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 末法が 現実であるのではないでしょうか。
 もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。
 あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。

 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。
 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。
 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。

 一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

A 回答 (59件中41~50件)

こんばんはオコリザルです。


白熱したバトルに興奮した観客の声援だと思ってください。
最後までうまく文章を結べるか判りませんがとりあえず書きます。

哲学的思想の根源は2つのタイプに分かれると思います。
「人間とは何ぞや」そして「神とは何ぞや」えてしてどちらか片方しか選べません。「仏とは何ぞや」「自分とは何ぞや」この二つはどちらかの類型だと思ってください。
私はかつてこんな質問を受けたことがあります。
>たどり着いた時、そこに居るのは誰ですか。
私はこう答えました。

その誰かさんは自らに疑いを持つことのけしてない存在で、したがって「あなたはだあれ」この質問には答えるすべを知らない。
そして自らの心の中の出来事であり要するに自分自身の姿です。

私は人間とはなんぞやの道を選びたどり着いた結論です。
声を出したあなたはだあれと問いかける存在が(煩悩ではなく)無意識です。

brageloneさんは、あなたはだあれの姿に神を思い描いたタイプです。
この二つのタイプは違う道のり(異質と言っても良い)を歩みます。
たどり着いた後は神と人間の姿両方を見ます。
そしてそこで人生は終わらない。
むしろ始まるのです。

私の場合は「仏の現代語訳は人間」この短い一語です。

別の人生経験をつんだbrageloneさんとの交流は分かち合うものが多く私にとって有意義でした。
仏教徒さんとも仲良くできるといいですね。
おそらくそのつもりの論戦だろうと思っています。

brageloneさんから聖書にも「滅びの子」と言う表現があることを聞きました。
これを唯脳的に還元します。
脳内で自己から切り離されて不規則なにせ情報を撒き散らす神経伝達ぶしつです。
仏教では乏しい知識から推測すると「業」のことでしょう。
私は自己の同一性から切り離されていることに着目して魂の欠損と呼びます。
心象においては滅びの子がうってつけで、生命のありように対して生き生きと悪夢を見せつけます。
この危険な存在に関しては仏教徒のほうが詳しいです。

この回答への補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回のご回答は いささか おもむきが変わっています。

 お伝えすべきと思ったことが 二点あります。
 その一として。
 ★ 《滅びの子》
 ☆ これは 個人個人で そのおのれの信仰に従って 違った内容としても 捉えることがあるのではないかと思っております。
 わたしの場合は こうです。人は この信仰を持つとき それは 与えられるのだということですが その意味は 基本的に 次のようだと理解しています。 
 すなわち 人生において 一度 どういう時にであるかを問わず 人は 究極の情況に落ち入って 《わが神 わが神 なにゆえ われを見捨てたまいしや》と言う場合があると思うのです。(日本人になじみのある言い方をすれば 《あぁ 神も仏もないのかぁ》といった窮地のことです)。ところが この信仰の場合には この究極の窮地に落ち入って 絶望したとき そのようにわが神に見捨てられたそのことにおいて じつは 見捨てられていなかったと分かる。こういう事件のことです。
 わたしにも ありました。
 それで この《滅びの子》についてですが いまの《見捨てられるという事態》 この事件に遭うということを 《滅ぶ》と言っているのだと思うのです。《旧い人を脱ぎ 新しい人を着るために 見捨てられる=滅ぶ》というのだと考えます。
 ほかにも解釈があるとは思いますが この解釈が 人にとって いちばん 身近で 通り過ごすことのできない関門を示しているように思っております。

 その二として。
 ★ 仏教徒さんとも仲良くできるといいですね。
 ☆ この問題です。むろん 仏教徒に限らず 衝突する人みなについて 言っていることになると思います。
 そこで ひとつだけは 譲れないことがあります。それが 上の命題です。《滅ぶ》ということ つまり 《神に見捨てられる》ということ このことが 《論戦 また その過程における衝突》とかかわっていると思うのです。
 えらそうに また ええ恰好をして 言いますが こちらは 自分の見解を述べつつ 相手の見解を分かろうとするというのが 基本ですし じつは それだけであるわけです。その姿勢で 論戦となり 果ては 衝突することになる。というわけです。あまりにも偉そうになってもいけませんが おそらく 相手にとっては その自分の中で 《ほろぶ》ということが 自分のそれまでの見解が揺らいだことで 頭の中に 思いとして起こっているのではないか こう推測するのです。
 ですから もうこれ以上を言えば いかにprimeapeさんとて もはや去っていかれるのではないかと思うのですが でも 言います。もし そういう《見捨てられ》体験の渦中に入ったのだとするなら こちらは その相手の動きを どうにかすることは出来ないと思うのです。むしろ その体験の進みに応じて お相手をしていくことが 課せられているのではないか こう思っています。こちらは 白紙です。こちらは 触媒になるのだと考えます。触媒は みづからは 何も変化しないのです。変化しないで 自己がかかわって化学変化をうながすかたちです。

 これら二点を思いました。嫌われちゃって 嫌われちゃって。・・・

補足日時:2008/08/28 22:53
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だから、そういう理屈は全て捨ててください。


通常の意識が「絶対」ととらえるように、仏性はあるわけではないし、
あるとも、ないとも、いいえません。それらを超えたところにあります。

信仰でも思想でもなく、心の本質です。
真っ直ぐに専心して精進すれば、はっきりと仏性を見ることができます。
それに向かわないで、誤った思考を積み重ねると迷います。

この回答への補足

 jugemjugemさん さっそくのご説明をいただきありがとうございます。

 なるほど 自信をもっていらっしゃるということ――何ごとも 確信をもって発言するに限ります――が 分かるとともに それと同時に じつは どうもブッディスムは 自己の あえて申せば 殻に閉じこもっているのではないかとの疑いを抱かせる焦点でもあるところなのです。
 心理学は あくまで 経験科学です。精神分析になると 信仰に 大いにかかわっていて 紛らわしいのですが やはりあくまで経験思想であると言うべきでしょう。そのように では ブッディスムは どうなのか? これが 知りたいのです。信仰か そうではなく 経験思想か。

 そういう理屈を言う問題ではない――こうも おしえていただいたわけですが では その実践 と言いましょうか 修行でしょうか その実際の学びにおいて
 ★ 信仰でも思想でもなく、心の本質です。
 ☆ というのは どういう実態であるか。これを説明せよという問い合わせが 来たときには どうしますか?
 ★  本質 / 心
 ☆ これは まだ 人間存在そのものであるか もしくは その存在に伴う自然本性というべき能力ないしその能力の場であると考えます。ですから 大きく言って 経験領域です。そこにおいて 
 ★ 真っ直ぐに専心して精進すれば、はっきりと仏性を見ることができます。
 ☆ というとき では この《仏性》は どこに存在するものなのか? 心の中にあるのか? それを超えているのか?
 ★ 通常の意識が「絶対」ととらえるように、仏性はあるわけではないし、 / あるとも、ないとも、いいえません。それらを超えたところにあります。
 ☆ ここです。焦点は すべて ここに集まっています。自分の心の事件としては 分かったとしても では 外の人びとに対して どのようであると説明するのか。要するに
 ○ 信仰であるのか。そうではなく 一般にも 精神の領域において行なわれる瞑想のたぐいなのか。
 ☆ 少々 きびしい言葉かも知れませんが こういう問いかけです。
 ○ 仏性を見た人は その仏性を 経験行為としての瞑想によって得られる体験の範囲に入っていると説明するのか。それとも それらを超えていて やはり 超経験としての信仰の問題であると説き明かすのか。
 ☆ となると思います。いつも ここで 話し合いは 中断します。
 ○ 要するに ブッダは どうであると言っているのでしょう? 何も言っていないのでしょうか?
 ☆ 修行者によって まちまちなのでしょうか。信仰説と 思想(瞑想)説との二つがあるということでしょうか? たぶん 大きく分ければ この二つに一つだと思いますが。

 * 仏性は すべての人のこころに宿るのですよね? それは いつかは 朽ちてなくなるようなものか。それとも 決して朽ちない永遠の力なのか。お釈迦さんは どう言っているのですか?

補足日時:2008/08/28 14:46
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成仏というのは、哲学や信仰、絶対者の存在、なんかじゃありません。



心の本質なんだから、それを見るのは簡単です。
外のブッダに期待をかけたりするから、妄分別が増して難しくなるわけです。
心は誰にでもあるでしょう?
思いはどこから生ずるのか?
心をリラックスさせ、思いを静める。
智慧によって迷妄がはれると、心の法性と対面するチャンスに近づきます。

悟りの眼をもって、一念一念に仏性から離れないなら、仏となんら違いはない。
悟りの眼がなく、思いにとらわれ、対象にとらわれるなら、それによって迷いの世界を成就する。
つまり、誤った思いでとらえることによって迷いを増すわけですから、
そのような執着は捨て、仏性と対面するまでいかなきゃならない。
それには正しい師僧に依る必要がある。
迷いの道を歩んでるのか、悟りの道なのか、よくよく気をつけなければならない。

できるだけ分かりやすく書いているつもりですが、分からないなら分からないでかまいません。
仕方ないです。
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この回答へのお礼

 jugemjugemさん お答えくださって たいへんありがとうございます。感謝します。

 《 QNo.3454478 :〈我れ〉はある?ない? どちらですか(仏教)=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 》
 《 QNo.4199231 : ブッダは 神ですか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4199231.html 》
 ほかに いくつも行なったものがあり このように すでに さんざん 質問もし おしえてももらっておりますので ここで 理論そのものの議論をする気が――ほめたことではないのですが―― なかなか 起きません。

 ここで おしえて欲しかったことは 次の一点であり それに集中しています。
 ★ 心の法性 / 仏性
 ☆ これは 絶対のものですか? そうではないですか? です。
 もし Yes であれば 広義に 神とその信仰の問題です。もし No であれば あなたが
 ★★ 思想や概念は、心の派生物にすぎません。
 ☆ とおっしゃるところの《経験思想》の問題になります。そしてこちらは もはや 潜在能力が 枯れたのではないかと問うています。

 ★ それ(仏性と対面すること)には正しい師僧に依る必要がある。
 ☆ という助言も いただいていますが やはり そのときにも 《仏性》は 《変わることのない永遠の実体》として絶対ですか? と問いたいと思います。
 ★ 成仏というのは、哲学や信仰、絶対者の存在、なんかじゃありません。
 ☆ という文にも 暗示がありますが 《成仏》のことではなく 《仏 ないし 仏性》については どうですか? という問いになります。《仏》が絶対だとなると 《人間ゴータマでありつつ 同時に 絶対者なるブッダである》という想定になるはづです。(上の第二の質問での質疑応答を参照していただければさいわいです)。

 * 注目点は こうです。《成仏》の内容のほうよりも その事態が 《絶対》とかかわっているのか / どのようにかかわっているのか ここに焦点が当てられます。

お礼日時:2008/08/28 13:06

あなたの質問は「ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか」で、


私の回答は「ブッダは、すでに成仏してます。」です。
「慈悲」が気に入らないから「思いやり」にしろ、というのは、くだらないです。

心の法性が仏です。
思想や概念は、心の派生物にすぎません。

私の質問には答えられずに、新しい質問をしてくるんですか?
Yes/No、分からないなら分からない、とはっきり答えてはどうですか?
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この回答へのお礼

 jugemjugemさん たしかに わたしは この質問では 理論について 生半可なかたちで 触れているにとどまっています。その点を ついておられるようです。
 問いの内容は こうです。
 ★ 私の回答は「ブッダは、すでに成仏してます。」です。
 ☆ とおっしゃるとき 《成仏》とは いったい どういう哲学的事態なのですか? という問いです。日本人なら なんとなく分かります。また 解説書や研究書をひもとけば ある程度の説明を得ます。問題は 生から死への移行だけではないとすれば どういう事態か です。
 ★ 心の法性が仏です。
 ☆ だとすれば 無限つまり永遠の存在なのでしょうか? という問いです。絶対なのでしょうか? と問うています。そうであるという答えであれば それは まづ 信仰ですね? という確認です。
 もし信仰であると確認できるなら おしえが 重要なのではなく つまり 人間の理性やその経験思考が 第一に来るのではなく あくまで 絶対者(または絶対)への信仰が 最重要なのですね? と確認を続けます。
 ★ 思想や概念は、心の派生物にすぎません。
 ☆ ということでしたら たぶん そうなると思います。
 そうなったら どうなるか。ブッダまたは仏性は――創造主ではないでしょうが―― あきらかに はっきりと 価値自由の中立的な意味での《神》であるとなります。そのことを はっきりさせるべきだと考えます。それなら 《末法》だの《像法》だのという時期区分は 関係ないです。
 ★ 「慈悲」が気に入らないから「思いやり」にしろ、というのは、くだらないです。
 ☆ の《慈悲》は いわゆる《神の愛》ということです。ブッダの慈悲・ブッダの愛が 神の愛だということになります。キリスト信仰と並ぶものだと思います。
 また こう述べた中で jugemjugemさんの質問にも お応えできたと思うのです。
 ここまでを述べて もし出来ましたら それに関して どうお考えになるか おしえていただければ うれしく思います。Yes であれば もちろん 葬送は 必要がなくなります。

お礼日時:2008/08/28 00:07

こんばんはオコリザルです。


krさんはそれなりに自らをわかろうとする姿勢でいいんじゃないかなと思います。
brageloneさんの一連の神仏に関わるご質問の中でも今回のは刺激的で仏教徒さんもおろかではありませんから趣旨が分かれば正々堂々と論議できると思うんですよ。
brageloneさんのA15のお礼から感じた印象では案外はつらつとしたご様子で雑談でお茶を濁すのは余計なことでしたね。
しばらく論議の進展を楽しみに観戦します。

正しい信仰とはそれぞれの信じるものが違っていてもお互いに尊敬しあえるものだと思っています。
brageloneさんなら当然わきまえている事でしょうから募集する回答者さんにその点について自らの立場を伝えるのもいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

 ★ 正しい信仰とはそれぞれの信じるものが違っていてもお互いに尊敬しあえるものだと思っています。 / brageloneさんなら当然わきまえている事でしょうから募集する回答者さんにその点について自らの立場を伝えるのもいかがでしょうか。
 ☆ その趣旨で 《Q:ブッダは 神ですか》を尋ねたのでした。いちおう 《無神論であって 場合によっては 浄土教において 有神論となっている》という解答だったと考えるのですが 最近のブッディスムにかかわる質疑応答は なんとも はっきり言って お粗末です。それで再度 質問したのでしたが とは言っても ブッダ葬送という主題も 前々から持っていました。
 要するに もう伸びないと思うのです。思想として。引導を渡すのなら 早いほうがいいはづです。影響を受ける人びとのことを考えると 余計なところで影響を受けることを避けさせるべきだと思うのです。敗戦と分かっていて その直前に 空襲を受けるのは くやしい思いでやりきれないでしょう。
 けっきょく 親鸞の信心は きわめて 普遍的な信仰の形態だと思うのですが どうも これも 伸びがないというように感じます。伸びがあった と言いますか 活動的であったのは 日本という社会の中でのことに限るのではないかというように思われます。国際社会の中では なかなか 普遍性を発揮するのは むつかしい。強いて言えば 形式だけを考えれば いわゆるキリスト教と浄土宗とを足して二で割ったかたちが 穏健な信仰のかたちであるように思われますが 中身を問うならば そういう形式的なことは 論外なのでしょうね。

 要するに 《慈悲》というのは その観念が 頭の中に あるいは そう言おうと思えば 心の中に 浸透しているけれども その中身は 実際のこととしては きわめて あいまいであるというのが 現状であり 現実だと思われます。そして そのあらためての起動というのは もう望みが薄いのだということではないでしょうか。
 
 今回は 理論的なことを ほとんど 述べていないので その点 こちらも 質問として 魅力がないのかも知れません。たしかに《迷走》しています。

お礼日時:2008/08/27 23:09

primeapeことポケモンのオコリザルです。


ローマ字をタイプするのは面倒なのでこれからはオコリザルと自己紹介します。

論議の進展が楽しみなご質問だったのですが明らかに迷走してますね。
「いい加減にしてくれ」のブーイングがよく判ります。

仕切りなおしの意味で私がbrageloneさんにお話した中で叱り飛ばしてしかるべき批判的見解はありませんか。
先生としてお尋ねしております。
特にアラーヤ識や無意識の話などは自分自身にしか自覚できないと思っていた話しをよく理解していただきました。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。

 《怒り》でもいいのですか? prime って 第一のってことでしょう? ボス猿ってことですか?

 けっきょく こういうことではないですか? つまり ブッディスムの内部では そこそこ重要な理論がいくつかあるけれども 哲学思想一般の中におくと それほどのことでもない。めちゃくちゃ劣るのでもないでしょうが ひとつには 個人の内面におさまってしまう恰好になる。ですから 《空観=相互の作用かつ依存の関係という見方》だけは西洋哲学と肩を並べるけれども あとは きわめて あいまいな宗教の教義にとどまってしまう。
 議論に耐えられないと知っている。この一言になるのではないでしょうか。

 あと 尋ねられていますが 特に 何がどうということは 思い浮かびませんが。
 これまでの質問では いまは 《Q:人は 人のあやまちを赦すことができますか》が ちょうど読み直してみたところで これをさらに確かなものにしたいようには思いました。
 いまの質問は 《Q:ブッダは 神ですか》の続編です。そのときには ブッダを立てて 最高の人間性だとおだてたものですから 多くの回答を得ましたが ここでは ぼろくそに言っていますので 回答があつまりませんね。人為の極致をきわめて あとは 人為の問題という枠組みにとどまるがゆえに 末法というごとく その役割を終えたのではないか こう思われます。
 まぁ そのとき そのときなのでしょう。それにしても
 ★ 「いい加減にしてくれ」のブーイングがよく判ります。
 ☆ というのは これまでの回答群を見て おっしゃっているのですか? それとも どこかで そういう声があがっているのですか?
 これまでで krさんは 特殊でしょう。特に この質問だから 迷走というわけではないと思いますよ。

お礼日時:2008/08/27 22:17

 brageloneさん、ずいぶん悲しい状況なんですね。

いえ私が。
 こういう場所では、誰しも門をつけておられますよ。
 しかも自然に門から入ってくるように、文章の書き出しと脈絡をつけておられますよ。皆さんそうしておられますよ。
 あなたのご文章も私は普通の読み方をしてきていたのです。
 つまり、やはり門から、素直に理解し、受け入れるようにしてきたのです。伝える内容があるのですか?あるならきちんと伝わるようにしてください。
 孔子を仲尼と必然性も必要もないのに、わざわざ回答者のことばを言い直すことなどはお改めになりなさい。そういう一環のことがあなたの書き込みなのです。
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この回答へのお礼

 shift-2007 さんは 復活なさったようですよ。

お礼日時:2008/08/27 17:16

 何を言っているのか 理解し得ないということは、確かに単なる覚書でしょうね。


 あなたの表現の仕方は、書き込み者やその内容のことには何もいえないというに過ぎないが、その言い方は世の一般的言い方の中では、一定の負的価値を伴わせる言い方ともなりかねなく、普通のことばではないと受け取ることもありうるでしょうね。
 あなたもおっしゃってはいませんが、分からないことは威張れることでもないですよね。それだけです。
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この回答へのお礼

 門から入ってこない人には 結果として とうぜん そういう応対になります。

お礼日時:2008/08/27 16:19

 ANo.9


 そうですか。そういっても何にもなりませんよ。
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この回答へのお礼

 何を言っているのか 理解し得ないものには 応えられないと 覚書したまでです。

お礼日時:2008/08/27 15:25

「ブッダ葬送」から「復活する恵み」に至るまで全てが妄想で事実がありません。


ブッダの亡霊がどこにいますか?
ゾンビを見たことありますか?
全ては心が生み出します。

私の質問には一つも答えられませんでしたか?

あなたは自分の思想を繰り返すだけ、
状況に心が動かされて、心のままに反応しているだけで、
つまらないです。
思想、哲学の問題じゃありません。心そのものです。
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この回答へのお礼

 ★ 私の質問には一つも答えられませんでしたか?
 ☆ 次のような問題であり 質問です。つまり質問趣旨そのものです。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。

 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。

 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう思想=解釈は 病気だと言うのなら 無理に 投稿なさらなくても いいのですよ。
 たとえば 《思いやり》と言えば わかりやすいでしょ? 《愛》といえば たしかに 絶対にかかわる至高の行為から 情念や さらには 憎悪としての愛情やに到るまで すべての人間の関係をめぐる思わくを含めて 幅の広い概念です。では 《仏の智慧 だとか 慈悲》だとかは どうですか? と問うています。百科事典から 文章を引っ張ってきても 面白くないですよね? と尋ねています。どうですか。

お礼日時:2008/08/27 15:24

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