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一般的には悩みの軽減は可能でしょうが、全ての悩みからの解放は・・・有りますか?有りませんか?

A 回答 (13件中11~13件)

 私は仏教馬鹿で他の思想についてはまだ間で勉強中(仏教も勉強中ですが・・)、仏教の方向からアプローチしてみます。


>>全ての悩みからの解放は・・・
 まず「悩み」とは何か??ということを考えてみましょう。仏教では「苦」という言葉に相当するのではないかと思いますが、苦とは「逼悩(せめられ悩むこと)」の義と定義されます。苦の原意は「圧迫し悩ます」という意味があります。これを中国人は「苦」と訳したわけです。では、日本語に意訳すると現在の通仏教的には苦とは「思い通りにならないこと」と訳されています。
 私は背の高い方ではないのですが「牛乳を飲むと背が高くなる」と友達にいわれて、毎日何ℓも牛乳を飲んでいた時代がありました。私素直なのは良いのですが、お腹が弱いもので牛乳は下から出るばかりで身長には結びつかなかったようです。このように、身長というのはなかなか思い通りになるようなものではありません。それを私は思い通りにしようとした。すると、お腹を壊して苦しんだわけです。(善い喩えではないですね・・すいません)
 分かりやすく言えば、「思い通りにならないこと」とは「理想と現実のギャップ」と言い換えることができると思います。「こうありたい理想の自分」と「現実の自分」この二つの間のミゾが大きければ大きいほど、人は悩み苦しむのでしょう。
 仏教的に言えば、「無明(道理というものを心得ていない)」という心が、「執着(こうありたい理想にこだわって)」していまい、「苦(思い通りにならないこと)」を生み出し、人は悩むということになるでしょう。
 そして仏教はこの悩みや苦しみから解放されるためには、まず苦しみや悩みが生まれてくるシステムを理解しなさいと説かれています。

 さて、前置きが長くなりましたが本題に入ります。
>>一般的には悩みの軽減は可能でしょうが、全ての悩みからの解放は・・・有りますか?有りませんか?
 難しい質問です。「一般的には」という所が曲者ですね。これがもし、「悩みの軽減は可能でしょうが、全ての悩みからの解放は・・・有りますか?有りませんか?」という質問でしたら、私は「有ります」と答えたでしょう。なぜなら、お釈迦様がそれを完成されてといた教えが仏教ですからね。
 しかし、「一般的には」と入ると、そうとも言い切れなくなってまいります。私は個人的には浄土真宗を信仰していますが、親鸞聖人もそのお師匠様法然上人も「この世において完全な苦からの解放はありえない」と説かれています。親鸞聖人は
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし(念仏の教えに帰依したからといっても真実の心をもつこともできず、心のどこかで常に計算をして外見を取り繕っているようなものでは、仏のような苦しみを離れ悩みを解決した清浄な心をもつことはなおのことできない。)」
と説いておられます。私自身も「一般的に」すべての悩みからの解放はありえないと思っています。

 悩みからの解放はありえないと知っていながらも、苦しみをどうにかしたい!悩みを解決したい!という心が湧き上がってくる。けれども、その「苦しみをどうにかしたい!悩みを解決したい!」という心がまた、思い通りにならないという苦しみを生み出し余計に悩まされる。
 では、どうしたらいいのでしょうね??これを、法然上人や親鸞聖人は浄土教の中に活路を見出していきます。
 先ほどの仏教の原則として、悩みや苦しみから解放されるためには、まず苦しみや悩みが生まれてくるシステムを理解しなさいと説かれているともうしました、これは浄土教でも同じことが言えます。自分の悩みの根源に目を背けてはいけません。自分の弱さを見つめなおします。このような行為はマイナス思考だと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。禅宗の僧でありながら浄土教も非常に大切にしたかの有名な良寛さんはこのようなうたを詠んでおられます。
「愚かなる身こそなかなか嬉けれ弥陀の誓いにあうと思えば」
自分が愚かであると良寛さんは嬉しいとおっしゃる。それはなぜか、自分の愚かしさを知ることができたからこそ、それを支えてくれる阿弥陀様に出会えたじゃないか。ここでは、象徴的に阿弥陀様と詠まれていますが、その悩み苦しみに向き合い自分の弱さに気づけた、それは支えてくださる多くの方々に出会うことができることだと思います。これはとても素敵なことだと思います。
 そして、そうやって支えてくださる方々に出会えたならば、その人たちに何を伝えねばならないのか。「有難う御座います」という心であり言葉です。だからこそ、浄土真宗では「南無阿弥陀佛」は「報恩感謝のお念仏」「ありがとうのお念仏」であると説かれているのです。ありがとうも思っているだけでは、なかなか相手には伝わりません。だからこそ、声に出して「南無阿弥陀佛」と称えなさいと説かれるのです。

 確かに、悩みの完全な解放は難しいでしょう。少なくとも私には無理だと感じる毎日です。けれどもそれは、悲しいことではなく仏様やご先祖様・その他に支えてくれる多くの方々に出会うことであり、今まで嫌いだった人関係ないと思っていた人でさえ自分を支えてくださる方であったと気づくことであると思います。苦しまないんじゃなくて苦しみながら、悩まないんじゃなくて悩みながら生きていくのだと思います。
 親鸞聖人はご自身を「愚禿」や「五濁悪時群生海」と愚かさを嘆く一方、念仏の教えに帰すれば「娑婆において菩薩の最高位の悟りを得ることができる」や「娑婆において極楽で遊ぶような心地である」とも説いておられます。この矛盾する二つの考えはどのように考えればいいか?それは『法句経』というお経の中でお釈迦様は、
「愚かさを推し量る愚者は、それ故また賢者である。賢者であると慢心を抱く愚者は、それこそ愚者といわれる。」
と説いて、愚かさのない賢者になるのではなく、自分の愚かさを推し量ることのできる愚か者になりなさいと説かれます。こう考えますと、先の二つの矛盾する理論も、自分の悩み苦しみを見つめ愚かな自分であると知っているということは、現実の自分は愚かであると思っていても実はそれが仏教的には理想の自分であるという意味なのではないでしょうか。

 なんだか余談のほうが長いですね。申し訳ないです。長々駄文を連ねましたが、急ごしらえのため誤字脱字乱文どうぞお許しください。参考にしていただければ幸いです。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

御回答有り難うございました。合掌

お礼日時:2008/07/22 07:41

パーリ語の仏陀の教えでは、その方法が説かれていると感じます。



全ての執着心・妄想から離れる方法が。

スマナサーラ長老の「一日一話」→「一日一悟」→「現代人のための瞑想法」→サンガ出版の「仏法」がオススメです。びっくりするほど現実的・理性的なものだと感じると思います。

私自身大乗仏教しか知らなかったので、驚いた記憶があります。

こんなにも、論理的で具体的で道徳的で実証的な各々の理性・自由を重んじ、より理性を高める方法を説いているものを他に知りません。

これは悩み苦しみを減らすのに役に立つことです。きっと悩み苦しみの滅があるのではないかと憶測できるだけの説得力があると感じられるものとおもいます。

ぜひ読んでみて納得がいったものを実際にためし、実験してみてください。きっと良い結果があるとおもいますよ。
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この回答へのお礼

御回答有り難うございました。

お礼日時:2008/07/22 07:40

有ります。


女を絶つことです。なかなかできないですが、これこそ
煩悩のすべてです。結婚してわかりました。
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この回答へのお礼

うん~

御回答有り難うございました。

お礼日時:2008/07/19 08:04

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