 
 海軍は艦船が急激には増えず、(民間船舶を軍用で徴用したりして、仕官が必要とはなったでしょうが・・・)太平洋戦争が中期を過ぎれば、艦船はどんどん撃沈され減る一方でした。
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この回答へのお礼

平時は40万位だったのですか?
独ソ戦なんか300個師団とかいう話が出てきますんで、
もう数値感覚が麻痺しますね・・。

お礼日時:2008/04/14 10:26

 軍人の進級については、平和時(平時)と戦時とでは大きく違いがありましたから、一概にこうだ、ということが出来ません。

そこで、太平洋戦時の海兵41期あたりの例を示してみたいと思います。


>1.どこまで出世できたのでしょうか?

 海軍兵学校(海兵)卒業者は、大過なく健康で通常に勤務していれば、大佐まで進級することを内規としていたので、大佐まで進級できるというのが回答になります。(ただし、軍縮期など時代によって異なる) 

 41期生のばあい、海大卒のうち1944年(昭和19年)10月15日付、中将となった例がありますが、非海大卒でも同日付で中将になった者もいます。このことから海軍の場合、海大卒が有利であるのが間違いないにしても、そうか否かは昇進に決定的な差はないともいえます。
 また、木村昌福(まさとみ)という人の卒業順位は、113名中、107番で、水雷艇、掃海艇、工作艦、特務艦などの艇艦長を務めていたのが、戦争が始まって巡洋艦艦長、水雷戦隊司令官、連合艦隊司令部付と歴任し、45年(昭20)11月1日付で中将となっています。42期では安場保雄(磁気・音響の専門家)という人が、やはり非海大卒ながら45年5月1日付で中将に進級しています。これらは異例かもしれませんが、海軍の場合そういう可能性があった、ということを示しています。

>2.また旧陸軍では陸士を出てない叩き上げでも士官になった者も
多数だったらしいですが、本当ですか?

 陸軍には「特進」とよばれた、兵卒から累進して将校になった者がいました。
 ただ、海軍も叩き上げの士官(特務士官)は大勢いましたから必ずしも陸軍特有の現象ではありません。ゼロ戦の撃墜王として知られる坂井三郎も海兵卒ではありませんが、終戦時は中尉でした。

>3.陸軍と海軍のこの昇進の違いはなぜなんでしょうか?

 旧日本陸海軍の現役兵科将校養成機関であった陸軍士官学校(陸士)と海軍兵学校(海兵)を比較する場合、まず、卒業生の数が異なりますので、それを念頭に入れる必要があります。
 
 将官(少将~大将)になった人数は、陸士のばあい、士官生徒(1~11期)と士官候補生(1~33期)までの卒業生合計18059名中3140名(17・3%)。海兵(1~47期)は卒業生3854名中1187名(30・7%)で、陸士の約1・77倍でしたから海兵の方が率が良いことになります。

 また、山口宗之氏による陸海軍将校の昇進のパターン(特異例)についての詳細な研究がありますので、関心がおありならぜひ精読されることをお勧めします。


資料= 古川利昭「陸海軍将官六千人の分析」『増刊 歴史と人物 秘史太平洋戦争』(中央公論社)84年(昭和59)所収  

   = 山口宗之『陸軍と海軍 陸海軍将校史の研究 (清文堂出版)05年(平17)

   = 外山操『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』 (芙蓉書房)81年(昭56)
  
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
数値に裏づけられたデータ、具体例。
すごすぎます!!

お礼日時:2008/04/14 10:23

陸軍は士官学校(陸士**期)と陸大の卒業名簿でほぼ序列が決まります。



29歳までは誰もが大尉になれます。
陸大に行くとその後、少佐・中佐・大佐と急激に出世しますが、陸大に行かないと
36歳で少佐、定年直前まで少佐が普通です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>29歳までは誰もが大尉
>36歳で少佐、定年直前
当時の予備役編入年齢が低かったということでしょうか?
年齢と昇進スピードがあってないようなきがします。
40歳位ですか?

お礼日時:2008/04/14 10:08

 例外はあると思いますが



1、予備役編入前に大佐に成れる可能性がゼロでは有りませんが…。まあ兵卒出身でも、勤務の間に勉強して学校に入学し少佐まで行った事例は有るようです。(叩き上げで少佐になった方を兵隊元帥などと呼んだそうです。)

2、陸軍だと少・中尉クラスなら叩き上げは珍しくありません。(重要な作戦をになう事もある、小隊指揮官が士官学校卒業間もない者だけと言うのは、余りにも心許ないですから…。)

3、海軍は学校での順位(ハンモックナンバー)が発表されますが、陸軍では入学と卒業年次くらいしか公表されません。(主席とかなら判明しますが)
 また、陸軍はたとえ元帥になるような人物でも一度は、隊付の一兵卒経験しますが、海軍では士官候補生の時代から兵とは隔離していました。(食事や部屋などはまったく別。貴族趣味などと嫌味を言われました)
 海軍ではたき上げが昇進しても階級に特務などが付けられ兵学校卒とは明確に区別されました。

 まあ海軍は技術者集団(現代の米軍の原子力空母の甲板要員など20年かけて教育すると言われるほど)なので、教育計画をかなり長いスパンで立てなければなりません。海軍なら軍艦・艇に乗っていれば(艇長なら大尉・少佐クラス)陸軍のように、現場のにいる指揮官が士官学校卒業間もない、少尉だけなんて事には成りませんし…。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
陸海軍の違いがよくわかりました。

お礼日時:2008/04/14 10:04

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#2です。
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 これと、検索した情報を総合すると、予科練への採用は最低15才。訓練期間は入った時期やコースによって大きく異なり(シャバから直接入った人間にはまず軍隊教育をしなければならないが、軍内から採用された人間には基礎教育は不要。また、戦局悪化によって期間短縮もあり)で、2年4カ月+1年が相場のようです(自信なし)。この段階でおおむね18才になる計算です。

 この時点で「三等飛曹」という下士官に任官します。「飛曹」は上飛曹から三等飛曹まで四階級あり、その上に准士官として「飛曹長」という階級があります。
 特務少尉になるまでにはこの階段を一歩ずつ上らないといけません。
 また、通常階級には「最低でもこれだけ勤めねぇと昇進させてやらねーよ」という年数が決まっていまして(実役年数という)これ奈何によって最低で特務少尉になれる年齢が分かるわけですが、具体的な年数は分かりませんでした。大サービスで仮に各段階での年数を1年とすると、23才で(特務)少尉になることが出来るわけです。

 しかし同書によると、准士官から特務士官になるための実役年数は5年とあり、さらに「最低の年数であって、実際に進級するにはこれより二~三年は長かった」とあります(ただし、一般に航空兵は昇進が早いと側聞しますので、この原則はあたらないかも知れません)

 となると、予科練から特務士官になったときには20台後半になっていた可能性が高いと考えられます。飛行兵の実役年数はネットと文庫本一冊では調べ切れませんでした。

そこで、ヒントになりそうなのが参考URL。
抜粋すると
「坂井三郎中尉の開戦時の搭乗員歴は4年1ヶ月で階級は1飛曹だった。開戦時に彼の2番機であった横川2飛曹は3年10ヶ月、3番機の本田3飛曹は1年6ヶ月である」とあるので、推定できる実役年数は1年半くらい。ますます20才前後という条件からは離れてしまいますね。
 
 日本は敗戦時に下士官兵や特務士官を対象にボーナス的な昇進(ポツダム昇進)をやっていますので、戦局悪化時に低年齢で予科練に入り、ポツダム昇進で少尉任官、というパターンがあれば、なんとか20代前後という条件を満たすのではないか、というのが個人的な感想です。

 また、飛行士官を育成するために、大卒者を対象とした飛行科予備学生や飛行科予備生徒という制度もあり、こちらは課程修了即少尉です。
 戦末期のいわゆる学徒動員の飛行兵(厳密には士官なのですが)はこのシステムで動員されましたが、一部でこれらも「予科練」と混同されたという説も聞いたことがあります。

参考URL:http://www.general-support.co.jp/column/columun01.html

#2です。
 書き込みを終えた後、参考になりそうな「戦時用語の基礎知識」なる本の発見に成功しました(ただし期待していた数字は見つからなかった)。

 これと、検索した情報を総合すると、予科練への採用は最低15才。訓練期間は入った時期やコースによって大きく異なり(シャバから直接入った人間にはまず軍隊教育をしなければならないが、軍内から採用された人間には基礎教育は不要。また、戦局悪化によって期間短縮もあり)で、2年4カ月+1年が相場のようです(自信なし)。この段階でおおむね1...続きを読む

Q海軍兵曹長が帯刀?

はじめまして。
先日、祖母から一枚の写真を見せられました。
そこには旧海軍の第一種軍装に身をつつんだ曽祖父が写っていました。
歳は40くらいでしょうか。階級章は兵曹長でした。

しかし、疑問な点が一つ。その手には軍刀が握られていました。
陸軍では曹長が曹長刀を持ってたりしましたが、海軍の准士官も
そういった慣習があったのですか?
祖母に聞いたところ誰かからの借り物でないことは確かです。

ちなみに曽祖父は大工の棟梁でもあったので技術系の長、もしくは海軍の軍属の可能性もありますでしょうか?
軍属刀なるものはネットで見たことがあります。
しかし、残念ながら祖母は部隊名までは覚えていません。

軍装や当時のことに詳しい方がいましたら教えてください。

Aベストアンサー

「旧海軍の第一種軍装に身をつつんだ曽祖父が写っていました。歳は40くらいでしょうか。階級章は兵曹長でした」ならば、軍刀を持っているのが当たり前です。

海軍では、「下士官兵」と「准士官以上」が明確に区別され、例えば艦長が重要事項を艦内に伝達する時は「准士官以上集合」と指令され、准士官以上が艦長から直接指示を受けるものでした。ですので、一水兵として海軍に入った人が長年苦労して兵曹長に昇進し、准士官となる時はそれはそれは嬉しいものだったそうです。何しろ、メシも風呂も部屋も昇進と同時にまったく別なものになりますから。

海軍将兵の冬の制服(第一種軍装)は3種類でした。
(礼服になると若干違いますが)
1.「兵」いわゆるセーラー服
2.「下士官」今の学生服のようなボタンが外に見える服
3.「准士官以上」ホック止めの「海軍士官の服」。
http://www13.plala.or.jp/gunreibu/gunsoubeya.html
に、「准士官以上」の各種の制服のコスプレが写真入で載っています。
なお、大東亜戦争中には、カーキ色で背広型の「第三種軍装」も多く着用されました。上記のホームページでは省かれています。

「兵曹長」は、下士官ではなく「准士官以上」ですので、軍服は士官と同じ、持ち物も士官と同じ、軍鑑の中での「日常の待遇」も士官と同じです。

※ 兵学校などを出た本当の士官と、兵から昇進した准士官、特務士官では実際はいろいろ違うのですが、「外見」と「日常の待遇」は同じになります。

「短剣」や「軍刀」といった、士官だけが持つものを持ち、食事は士官食、トイレは士官専用、軍鑑からの上陸条件も大幅に緩和される、ほぼ自由に手紙を出せるなど、下士官兵より大幅に待遇が良くなります。

帝国海軍の士官
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%AE%98#.E5.B8.9D.E5.9B.BD.E6.B5.B7.E8.BB.8D.E3.81.AE.E5.A3.AB.E5.AE.98

「旧海軍の第一種軍装に身をつつんだ曽祖父が写っていました。歳は40くらいでしょうか。階級章は兵曹長でした」ならば、軍刀を持っているのが当たり前です。

海軍では、「下士官兵」と「准士官以上」が明確に区別され、例えば艦長が重要事項を艦内に伝達する時は「准士官以上集合」と指令され、准士官以上が艦長から直接指示を受けるものでした。ですので、一水兵として海軍に入った人が長年苦労して兵曹長に昇進し、准士官となる時はそれはそれは嬉しいものだったそうです。何しろ、メシも風呂も部屋も昇進と...続きを読む

Q戦前の大学の難易度

概ね昭和初期の日本の大学の、

東京帝国大学
陸軍大学校
海軍大学校

では最も難関だったのはどれでしょうか?

Aベストアンサー

軍人の学校というものは、時代によってかなり人気が上下します。

その昭和の初期は大不況の最中ですから、経済的に厳しい人にあっては、東大以上の値打ちのあるところとなります。
逆に、東大を始め、帝国大学に進学する学生は、大げさに言えば、生まれついた時からそういうコースを選べれる人生だったのです。

今は、農業高校からでも東大でも受験できます。しかし、戦前の学制はもっと若い年齢のうちに振り分けられているのです。
旧制中学から旧制高校にいくこと、これが帝大に行く絶対条件でした。旧制高校に入学できれば、ほぼ(どこでもいいなら)帝国大学には進学できました。さすがに東大は少々難しかったにせよ、そういうものだったのです。ですから、大学受験での受験地獄はありませんでした。むしろ一番の関門が、高校受験でした。
そして、同じく、中学卒業時に海軍兵学校や陸軍士官学校の受験資格がありました。どこの中学からでも相当な秀才が行ってます。東京帝大も十分射程距離の学生です。

それと、学力だけでない難易度もあります。体格や体力もですが、特に海兵においては、海外に出る機会が多く、欧米先進国の士官に見劣りしないようにという考えが働いたようで、男前が多かったですよ。
男ぶりに自信がないから陸軍にするという人もいるくらいでしたからね。

ということで、海軍兵学校というのは、当時の女学生から絶大な人気がありましたよ。

それでも、東大の法学部は当時の高等文官試験の合格率が高く(高文は単なる公務員試験ではなく色々と特典もありますから)別格だったでしょう。
それが崩れたのは、第2次世界大戦の最中、大学生も徴兵免除がなくなった頃からでしょう。このときは文科は免除なし、理科は免除でした。それで、徴兵逃れに医者になるものが増えたんですよ。帝国大学でなくてもいいと、地方の医科大学の進学者が増えました。(戦前は国民保険制度がないので、かならずしも医者が儲かるとは限らない)

軍人の学校というものは、時代によってかなり人気が上下します。

その昭和の初期は大不況の最中ですから、経済的に厳しい人にあっては、東大以上の値打ちのあるところとなります。
逆に、東大を始め、帝国大学に進学する学生は、大げさに言えば、生まれついた時からそういうコースを選べれる人生だったのです。

今は、農業高校からでも東大でも受験できます。しかし、戦前の学制はもっと若い年齢のうちに振り分けられているのです。
旧制中学から旧制高校にいくこと、これが帝大に行く絶対条件でした。旧制高校...続きを読む

Q徴兵された兵隊の給与は?

 太平洋戦争以前は、兵隊は、職業軍人と徴兵された兵隊の2種類があったと聞いています。そこで質問ですが、(1)徴兵された兵隊に給与が支給されたのですか?(2)給与が支給されていた場合、a.職業軍人と徴兵された兵隊は階級が同じであれば金額に差異はあったのですか?b.さらに兵隊が外地に出兵していた時はだれに支払われたのですか?
 マイナーな質問ですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは

資料を持っていたのですが現在行方不明なので記憶で書いています。多少あやふやですが参考にしてください。
昭和10年頃のようすです。
まず志願と徴兵に給料の差はありません。
二等兵の月給は4円50銭。民間サラリーマンの初任給が20円前後だったのでずいぶん少ないですね。しかし数字で見るほどひどいものではなかったんです。
兵隊の衣食住は全て支給ですから生活費は全く必要ありません。衣服(軍装)はフンドシ以外は全て支給、食事は味は別として”肉体労働”ですから栄養も量も配慮されていました。住居は兵舎。個人スペースは寝台(ベッド)のみなので何とも狭い。
さらに特殊勤務手当てがありました。これは不寝番や門衛などをした場合に支給される手当てで、ずいぶん数多くあったようです。当番制で強制的にやらされるものもありそれだけでも2円程度になったとか。もし目一杯志願すれば本給より多かったそうです。余談ですが不寝番をすると翌日は一日中寝ていてよいので人気があったとか。
当時は不況の時代でしたから大学を出た人でも就職できず入隊する者も多かったんです。

エリート軍人の第一歩は少尉からスタートしますが少尉の月給は20円ほどと記憶しています。軍装は自前でしたが少尉任官時に支度金が出ました。確か100円ぐらいだったと思いますが多くはその数倍の金を使って立派な軍装を作りました。ピストルと軍刀も自前でした。先祖伝来の日本刀を軍刀に仕立てることも多かったとか。
営内居住では食と住は無料です。少尉以上は営外居住もできました。この場合住宅手当、食事手当が支給されます。寒冷地勤務ではその手当てもありました。

netに旧日本軍人の給与を書いたものがありました。1943年(昭和18年)のものです。
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20120315/p1

こんばんは

資料を持っていたのですが現在行方不明なので記憶で書いています。多少あやふやですが参考にしてください。
昭和10年頃のようすです。
まず志願と徴兵に給料の差はありません。
二等兵の月給は4円50銭。民間サラリーマンの初任給が20円前後だったのでずいぶん少ないですね。しかし数字で見るほどひどいものではなかったんです。
兵隊の衣食住は全て支給ですから生活費は全く必要ありません。衣服(軍装)はフンドシ以外は全て支給、食事は味は別として”肉体労働”ですから栄養も量も配慮されて...続きを読む

Q陸軍士官学校卒の昇進の限界について

陸軍士官学校(明治期)を卒業し、陸大には入らなかった場合、一般論としてどの階級あたりまで出世できたのですか。

ご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

 こちらでも失礼します。
 一般論として聯隊長までと考えてよろしいかと思います。歩兵科で大佐、騎兵科で中佐です。
 陸軍大学は「陸軍大学条例」で、その目的を設立当初には「将来の参謀職に堪ゆべき者を養成」と定められていました。その後、条例は数度改正され、
「高等兵学を教授し、将来参謀官、高等司令部副官及び教官に充つるを目的とし並に高等職務に堪ゆべき学事上の基礎を修習せしむ」(明治19年改正)
「高等兵術を教授し、参謀其他枢要の職務に充つべき者、または高等指揮官となるべき者を養成する」(明治24年改正)
「高等用兵に関する学術を修めしめ、併せて軍事研究に須要なる諸科の学識を増進せしむる所とす」(明治29年改正)
と、一貫して高等用兵を教え、参謀官、高等指揮官を養成することを目的としていたからでしょう。
 実際、陸大未卒業者の将官昇進は、平時では1%に満たなかったそうです。ちなみに、陸大卒業生は、その内少将昇進80%弱 中将50%強 大将10%強だそうです。
 また、士官学校の卒業成績がその後の昇進のスピードに係ってきますが、陸大を卒業すると、過去の成績に関わらず自動的に士官学校卒業時の成績序列の上位に位置し、その期の進級時期に来ると未卒業者を追い越して一斉に進級したそうです。

 こちらでも失礼します。
 一般論として聯隊長までと考えてよろしいかと思います。歩兵科で大佐、騎兵科で中佐です。
 陸軍大学は「陸軍大学条例」で、その目的を設立当初には「将来の参謀職に堪ゆべき者を養成」と定められていました。その後、条例は数度改正され、
「高等兵学を教授し、将来参謀官、高等司令部副官及び教官に充つるを目的とし並に高等職務に堪ゆべき学事上の基礎を修習せしむ」(明治19年改正)
「高等兵術を教授し、参謀其他枢要の職務に充つべき者、または高等指揮官となるべき者を養...続きを読む

Q正八位勲六等海軍少尉?

よろしくお願い致します。

 祖父の七回忌で墓参りをしたところ、墓石の右側に祖父の名と一緒に
タイトルの文字が刻まれていることに気付きました。

 祖父は明治の末頃に生まれ、海軍に志願したようです。(本人は口減
らしで海軍に入ったと酔って話してましたが。)また、喧嘩早かったら
しく、「上司と喧嘩して、半任官(?)になるのが2年遅れた。」と豪語し
ておりました。

 少尉というと仕官ですよね?祖父は志願ですので一番下の位から始まっ
たものだと思います。士官まで上がったということは、それなりに優秀
だったということなのでしょうか?海軍では、主に中国で河川の警備業務
を行っていたようです。(最後には陸軍に編入されたらしい。)

 「祖父」という立場では非常に優秀な方だったと思います。以上、よろ
しくお願い致します。

 

Aベストアンサー

お祖父さんは明治の末のお生まれということで、1910年生まれと仮定しますと終戦時に35歳ですね。

海軍の下士官兵は志願兵と志願兵出身者が主力でした。20歳で徴兵検査で甲種合格、かつ現役兵として入隊する人は大抵陸軍に回りました。
お祖父さんは「口減らしで海軍に入った」と言われる以上、志願兵として海軍に入られたのでしょう。海軍には17歳から志願できましたので、そのくらいの年齢で志願されたものと思います。すると1928年ごろ、昭和の初めに海軍に入ったことになります。

それから(約)17年を経て、「正八位勲六等海軍少尉」として昭和20年の敗戦を迎えたわけです。

海軍の下士官兵は、
1. 航空機搭乗員 (甲種予科練、乙種予科練などと言われる)
2. 師範学校卒業者 (師徴と呼ばれる)
3. 特別年少兵
などは、他の下士官兵よりかなり早く昇進することが出来ました。
(1)に属する例として、零戦の撃墜王で知られる坂井三郎氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E
は、大正5年(1916年)生まれでお祖父さんよりだいぶ若く、海軍に志願したのは1933年、17歳の時です。終戦までは12年ですが、海軍少尉に昇進しています。お祖父さんより明らかに少ない年数で昇進したわけです。

なお、下士官兵から昇進した人は「特務士官」と言う地位につき、兵学校・機関学校を卒業して海軍士官となった将校、海軍経理学校や海軍の外の大学・専門学校を卒業して、主計科士官、軍医科士官、技術科士官(または**科少尉候補生)として海軍に入った「正規の士官」(本チャンといわれました)とは別の扱いを受けました。

特務士官 の簡単な説明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%8B%99%E5%A3%AB%E5%AE%98#.E7.89.B9.E5.8B.99.E5.A3.AB.E5.AE.98

階級名も「海軍少尉」ではなく「海軍特務少尉」などと呼ばれていましたが、昭和17年以降は「特務」の語が取れて「海軍少尉」と呼ばれるようになりました。ですので、お祖父さんの海軍での最終的な地位は「正八位勲六等海軍少尉」で完全に正しいです。

さて、ご質問が「士官まで上がったということは、それなりに優秀
だったということなのでしょうか?」ということですが、「相当に優秀であったろう」と間違いなく言えるでしょう。

戦前は今のように誰でも高校に行くのが普通、大学に行くのも半ば普通という世の中ではありません。義務教育である尋常小学校を終えたら直ちに働く人が過半数、高等小学校(2年制)に行ってから働く人が2割くらいです。お祖父さんは、こちらの階層(国民の8割~9割)に属していたわけです。

社会の上層部に行くには、原則として中学校に入学する必要がありました。これが約1割です。この段階で「社会の下積みの9割」と「社会の上層の1割」がほぼ自動的に決定したわけです。
※ 非常に困難な道ですが、中学校に進学できない境遇から、苦労に苦労を重ねて海軍兵学校に入り、正規の海軍士官となり、海軍少将にまで昇進した人もいます。
高木惣吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%83%A3%E5%90%89

さて、中学校に入って社会の上層を目指すことは経済的に無理だが、少しでも良い生活をしたいと考える少年にとって、陸軍か海軍に志願して下士官→准士官(海軍は兵曹長、陸軍は准尉)→将校(陸軍)、特務士官(海軍)
に昇進することは、ほとんど唯一の「出世の手段」でした。お祖父さんもそれを頭の隅に置いて海軍を志願され、そして見事に海軍少尉まで昇進されたわけです。

四等水兵として海軍に志願した人が、戦死せずに生きていれば全員が特務士官になれた訳では勿論ありません。並の水兵は下士官に採用されずに兵役年限が終われば海軍を追い出されます。ソコソコ有能な水兵は下士官への志願を上司に勧誘され、下士官になった(判任官となります)の階段をゆっくり上って行きます。

お祖父さんは30代半ばで海軍少尉に任官しているのですから、「航空機搭乗員」「師範学校卒業者」「特別年少兵」のいずれでもない人としては、「選り抜きの下士官兵」として海軍少尉への階段を上ったものと思われます。

そして、「海軍では、主に中国で河川の警備業務を行っていた」ということで「運も良かった」のです。

海軍でも多くの将兵が軍鑑や飛行機と運命を共にし、あるいは孤島の陸戦隊として玉砕、あるいは餓死して行きました。あまり知られていないのですが、レイテ沖海戦以降のフィリピン周辺の戦いで
「レイテ沖海戦などで乗艦が沈没したが運良く救助された」
「乗艦が損傷してフィリピン周辺で待機中に米軍の空襲で沈み、救助された」
海軍将兵は、その多くがフィリピンで「陸戦隊」を編成させられ、ろくな武器も持たずに米軍と戦って死んで行きました。例えば、レイテ沖海戦で沈んだ戦艦武蔵の生き残りの下士官兵は、結構な数が武蔵沈没時に救助されたものの、最終的には多くがフィリピンで「陸戦隊」となり、ほとんどが死んでしまいました(士官は、内地に転任できた人が多かったようです)。仮にお祖父さんがレイテ沖海戦に参加して内地に戻れなかった艦に乗っていたとしたら、海で死なずに救助されたとしても、准士官か特務士官ですから内地転勤の目はなく、フィリピンの陸上で死んでいた可能性が高いですね。

一方、海軍では中国に若干の兵力(河用砲艦)があり、お祖父さんが言い残されたように「河川の警備業務」に当たっていました。これは、結果論としてですが「海軍で最も安全な配置」でした。戦争当時、お祖父さんはもしかすると「戦艦や巡洋艦にでも乗って太平洋で戦いたい」とお思いだったかもしれませんが、結果としては中国で砲艦に乗っていたおかげで命拾いし、無事に故郷に復員して2000年まで天寿をまっとうできた、ということになるでしょう。

説明が長くなりましたが、質問者様の言われる「『祖父』という立場では非常に優秀な方だったと思います」は、客観的に見ても正しくその通りだったでしょう。そして何より「運の強い方」だったと思われます。海軍が消滅した戦後も、比較的順調な人生を歩まれたのではないでしょうか?
例:地方公務員になって定年まで勤め上げた、など。

お祖父さんは明治の末のお生まれということで、1910年生まれと仮定しますと終戦時に35歳ですね。

海軍の下士官兵は志願兵と志願兵出身者が主力でした。20歳で徴兵検査で甲種合格、かつ現役兵として入隊する人は大抵陸軍に回りました。
お祖父さんは「口減らしで海軍に入った」と言われる以上、志願兵として海軍に入られたのでしょう。海軍には17歳から志願できましたので、そのくらいの年齢で志願されたものと思います。すると1928年ごろ、昭和の初めに海軍に入ったことになります。

それから(約)17年を経...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む


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