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1. ひとは 人たるおのれの自然本性を見よ。

 
2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来るのだ。

3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みをも背負っています。

5. 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いたのではないでしょうか。

6. この悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 覆われ包まれ癒されてくるようになります。

7. いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)役》となってのように 引き受けたのではないか。すでに癒されていたからでしょう。

8. ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。色をつけて言っても ごみ清浄化再活性化工場なので この世の屑だとも言われています。・・Sadāparibhūta Bodhisattva ?



9. この現状 このエネルギー この動態としての過程 これですでに 完全な解放は成っています。

10. じつにすでにすべての解放と自由とは成っています。心配は要りません。



11. たしかになお かつての悩み癖が消えないかのごとく 思い思いの心配をすることはあります。でもそれらは 心にシミ・ソバカス・ホクロなどの母斑が残っているのではないかというたぐいの心配にしか過ぎません。

12. けれども やがて この悩みにかんしても しかるべきものはしかるべく消えて行くでしょう。

13. 社会の三分の一の人たちが 連帯して ゴミ処理工場を引き受ける情況がやって来たときです。つぎの三分の一がそれに加わらないけれど 共感し のこりの三分の一が ゴミの――人間の恨みや辛み 憎しみと蔑みといった心のゴミの――排泄を専門にして人びとを引っ張る・一般におえらい方がたです。三つ目のは アース役に対するに ガミガミ役です。
 
14. そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。――という法螺を吹きたくなりますが どうなんでしょう?

15. あわせて イエス・キリストは おおいなるアース役だったか?

A 回答 (5件)

それは苦しみではないと言うことか?



維摩経に、病に伏せる維摩が、病は空だとか苦しみも空だとか述べている時に、文殊が、
「でもあんさん、現に今苦しんどるがな。それはどないに説明しまんのや?」
とツッコミをいれるシーンがあります。
そこで維摩は、
「いや、みんなが苦しむから俺も苦しむねん。」
て言いよるんですよ。

これはつまり、、どうゆうこと??

空故に苦は無く、空故に苦は有るってことかなあ。
無縁慈悲があれば、無縁苦もあるってことなんでしょうか?
苦みたいな複雑なものが、無縁と言う縁起場に起こるとは思えない。。

あ、思い当たる節がありました。
無縁だけではダメで、やっぱり無縁慈悲でないとあかんのやと思います。
空だけでなく、風(慈悲)が吹くべきで、
無病から更に一歩進んだ癒しが無縁慈悲なのではないだろうか。
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この回答へのお礼

★ ~~~
それは苦しみではないと言うことか?

維摩経に、病に伏せる維摩が、病は空だとか苦しみも空だとか述べている時に、文殊が、
「でもあんさん、現に今苦しんどるがな。それはどないに説明しまんのや?」
とツッコミをいれるシーンがあります。
そこで維摩は、
「いや、みんなが苦しむから俺も苦しむねん。」
て言いよるんですよ。

これはつまり、、どうゆうこと??
~~~
☆ あぁ。それが おそらく一つの視点としての《共業》かも。

つまりは 対面していないとしても同じ空気を吸って生活するみんなの世の中としての――心のそして身体の状態にかんする――《共同性》を かなり強引にと見えますが・つまりはアース役であるかのように おれは担っているんだぞと。

自分独りだけのヤマヒではないんだぞと。




★ 空故に苦は無く、空故に苦は有るってことかなあ。
無縁慈悲があれば、無縁苦もあるってことなんでしょうか?
苦みたいな複雑なものが、無縁と言う縁起場に起こるとは思えない。。
☆ かなり強引に《アース役のグローバリゼーション》といった見方を打ち出している。

空観に立てば それらは しかし 仮象である。ただ 仮象としてははっきり実際に現象している。

《苦》からのびみょうな自由観を感じてくれたまえと維摩詰。



★ あ、思い当たる節がありました。
無縁だけではダメで、やっぱり無縁慈悲でないとあかんのやと思います。
空だけでなく、風(慈悲)が吹くべきで、
無病から更に一歩進んだ癒しが無縁慈悲なのではないだろうか。
☆ じんるいの始祖からの歴史:
① 最初のウソ・イツハリ
② ヤマシサ反応への逆らい
③ 神経線維にユガミ
④ 自由意志の自由の止み→闇そして心身の病み
⑤ 病みの慢性化は ヤマヒ
⑥ ヤマヒの相続
⑦ 自己到来かつ自己還帰
⓼ ヤマヒは如何に癒されるか
⑨ 個人のさとり
⑩ 共業としての――ヤマヒへの対峙からの――癒され
・・・

お礼日時:2023/04/23 17:40

人々に遍く風は吹いているはずであるが、人々の受ける苦悩の深浅はそれぞれである。


それは何故なのか?
苦痛を癒すものは何か?
それとも、既に癒えていると書き換えることで、苦痛や苦悩が取り除かれることがあるのか?
この時、取り除かれた苦痛や苦悩は何であったのか?

わからん。。
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この回答へのお礼

★ 人々に遍く風は吹いているはずであるが、人々の受ける苦悩の深浅はそれぞれである。
☆ あぁ。そういう視点からの捉え方ですね。

(別の視点というのは たとえばですが bragellone については いっぺん池の中に落としてやれ・つまりそういう風を吹かす。それでも水に濡れないで上がって来れるか? 見てやれ。といった実際の出来事が起きているかも分かりません)。


★ ~~~
それは何故なのか?
苦痛を癒すものは何か?
それとも、既に癒えていると書き換えることで、苦痛や苦悩が取り除かれることがあるのか?
この時、取り除かれた苦痛や苦悩は何であったのか?

わからん。。
~~~
☆ この問題については 自分独自で勝手に自由に考えて来ています。

【Q:エワとアダムは禁断のリンゴを食べた すなわちかれらは ウソをついた】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13412478.html

☆ ヤマシサ反応に逆らってじんるいの始祖は ウソをついた。
そのヘソの曲げによって神経細胞にユガミが生じる。

自由意志の行使する自由に止みが生じ――闇も生じ―― 心身に病みが生じる。病みの慢性化は ヤマヒ。

ウソの積み重ねを経て 心身のヤマヒを ひとは 世代の交替ごとに受け継いでゆく。

〔何ものかによって このヤマヒは瞬時に癒されることがあるかも知れない〕。


ヤマヒ――自由の止み――の度合いにおうじて ひとは 神と向き合う。つまりは 自己自身を見つめ自己を知るようになる。

・・・

お礼日時:2023/04/23 17:22

引用:そのように捉えたなら 《他己実現》の問題も 視野に入って来るかと思うのですが。



たしかに。
人々がそれぞれに引き受けている業は、とても等しいものでは無いと言わざるを得ない現状があります。重い人と軽い人がいる。
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この回答へのお礼

少し見通しが立って来ました。話し合いはすすめてみるものですね。


★ 人々がそれぞれに引き受けている業は、とても等しいものでは無いと言わざるを得ない現状があります。重い人と軽い人がいる。
☆ といったあたらしい局面に入るとなると むつかしいですね。

考えたこと なかったですから。


これまでに――やはり直感的に――思ったことは イヂメなどのハラスメントがじっさいに起きているとき 《♪ あぁ アース役はつらいよ ♪》と言ってみたら どうかです。

《重い業》が ガミガミ電波のごとく 放たれていてこれをアース役が受け留めるというとき 当事者本人ふたりやその場の人びとみんなにとっても その鼻歌ひとつで《軽くなる》かも知れない。

こういうところまでは 考えたことがありましたね。


あとは みなさんの反応を受けて さらに考えて行こうと思っていました。あたらしい局面のことは 何にも用意がありません。


これからですね。

お礼日時:2023/04/22 16:56

なにか、少しだけ預言者めいた発言かなと思います。


そういうなら、正直に申せば私もおそらくはアース役な気がします。
それを過去形にして、人がそれぞれ一人分の業を背負うと言う事で良いと思います。
今回はちょっと的外れの回答かもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ なにか、少しだけ預言者めいた発言かなと思います。
☆ そうですか。

★ そういうなら、正直に申せば私もおそらくはアース役な気がします。
☆ おお。よかった。


★ それを過去形にして、人がそれぞれ一人分の業を背負うと言う事で良いと思います。
今回はちょっと的外れの回答かもしれません。
☆ おそらく自分の――その意志行為にかんする――業は 受け留めていて事故のもとに収めているかと思います。

集団的無意識(あまり好きではないので出したくありませんが)のごとく 例の共業が その《個人とその業》といった基礎の上に どう成り立つのか? 成り立つことはあまりないのか?

そのように捉えたなら 《他己実現》の問題も 視野に入って来るかと思うのですが。

お礼日時:2023/04/22 15:14

そうですね


その通りですね
貴方の言う通りですね
間違いありません
感服致しましたから
ベストアンサー下さい。
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この回答へのお礼

そうですか。ありがとう。

お礼日時:2023/04/15 08:15

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