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 輪廻とは 輪廻転生として 生まれ変わることであり 業とは 因果応報であり これら両者を合わせて 人生を捉えるとするならば そのときには 次のような疑問は起きないのでしょうか。
 いまこの世において もしわたしが 悪なる被害を受けたとするとき そのことも その結果としての被害内容に対応した原因があったということでしょうか。すなわち わたしが いづれかの過去において 悪なる行為をおこなったその報いであるという解釈になるのでしょうか。
 つまり 疑問は こうです。いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。

《輪廻》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
《業》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

 なお 解脱によって 輪廻の種子を断つことが出来た場合には もう人間などとして生まれ変わるということはないということでしょうか。つまり 言いかえると いま生まれて来ている人は みな 過去において解脱を実現しえなかった者ということなのでしょうか。

 単純な疑問が浮かびました。よろしくどうぞ おしえてください。

A 回答 (82件中61~70件)

No.17です。



<因果応報>

<因>は<原因>  <果>は結果。 が応じる、報いる って意味ですよね。

結果には必ず原因がある。

古代の人は星を観察して、この世の法(ルール)を解き明かそうとした。
例えば、太陽を観察して、いつ頃種を撒けばいいかを知り、それによって、収穫を得ていた。

物質的な因果応報を人間の能力で知ろうとしたわけです。


でも、人間は物質だけの世界に生きていない。

例えばマックでコーヒーを飲もうとしてこぼしてやけどをした。
コーヒーという物質に腹をたてず、因を人に求めた。

輪廻思想は、物質に因を求めず、人に因を求めています。
人の行いを正すということに使えば、それはそれで輪廻思想は社会にうまく機能します。


が、もっと深いところを見てみましょう。

カースト制度って調べると、どうやらあの地域に先住民として住んでいた人たちが、他からやってきた民族に支配され、一番低いカーストに置かれたらしいんです。
そして、その一番低いカーストの人が、カースト制度を支持している。

つまり、支配される側が支配されることを望んでいるから、そういう社会人しかならない。

外から見ると、人種差別ですよね。
しかも人種差別される側が望んでいる。

因は差別を望む心、だから果は差別を望む社会にしかならない。
そして差別されることで苦しむしかならない。
自分で望み望んだ結果を得ているわけです。
自業自得。

差別を撤廃する社会を望めば、差別の無い社会になる。
自業自得。



日本憲法前文知ってますよね?
輪廻転生 差別支持者の人が聞いたら卒倒する内容です。
こんな国が現世の今自分達が生きている世界と同じ世界にあるなんて・・・ととても驚くと思います。
プラトン並の驚きでしょうね。


ちっさい一個人の幸福追求思想が輪廻思想なら、日本人は日本にとどまらず世界全体を極楽にいざなおうとしているわけです。

イエス作家も言いましたよね。
「神の義を追いめるものは幸いなり。天の国は彼らによって構成されている」

日本語だと、「神の義により迫害されるものは幸いなり。彼らは天国に行くであろう」みたいに訳されていますが、天の国に死後行くって説いたわけじゃなく、現在のこと。
天に国が下りてくる、つまり天の国が現実化し生きた人はそこで暮らせるようになる という意味。

そのために、未来私たちは生きていないが、未来人のために、がんばりましょー というのがイエス作家の主張でもあり、日本国憲法の前文の博愛でもあるわけです。

輪廻思想は自己愛。



>仏教による次の《偽善》の定義は知りませんでしたし 辞典などでは確認できませんでした。

これは他のサイトの哲学カテで、仏教の信者さんから聞いたんです。
善悪について論じている時、「じゃあ もし善意でやった結果、誰かが不幸になったら、私は悪人になるの?」と聞いたら、そう答えてくれました。
仏教には偽善という概念がある と。

そして、仏教では施しをした人がされた側に「ありがとう」というのだと。


>★ 偽善は善か悪か? 法律では過失となります。うんぬん。
☆ もしここから発展があれば さらに披露してください。いまひとつ掴みかねています。

その後の会話は上に記述したように、仏教の施しの概念の説明を受けました。


>という解釈も おもしろいかも知れません。ただ ブッディストからは批判を受けると思います。(無住処涅槃でしたか)。

うーん 私の理解が間違えているのかもしれませんが、、、、
仏陀は中庸(中道)を説きませんでしたっけ?
ほどほどがよろしい と。

キリスト教は奇跡を売りにしていますけど、仏陀は人間が知覚できるものだけを使って、説いたと聞いています。

といっても、仏教も開祖の仏陀は何も書物に残しておらず、派閥によって仏陀がどう説いたかが分かれるらしいです。



>《無から有が生じた》という場合 やはり表現の問題であって その《無》は この経験世界の有無を超えているわけです。仮りに無と言っているだけのようです。

それを魂の記憶と誰だったか言っていたような。
人には魂(ダイモン)があり、どっかに魂があって、肉体に宿る。
そして、ソクラテスがやったことに驚いた場合、それはダイモンがかつていた世界(イデア)と同じだということを思い出すから驚く と言った人が哲学者にいた。

人間の宿っていなくても、他の世界にダイモンは存在していた。
でも肉体だけだと動かず、ダイモンが宿って初めて人となる?
新世紀エヴァンゲリオンみたいなものですね。

じゃあ 魂(ダイモン)はあるんじゃないか?
うーーーん、、、難しい。
人が正義を求める心はどこから発生するかの説明として、哲学者は使ったようなんですね。

DNAに組み込まれた何かかもしれないですね。
じゃなきゃ 殺し合いして人間とっくに滅びているはずですから。


で、脳は殺す という本を読んだことがあります。
1つの説でしかないですが、3つの条件がそろわないと、人は人を殺さない としています。(20年間 連続殺人犯を調査した人の書いた本)

で、その中で子供の頃 恐ろしい目に合わないと、他2つの条件がそろっても、殺人は起こさないとしている。

子供の頃虐待を受けたため3つ目の条件がそろった時、殺人を犯すのなら、児童虐待を防げば、未来に起こる殺人は防げるわけです。

殺人の加害者が実は社会の被害者だった。
だから、猟奇殺人をしたからといって死刑にするだけでは猟奇殺人は無くならない。
が、ヒステリー起こした人には「被害者遺族の気持ちを逆なでする」と罵倒される・・・・。

これは現世の問題であって前世の問題じゃない。
殺された人は、前世で悪いことをしていたから、殺されて当然 じゃあない。
前の時代に、犯罪を犯したからと処刑してすませてきたから、猟奇殺人が起こった。
調査して、何が原因か調べることを怠ったため、来世 つまり 現代の人が関係ない人に殺されるわけです。

これが社会のカルマ。


>つまり 個人の信仰と組織・集団としての宗教との区別も 必要です。

カトリックはたった1つでどの教会に行っても内容は同じだそうですが、プロテスタントだと、教会 いや 信者一人一人によって内容は違いますよね。
で、それ全てを貫くものは、自己愛なのか博愛なのかによる。

博愛 博愛といいながら、結局自己愛を貫徹をしようとしていると思える信者さん 多いですよね。

もし 自己愛なら、宗教ってちんけなもんですよね。

自己愛の溺れる輪廻転生を信じる集団は、天国になれない。


私 不思議好きなお子さんでしたから、輪廻転生に関する本もそれなりに読みました。

輪廻転生をしているとされニュースになった人たち。
その研究をしようとした人が、本に書かれているインドの町に行って、直に本人と会おうとしたんです。
すると○○郡に行ったところ、○○村が無い。
でも、超有名な人だから、聞けば教えてもらえると人に聞いても、誰も知らない。

で、作者に聞いたところ、実はその作者は本人に会っておらず、又聞きとか噂をあたかも自分が直接会って聞いたように書いたということが判明。


もう1つ。
退行催眠をやったところ、退行しすぎて前世まで遡ってしまったという人。
何百年か前にイギリスで話されていた言葉を話すという。
種明かしをすると、その人は子供の頃にイギリスから移民してきた人と近所つきあいがあり、そのイギリスの人が話す言葉は、今でもイギリスの地方で使われており、何百年か前に消えた方言じゃあない。
退行催眠で思い出したことは事実だと認定されない。
裁判で使われない。

退行催眠が事実だして共通認識されてしまったら、大変なことになります。
「私がこの人を殺した理由は前世で私がこの人に殺されたからです。この人は当然の報いを受けたんです。だから私は無罪です。」がまかり通ってしまう。



>《自然科学的な因果律》と《社会的な人間関係としての因果応報》とを区別すべきだと言ったとき 因果律のほうの《破れ》にかんして 


イエス作家がイエスが死んだ時、神殿の幕が避けたと表現しましたよね。

そろそろ <迷信> の垂れ幕を破ってもいいんじゃないかと。

金枝篇を書いたフレイザー卿は、私たちが習慣にしているものは迷信が原因と解き明かしました。

迷信の世界を現実と一致させようとすると、オウムになっちゃうんですね。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 質問は単純なのですが しかも その回答も 二種あって じつは単純だと来ているようです。《すべては自業自得か》という単純な問いに対して 
 1.《そのとおり説》=《輪廻および業》派:輪廻転生において 例
  外なく完全に自業自得であるという説。
 2.《否定説》=《輪廻に対して無記をつらぬく現世および社会経
  験》派:輪廻転生を認めない(少なくとも 無記とする)・ゆえに
  現世における人生についてのみ 経験科学的に検証できる因果関係
  の歴史のみを 認識と議論の対象とする。

 おそらく 仏教は これらの中間のどこかに いくつか派に分かれて 自己の思想を位置づけているのかも分かりません。その点では このように《輪廻と業》というように 単体としての主題を取り出して議論や批判をしても埒が開かないとしたyukiyama20さんの見解は ただしいのかも知れません。また 一般に 過去世がどうの未来世がどうだというのは 遊びとしてでなければ――つまり 知ることが出来ないことなのだから―― その話について行けないというのが ふつうの反応だろうと思われます。
 こういうかたちで むしろ もはや回答は――その幅を持ちつつ――明確になって来ました。しかも わたしの感覚ですが 何かしっくりしません。何かひとつか二つ 足りないというのでしょうか あるいは 少し論点がずれていて 的が絞れないでいるというのでしょうか 物足らない思いが漂っています。

 ひとつ 思い浮かんだことがあります。それは 《偽善》の定義でも触れてもらったように 仏教が 《善悪》について 必ずしも 一般的な捉え方をしているのではないと思えて来たことです。だから amaguappaさんからでしたか 用語の定義をしっかりしておけとの指摘を受けてもいるのですが wikiなどで調べると 善の反対は 悪ではなく 煩悩あるいは無明だと言います。
 そして もうひとつ――これは術語としては知ってはいたのですが―― 善因の結果は 楽果であり 悪因の結果は 苦果だと言い そのような結果は 善悪の問題ではないのだと言います。なかなか 面倒なことになったかも知れません。ただいまは 方向感が分からなくなっています。と白状して みなさんのご投稿をさらにお待ちしたいと思います。

★ そろそろ <迷信> の垂れ幕を破ってもいいんじゃないかと。
☆ わたくしも思います。その一環として やってきたつもりです。
★☆ 因果律のほうの《破れ》にかんして 
☆ は 自然科学の方にお任せすることになります。
★ 退行催眠
☆ よく分かりません。いんちきもあるということでしょうか。
★ 全てを貫くものは、自己愛なのか博愛なのか
☆ 博愛も自己愛も 人間の為す相対的な経験行為です。それほど変わらないかも分かりません。自己愛が強くて 相手の人が 博愛を意識して 自己愛から解脱していけるかも知れません。(極端な例ですが)。
☆ 組織となると いかに立派な信仰の主(ぬし)であろうと その運営上の規則を自由に柔軟に使いこなすことの困難やら 経験行為としての共同自治のため為さざるを得ない妥協やらが 伴なわれます。果ては その管理行為における権限を行使できることから来る支配欲をどのように自らが操縦していけるかの問題が起きます。
 その組織が しかも 宗教そのものだとしますと たとえば《この世に倣うな》という警句もあるのに どうしても板ばさみになると考えます。宗教にかんしては 研究教育施設だけにするとよいと思います。(結社の自由に反するのですが)。
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >《無から有が生じた》という場合・・・の《無》・・・ 
それを魂の記憶と誰だったか言っていたような。
人には魂(ダイモン)があり、どっかに魂があって、肉体に宿る。
そして、ソクラテスがやったことに驚いた場合、それはダイモンがかつていた世界(イデア)と同じだということを思い出すから驚く と言った人が哲学者にいた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2008/04/26 17:25
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この回答へのお礼

☆ 用語の整理です。

  肉=身体と精神 / 感性と理性 / じつは心(知覚=魂 と 知性)

  霊=知られ得ない絶対のこと

 * ただし《たましい》と言って 《霊》のことを指す場合もある。

 《魂(ダイモン)》は 知覚や感性のことでしょうが 《霊》をも含んで言っているかも知れません。《イデア=形相》は 《理性や知性つまり精神の産物》(つまり経験事物)だと思われますが 《霊》のことをも指し示そうとしているかも分かりません。

★☆ 日本国憲法の精神は たしかに民主主義だと思います。
★☆ フレイザーは 読み始めて挫折した歴史があります。

 とりとめなくなってしまいましたが。

お礼日時:2008/04/26 17:31

その通りです。

この世で起きることのすべては、必然であって偶然はありません。例えば、通り魔事件や交通事故のような一見、被害者と加害者の間に何の関係のないようなことでも、前世では密接な関係があり、ほとんどの場合被害者と加害者が逆だったケースが多いです。こういうことを書くと悲惨な事件の被害者の方が本当に可愛そうなので、普通は書いたり話したりしないものです。
普通の人は、自分など超能力などないと思い込んでいますが、すべての人が等しく超能力を持っています。恐ろしいことは、その超能力が自分の意志とは無関係に、自分が過去世に積んでしまった業の報いの遂行のためだけに働いてしまっているということです。例えば、ある人が東京にいて、殺される運命にあるとしましょう。すると、過去世で縁のあった人物が例え地球の裏側にいたとしても、カルマが満ちる頃には、その人の目の前に現れて殺されるということになります。多くの場合、自分が過去世で殺した人です。
このようにお互いがカルマ遂行のために超能力が働いて、そして引き合い、悲惨な運命になって現れます。悪いことだけでなく、結婚などの喜び事も同じです。同じ人と結婚したり、兄弟姉妹、親子などの関係のあった人が多いです。
こういうことを制御するには、かってに超能力が働いてしまわないようにしないといけません。多くの場合は眉間にあるアジナ・チャクラの制御から始めないといけません。このチャクラを制御することで勝手に働いている超能力をコントロールしてしまうわけです。
また、因果の法則は前世と現世の関係だけでなく、先祖と子孫の関係でも生じます。遺伝子が輪廻していると言えばよろしいでしょうか。この場合はチャクラの制御よりも先祖の供養が大切になります。まあ、どんな先祖の元に生まれるかは、その人の前世によるのですが。
過去世で解脱した人は、もちろん輪廻転生しません。釈尊の生まれ変わりと自称する人がいますが、解脱した釈尊が生まれるようなことはありません。キリストもマホメットも仏教ではありませんが、最高の悟りを得ているので生まれてきません。
もちろん、現世で人間などに生まれて来ているということは、過去世に解脱していないからです。修行すらしていない人も多いでしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 率直に申せば 出たぁーっ!と思いました。例外なく 業としての因果応報によって輪廻転生をつづけるという説。論理的に筋がとおっていて 気持ちいいのですが。

 ですが そうだと こういう帰結になりませんか。つまり この世には 前科者ばかり生まれて来ている。ブッダを例として その中から 一抜けたと言って 解脱していく者もいる。そういう人は もう生まれて来ないのだから この世には その昔の加害者ばかりがいるのだと。
 その昔に被害者だったという人は さらにその昔の加害者だったわけですから この世は 過去においての悪人だらけであると。

 逆に ブッダを先頭(?)にして この悪人状態から抜け出していく人もいるということは その解脱の可能性が――《チャクラの制御による超能力のコントロール》によって―― 誰にもあるということのようですね。

 そこで質問です。この世から抜け出していく必要のないかたちで つまりあくまでこの世において生きるというかたちで 解脱の可能性(《仏性》というのでしょうか)を持って 少しづつ これを働かせて 過去の悪業を制御しつつ生きる。皆が そうする。そのことによって曲がりなりにも おれはこう生きたい・わたしはああ生きたいという夢を互いに追う充実した世界 これを実現することは 可能でしょうか。あるいは 過去の悪業によって悪人ばかりの世の中なのだから そういう世界は 叶わないということでしょうか。

お礼日時:2008/04/26 06:40

ON6です。

  お疲れ様です、凄いですね。

輪廻が有るか無いか判りませんが、輪廻が仮に有ったとしてbrageloneさんは過去世の記憶が有るのですか??

有って初めて輪廻がと言えるのではないでしょうか、屁理屈を捏ねれば何とでも言えますよ。 テレビの・・・はその物ではないでしょうか。 

私は有る意味、宗教は科学だと思ってます事実を事実としてみる事それ以上の物を求めると妄想になり危険だと思います。

>自業自得というのは 自分にも分からない原因としての自業があるのですか。

自業自得と言うと悪く使えれますが、お前の行いが悪いから自業自得お前の責任と。悪い結果を受けるのは誰の責任でもないですよ。逆に良い結果を受けても喜ぶにおよばずですよ。

こんなもの誰にも解りませんよ。

良い行いが良い結果これ嘘です。悪い行い悪い結果これ嘘ですよ。


brageloneさんはキリスト教に詳しいですよね、聖書の中に書かれていましたが、こう言うニュワンスの事を「生まれながら目の悪い人がイエスに聞いています、私の目の悪いのは私の責任ですか?親の責任ですか?イエスは誰の責任でもない神の現われ有る」と。



禅の方で。  昔、中国の一部の地域を治めていた武帝がインドから凄いお坊さんが来るので呼びました、それが菩提達磨ですが。

武帝は仏教を保護してました。

武帝、達磨問う 私は沢山の寺を作り仏教を保護しているが「何の功徳が有りますか? 」 達磨、曰く「無功徳」

功徳を求めて行動するは、煩悩の因を作っているだけだ。

武帝問う仏法の真髄は  達磨答えて曰く不識(知らない)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8


何故サリン事件に引っ掛かったのか、解らない(知らない)


私は、解らない事が(知らない)=神だと思ってます。  生死の問題は解らない(いつ何処でどう死ぬか)心の問題も解らない。



ちなみに達磨は毒殺されています(理屈抜き)。

brageloneさん参禅でもしてはどうですか?求道が強いようなので。



それが駄目なら「鈴木大拙」の本をお勧めします、近年の優れた仏教(禅)学者です。経典も言いですが、昔の人の書いた物も良いですが、昔と違い色々な情報が有りそれを見聞きした現代大物の方が私は優れていると思います。  真宗も判りやすいです。

釈迦が達磨が上で鈴木大拙が下と言う事はないと思います。

釈迦達磨を神格化していたら別ですが。

鈴木大拙は分別(理屈)の世界は、井の中の蛙だっというニュワンスの事をいってます。

分別は(理屈)は投網とも、投網はすべてが掴める訳ではないです。

分別の下に無分別が、無分別は全ての囚われから離れた情態(禅定)・・・。。無分別でも音は聞えるそうです。是非がなく聞える。

分別は是非が有り聞える・・。。

無分別、善悪ない世界  不安安心ない世界・・。。これかと分別を使えば善悪の世界  不安安心の世界。

学がないので文章に、まとまりがなく、すいません。
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この回答へのお礼

 ri-zyuさん ていねいなご回答を寄せていただきありがとうございます。
 ANo.18からこのri-zyuさんのANo.21までご三方のお考えを一緒に読ませていただき ひととおり ANo.18へのお礼欄に わたしの反応を述べさせていただきました。

 どうなんでしょうかねぇ。まづみなさんのお蔭により 思案が深まったように 感じています。ということは 分かったと思う反面で その思案中の状態が 長引くようにも感じています。わるいことではないのですが 分かりたいという思いが 見えない壁に突き当たっているのでしょうか。それは 現実ということなのでしょうか。あるいは ブッディスムの理論の問題なのでしょうか。
 ブラフマニスム=ヒンドゥーイスムのほうの教理も然ることながら ブッディスムの理論というとき それは まだ知らないしっかりした教理があるのかも知れず あるいは逆に あるにはあるが どこまで探究してもその探究は あいまいな状態を残しているというのかも知れず そういった壁なのかとも思いますし。・・・

 聖書のイエスのお話しを出していただいて ありがとうございます。わたしの感覚では 《目の見えない状態に生まれたのは 神のわざの現われるためである》というこの話は 述べておられるように《分別を超えた世界》として受け取ることと思います。
 と同時に 因果応報という大きな理屈で 悪果でさえ 善因の結果であり 仏道修行のひとつの道だと言われて 包まれたように感じていたとするなら どこか それは くやしい思いに通じているように思います。もっと端的に JR福知山線列車脱線事故が三周年を迎えたそうですが その犠牲者は運がわるかったとして 分かった気になるのも くやしい。あきらめるのですが 受け容れざるを得ないのですが 運のせいにするしかないのであれば 因果応報説などは一切吹き飛ばしてしまいたいと思います。何のかんばせがあって 縁起などという大理論を説いているのか。こう思います。

 鈴木大拙はなじみが薄いまま来ておりますが 達磨の《知らない》という答えのその先には もう何も出て来ないものであろうか 出て来ないことが正解なのであろうか 等々 もう少し思案を延ばしてみたいと思うのですが いかがでしょう。

お礼日時:2008/04/26 06:02

全ての人が解脱した。


今や全ての人が解脱した。
もはや、誰が輪廻するのやら。

こうして、宗教は肯定的に否定されました。
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この回答へのお礼

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全ての人が解脱した。
今や全ての人が解脱した。
もはや、誰が輪廻するのやら。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このお話は いいですね。
★ 宗教を否定するには同じ宗教をもって。 / 毒を制すには毒をもって。
☆ わたしも ささやかに 《我れはブッダなり》と宣言するという仮構を思い描いたのでしたが。個人の信仰から離れたと見られる宗教に対しては 《わたしは 〔小型の〕キリストである》と宣言するかたちを言っておくといいかと思います。
★ ・・・毒をもって。
☆ の部分は まだ抵抗があるようにも思いますが。
★ 今や全ての人が解脱した。
☆ は いいと思います。しかるべき大きな虚構だと思います。

 この質疑応答の過程で 中間点を通ったと思ってから ほとんどわかってしまったように感じるとともに そのことが どれだけ有効にはたらくか これが 五里霧中のごとくであるようにも感じられます。・・・!!!???(ということは まだ分かっていないのかも知れないと思えて来ます)。

お礼日時:2008/04/26 05:14

宗教を否定するには同じ宗教をもって。


毒を制すには毒をもって。

解脱の思想がある時点で
いくら輪廻だろうと業だろうと関係ありませんよ。

前にも言ったような気がしますが
言ったもの勝ちです。
解脱したってね。

この回答への補足

 ANo.16でkigurumiさんより 旧約聖書の『コヘレトの言葉(伝道の書)』のことを示唆されています。いま 4月28日現在の時点(ANo.32まで)で 中間のまとめを行なおうとして このコヘレトの言うところを 参考にまでかかげておこうと思います。yukiyama20さんも このコヘレトに反対ではないと思いますので この欄をお借りすることにしました。
 例の《空の空なるかな みな空なり》という文句などを含む知恵の書ですが これは 基本的に言って わたしの見るところでは あたかも通過儀礼のごとく 人生の知恵の形成にとって 折り返し地点であるように思います。
 えらそうに言ってはいけないと思いますが もし経験思想として捉えるなら 通過してさらにその先の道に臨む。もしくは 同じ道にあるのだが そこで 方向の問題として 向きを変えてのごとく新たな歩みに臨む。こう捉えております。
 ともあれ 因果応報についても 触れていますので 参考にかかげたいと思います。
   *  *  *

1:2 空の空 いっさいは空である。
1:9 日の下に新しいもの無し。
1:14 わたしは日の下で人が行なうすべてのわざを見たが みな空
  であって風を捕らえるようである。
3:20 皆ちりから出て 皆ちりに変える。

4:1-3 わたしはまた 日の下に行なわれるすべてのしえたげを見
  た。見よ しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえ
  たげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。
   それでわたしはなお生きている生存者よりも すでに死んだ死者
  を さいわいな者と思った。しかし この両者よりもさいわいなの
  は まだ生まれない者で 日の下に行なわれる悪しきわざを見ない
  者である。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  *  ニーチェが 神は死んだと やっと言っても ニヒリスムは
  通過点であることに変わりはないと思います。おどろくほうが 
   どうかしていると言わなければならないと。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

7:14 順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来ど
 ういう事があるかを 知らせないために 彼とこれ(順境と逆境)と
 を等しく造られたのである。

7:15 この空しい人生の日々に わたしはすべてを見極めた。善人
  がその善のゆえに滅びることもあり 悪人がその悪のゆえに長らえ
  ることもある。
   善人すぎるな、賢すぎるな どうして滅びてよかろう。
   悪事をすごすな、愚かすぎるな どうして時も来ないのに死んで
  よかろう。

8:6 何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかか
  ることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのよう
  に起こるかも、誰が教えてくれようか。
   人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の
  日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行
  う者を逃れさせはしない。
   わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのこ
  とを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたら
  すような時だ。

8:14 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら 悪人
  の業の報いを受ける者があり 悪人でありながら 善人の業の報い
  を受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。
   それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって 
  飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼
  に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ。

12:13 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守
  れ。」これこそ、人間のすべて。
   神は、善をも悪をも 一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの
  座に引き出されるであろう。

 * 《「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべ
て。》は 今では 旧いと思います。《戒め》のほうです。

補足日時:2008/04/28 10:55
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 《悟り》ということばを出せば われわれ日本人は わかったように話が続きます。対話であると見てよいのかどうか しっかりとした足取りで しかるべき道をたどって来ているのか この問いを措くとしても この話題は 出版物などとしても 永遠に絶えないほどにも見受けられます。

 次のお答えのほうに継ぎます。

お礼日時:2008/04/26 05:02

#3です、簡潔に。


>輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

輪廻と業の考え方ならそう言えるでしょうね、そう言いたいからその思想を作ったのと違いますか。

しかし実際は一部の人が主張しているだけ、何の根拠もありゃしません。宇宙人に遭遇したと言うほうがまだ信憑性が高いです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 うぅぅん。むつかしいですね。
 次のANo.19&20の方のご回答では 仮説として或る程度 受け容れられた。なら 虚構には虚構をもって対処すべしと言っておられます。
 imuzak5320さんのおっしゃるように ただの泡沫――けっこう長く続きましたが――であるなら もうそれに対する方策を考える段階にあるかも知れないですね。
 
 ANo.21の方は 聖書の記事に注目しておられます。《生まれつき目が見えない》という事態を悪果だとしたとき これに答えるイエスの話です。

    ――生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからです
     か。本人ですか。それとも、両親ですか。
  イエスはお答えになった。
    ――本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもな
     い。神の業がこの人に現れるためである。
   (ヨハネ福音9:2-3) 
 
 これに参照すると ブッディスムの因果応報説による一つの解釈は 一面で通じるとも もう一面で 別の次元であるとも 思われてきます。つまり

  善因(誓願)→悪果(方便として悪趣苦界に身を置く)

 これは すなわち 衆生済度のためであるという事例です。救済という点で 相い通じ合うと思われる反面で 人がその救済を行なうか それとも神がそうするかで 次元がちがうように考えられます。
 
 もう一例としては サリン事件にせよ光市殺害事件にせよあるいはJR福知山線脱線事故にせよ その悪果が すでに死という状態に陥るという場合には 菩薩行のための方便だという解釈は むなしいように思われます。

 そんなこんなで ほとんど分かったような しかも まだ 問い求めは続くのかなとも感じています。中途半端なお応えになりましたが。

お礼日時:2008/04/26 04:55

No.16です。



>(A) そもそも因果応報とは何か。

善いことをすれば善い報い(幸)を受け、悪いことをすれば悪い報(災い)を受ける という考え。


偽善って言葉ありますよね。
善を装うということと一般に使われていますが、仏教の偽善はちょっと意味が違う。

善が化けて悪になったとき、それを偽善というのだそうです。

善意で寄付したものが、ヤクザの資金源となりそれで人が死ぬなど予想もせず、善意で寄付するわけです。
でも、結果 そうなってしまったら、善でもなく悪でもなく偽善になる。

偽善は善か悪か? 法律では過失となります。


>自業自得として捉えた場合 その中味はどうなのか。

偽善となった場合、行為をやったものが非難を浴びたりします。

悪い面ばかり考えていますが、善いことをやった場合、当然善い報いを受けるに違いない と人々は信じているわけです。
自業自得は人を罰する時 言い放つ言葉としてよく使われますが、自分に向けられた場合、善いことをしたら善い結果を得られると信じて自業自得を使う。

自分がやったことの結果を自分が受けるのは、自分が損をして他人に善いことをすれば、いずれめぐりめぐって自分に戻ってくるという考えで、<情けは人のためならず>って別の言い方でも表現されています。
カルマ思想なわけです。


>輪廻転生を前提にしている。言いかえると 同じ一人の人間(存在? 魂?)が 生まれ変わりを繰り返す過程で 自業自得をも繰り返す場合である。解脱すれば 善き自得の結果となる。

どうなんでしょうね。
解脱した人って想像するに、何事にも無関心な人のことじゃないかと。
仏陀だったと思いますが、解脱寸前で、自分だけ解脱してしまって、他の人は残していいのか となって、解脱やめて救済に向かったらしいです。

煩悩ゆえに戻ってしまったわけですが、いい人だって私は思います。



> 《因果応報の理論》が しかるべき発言を持つでしょう。

日本には因果応報の思想はあまり定着しなかったですよね。
日本に強力にある思想 それは和の思想。
これは因果応報を超える共存の思想。


ギリシャ悲劇だったと思いますが、恋人を取った人が言い訳したことを、恋人を取られた人が受け入れて許した。
言い分に共感を覚えて、憎めなくなったわけです。
因果応報の破れ、共存の思想。

イエス作家も「許しなさい。あなたが許されるために。」って言いましたよね。
共存の思想。


>この共業(共同の業?)なる因果応報が 或る種の仕方で 《 common sense =共通感覚・共同主観あるいは常識》のことであり 

喜怒哀楽に関しては、ある程度共通感覚があります。
が、概念に関しては、話していくと差があると経験上思いました。

例えば「情けは人のためならず」の一言ですら、「非情な人」とか言われます。
「なぜここで非情と言われるのだろう???」って思ったのですが、相手が本来とは違う意味としてその言葉の概念を持っているとわかると、「あのですね この言葉の意味はですね・・・。従って私はほっとけ と言ったわけじゃないんですよ」と説明して、誤解を解くことはできます。

喜怒哀楽はある程度共通感覚と申しましたが、それでもズレることはあります。
お互いの射程の範囲が違うから。

例えば誰かが殺されたとします。
「そんなやつ死刑にしろ」というなか、「ちょっとまって」と私が言うと、「遺族の苦しみを理解しない非情な人」とかバッシングされることもある。
殺人の原因は「その人が悪い人だったから」だけでは発生しない と私は考えるんですね。
だから、殺人を犯したから死刑 だけでは、いつまでたっても犯罪は無くならない。
そういうことを話そうとするのですが、目の前にある事にのみ注目してしまっている人と、もっと離れて物事を見ようとする私では、視野が違うので、会話にならない。


人は感情以外 理性も持っている。
理性を放棄したら他の動物と変わらない。
フィロソフィって智を愛するって意味だったと思います。
哲学とも訳されますが。
私が訳すとなると、理性を愛する となるでしょうか。



>(8) ソクラテス=プラトンの思想にもとづくイエス観は 経験思想であることを 指摘しておきます。つ

ええ、ただ 経験だけじゃ 爆発は起こらない。
ソクラテスじゃなくてプラトンの爆発が原因なわけですが、プラトンがソクラテスのやったことに、とても驚かなかったら、爆発は起こらなかったわけです。

するとイエス作家もプラトンの思想の影響を受けることもなく、そうなるとイエス物語を書くことは無く、キリスト教は誕生することはなかった。
西洋世界は今とは違う世界になっていたはずですね。


>9) これは (6)の《絶対は知ることができない》という自覚から その《絶対》を 《無》と想定した一種の信仰としても 捉えることができます。

無からは何も生まれず 有は無からは生まれない。

キリスト教もプラトン思想が無ければ生まれなかったでしょうし、プラトンもソクラテスより前の哲学者の影響が無ければ、ソクラテスのやったことにびっくりしなかったと思います。
つまり爆発は起こらなかった。
起こったということは、何かがあったから起こったわけですよね。
条件がそろった時、爆発が起こる。

ユダヤ教でも「私はあるである」って神が答えたとありますよね。
無からじゃなく、最初から有であるってことでしょうか。
それは人間が認識するずっと前から存在しており、人間が認識しなくても存在している。

だからといってこの世を作った神とかは信じていませんが、万物の法則は無から生まれておらず、最初から有だったと思っています。

じゃないと万物の法則が無から生まれるわけないですよね。
無だと材料も無い状態ですので、何も生まれない。

神なら無いところから有を誕生させられる?
無理です。
無が神を作れるわけない。
人間がいて神ができた。
神を作った人間を作ったのは何者か? 
万物の法則が初めからあり、条件がそろったから人間が必然で誕生したわけですよね。

<無を想定した>というのを言い換えると、善悪を超越した って言うんでしょうか。
善悪は人間が決めていることで、絶対じゃあない。

八百万の神々は、人間に災いをももたらる神も含まれますよね。
自然界に人間に害を及ぼすウイルスもいる。
でも使いようによってはその害を及ぼすウイルスを、人間のために有効に使うこともできる。

ヒルって人の生き血を吸いますが、使い方によっては切断した指をつなうこともできるじゃないですか。

核エネルギーは使い方によっては沢山の人を殺せますが、使い方によっては人間の生活が楽になる。

何をもって善とするのか 悪とするのかは、ケースバイケース。

善でもあり悪でもある その実態は?
万物の法則。 八百万の概念も使い方次第。
尚 八百万の神々は、梵我一如だとアートマン。
でも八百万の神々で沢山いるようで、ただ1つのみ。
だから、八百万の神々はブラウマンの側面のそれぞれ。



>(11) これら 《無神論》と《有神論》とは 互いに 《信仰》であり 信教と良心の自由という公理のもとに 全く自由であり全く対等である。その差異を 互いに認容していかなければならない。死を超えて そうしなければならない。

ええ、ただ共存にはルールがあります。
社会不穏を起こさない、社会の平穏を乱さないというルールを破ると、信仰の自由は取り上げられても文句は言えないと思います。

信仰は人を幸福にするツールであり、不幸にするツールとなってしまった場合、宗教弾圧は起こると思います。

オウムは確か破防法の適用は無かったと思います。
従って信者から信仰を取り上げなかったと思います。
しかし、国家は信仰の自由をオウムに認めたが、世間は黙っていなかったですよね。
それだけのことをやったため、信用を喪失したわけです。
信用を裏切ったものが、信仰の自由を保証しろというのは虫が良すぎる。



>ですから 反面で 被害者や遺族のかなしみをいやすことをも わたしたちは 心を尽くし知恵を出し合って思いつづけていくことも 大事だと思いますが。私刑として復讐を果たすようなことからは わたしたちは 法治社会として 自由になったのでしょうね。むつかしい問題であるようですね。(という言い方は どっちつかずのこうもり発言ですが)。

そうですね。
非常に難しいです。

母子殺人の事件を聞いたときは、なんと残忍なことをと驚きました。
裁判でも謝罪の一言もなく 反省の色も全く無いということで、さらに怒りがこみ上げ、同時に遺族の必死に怒りを抑えている表情に同情しました。

本当なら刺し殺したいでしょうが、あくまで法により合法的に死をもららすことで復讐をしたかったでしょう。

犯人の不正に対して法によらない殺人をするという不正を犯しては、遺族も不正を擁護することになってしまう。
怒りと悲しみがどこにも行く場がなく、遺族にのしかかるわけです。

ただ、私たち第三者は直接被害者ではないので、もっと冷静に何故この事件が起こったのだろうかと考えることができます。

それがわかれば、次の同様の犯罪を未然に防げ、悲しみの連鎖は断ち切られる。
1つの悲しみの連鎖の輪廻が終わるわけです。

殺したから殺す では消えない。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 断片的な箇条書きになります。
(1) 次の言説では 善と悪の定義がやはり必要になりませんか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そもそも因果応報とは何か。
★ 善いことをすれば善い報い(幸)を受け、悪いことをすれば悪い報(災い)を受ける という考え。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(2) 仏教による次の《偽善》の定義は知りませんでしたし 辞典などでは確認できませんでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ ・・・仏教の偽善は・・・ / 善が化けて悪になったとき、それを偽善というのだそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 偽善は善か悪か? 法律では過失となります。うんぬん。
☆ もしここから発展があれば さらに披露してください。いまひとつ掴みかねています。

(3) 善→善 / 悪→悪 / 善(衆生済度の誓願)→悪(方便として悪なる情況に身を置く)という自業自得は どうなんですかねぇ。けっきょくとどのつまりは 一つひとつの意志行為それぞれに明確な結果が出るという因果応報は 背景へしりぞくというふうに感じています。それは
★ <情けは人のためならず>が 《カルマ思想》とは別に 《自由意志を重んじるなら独立心の問題として 情けは人に良い結果を与えない》と解釈されること(要約)
☆ というように 二面性ないし多様性が ものごとには 生じてくるので 主観の内におさめられている形(つまり カルマ思想は 公けには うしろに身を引いている形)になるように思えています。(問題提起です)。

(4) ブッダは解脱したあと 説教を躊躇したが 転法輪に向かうだったと思いますが
★ 仏陀だったと思いますが、解脱寸前で、自分だけ解脱してしまって、他の人は残していいのか となって、解脱やめて救済に向かったらしいです。 / 煩悩ゆえに戻ってしまったわけですが、いい人だって私は思います。
☆ という解釈も おもしろいかも知れません。ただ ブッディストからは批判を受けると思います。(無住処涅槃でしたか)。

(5)★ 《神なら無いところから有を誕生させられる?》の問題。
 時空間にある限り 有の世界です。有と無あるいはそれぞれを部分的に持つ状態の世界です。その前の世界は?という問題ですが 《無から有が生じた》という場合 やはり表現の問題であって その《無》は この経験世界の有無を超えているわけです。仮りに無と言っているだけのようです。

(6) それゆえ もしこれを絶対観の問題だとすれば そして神という言葉を用いて想定するなら やはり 有神論と無神論とが 互いに同等の立ち場として みちびかれるものと考えます。つまり わざわざ 絶対観として 信仰を想定しようとすればです。想定しようとした人びとが この地球上にはいるようなので わたしたちも かれらの表現の自由を わたしたちのそれと同様に 認めつつ 基礎理論としては 総合するかたちを取ることが肝心だと思います。

(7) 基礎理論としてというのは 前提条件としてです。そのあとの実践の上で 問題ありとすれば その問題が 基礎理論そのものの欠陥であるのか それとも そうではなく 応用の仕方がまちがっているのか これを見究めていくことになると考えます。つまり 個人の信仰と組織・集団としての宗教との区別も 必要です。

(8) ただし 次のような極端は事例もあるようですね。つまり触れておられるように 信仰と宗教との区別はいいとして それと同時に いくら個人の内面の信仰であるとは言っても その良心の自由そのものを踏みにじる例の《ポア》の思想は 自己矛盾していると 明確にコモンセンスとして行かねばならないと考えます。

(9) (5)と関連しますが わたしが 《自然科学的な因果律》と《社会的な人間関係としての因果応報》とを区別すべきだと言ったとき 因果律のほうの《破れ》にかんして ひょっとすると わたしは分かっていないのでは?と思い直しました。エピクロスだかの《原子の運動にかんする方向の偏り(パレンクリシス / クリナメン)》説がかすかに浮かびました。
 サイトを探したのですが なかなか見つかりません。見つかったのは 次です。
・《デモクリトスxエピクロス 宇宙=機械の始まり:http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card59265.h …
 上の《無から有が生じる》の問題にもかかわっています。ただ 残念ながら 現代の自然科学において どう扱われているのか わたしには検討がつきません。ビッグバン説に似ているとは思います。

補足日時:2008/04/25 09:21
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この回答へのお礼

(10) ★ 《殺したから殺す では消えない》の問題は 引き続き 課題としてまいります。(今は お手上げです)。
 光市の事件にしても サリン事件にしても 少年なり麻何とかなりなる人間の歴史を
★ もっと冷静に何故この事件が起こったのだろうかと考え・・・ / それがわかれば、次の同様の犯罪を未然に防げ、悲しみの連鎖は断ち切られる。 / 1つの悲しみの連鎖の輪廻が終わるわけです。
☆ というふうに持っていきたいのは山々ですが。
 オー○真○○論にかんする質問でも出しましょうか。活発に議論はありましたが。因果応報論の観点から その範囲で みなさんにも この質問にて ご投稿いただいてもいいと思いますし。
 広い範囲に伸び でかい課題を背負ったようになりました。

お礼日時:2008/04/25 09:32

No.7です。



前世、来世の存在を信じていない私ですので、前世、来世は存在するべきであるという人に、どうして存在すべきだと主張するのか、聞いた方が手っ取り早いように思います。


>《因果律の破れは存在するんです》と言ってしまえば この業の理論は それ自体 意味がなくなるのではないでしょうか。

日常、生活してきて至るところに破れは存在すると気づきますよね。
<コヘレトの言葉>の内容をbrageloneさんはご存知ですよね。
コヘレトの言葉の作者も、プラトンも因果律の破れに気づいていた。


>けれども 《破れ》はない つまり例外はないというために どこまでも果てしなく生まれ変わるという輪廻思想を打ち出しているのではないでしょうか。その長い過程においては 自業自得として納得できる出来事があったであろうという説ではないでしょうか。

つまり、現世で冤罪を受けても、来世は報われるから、抗議するなってことでしょうか?
でも、それって支配者の立場の保持のため つまり 勝者の都合のいい方便でしかない って思いません?

誰がそれにより得をするか?
「来世で報われるから我慢しろ」というのを使うのは、我慢を強いる側に都合がいいからですよね。


カースト制度ってインドにありますよね?
スードラというのが一番低い地位で、スードラの家系に生まれたものは、スードラの階級になる。
ブラフミンの家に生まれた子供は一生涯ブラフミン。

前世で善い行いをしたら、もっといいランクの家庭に生まれる としている。

逆にスードラの家庭に生まれたら、前世の行いの結果であり、スードラに生まれても、上のランクの人に奉仕することで、来世はもっと上のランクに生まれる可能性がある としている。

最高ランクはバラモンで、ブラーフマナ。祭司職。


で、カースト制度の撤廃を反対しているのは、上の階級の人々かとおもいきや、最下層の人々だそうです。
どうしてかというと、因果応報、輪廻を信じているから。
今 自分の主人に精一杯つくせば、来世は絶対いい身分になる、つまり自得があると信じているから。

つまり、支配者にとっても、従業員にとっても、どちらにとってもお徳 とされるので、カースト制度は無くならない。
信仰が原因ですので、信仰を捨てれば、カーストは無くなる。

例えばキリスト教のカトリックもカースト制度というかヒエラルキーが存在していますよね。
ですが、信者でなくなれば、ランクも消える。
社長というランクだって、会社が潰れれば社長じゃなくなるのと一緒。
限定の集団の中のランクでしかないわけです。
懸命に会社に尽くして社長に認められ、主任、課長、、、、最後は社長になる。
一見因果応報の存在を認められるでしょうけど、限定のランクでしかない。
得意先からすれば、その社長はスードラのランクだったりするわけです。


>冤罪を甘んじて受けるなら 善を貫けて 希望が見出せるという思想は その都度 次元が変わって受け留められるやはり因果応報の理論であるように思えるのですが いかがでしょう。

ギリシャ人は、自分達がすばらしい民族であり、異邦人をバルバロイと呼んでいた。
異邦人が喋る言葉がそのような動物のなき声に聞えるからだそうで、自分達の優秀性を自負していたわけです。

ギリシャ人は世界で初めて民主主義を考え出した民族だと思えます。
ソクラテスの時代は、知識人が支配者の地位にいた。
で、その知識人は民衆から崇められていた。
その人たちで治世が行われていたわけです。

ところが、ソクラテスがその知識人と対話をしてみると、ちっとも知らない人たちだと判明。
ソクラテスがAだと心に思って、「教えてください」と知識人に聞くと、知識人は「それはBである おっほん!」と答えた。
「ということは これもBですか? じゃあ これは? 教えていだただけると幸いです」と下手に出て質問していくと、知識人はAだと言う。
つまり知識人は最初Bだと答えたものが、熟考した結果Aであると ようやくわかったわけです。

ソクラテスは最初からAだと思っており、博識者は熟考しまくってやっと答えがAだとわかった。

この程度の人が、支配者で法の番人。

で、博識者とされる人々に<自分は無知である>と自覚させたため、ソクラテスは自覚を拒否した人々によって処刑されたわけです。

で、ソクラテスは賄賂で簡単に脱獄できた。
にもかかわらず、ソクラテスは賄賂を渡して脱獄するといことは、不正に不正で報いてしまうことになり、そうなると、善の存在を信じるも自分ではなくなってしまう として、脱獄の提案を拒否し、善を死ぬまで擁護したわけです。

ソクラテスのその思想にプラトンは驚いたため、善の希求をプラトンは起こすことになった。

つまり、ソクラテスの善を擁護した思想がプラトンに多大なる影響を与えたので、国家の在り方についてプラトンが注意を向けることになり、国は独裁政治により支配されるのではなく、民衆の意見が取り入れられ、民衆の考えで国の行動を決定するべきだ となっていったんじゃないかと。

これが前世と来世。

つまり人間の過去と現在と未来。

ソクラテスはプラトンに影響を与え、それによって彼らの時代にはなしとげられなかったが、バトンが次の世代に渡され、また次の世代に渡され、今では民主主義を多くの国が採用している。

ソクラテス、プラトンが前世なら、私たちは彼らの現世。
そして我々は、さらに次の世代にバトンを渡す。
次の世代が我々の来世。

これが因果応報。
と、考えております。


法律に違反したものは即処刑していけば、いずれこの世は平和になるか?
法律を犯したものとその子孫を根絶やしにしていけば、この世は平和になるか?

私たちは絶対を知ることができない。

例えば、隣家の家に押し入って老人を殺害した少年がいた。
悪いことをしたからと処刑しただけでは解決しない。
どうしてその少年が隣家のケンカもなにもしたことのない老人を殺したのか、原因を突き止めなければ、また同じ犯罪が起こる。

その少年は健常者とされていますが、専門家が鑑定したところ、障害があった。
「死とはなんだろう」とすごく興味を持ち、それを知ろうと実行してしまった。
興味を持ったことに強くのめり込んでしまう性質があり、それが科学に向けられれば科学者、エジソンになる。
(エジソンもライバルを殺そうと殺人兵器の研究をしたそうです。成功しなかったので、彼は発明家として有名になったわけですが、成功していたら、ヒトラー マッドサイエンティストになっていた。)

思想にのめりこめば哲学者になる。あるいは革命家になる。
倫理のブレーキがきかないとテロリストになる。


ある特定のものに興味を持つこと自体は悪いことじゃない。
問題なのは、倫理を理解する能力が著しく劣っている状態のものが、ある特定のものに興味の針を大きく振り、自制が効かず暴走すること。


じゃあ、児童の頃に全員を調査して、その傾向にあるものを殺してしまえば、少なくとも隣家の人を興味本位に殺す人はいなくなるか。

倫理の問題でそれはできない。
そして また 同じ障害を持つ者が人を殺していく。
一時期また「○○障害者が殺人を犯した」と報道され、それは○○障害を持つ人が全員人を殺すように思われるからやめろ と抗議が起こり、報道は事件が起こり、犯人にその障害があるとわかっても、その情報を流せなくなった。
それでも時折、裁判が起こり、無期懲役など判決が下り、弁護士は人々に「この人は○○障害があるから、罪を理解できないんです。悪いことだということを知る能力が無かったゆえに レイプしようとして抵抗されたので殺したんです」と主張しています。

別の人だと、<無知の涙>を書いた人。
5人だったか殺しています。
「自分は死刑になって当然だ でも 自分は無知だったとわかって欲しい」と訴えた。
彼が何を必死に訴えたのか?

国民に何を、裁判官に何を必死に訴えたのか?
裁判官とて絶対を知ることができない無知なもの、国民も絶対を知ることができない無知なものであるということを自覚して欲しい そして少しでもこのような犯罪が起こらないように、対策をして欲しい と訴えたのだと思います。


確かに殺人は悪いことです。
でも、どうしてそんなことが起こったのかを無視して、殺人を犯したから処刑 だけでは 全然不足。

何故殺人を犯したのかを、単に「悪い人だったから」じゃ 全然不足だし、同様の犯罪は食い止められない。
その犯罪を誘発しているのは、社会であり、それに気づかない人々が諸悪の根源である と認めなければ、同様の犯罪は無限に起こる。
知らない故に阻止できず、短絡的に人を殺したから死刑とするしかない、我々無知者に対する涙なんです。
無知の涙を書いた人も、自分が無知だったと知って涙を流し、そして世間の人々が無知だということに涙を流した。

イエス作家はこう書きましたよね。
「彼らは何をやっているのか知らないんです」と。

ソクラテスも自分を処刑する支配者の前で「神よ 彼らを許したまえ 彼らは何をやっているのか知らないんです」と言ったかもしれないですね。


ということで、私たちは来世にバトンを渡すために、「少年が悪い人だったから母子殺害を起こした」だけで済まそうとしては駄目なんです。
それじゃあ 来世にバトンは渡せない。


これが私がイメージする因果応報です。
<悪いことをしたから殺す> は 単なる人の復讐心や憎悪をもてあそぶ行為にしかすぎない。

この回答への補足

 殺害者と被害者そして間接的な被害者としての遺族 この人たちを取り巻く情況 ひいては 社会総体と歴史の全体 これらについて事実認識と納得のいく判断 これが問い求められていることに変わりはありません。
 いまここでは 思想哲学の問題として 大きな主題としては 《因果応報》とは どういう生活現実を予定し予表した思想であるかです。これについて 妥当だと思われるような内容(コモンセンス)を確立することによって 上のさらに大きな課題に迫ろうという作業です。
 この業をめぐって 問題点がいくつかあり やや錯綜しています。わたしの整理するところでは こうです。
 (A) そもそも因果応報とは何か。
 (B)  自業自得として捉えた場合 その中味はどうなのか。
   (B-1) 善因善果および悪因悪果は なんとなく広く受け容れ
     られている。
   (B-2) 全く関係のない第三者が 悪果をこうむった場合 そ
     れも 自業自得なのか。
   (B-3) ブッディスムでは 然りと答える。
     その心や如何に?――自業というのは 衆生済度のために 
     悪趣苦界に身を置くという自らの誓願のことだ。自業自得な
     のであると。
     * この質問で いまこの段階にまで来ています。
 (C) 類としての(人類としての綜合的な)因果応報の理論
     * これを kigurumiさんは 説いておられる。

    この思想は 人間の生命と存在が尊重されるかどうか またそ
    の尊重の仕方・あり方が 歴史とともに 人類の知恵の向上・
    深化を得て 綜合的に見てよい方向へ歩むと説くものである。
     どこまでも平和裡に 互いの差異を互いに認め合って 話し
    合いを通じて 問題を解決していく。その理念として民主主義
    があり これは 普及して来ている。うんぬん。

 (C)について (B)との異同を明らかにします。(B)は 一般的に言って 輪廻転生を前提にしている。言いかえると 同じ一人の人間(存在? 魂?)が 生まれ変わりを繰り返す過程で 自業自得をも繰り返す場合である。解脱すれば 善き自得の結果となる。
 しかるに(C)は このような個体の因果応報は 認めない。つまり 人の一生のあいだでの行為とその結果として 因果関係を捉えるのは ふつうであって 別だが 前世や来世も 積極的に認めるものではない。
 しかしながら 一定の社会の総体あるいは人類全体としては いわゆる学習効果をとおしての如く よい方向へ高次の段階へと わたしたちは 一歩一歩 歩んでいくという因果応報を見てよいのではないかという立ち場である。

 この交通整理が確認されるとすれば 細かく 論点・疑問点を挙げます。
(1) 《因果応報》の貫徹の立ち場・つまり(B) これはこれとして 認めた上で 議論を進めなければいけません。
(2) 《因果応報》の例外としての《破れ》は 自然科学的な因果関係にかんする法則(仮説)としての因果律の破れとは区別しなければ 話があいまいになります。一般に《モノに即した因果律》と《それを下敷きにした人間どうしの行為が織りなす社会的な因果関係をめぐる因果応報説》との別です。次の用語などです。
★ コヘレトの言葉の作者も、プラトンも因果律の破れに気づいていた。
(3) したがって 《因果応報》の理論の《破れ》については まづは (C)の議論そのものとして 大方の共通の認識を得る必要があります。
(4) その上で (B)との対話を為し (A)の綜合的な思想へと発展させることが望まれます。
(5) その過程で――つまり 途中でもいいわけですが―― 冒頭の《犯罪》とのかかわりでも 《因果応報の理論》が しかるべき発言を持つでしょう。
(6) 《絶対は知ることは出来ない / 自分は無知だと知る》とき わたしは その有限の知識と知恵とで しかしながら 自由に発言をおこないます。その意味で社会の一員としての株主総会 あるいは 全国にわたる井戸端会議が もっと起こってこそ 自業自得という思想や 犯罪の解明あるいは犯罪者の扱いについて コモンセンスを形成していけるかも知れません。
(7) ちなみに wikiの《業》の説明では 《共業(ぐうごう)》という説を述べています。これはわたしも以前にここでおそわったことですが この共業(共同の業?)なる因果応報が 或る種の仕方で 《 common sense =共通感覚・共同主観あるいは常識》のことであり さらに想像を伸ばせば けっきょくは おっしゃるような(C)の類的な因果応報説につながっていくように考えられます。
(8) ソクラテス=プラトンの思想にもとづくイエス観は 経験思想であることを 指摘しておきます。つまり (C)です。

補足日時:2008/04/24 13:03
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この回答へのお礼

(9) これは (6)の《絶対は知ることができない》という自覚から その《絶対》を 《無》と想定した一種の信仰としても 捉えることができます。

(10) イエスは キリストと呼ばれる《絶対神》だと想定する信仰の立ち場も ありえます。

(11) これら 《無神論》と《有神論》とは 互いに 《信仰》であり 信教と良心の自由という公理のもとに 全く自由であり全く対等である。その差異を 互いに認容していかなければならない。死を超えて そうしなければならない。

(12) これが わたしの考えるコモンセンスとしての民主主義です。(余計なこととしては 因果応報は 背景にしりぞいていて よい)。

 ご回答をありがとうございました。

* ★ <悪いことをしたから殺す> は 単なる人の復讐心や憎悪をもてあそぶ行為にしかすぎない。
☆ ですから 反面で 被害者や遺族のかなしみをいやすことをも わたしたちは 心を尽くし知恵を出し合って思いつづけていくことも 大事だと思いますが。私刑として復讐を果たすようなことからは わたしたちは 法治社会として 自由になったのでしょうね。むつかしい問題であるようですね。(という言い方は どっちつかずのこうもり発言ですが)。

お礼日時:2008/04/24 13:25

こんにちは。

少し疲れから回復しましたので回答してみます。

人を支配する思想は、同時に革命の思想を生みだします。

ウパニシャッドのウパニシャッドたる理由を言いましょう。

既成の概念を壊す秘密です。

実は、生まれながらの身分なんてなく
ただ全ては我々の行為次第である。

バラモンもクシャトリヤもヴァイシャもシュードラも
みな全ては行為の結果である。

全ての神々は名称の差異に過ぎず
万物の根源はブラフマンであり、

私の中のアートマンはブラフマンと同一である。

今この秘密を知ったのなら、解脱せよ。

ざっとこんな感じですね。

なぜ、クシャトリヤの思想家であるゴータマが
ウパニシャッドより後に現れたかってことを考えてみてください。

もっとも、自由を生み出したカルマ思想も
人を支配することになるのですがね。
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この回答へのお礼

 こんにちは yukiyama20さん。ご回答をありがとうございます。
 いまわたしは 《Q:われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか》が 関連質問であることによって削除され 傷つき落ち込み それはいいのですが・大したことないのですが せっかく書き込んでくれたみなさんに申し訳なく それで 心が沈み勝ちです。何かあったら その所為だと思ってください。(こういうことを言える人に出会ったので さっそくでしたが・・・)。

 なるほど そうでしたか。極端に簡略化して言えば ブラフマナたちは 輪廻と業とを 前世からの因縁として説き 現世の秩序や身分を正当化した。ブッダは いま現在の行ないによって 結果を出せるとでも言ったのでしょうか。
 あぁ ただし 解脱をも説いているので その達成をもってすれば すべて皆 平等だという殺し文句になりますね。
★ 既成の概念を壊す秘密です。
☆ ウパニシャッドも このことをおこなったのですか。だとすると どうなりますかねぇ・・・。

★ 私の中のアートマンはブラフマンと同一である。
☆ この説については 別の質問を掲げました。ブッディスムも けっきょく同じようにしたのではないかと。ブラフマンとしての法身およびアートマンとしての仏性です。(分かりませんが)。

★ もっとも、自由を生み出したカルマ思想も / 人を支配することになるのですがね。
☆ この主題は 次のご投稿ですかね。つまり 既にもらったほかのご回答でも問題になっています。
 わたしの焦点は 次の説明に対する批判にあります。自ら誓願しての(つまり それとしての自業の)結果として 自得が しばしば悪果(苦果)であるとき それは 衆生済度のためにその悪趣苦界にこそ陥ったのだという説明です。

 まだ把握していない重要な理論があるかも知れない あるいは 把握の仕方じたいが異なっているかも知れない こういったおそれのもとに 現在はあります。

 回復 おめでとう!!

お礼日時:2008/04/23 18:40

多くの方が共有する疑問であるかもしれないと思い、ひさしぶりにbrageloneさんの質問に興味を持ちました。


というのも、回答者のなかに、良き生活者と労働者である以外の学問も思想も欲さぬ家電屋さんまで混じっていますから、
よほど口にしやすい図式に甘んじた仏教の姿というものが世間にあるのだろうと思うわけです。

ご質問のような疑問は、生じるはずのない疑問でしょう、と言うに尽きますが、まず伺わねばならないことがあります。
たやすく「因果」と述べておられることは、何のことでしょう。わかりかねます。
因果関係、因果律、どれもなんとたやすく述べられていることか。
たったひとつの事象にあっても、機序(順次に作用する仕組み)を明るみにすることはあれ、
原因を明るみにすることができたでしょうか。
以下の日常的な出来事の因をたとえばどのように考えますか。brageloneさんの因果についてのお考えが、具体的に伺えるのではと思います。
(1) テーブルの端に置いたコップに袖が触れ、床に落ちてミルクがこぼれた。
(2) 5月になって庭のバラが咲いた。
(3) ヘビースモーカーのA氏が肺ガンになった。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 じつは 直前のANo.13によって 局面ががらりと変わりました。その箇所にあたっていただけばと思うのですが 反面で 《自業自得》を鍵語として 質問の枠組みのようなものは そのまま有効のようです。
 この点 簡単に触れておきます。現在の《自得》が 善ではない結果であっても その過去の《自業》は むしろその悪の結果を 衆生済度のための自らの条件としたいという目的において つまり従って方便とするために 誓願して得ることになったという理論のことです。

 さて お尋ねの件ですが 上の文章に見るごとく 総じて言えば 因果も善悪も きわめて広く 無規定のまま 使っております。また それでよいという姿勢でもあります。つまり 問題に突き当たったなら そのとき 対処するという構えです。
 あらためて この前提事項として 説明します。No.11へのお応えとして書いた内容が わたしのここでの因果や善悪の使い方を説明するはづです。
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 例の光市母子殺害事件の判決が出ました。この例で言えば 《被害者という視点では見えない》ところの業つまり因果応報つまり早い話が 自業自得 これを インド人は古来考えてきているようだ。日本人も 少なからず影響を受け そのまま受け容れているとも見られる。それでいいのでしょうか?という問いです。
 たとえば こうです。殺害された母子もとうぜんそうなのですが こういう見方をすると どうでしょう。つまり 残された夫であり父親であるMさんを例にとった場合です。被害を受けたと言えますよね? だとすれば そのように受けた善ではない結果は 輪廻と業の説に従えば Mさんが 自業自得として受けたことだとなるのでしょうかという問いです。
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 さて具体的なお尋ねの件として
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 以下の日常的な出来事の因をたとえばどのように考えますか。
(1) テーブルの端に置いたコップに袖が触れ、床に落ちてミルクがこぼれた。
(2) 5月になって庭のバラが咲いた。
(3) ヘビースモーカーのA氏が肺ガンになった。
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☆ あえて ブッディスムの因縁説にならって答えましょう。
 直接の原因は 
(1) 《コップに袖が触れ》たこと
(2) 植物たる生物としてのバラにかんする自然現象
(3) ニコチンが肺を悪くしたという原因が考えられている。

 間接的な背景としての原因は いろいろあると考えられます。たとえばとして一つ挙げて置きます。
(1) 何か考え事をしていて 注意が散漫になっていた。
(2) 気候の変化
(3) 止めるつもりであったなら 意志が弱かった。

 たぶん すでに初めに触れましたように あまり関係ないと思いますが。

補足日時:2008/04/23 15:05
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