性格悪い人が優勝

20歳の大学3年です。普段からお年寄りや政治家、官僚のような教養高い人々と接しているため、私には昔の武士道や天皇制を重視するのが当たり前と言う考えがあります。これは同世代から古臭いと言われます。
しかし、今の思想のない社会だからこそ、モラルのない社会人が増えているからこそ、昔の武士道(私が言う武士道は新渡戸『武士道』や『葉隠』で述べられているような忠義)の善かった点を現代に再興し、後世に日本人の誇りを伝えていけないかと思うのです。
また、天皇制についてですが、私は天皇陛下が現人神さまではなかったにせよ、日本の象徴であることには間違いないから、日本男児として天皇陛下に敬意を示すことは当然であると考えています。
その一方で、国文学専攻で教養の高い大学生から言われることがあります。
「君の言う武士道と天皇崇拝は、一歩間違えれば太平洋戦争時の暴走やオウム真理教の暴走になりかねない」

確かに、彼の言うとおりです。いい部分があれば、封建的価値規範である以上は悪い部分もある。
主君(家督、天皇陛下、または国家)に尽くし忠義を果たすという精神は、極端になれば昔の日本の失敗に逆戻りです。
では、なぜ私は武士道と天皇陛下への敬意を重要視しているのか。その答えを見つけたいのです。
精通しておられる方、よろしくお願いします。

A 回答 (18件中11~18件)

 決して精通はしておりませんが、日本人として成長してきて、やはり優れた思想であり、見方、生き方、身の処し方だと存じております。


 新渡戸さんや葉隠れを出しておられますが、新渡戸氏については他のもはともかく、武士道については存じません。山本常朝さま方方みなさま、今は文字でしか接することができせんので、私が景仰する内容がが、それだとは確信はありません。しかし論語にせよ、ヒンドゥの思想にせよ、そういうものではありましょう。後世に生きるものの宿命ですね。
 〔昔の武士道や天皇制を重視する〕という、踏み込みにもさまざまのいきさつと角度があるものでして、また、その螺旋のレベルもありますから、いいとも悪いとも、これだけの言葉からは、当たり前とも言いにくいところがあります。私は、中学ころから下村湖人という、鍋島の作家、社会教育家を通して、論語や武士道のすばらしさを学んできておりますが、私の周りにはそういう方が子供のころからおられます。もちろん、同じイメージと内容で思っているかは分かりません。
 これは単に西洋的なモラルの次元では私は考えておりませんで、人間、人生のあり方、存在の原点として捕らえてきております。どんな社会も、その時代の人は、世を慨嘆してきていますが、私はどんな時代でも、こういう哲学は個人の生き方として、通用するし、精進の道となると存じております。
 私にはこれはヒンドゥ的哲学とも合い通じるものがあるわけです。

 天皇制度ですが、国家形成する以上は、日本人として、日本国として天皇制を、このように確立し、維持してきた、明治の偉人たちのすばらしい見識を最大の評価をしております。
 西洋的理屈や前提での理論構築は一見近代的で合理的、且つ、普遍の真理をいっているようですが、全て仮説であると存じます。天皇陛下のありかと、ご成育についての先人とその後継者たちのすばらしい叡智を私は、日本人として一番幸福に思うし、誇りにしております
 〔「君の言う武士道と天皇崇拝は、一歩間違えれば太平洋戦争時の暴走やオウム真理教の暴走になりかねない」〕となることはありえないでしょう。条件が違いすぎますでしょう。
 そうなるためには、のこと以外の、国民の気違い性や、いろんな社会的条件が必要ではないですか。
 近隣の、古代から関係深い、海の隣のお国ではなにかアジテートが盛んですが、日本では、以外に庶民って良識と常識で生きていましてね。
 おとなしい、温和。まぁ物足りないかもしれないが。
 それに、先の時代の経験がありまして、先生方があなた様にいわれるようなことは、空想でしょうね。
 わたしも、熱っぽく語るとね、そうでない人には敬遠されがちです。そりゃそうですよ、勝手に自分の内緒や、思いを、唐突に開けかすものではありません。それとなく、自分を持していればいいのです。
 それが武士道でしょう、青々と盛んにしている、名誉、金、地位、ちから、手柄が大事な次元から、一歩も五歩も退いて、そういうものが行動の動機にならないことが、武士道なんでしょう。違いますか。周恩来みたいに、毛沢東に一番にならせ、二番で歴史を切り盛りする。名誉も何もいらない。なんといわれようと、理解されようがされまいが、そんなことは本質ではない。勝っつあんもいいけど、幕末の三舟、山岡鉄舟や泥舟もいいね。西軍の陣地に単身で、「幕臣・山岡鉄太郎、総督の部屋にまかり通る、」といって、西郷の座敷に上がりこんで、江戸の引渡しの談判をした鉄あにぃ。
 何かと意気に感じて命を提供する、せご(西郷)どんも「金も命も、名誉も地位も要らないというやつは始末に往生したわい。」と嬉しそうに述懐したそうですね。これが武士同士です。
 ヒンドウのクシャトリアや、中国の士大夫の美学でもありますが、西洋のナイトとは少し違いますね。
 ヒンドゥはご存知のように、深遠な哲学にしております。
 そして呼吸法から、日々の鍛錬、宇宙と創造との中での位置付けをしております。そういうところに、あの柔和で礼儀を重んじありながら、ヒマラヤの岸壁よりも動かない、融通をほしい人には邪魔なマハトマ・ガンディっていう命が出てきていたのです。
 〔いい部分があれば、封建的価値規範である以上は悪い部分もある。
主君(家督、天皇陛下、または国家)に尽くし忠義を果たすという精神は、極端になれば昔の日本の失敗に逆戻りです。〕
 失敗ではありません。それにしかも、戻ることはありません。
 あれがよくない状況になったのは、武士道や天皇制のせいではありません。

 精通?精通ってなんですか?思想史的にですか?インテレクチュアルにですか?
 私は自分の思想としております。精通は如何なる意味でもしておりません。もうしわけありません。
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すべての人に言えることですが、何がしかの行動、考え方の規範が無いと反社会的行動とか思考をしてしまうものです。


武士道、天皇崇拝、宗教(キリスト教、仏教、イスラム教など)すべてその人として生きるべき精神、道徳を教えるものです。
一般社会では、目に見える損得勘定とか権利義務を元にした考え方、行動をする人がほとんどですから。
道徳的な規範がはっきりしていないと、社会の中で中心的役割を担うほどの気力を発揮することはできないかも知れないと思えるのです。
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>なぜ私は武士道と天皇陛下への敬意を重要視しているのか。

その答えを見つけたいのです。

先ず、西洋と中国の歴史と政治に関する古典(ヘロドトスや司馬遷から近代に至る)を徹底的に読んで下さい。西洋に関してどの本を読むかは、モンテーニュが入門編として参考になると思います。そのことは特に若いうちに読んで置くことが大切です。

その後、40才前後になって人生をバランスよく見られるようになったら(運良く貴方がその年まで生きていられ、そして今抱いている動機を持ち続けていられたら)、日本の歴史と政治に関する古典(保元物語以降)を読んで下さい。もし貴方が天才ではなくて、普通の凡人だったら、きっとその後に、他人の意見ではなくて、自分の本物の答えが見つかると思います。
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大変立派な考え方だと思います。


質問者様の言うとおり、組織を運営する指導者層(エリート層)には高い見識と哲学・教養が求められます。
しかし権力を持っているものは同時に道徳心を持っていないと、自ら堕落した権力腐敗の中に落ちていくことになります。

日本の政治は腐敗が横行しているように見えますし、事実そのような部分もありますが、大部分の公務員(官僚という言葉は嫌いです)はまともですし、お国のために尽くしてくれいると思っています。

これは結局道徳心の問題です。
「国」と言うものはある意味、経済的・地域的なつながりだけでなく、道徳的なつながりが無ければ「国」として成り立つことができません。
たとえばイギリスは、国王を中心としつつ大憲章を貴族が突きつけたように、各地域を治める首長は「国の統治を受けるが、地域への責任は自分が持つ」というような伝統があります。
アメリカ合衆国は、逆に移民の国ですから全てが民主自治で、大統領から保安官までも選挙で選びます。
この両国は、国の仕組み伝統は違いますが、民衆を支えるベースはキリスト教的な道徳です。
ちなみに、英国国王は戴冠式で英国国教会で誓いを立て、アメリカ大統領は聖書に手を置いて宣誓します。

さて長くなりましたが日本の場合、上記のような分かりやすい道徳事例がありません。
しいて言えば武士道の精神であり、天皇を中心とした神道体系から来る道徳観がキリスト教的な道徳観と同じ役割を果たしているといえるでしょう。

武士道についていえば、西欧の騎士道と擬せられることもありますが、原則的に人付き合いの道徳観ということにないります。日本は上司・部下の関係は欧米ほどフランクではありませんし、会社に対するロイヤリティも欧米のそれに比べれば、昔の藩などに対する忠誠心に似たところがあります(神輿を担ぐという言い方がありますね)
もちろん昔に比べて変化しているのはむしろ当たり前で、江戸時代でも初期は「○○が家来、××」だったのが、「○○藩士、××」と忠誠の場所が個人から藩に変わっていたりします。
いずれにしても日本人の「公」というものに対するロイヤルティの発露は、今でも武士道が規範といえると思います。

さて天皇については神道体系と書きました。よく誤解されるのが国家神道ですが、私の言いたいのはそのような作られ強制された神道ではなく、日本人の心の中に元々ある神道のことですシャーマニズムでもいいでしょう。
一番簡単な例は、「隣のトトロ」と「千と千尋の神隠し」です。
ごらんになったこともあると思いますが、トトロでは古い一軒家に引越してきた主人公の姉妹が、”まっくろくろすけ”や”ねこバス(突風)”など不思議なおばけのようなものに出会います。また千と千尋の神隠しでは、舞台となるお湯さんにくるのは、日本国中のあらゆる神々でその実態は山だったり川だったりします。実際主人公の千は、有るヘドロと不法投棄で汚れた川(の神)の汚れ(ヘドロなど)を落として差し上げるシーンがあります。
川が神だったり、突風が吹くのは実はねこバスが近くを通ったからだというようなファンタジーは、キリスト教のような一神教からは生まれません。日本はいまだに多神教の神々の世界なのです。
では天皇家とどのようにつながるかというと、このような神々を祭り、日本国の安泰を記念するするのが天皇の役割のひとつなのです。
そのため、昔から英国国協会の司祭のように、様々な時の政権(幕府だったり内閣だったり)にお墨付き(現在では任命)を行うのです。
これは日本の神々が、この国の行く末をその人物に託したということで、非常に権威の高いことなのです。
逆に言えば、戦国時代でも天皇を倒して国王になろうと誰も思わなかったのは、それが最高の罰当たりになるからだったといえるのです。

唯一不幸なのは、明治政府が天皇の権力を利用しすぎたことです。もちろん欧米列強が隣の中国まで侵略している状態でしたから、今までばらばらだった日本の住人を国民として1つにまとめるには必要なことでした。しかし劇薬すぎたといえます。

かなりはしょって書いてきましたが、日本の国が1500年以上の長きに渡り、ずっと1つの国の形を保てたのは理由があり、凝縮して言えば伝統であり、その伝統は武士道として語られるようになった道徳観や天皇(神道体系)をうまく利用した統治のシステムであったわけです。
ですので、天皇を敬うのは当たり前ともいえますし、武士道の精神はいまだに日本人の心に生きているといえるのです。
大切にしたいモラルであり、日本人の誇りともいえます。
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重視する理由。

。。 うーーん。

私は象徴として、存在することを支持する派かな?

世界各国に王制はあるけど、これだけ長い期間 ある特定の一族が権威ある座にいられたって、ある意味すごいことだと思うし、それは他の国が憲法を変えているのに、日本だけは変えずにいるのって、結局 いいから変えなかったように、皇室の存在もあった方がいいから、今まであって、これからもあるんだろうし。

というのが、私が考えるあっていいという理由です。


集団を統率するには、厳しい法律か、それとも敬う対象の存在か。
私はいっくら厳しい法律にしたところで、治安は保てないと思うんですね。
説明のつかないもの、説明はつかないけど確かに存在しているもの。
意識したとき存在していると確認できるって、ある意味重要かもしれない。

人によっては宗教の中にそれを求めるけど。


天皇は穢れない。
死は穢れだから、天皇は逝去したとはいわない。 崩御したという。
形が崩壊したが、再び蘇る。 これが日本の天皇の概念。


天皇は天照の子孫としている。
天照はスサノオがやったことに対して、怒らなかったが、スサノオが生命を紡ぐ者を殺したとき、岩戸に隠れた。
これを崩御と見る人もいるが、私は別な意味だと思うんですね。

生命の踊りをする巫女により岩戸から顔を出し、人々は天照を望み引き出したって神話ですよね。


世界大戦を天皇は指示していない。
勇み足になり支配欲に飲まれた軍が、天皇を不敬したことで、戦争は起こったわけですよね。
昭和天皇は勢いづいた軍を抑えられなかったというが、軍が天皇に敬意をはらっていたら、抑えられたわけです。


不敬が日本を戦争にかりたて、原爆が落ちた。
天に唾した結果です。



武士の役割。
日本は清めと穢れという概念がある。
神道は穢れの期間をもうけており、信者の家庭に穢れ すなわち死者が出た時、一定の期間 神社に近づいてはならないとしている。
神社が穢れないようにという思想ですよね。

それと同じように支配者が罪人に触れることは穢れるとされた。
従って罪を犯したものを成敗することを支配者は直接やらず、アウトソーシングした。
それが武士。

で、武士の中にも職能的なものがでてきて、穢れを嫌うようになり、誰も取締りをしなくなり、日本は荒れ放題になった という歴史がある。
穢れを嫌っておかかえの武士を解雇したことで、浪人が誕生したわけです。

で、荒れ放題の中から、あっちこっちに武将が出現した。
そしてキリスト教がやってきて、地方の勢力を持つものに、大量殺戮ができる武器を渡した。
地方の武将の妻をクリスチャンにしていけば、その子供はクリスチャンとなり、その武将が日本の地上の王になれば、クリスチャンが地上の王になる。
あとは天の王もクリスチャンにしてしまえば、日本はキリスト教のものとなる。
こうやってあっちの武将へ こっちの武将へ武器を渡して戦わせた。
そして取り込んだ武将を言いくるめて、国体である神社仏閣を破壊させた。
日本の心を踏みにじって殺してしまえば、日本はキリスト教の植民地となり、本目的にの中国攻略の足が足りにできる。
武将は、キリスト教のもくろみを見抜き、国外退去命令を出した。

日本の魂を踏みにじり殺そうとするとは何事だ、これは宗教じゃあない、侵略だ と見抜いたわけです。
あわや南米の二の舞になるところだったが、そこはそれ、宣教師も驚くほど、学問に関しては日本はレベルが高く、哲学を学んで論破してきたと豪語した宣教師すら、ぐうの音も出ず言い負かされる始末。
「たかだが日本のしがない一般人がなんで俺を論破できるのだ」と驚いたらしいですが、レベルが違ったからだと思うんですね。
キリスト教は一般ピープルから学問を奪い、そのことによって支配が簡単にできたでしょうけど、日本の一般ピープルは学問を奨励されており、西洋の信者のレベルとは学問において雲泥の差。
その日本を言いくるめられないレベルで、さらに日本の上をいく中国を言いくるめられると思っていたなど、身の程知らずもいいところ。笑


日本にはキリシタンの受難と語られているが、何故キリシタンが乱を起こしたかというと、当然キリスト教がバックアップしてくれ、戦に勝てると見込んで暴れたわけです。
売国行為をしてしまったので、日本の魂を外国に売り飛ばそうとする(というか魂だけじゃなく日本人も外国に売り飛ばしていましたようですが)私服を肥やすクリスチャンに対して、厳しいお咎めがあったわけです。

天皇を不敬した結果 こういうことを招いたわけです。
国体を汚そうとしたので、武士は穢れを日本から排除しようとしたわけです。

で、美智子皇后はクリスチャン的な行動をとっているので ん?とか時々思います。
ですが、ただの成婚じゃないと私は見るんですね。
天皇が独特の種族なら、そこに嫁ぎ跡継ぎを生む人も特殊な人たちだと思います。


で、トンでもなのか、そこそこ真実なのかわかりませんが、空海。
この人が怪しい。

日ユ同祖論がありますが、日本人の祖先がユダヤ人というわけじゃない。
だが、トップはもしかしたら、その系統の人たちかもしれないと うっすら思っています。
それは2000年前に離散したユダヤ人ではなく、もっと古いまだ統一されていた頃の王の血統かもしれない とか 古代のロマンだぁ とか想像しています。笑

ティアマート(天照大神)とマルドゥック(パウロ)戦では、マルドゥックが勝ちましたが、日本の場合、マルドゥックの負け。


と つらつら古代のロマンだなぁ~とか想像しています。

まあ、私はその系統の一族とは関係ないハズですが、それで日常の暮らしが平和なら、どの一族がトップに座っていようといいです。
その一族が存在する限り、日本が存在し続けるのなら、それでいいです。

その一族が汚され日本が滅ぼされそうになったら、、、、
自分が穢れても、その一族が穢れないように守るかなぁ?
実際なってみないとわからないです。

ハルマゲドンってメキドの丘のことで、激戦地域だったらしいです。
そこに熱心党派(ゼロテ党)は立て篭もり、自害したわけです。
熱心党にひきずられユダヤ戦争は起こったとされますが、信条はわからないでもない。
神を守るために穢れに入ったいわば聖戦なわけで、敵の手に殺され穢れるくらいなら、仲間同士で集団自殺する くらいの極端な熱心さは私には無いです。

が、誰かが日本を守るために穢れることをいとわないとする人がいたら、敬意を表したいと思います。


ただし、天皇はそれは望まないことはわかっています。
天皇は和平を模索するでしょう。
ただ、天皇を不敬する人は国民を戦争に駆り立てるでしょう。
そして、天皇を不敬する人たちが多ければ、日本はまた戦争を起こすことになり、永遠に天皇が岩戸に隠れさせられてしまえば、日本はこの世から消滅する。

敬意を表するかどうかは、暴力ではできない。
敬まわないと地獄に落ちるとか脅しても、敬意は発生しない。

敬意というのは、脅迫では発生しない。個人の自由意志の中から生ずるものだから。
敬意をするという意志は目に見えない力。
その力が弱まった時、暗闇がおとづれるってわけですね。
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肩肘を張らずにもっとラフに考えればいいのかなと思いました。


昔の武士道の本懐が何を指しているのか分かりませんが、
現代風にいいとこ取り(アレンジ)をすればいいと思います。

あなたの言っていることはその通りだと思うのですが、
国文学専攻の大学生の人がそのようなことを言うのであれば
実際にあなたと対峙したときの印象は違うのだと思います。

安倍首相の言っていた美しき日本。これだと思います。
武士道も天皇制もこの国の伝統であり、日本人の気を引くものです。
中国や韓国などと比較するとこの国の良いところがたくさん見えてきます。
結局日本人が古来から脈々と受け継いできたものが
間違いではなかったということです。

文化・思想・習慣も含めて、それらを大事にすれば
民族としてのアイデンティティは今後も一定水準を保てると思います。
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>なぜ私は武士道と天皇陛下への敬意を重要視しているのか。



現在そんなものなど存在しないからです。新渡戸がなぜ『武士道』を書いたと思いますか?新渡戸の時代に武士道なんてものが最早古いものでしかなかったからです。乃木の殉死がなぜあれほど大げさに書き立てられたのでしょう?乃木以外、だれも殉死なんてしなかったからです。
封建制の絶頂期とも言える江戸時代、すでに武士道は古びた概念でしかありませんでした。赤穂浪士の忠誠心なんて時代錯誤甚だしいものでしかなかったし、井原西鶴は『武道伝来記』で明らかに武士道の滑稽さをあざ笑っています。江戸時代にすでに武士道は古びた観念でしかなかったんです。殉死がいつ禁止されたかご存じですか?幕府が早々に、「武士道なんて古い観念を捨てて常に仕事としてお上に仕えよ」と言っているんです。
天皇への畏敬の念についても同様です。そもそも、天皇が畏敬の対象であった時代なんてほとんどありません。現在の待遇が歴代天皇の中で如何に恵まれているか判りますか?歴代天皇の中にはあまりに金銭的余裕がなく、即位の礼さえほとんどできなかった方もいました。今上が現在の状況でいられているのは、ひとえに今上自身の行いの良さと恵まれた環境です。今上に畏敬の念がはらわれるのは、それ相応の行いを今上がしているからです。
もっとカリスマ的で、政治に対してどん欲で、政治家や官僚たちを引っ張っていけるような天皇が現れたら、どうなるでしょうね?

後醍醐天皇という青天の霹靂のような人が現れたとき、楠木正成は忠義の臣となりましたが、その末路はおわかりでしょうか?中世においても、よく言えば英雄ですが、悪く言えば時勢を読めない愚かな人間と言うことです。

あ、私は別に天皇制については異議を唱えませんよ。天皇という存在のおかげで、日本という国は諸外国から良くも悪くも一目置かれていますからね。たいした武力もなく、国際的な発言力もなく、経済力もない一介の島国がすべてを失ったとき、残るのは天皇制だけですから。廃止されたら困ります。
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どっちでも良いと思います。


ただ、節操が無いとは思います。

また、損得だけ考え、騙し合い、してれば、しんどいと思います。
足の引っ張り合い、騙し合いをしてれば、精神的にもしんどいだけです。

天皇にしても、直接の言葉は聴いたことはありません。
でも、騙し合いを、いまは、推奨してるようではないです。
以前、某国に利用されて、怒ってるようです。

武士道にしても、個人の問題です。
騙し合いをしてれば、騙されて終わります。
また、信じても、騙されて終わります。

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