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 末法が 現実であるのではないでしょうか。
 もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。
 あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。

 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。
 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。
 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。

 一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

A 回答 (59件中31~40件)

こんばんはオコリザルです。


ご質問の内容について何か言いたいところですが思い浮かびません。
しいて言うならばお望みどおりバッシングを受けてください。

マインドコントロールの話とも関連しますが思いついたことです。

私の出したかつての質問です。
「いわゆる大乗仏教全般が自己の救済の放棄につながらないのは何故ですか。」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4189510.html
テーマは「とりすがり」です。
拝む姿に人間らしいイメージがもてなかったのでそのような誤解を解きたいと思いました。
この質問を掲載した日はイデア界に広がる波紋の様子にお祭りが始まるようなわくわくした予感を持ちながら久しぶりにぐっすり眠りました。
そして回答者様たちの人柄に触れて悪いイメージを払拭できて安心しました。
鬼神は人間の顔を真正面から見たことがないんです。
無意識的には複雑で(この場合個体の無意識ですが)心理学的な依存心の発生するメカニズムを解析して予防のための免疫を作ってました。
これが無いと階段を一歩上るたびにとりすがりの波状攻撃が襲います。

失敗例のほうです。
ザインwiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%A4% …
ここの教祖様はかなり徳が高い人と推測されます。
やはり世界中の言霊が聞こえるタイプで、仏性に基づく智慧を身につけています。
そして煩悩の声の意味を知ってしまったのでしょう。
そうすると煩悩は聞き届けてくれた。と、勘違いします。
徳の高い人にはこのような(他者の)煩悩の声が集まります。
その重圧に耐えかねて切れたのでしょう。
新興宗教の教祖様に納まってしましました。
このザインの構造は興味深いんです。
無意識的な精神統一の仕方をそのまま再現しています。
欲望を拘束するマインドコントロール構造です。
軍事帝国を名乗るのも煩悩の重圧に耐えかねたゆえです。

この手の問題は人間性に磨きをかけると避けて通れない試練です。
あまり涼しい顔をしてもいられません。
brageloneさんは信仰心の忠実さは確かなので、ぶち切れるタイプではありませんが、明らかにばてていて一時的にいい考えが浮かばない状態だろうと思います。
私も同じ経験があるからゆえの推測です。
私は一度の質問で一区切りをつけましたが、哲学の知識と教養それに知解能力のあるbrageloneさんは何らかの思惑があって嫌われ者になりたいのでしょう。

今回は何も言わないよりも望むままに罵詈雑言を浴びせてあげるのが親切って物です。

落ち着いてまた楽しいお話が出来るようになるといいですね。
ところでザインの構造のどのあたりが慈悲なんでしょうね。
笑えるんですアレは。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回へのお応えは ひとこと

 ○ 時の満ちるのを待つ

になると思います。
 ★ ザイン
 ☆ は 知りませんでした。ヰキを読むと 報道もされているとのこと。でも わたしにとって 初耳です。うまい具合いに すり抜けていたという恰好のようです。

 やはり 資料として 引用を掲げます。何かの材料になるかと思ってです。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
 突然、彼らは叫んだ。
  ――神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに
   来て、我々を苦しめるのか。
 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。 そこで、悪霊どもはイエスに、
  ――我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ。
と願った。
 イエスが、
  ――行け。
と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。

 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。
 (マタイによる福音 8:28-9:1 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2008/08/29 23:12

かなり加除修正してみました。



1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構の存在形態 無実体なのに価値判断によって形成される執着対象として仮構している固定性 有為の中心概念 物に限らない(イメージなど言語的存在) 現実把握・認識の初期段階(有我の段階)

2.依他起性(えたきしょう):他に依存する存在形態(相対的存在形態) 自立的存在でない 恒常不変でない(諸行無常、有為転変) 縁起の中心概念 ウィッキの「存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である」かどうか不明

3.円成実性(えんじょうじっしょう):完成された存在形態(絶対的存在形態) 諸法無我(無主体論) 常住不変の実体観からの解放(非実体観) 世俗諦認識の完成段階(無我の段階だが、まだ無我という有に留まっている) 無差別・平等の真実・真如(無執着なありのままの世界観)

>真如を自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。

そうかもしれませんが、よく分かりません。まだ、有為の世界のようです。無我・無執着という「有」に留まっています。(常に有の性質が付き纏う)言語で記述する限り、有為に過ぎないと思います。

 あとは
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)
 縁起(相依性)、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《勝義諦・真理》が 《絶対》のことであるかどうかが 問題になると思います。《絶対》という意味だけの《神》であるかどうかです。つまり ブッディストは 《信じる》のかどうかです。《感じる / 考える / 〔表象し得たか・し得ないかの いわゆる神秘的な〕瞑想 / 信じる(心の伸び・開き)》の区別をするとよいのだと思います。
 《無意識》は けっきょく 意識に現われたものを扱うしかないということになると考えます。つまり 上の区分のいづれかです。

(ご返答)まず、竜樹は中論で勝義諦に縁起(相依性)を含めているらしいのですが、今日では世俗諦ではないかと考えられているようです。相依性は、「相依相成、相互依存的相関関係」ですから、有為の世界に属していると考えるのが、当然でしょう。
非有非無と八不の説明・解説は、記述困難です。つまり、「唯摩の沈黙」であり、『論考』最末文のウィトゲンシュタイン的な沈黙です。ですから、「絶対」と置き換える記述もできないというのが、現状でしょう。

 ☆ 《勝義諦・真理》は 《縁起説=空観》のことであることは もとより 《ブッダの智慧》として 《仏性》や《慈悲》とも けっきょく 同じであると言っていいのでしょう。これが もし絶対とその信仰でないとすれば そのときには たとえ 人為の極致であったとしても 人為という経験思想であるのならば やがて消えていくでしょう。あるいは ひょっとして 《絶対》であるかどうかを ついぞ明らかにしないかたちで 生き延びるということかも知れません。(もちろん 皮肉ですよね)。

(ご返答)ですから、勝義諦は、《仏性》や《慈悲》とも同じではないのです。非有非無と八不としか、手がかりがなく、その手がかりの道を進めば、腑に落ちるのかどうか識者に教えていただきたいとも思っています。しかし、多分、腑に落ちても、フーンで終わりで、「だからどうしたの」が、悟りの境地かもしれません。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 ふうむ。ああ そうですね。ううーん。
 という恰好ですが たぶん 焦点がちがっているのかも知れないと思いました。すなわち

 (A) 経験領域とそれを超えたところ / 思想と信仰 / 相対と絶対
 
 これらの視点から どういうわけか 逸れていて 思惟や生のあり方が ブッディスムとして 提出されている。おそらく

 (B)境地・境涯

のことを言っているのだと認識します。でも 煮詰めたかたちでは やはり (A)の判断の形式ないし基準は 有効であって 
 
 (B-1) 《境地》というからには 《人為》の世界であり 経験思想である。

と考えられます。もし そうでない場合があるとすれば 

 (B-2) 《人為を超えたところ》との関係として正規の《信仰》があり その信仰生活の結果 《境地》は もたらされる。

という場合です。
 わかりませんが

 ・勝義諦 これは 《絶対》であると思われる。
 ・慈悲 これは 人為の極致でないとすれば 上の信仰の結果 もたらされる境地である。
 ・縁起=空観 これも 同じく 信仰の結果 の生活態度(としての思想)である。
 ・仏性 これは 以上の概念が 現実であり しかもまた 一人の例外なく 現実であるということを理由づけるために 想定したものではないか。(《神の霊が誰もの心に宿る》というたぐいの言い回しのごとく)。

 ★ 非有非無と八不の説明・解説は、記述困難です。つまり、「唯摩の沈黙」であり、『論考』最末文のウィトゲンシュタイン的な沈黙です。ですから、「絶対」と置き換える記述もできないというのが、現状でしょう。
 ☆ この点につきましては 留保しつつ たぶん いま行なっているような視角からの追究の中で 捉えていければと いまは 思っています。どうも
 ★ しかし、多分、腑に落ちても、フーンで終わりで、「だからどうしたの」が、悟りの境地かもしれません。
 ☆ という予感がしているのですよね。(解説本による限りで)。

 * ヰキぺディアも 吟味しなければならない余地があるようですね。

お礼日時:2008/08/29 21:41

自分の考えで頭が一杯でどうにもならない。

というのはあなたのことですよ。
まだ分からないのですか。
他人を気にして真理を気にしないのは、心位が低い。
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この回答へのお礼

 jugemjugemさん ご回答をありがとうございます。

 ああ そうでしたか。
 でも わざと そうしたのですよ。
 突き放すことは 出来ない相談だからです。さりとて 追うこともしません。その程度の
 ★ 心位
 ☆ ですけれどね。
 ★ 真理
 ☆ など どうでもいいのですよ。あなた あるいは わたし あるいは 読者のみなさん一人ひとり その存在が 何にも増して 大事なのです。それによって わたしは 真理から 見放されても かまわないのです。本望なのです。とことん この質問をたずさえて 進むほかないのですよ。
 ブッダくんも どこかで そうして欲しいと思っているのではないですかね。さもなければ 末法だなどと言い残しておかなかったでしょう。いかがですか。

お礼日時:2008/08/29 11:55

もう十分に説明しました。


そうやってぐだぐだ考えをこねくり回しているのがダメです。
自分の考えで頭が一杯でどうにもならない。
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この回答へのお礼

 jugemjugemさん ご回答をありがとうございます。

 長いあいだ おつきあいいただき ありがとうございました。
 頭の中が すっきりなさったとき よろしかったら また ご投稿ください。

お礼日時:2008/08/29 11:04

釈尊がどう説いたか、知っているだけでは何の役にも立たないでしょう?



天に甘露、かつて飲んだことのない飲み物、があったとして、
甘露とは、これこれ、こういう味ですよ、と説明されて信じているのが、
信仰や思想の段階。

甘露を自分で飲み、甘露の味を確かに知っているのが、
仏性を悟った段階。

だから、仏性は信仰とも思想ともいえません。

この回答への補足

 jugemjugemさん ご回答をありがとうございます。

 釈尊とjugemjugemさんと 見解が一致しているとして 考えました。
 ★ 仏性は信仰とも思想ともいえません。
 ☆ この命題についてです。
 つまり この命題つまり判断は 
 ★ (A) 信仰や思想の段階。〔と〕(B) 仏性を悟った段階。
 ☆ とを 区別しているという思惟の形式です。むろん 説明をしてもらっています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (A) 信仰や思想の段階 : 《天に甘露、かつて飲んだことのない飲み物、があったとして、 / 甘露とは、これこれ、こういう味ですよ、と説明されて信じている》
 (B) 仏性を悟った段階 : 《甘露を自分で飲み、甘露の味を確かに知っている》
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《甘露》を 仏性のたとえだとして 捉えるなら 甘露は 誰もが 心に持っているのですよね? 身体の魂(感性の意)においても 精神の胃袋によっても 感受され消化されるということですよね?
 でしたら まづ当然のこととして 思想として(つまり 生活態度として) その結果が現われて来ます。言いかえると (B)の段階は (A)の《思想》を含みます。
 問題は (B)の《仏性を悟った段階》が (A)の《信仰》と どのような関係になるかです。はっきり言えば どんな違いがあるかです。つまり 違いはないではないか です。
 次の判断に まちがいがあります。
 ★ 甘露とは、これこれ、こういう味ですよ、と説明されて信じている
 ☆ 《説明されて》というのは 経験的な思考にかかわりますし その経験思考(つまり思想)の範囲におさまります。肉の目であろうと心の目であろうと なんらかのかたちで表象し得たもの――つまりは 言葉による説明をとおして その概念を認識し得たもの―― これは 経験行為であり 思想なのです。思想の対象になるものは 《考える》ことであって 《信じる》必要はないし 信じるものではないのです。(そういう言葉を使う場合は 単に強調しているだけです)。
 ですから 要するに
 ○ 仏性は 肉の眼で見えますか? 心の眼で認識できますか?
 ☆ という問いなのですが もちろん 仏性は思想を超えているのならば 肉と心のどちらの眼でも捉えられないということだと思います。
 ならば 今度は
 ○ 《さとる》とは どういう事態か。《信じる》とは 違うのか。
 ☆ こうなります。どうでしょうか?

 これについて こういう考え方をするとよいのではないでしょうか。
 ○ 《表象し得たか・し得ないか ぎりぎりのところでのいわゆる神秘的な 瞑想》(啓示という言葉もありますが) これと そして 《信じる》とは 明らかに区別されるのではないか。つまり
 ○ 前者は やはり 経験行為であり 後者は それを超えている。つまり 厳密に言うと 後者(つまり信仰)は 経験領域を超えている何ものかを 経験行為として 受け容れることである。
 ○ このとき 《受け容れる》には 《受け容れない》をも含みます。つまり 経験領域を超えている何ものかなどというそんなものは 無である。ゆえに 信じない / つまり 信じないとして 超経験領域に相い対している。対面しているとする限りで 心の伸びもしくは開きが そこにあって 言葉としては 信じていることになる / つまり 無(ないし無神)として信じている。
 ☆ つまり これが 《絶対》の問題であり それに対するわたしたち人間の採る態度ということになります。つまり 早い話としては 《有神論》か《無神論》か いづれか 二つに一つであるしかないと考えられます。
 もし この《信じる》行為を超えたところに 《さとる》があるとすれば おしえて欲しいと思う次第です。いかがでしょうか。

補足日時:2008/08/29 10:37
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すみません。

訂正です。

勝義諦
因縁→縁起 でした。
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この回答へのお礼

 了解しました。ありがとう。

お礼日時:2008/08/29 11:02

★ 勝義諦(しょうぎたい)~~~~~~~~~~~~~


 勝義諦とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。
 覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。
★ 有為法と無為法~~~~~~~~~~~~~~~~
 形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法と分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変などを説く。


世俗諦(世間一般常識、有為の世界に属す真実)
因縁生起(依他起性)、諸法無我(実体否定)、諸行無常

勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)
因縁(相依性)、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去

こんな感じです。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 このところは 仏教に対して わたしは さげすむような態度を わざと採っています。そういう姿勢においても 相手の良さ悪さをつかめたらいいなという意味です。
 このことは あまり関係ありませんが しっかり概念を確認しなければならないというぼんやり頭でいるという意味です。

 ★ 依他起性
 ☆ については 案外(失礼なことを 平気で言います) きちんとした理論であると思ったことがあります。《三性(さんしょう)》説ですね。で 引きました。順に 完成へと進むというのでしょう。
 ▲ 三性 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔阿頼耶識・末那識・六識なる〕識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。

 1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう): 構想された存在 (* いい意味でもわるい意味でも 自我によって構想されたという意味なのでしょう。:bragelone註)
 2.依他起性(えたきしょう) :相対的存在、他に依存する存在
 3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在

 三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。(* これもわかりにくい)
 つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。(* 《他に依って起こる》というのだから 《空観》としての智慧から起こるのではないと言いたいのでしょうか)。
 また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。
 その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。(* 空観=縁起説なのでしょうね)。これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。
(ヰキぺディア:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%80%A7
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううん。どういうわけか このたび これを読むと わかりづらいですね。(以前は 思い入れをして読んでいたのでしょうか)。

 あとは
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)
 因縁(相依性)、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《勝義諦・真理》が 《絶対》のことであるかどうかが 問題になると思います。《絶対》という意味だけの《神》であるかどうかです。つまり ブッディストは 《信じる》のかどうかです。《感じる / 考える / 〔表象し得たか・し得ないかの いわゆる神秘的な〕瞑想 / 信じる(心の伸び・開き)》の区別をするとよいのだと思います。
 《無意識》は けっきょく 意識に現われたものを扱うしかないということになると考えます。つまり 上の区分のいづれかです。

 * 《勝義諦・真理》は 《縁起説=空観》のことであることは もとより 《ブッダの智慧》として 《仏性》や《慈悲》とも けっきょく 同じであると言っていいのでしょう。これが もし絶対とその信仰でないとすれば そのときには たとえ 人為の極致であったとしても 人為という経験思想であるのならば やがて消えていくでしょう。あるいは ひょっとして 《絶対》であるかどうかを ついぞ明らかにしないかたちで 生き延びるということかも知れません。(もちろん 皮肉ですよね)。

補足日時:2008/08/29 09:59
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またまたオコリザルです。


>そういう《見捨てられ》体験の渦中に入ったのだとするなら こちらは その相手の動きを どうにかすることは出来ないと思うのです。むしろ その体験の進みに応じて お相手をしていくことが 課せられているのではないか こう思っています。こちらは 白紙です。こちらは 触媒になるのだと考えます。触媒は みづからは 何も変化しないのです。変化しないで 自己がかかわって化学変化をうながすかたちです。

私も日常的にやっています。
でも滅びの子の本質に関しては意見が微妙に違いますが直面した進行形の課題なのであまり言いたくないです。
私は(時にはわざとらしく)滅びの子を疑っています。
蘇生のために死を潜り抜ける必要があるのではないかと。

この回答への補足

 ★ 蘇生のために死を潜り抜ける必要があるのではないか。
 ☆ にかんして 補足です。資料のみです。
▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたし(パウロ)は植え、アポロ(同僚の名)は水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。

 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。
 ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
 (コリント前書 3:6-15 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2008/08/29 11:59
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 直前の(直近の)qsxdrfvgyhさんのご回答を受け取ったときも そうだったのですが primeapeさんも わたしより きびしい見方をしておられるようにも伺えますね。
 qsxdrfvgyhさんは 仏教徒に対しての批判が わたしより ひょっとして きびしいところがあると思ったのですが primeapeさんは 《滅びの子》に対して やはりわたしよりも 厳しい態度で臨んでおられるかも知れない。
 今後 少しづつ 明らかになっていくことでしょう。

 ひとつ思ったことは 一般に 嘘に対する態度が わたしの場合 気にしないでい続けるという点で ちがっているのかも知れないということです。
 相手が あたかも 滅びの子であるかのような思想状態(生活態度)に陥ったのではないかと見られるようになったとき その相手が 嘘を言ったとしても わたしは 知らん顔でいます。第二の嘘をつくことによって 初めの嘘との間に 矛盾が現われるまでは 何食わぬ顔で 放っておきます。矛盾が現われても それを指摘するだけで あとは 放っておくと思います。冷たいという態度であるかも知れません。

 ★ 蘇生のために死を潜り抜ける必要があるのではないかと。
 ☆ これについて わたしの場合 《わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたのか》と発言するということ これをもって 《死》と見なすのですが そうだとすれば 甘いのかもと思いました。つまり primeapeさんは たしかに 厳しい とです。

お礼日時:2008/08/28 23:48

オコリザルです。


別にこの自己紹介はおこっているわけではありませんよ。
本当にローマ字をタイプするのが面倒なだけです。

滅びの子についてはメチャンコ悪魔くんの最初の自己紹介が「人間性をかなぐり捨てた伝承上の悪魔差ながらの悪霊とご対面したことがある。」でした。
brageloneさんの言わんとすることはわかります。
これに関してはもう少し時が来るのを待たないと論議できないみたいです。
結論を先に延ばしたまま自らのなすべきことをします。
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この回答へのお礼

 つづいてのお話になります。

 ★ これに関してはもう少し時が来るのを待たないと論議できないみたいです。
 ☆ 《ほろび》→《復活》という問題なのですから 《時間がかかります》し そもそも 《一生をかけての動態としての過程である》と考えられます。一つひとつの局面ごとに 一定の進展があって 分かりやすい結果も出るとは思います。けれども
 ★☆ 時の充満を待つ
 ☆ ことは 一人ひとりの自由意志のはたらきと同じ程度に いえ それ以上に 大切だと わたしも 考えます。

 ★ メチャンコ悪魔くん
 ☆ も 多彩な経歴なのですね。申し訳ない。忘れていました。相いすみません。

お礼日時:2008/08/28 23:30

>ブッダ葬送を執り行なう


>ひょっとして 復活する恵みが起きるかも

この比喩を理解できない人が多いと見ました。
つまり、仏教哲学では、最新の哲学水準(ここが一番曖昧で何を含み何を含まないのかが大問題なのですが)に比べて、見劣りするので、整除したら復活できるかもね、という趣旨を汲んでもらえなかったということでしょう。あるいは、最新の哲学が混乱の極みであり、仏教哲学の中から、既存概念を超越して、混乱収拾の手がかりを生み出す深化が見えてこないのでしょうかという趣旨を汲んでもらえなかったということでしょう。

信仰に逃げるな。煙に巻くな。実践・修行の成果を報告せよ。ということなのではないでしょうか。でも、それは無いものねだりです。あくまでも、葬儀と供養中心の衆生は既存の寺社制度にお任せして、一部の有識者のみで、生者のための無為の世界、勝義諦を極めた議論をするのみと思います。「・・・有為の奥山、今日越えて・・・」の探究です。質問者様ならば、その手がかりを提示できるのではないでしょうか。そのように推察しました。勝手な思い込みです。失礼しました。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 読み継ぐにつれて これは 仏教に対して わたしよりも厳しい態度なのではないかと思い そしてもう一つには ふうむ たしかに 現実的な問いかけの仕方もあるのかと思いました。

 概念の確認をしておきます。《ヰキぺディア:法 (仏教)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8 …》から。
 ★ 勝義諦(しょうぎたい)~~~~~~~~~~~~~
 勝義諦とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。
 覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。
 ★ 有為法と無為法~~~~~~~~~~~~~~~~
 形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法と分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変のを説く。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん――なぜなら これまで けっこう 深く ここの質疑応答の場で 質問を積み重ねて来ているので―― いま掲げている課題が 避けて通れない焦点になっており すべての分かれ目を成すというほどの問題だと思うのです。
 でも 現実的な対話法を 別の頭の働かせ方によって 模索してみようかとは思います。
 そして もう一点 象徴的な争点になると思われることは
 ★ 信仰に逃げるな。煙に巻くな。実践・修行の成果を報告せよ。
 ☆ ということなのですが まったくそのとおりの趣旨なのですが(――なぜならば ここの回答としても あまりにも 百科事典からの引用とあまり変わらない内容が多いからですが――) 細かく見るならば こうです。ブッディストは 《信心》という言葉は使っても 《信仰》とは言わないですし 言ったとしても そもそも《信仰》とは 何なのかが 分かっていないように思われます。
 《一部の有識者》は おそらく そのまた一部の人びとが 不承不承に 仏教は 無神論なのだと 問い詰めた果てに 述べる程度なのではないかと思います。しかも 無神論であるならば 無神という神の信仰なのだと分かっている人は きわめて少ないのではないかと思います。
 わたしの場合は ここを しっかりと 仏教界内部から みづからが 明らかにするということが 肝心要であり すべての対話の第一歩になるのではないかと いまは 思っているのです。《絶対》の概念の問題ですね。

 わたしにとっても あたまの切り替えが 大事のようですね。

補足日時:2008/08/28 23:20
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