限定しりとり

 読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。つまり 真に似せる。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。

 一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか。

 先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力の場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。
 
 そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。
 まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか これです。つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立する。 
 これには もう少し 先もあります。
 早い話が この質疑応答で 回答者が おしえるのではなく 質問者も ただおそわるのではなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか。
 果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。

A 回答 (15件中11~15件)

>哲学の固有の分野であると考えられます。

つまり だからこそ 知識を右から左へ伝達する問題とは違うという性質を持つのではないかと。
 これでいいでしょうかね。>

まったくその通りだと思います。
ただ幾ら非シンクロ的な状態、つまりあなたの仰る

>★ 逆に矛盾がない正当な雰囲気で教育していたときに、逆に矛盾を発見するというのもある種教育ではないかと思います。
 ☆ むしろ こちらのほうが ふつうの場合であるかも知れませんね。何も初めっから 額にしわを寄せて生きているのでもありません。平安な生から出発するものでしょうから。>

これは要は出発ですよね、この状態は確かに非シンクロ状態ですが、この状態の解決は多分教育の問題と解答の中に入ってしまっているものが多いと思います。そうなれば結果的に枠の中であるわけでこれはNO2の問題に対する和解による教育側の「おしえた」という感覚と教育される側の「おそわった」という感覚のやはり右から左的結果にはなりそうです。
NO3で述べた問題解答の枠を超えた疑問となるとやはり哲学であると思います。
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この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 あぁ 分かりました。教育の中で というとき 簡単に言ってしまえば 授業の中で 矛盾を発見するというのなら 一個づつの知識の問題だということですね。
 そりゃあそうです。分かっていたはづなのに。

 急いで締めなければならないのでもないでしょうから さらに開いていることにします。

お礼日時:2008/07/10 20:44

> あと つけ加えておくとよいと思われる事柄などありましたら ご投稿を重ねてお願いいたしたいと思います。

>

と書かれてよかったwビビッと来ました!
逆に矛盾がない正当な雰囲気で教育していたときに、逆に矛盾を発見するというのもある種教育ではないかと思います。これはなかなか子供はだしません。なんせ雰囲気に流されて正当たど思い込んで教育を受けていますからそれはもはや習得です。ですがまれにその矛盾に気が付く人も居るはずです。その場合には破壊と創造の原理が働いていると思います。つまり疑いです。NO2で書いたのは仰るとおり和解ですが、逆に正当であるという原理のなかに新しいものを見出すというのはある種正当の破壊であると思います。逆にいうと心との和解です。つまり出来上がった学問にたいして心に違和感を覚えているのです。つまり学問Aとシンクロしている心に対して部分的に違和感を感じているのです。その違和感を(A¬)とするとやはりそれは和解です。NO2の場合ですと教育の枠の中の違和感の和解(逆にいうと問題という元々非和解的な現象にたいする和解)というある種教育と呼べるものですが今思いつたのは問題と解答に対する矛盾の発生という事だと思います。その発生の原理はやはり我々の心が現実と非シンクロ的な現象を起こす部位があると考えられます。
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この回答へのお礼

 ふむふむ なるほど 
 ★ 逆に矛盾がない正当な雰囲気で教育していたときに、逆に矛盾を発見するというのもある種教育ではないかと思います。
 ☆ むしろ こちらのほうが ふつうの場合であるかも知れませんね。何も初めっから 額にしわを寄せて生きているのでもありません。平安な生から出発するものでしょうから。

 しかも それまで受け継いできた《正当への疑問と違和感と破壊》つまり《新たな正当の創造》 これこそが おしえる側もおそわる側も ともに 目指しているところではないかと考えます。《和解》という見方をも受け容れてくださって ありがたいと思います。

 ★ その発生の原理はやはり我々の心が現実と非シンクロ的な現象を起こす部位があると考えられます。
 ☆ この方面は――いま 別の質問で 尋ねてもいますが―― この質問からは はずれるでしょうから・・・ 
 と書いたところで はたと 止まったのですが この
 ★ やはり我々の心が現実と非シンクロ的な現象を起こす部位がある
 ☆ というこの問題 この主題こそが 教育の根本にあるのかも知れませんね。それは すなわち 哲学の固有の分野であると考えられます。つまり だからこそ 知識を右から左へ伝達する問題とは違うという性質を持つのではないかと。
 これでいいでしょうかね。

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答への感謝のことばを述べるのをも忘れていました。ありがとうございます。
 まだ もう少し 開いています。何かありましたら どしどし ご投稿ください。

お礼日時:2008/07/10 06:54

>★ AがありAにとって矛盾する(A¬)があるその相互を結ぶ統一的なものを求めようとするベクトルが哲学(学問)というものだと思います。


 ☆ というとき このベクトルを おしえ・おそわる両者の間にも 見て取る。と言いますか そのベクトルが 問い求める主題の性質に応じて 自然と 出来てきていると解釈してよろしいでしょうか。>

ん~そうですねここはまた難しいですね、多分両者の間に見て取るということは出来るでしょうがやはり教える側と教わる側の違いはあるでしょうね。

>もしこの線でつづけますと 独りで考えるときと あたかも同じように 両者の関係においても(あるいは 多数の参加する場においても) 《自分が自分におそわる》という要素が 人との互いの関係としてのベクトルの中に 吸収されたかたちで はたらく。こうなるでしょうか?>

まあそうでしょうね
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この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ありがとうございます。

 じつは 数学の記号――矛盾する(A¬)――が分からなかったのですが A¬ は 非Aのことでいいのですね。
 ★★ AがありAにとって矛盾する(A¬)があるその相互を結ぶ統一的なものを求めようとする
 ★ というのは 意志の科学にとっては 《和解する》と言えるでしょうか。相手との和解であるよりも あるいは 互いに矛盾する二つの事項や命題のあいだでの和解であるよりも わたしに思われるには 教師にとっても 学生にとっても みづからと世界との和解 これが 問い求められ 一定の解決が得られたときには おしえた・おそわったという事態が成る。こういうふうに 今回のご回答に接して 感じました。
 それでも
 ★ やはり教える側と教わる側の違いはあるでしょうね。
 ☆ というわけであって ふつうに違う互いの立ち場のことも 見落としていいということにはならない。これで いいでしょうかね。

 あと つけ加えておくとよいと思われる事柄などありましたら ご投稿を重ねてお願いいたしたいと思います。

お礼日時:2008/07/09 20:28

まさにその通りだと思います。

とても真に迫っていて読んでいて心地よかったです。
個人的なアドバイスになりますが
多分相互作用の産物ということになると思います。
相互作用の産物は元々存在はせずその存在の無いもののなかから生まれるというのは教育というものかもしれません。
ただ自分で考えるという事もあるわけですがその場合も殆ど同じではないかと思います。AがありAにとって矛盾する(A¬)があるその相互を結ぶ統一的なものを求めようとするベクトルが哲学(学問)というものだと思います。
ただのマネではそれは教育ではなく習得ということになると思います。
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この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 ほおおうお。と言うと 上から言っているようにも受けとられていけませんが まづは (1)ひと安心です。ありがとうとございます。(2)しかも なぜか まだ 不安です。おしえる側とおそわる側とのあいだ(あるいは関係)と言っても なかなか定まりません。どこから? それは 両者のあいだからだ。と言っても 落ち着きません。そういう《ほおおうお》が まづ 口をついて出ました。

 でも こういうことでしょうか? すなわち
 ★ AがありAにとって矛盾する(A¬)があるその相互を結ぶ統一的なものを求めようとするベクトルが哲学(学問)というものだと思います。
 ☆ というとき このベクトルを おしえ・おそわる両者の間にも 見て取る。と言いますか そのベクトルが 問い求める主題の性質に応じて 自然と 出来てきていると解釈してよろしいでしょうか。

 もしこの線でつづけますと 独りで考えるときと あたかも同じように 両者の関係においても(あるいは 多数の参加する場においても) 《自分が自分におそわる》という要素が 人との互いの関係としてのベクトルの中に 吸収されたかたちで はたらく。こうなるでしょうか?

 もしこうだとすれば よろこばしいですね。そうですよね? つまり これでこそ 人間の自由かつ平等が 保証されます。哲学課題に直面するその立ち場や条件は 誰にとっても 同じであることにおいて 人は平等ですし 《自分からも》おそわるという要素が基礎にあれば 人は すぐれて自由であると考えられて来ます。(つまり 自由という公理の確認ですね)。
 
 やったぁ! と言っていいかも知れません。もう少し 時間をおきます。

お礼日時:2008/07/09 09:39

おしえる、おそわるの言葉の定義を広げる必要はないと思います。


おしえるということは、知っている人が、知識などを知らない人に伝えること、それを受け取る言葉がおそわるでよいのではないでしょうか。
一番学ぶのは、教えている側であるという考えがありますが、これはあくまでも上位者が新たな気付きを得ることでしょうから、
おそわる人が意図しておしえていることにはなりませんよね。

意見を出し合って、新たな結論を導き出すことが議論で、
お互い違い立場で意見をぶつけ合うのが討論といったように、
色々と状況によって言葉が作られています。
「おしえる」「おそわる」という言葉に対してはそのままの意味でもよいのではないでしょうか。

この回答への補足

 augustinusさん ご回答をありがとうございます。

 問題点は 簡単で 次の一点です。《おしえる》行為は
 ★ 知識などを・・・伝えること
 ☆ に限られるか否か これです。言いかえると 
 ★ 言葉の定義を広げる
 ☆ かどうかではなく あるいは
 ★ 言葉の定義
 ☆ そのものでもなく 《おそわる》のは 誰からなのか これに焦点が当てられます。《おしえる人》からに限られるのかという意味です。
 極端に言えば 《自分で自分をおしえる / 自分は自分からおそわる》という要素 これもあるのではないかと思ったのですが どうでしょう。つねに おしえる側とおそわる側とがありますから 上の事柄を その両者のあいだ(関係)に注目したということであって それを 言い表わせば 《互いにおしえ合っている》となりました。

 《ここは どこですか》とか《桶狭間へは どう行けばよいでしょう》という問いに対して 地名や道順をおしえるのは 知識項目の授受であり伝達です。
 桶狭間が どの地であるかを比定するのは 歴史学の仕事であり その研究成果をおしえるというのは おそらく 歴史資料をどう判断したか・その推論の妥当性を示すことに主眼があるでしょう。定説を聞いて それを暗記することは 学問にとって おそわることとは言えないでしょう。
 信長は どういう決断で臨んだか あるいは 今川義元となぜ戦わなければならなかったか これらの問いのたぐいは まだ 歴史学の問題領域です。では 人は人となぜ戦い なぜ殺し合いをするのか。このたぐいの問いになれば 哲学の分野です。
 ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。ここで 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から どこから 人はおそわるのか。こういう質問の趣旨になっています。この趣旨において
 ★ 教えている側〔=〕上位者が新たな気付きを得る〔こともある教授〕〔や〕
 ★ 意見を出し合って、新たな結論を導き出す・・・議論〔や〕
 ★ お互い違う立場で意見をぶつけ合う・・・討論〔や〕 
 ☆ とは――重なるところもあるでしょうし それでも それだけではなく さらに――違う要素があるのではないでしょうか。いかがでしょうか。

補足日時:2008/07/08 14:32
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