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 末法が 現実であるのではないでしょうか。
 もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。
 あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。

 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。
 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。
 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。

 一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

A 回答 (59件中21~30件)

 ★ では、「絶対は 相対を包摂する」が成立しているでしょうか。

/ 残念ながら、「絶対(非空)は 相対(空)を包摂する」が成立しないと見ました。いかがでしょうか。
 ☆ この場合の《包摂》というのは 特殊です。すなわち
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 絶対は、相対と対極の概念
 ☆ であると同時に 
 ○ 絶対は 相対を包摂する
 ☆ と思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という形態での包摂です。
 ○ 相対との言わば境界があって その外の領域が 絶対である。しかも 同時に 外から絶対が 相対を 包んでいる。
 ☆ というような恰好ではないでしょうか。この
 ○ 絶対による相対の包摂において 相対の世界に存在する人間は あたかも普遍的な絶対を分有するかのように 霊ないし仏性を 心に宿す。
 ☆ という虚構が現われます。

なるほど、納得しました。純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージが理解できました。僕は両者が完全に隔絶していると思っていました。
相対領域では、非空が空に変換されているということは、完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。絶対は、二重人格的に思えてきましたが、無為との接点も見えてきたようにも思います。この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。

 ★ 「絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、 / 自性的なので、非空であると考えます。」
 ☆ この定義は おそらく 有神論を前提にして そこから さらに その神ないし絶対の属性を 捉えようとして得た内容ではないかと考えます。第一次の定義は 《表象し得ぬ領域》で足りると思います。
 信仰にあたって 絶対に関して 神は有るという表現で捉えたなら その神について さらに 《完全性 / 他に依らず みづから存在する実体であること / 被動性はなく 自立している / 自性・本性・本質》が 付加されます。そして
 ★ 非空
 ☆ については 初めに《神は有る》と捉えたことを言いかえたに過ぎないと考えます。無神論では 《空》と捉えると思います。

非空の純粋な絶対領域(相対領域の外側)に注目すると、有神論、空の原理が現れる相対領域(絶対領域も重っている)に注目すると、無神論と言えそうですね。

 ★ つまり、信仰者は、絶対者を思考の結果ではなく(理性を度外視して)受け入れたと想定しています。
 ☆ このとおりだと思います。(思考停止について 勘違いでした)。ここでも 細かいことを言えば (1)《理性を度外視して》ではなく 《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》だと思います。そして (2)もちろん 《受け容れない》場合も 同じく《理性を超えて》 かつ 受け容れる場合と同等の態度として 選択され得ます。《拒否する》でも かまわないと思います。
 そして 無神論の場合には 一たん 受け容れないという信仰形態に立ったのですが あとは もう 信仰とか無神という神だとかを 放っておくものと思います。経験的な思考と能力の発揮を主要な原動力とする世界に位置します。
 ちなみに 有神論の場合は そのように自助努力をおこなうのは まったく一緒なのですが その努力の有効性が 社会的に実現するのは 最終的に あたかも絶対者の力によると思っています。つまり 早い話が 成功するかどうかは 人間には 分からないと思っているし 有効であれば 成功にたどりつくだろうと思っています。

洋の東西を問わず、奇想天外な物語を《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》受け入れる(鵜呑みにする)のは、物凄く抵抗があるのです。結局、無神論なのかなと思います。かつ、無為の探究者です。

 ★ 絶対は唯一ですから、分割不可だと思います。「絶対は、絶対に分けられない。」そう思います。
 ☆ まさに それでこそ 絶対なのですが そうなのですが 仮構としては どんどん 想像が伸びていくということだと思います。
 二分しても それぞれの部分は やはり無限であるという想像裡での遊びのようなものだと思います。ただし 《父と子と聖霊との三つの位格が それぞれ 無限でありつつ 一つの本質である》という三位一体なる神が 想起され 説明として 持たれます。

三位は、三分割ではなく、三面性だと思うのです。つまり、視点が違うので、見え方が違う、正面から、(左右)側面から、(上下)天地面から、のようなことではないでしょうか。

そして、やっと終局になりそうです。
相対を全面に出して、有限の相対領域内に隠れた絶対(神性、仏性)が、自性を打ち立てるほどの力もなく無力な「無為」として、見ることも、感じることもできないけれども、重なっているらしいと思えてきました。
ここで、ウパニシャッドの梵我一如とも繋がりそうです。アートマン(新我、個の根源)もまた、有限の相対領域内でだけ、「無為」に通じているらしいと。アートマンも「~でない」で記述される無の概念なので、整合性がとれそうです。そんな風に、納得しましたが、いかがでしょうか。

この回答への補足

 あぁ 意外に〔早期終結かな〕と言うと かえって 自分に対して自信がないのかと言わなければならないので おかしいのですが そうなんですか。わたしも 一応 納得しましたので そうなのだと思います。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。まづ 字面としては はっきりした別様の解釈がある点を 次の事項について つづります。
 ★ 三位は、三分割ではなく、三面性だと思うのです。つまり、視点が違うので、見え方が違う、正面から、(左右)側面から、(上下)天地面から、のようなことではないでしょうか。
 ☆ たしかに《三分割ではなく》に間違いありません。わたしの言い方では 《分割》にちなんで 出して来てしまいました。アウグスティヌスによれば こうです。
 ○ 位格としての個は ほかの各個と また 三位格の全体と そして 全体は 各個と それぞれ 等しい。
 ☆ 光にたとえた場合には――これは アウグスティヌスではありませんが―― 光源が 父なる位格であり その発耀が 子であり その明るさ・暖かさが 聖霊であると言えるかも知れません。

 この《光》のたとえによると たしかに
 ★ 純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージ
 ☆ が 合っているとも言えるし どこか 違うとも見えるようですが どうなんでしょうか。これに関しましては こういうたとえを聞いたことがあります。
 ○ 神の国(無為?)と地上の国(有為)とは 互いの間に 非武装中立地帯( no man's land )をつくって 相い対峙しているという恰好ではなく そうではなく この地上では 互いに入り組み 混同されるほど重なっているかに見える。 
 ☆ たぶん
 ★ 完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。
 ☆ そうだと思います。《むしろ 弱さを誇ろう》と言いますから。無理が通れば道理が引っ込むではないですが 無効の考えやおこないが有力であるところでは 有効な思想が 無力に甘んじている。時として 有力にもなるのでしょうか。
 この情況を残念に思っているところの
 ★ アートマン 
 ☆ は あると言えるかも知れません。

 ★ この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。
 ☆ この点につきましては わたしも さらにその思いを寝かせつつ 考えていきたいと思います。
 補足・まとめ等々を お願いします。

補足日時:2008/08/30 23:05
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基本的に、長考で了解です。



 ★ やはり、思考停止の方を選択したくないように思うのです。ですから、有神論でも無神論でもありません。
 ☆ 信仰は 《思考停止》ではないのです。つまり 経験思考をさらに及ぼしていける対象が残っていて 中断でないとすれば 行き着くところまで 思考を及ぼし尽くしておくべきであるという場合ではなく そうではなく 《思考は ここからは 及び得ないという限界》を想定したという意味にもなります。つまり 《絶対》の想定においては です。

(再回答)ここでは、全面的な思考停止を意味していません。信仰生活は思考と実践の二本立てだと思います。絶対者を受け入れるのか、拒否するのか(正直に言って、信仰者がこのことをどのように表現するのか分かりません。不適切ならば訂正してください。)その時の判断における思考だけを意味したつもりです。つまり、信仰者は、絶対者を思考の結果ではなく(理性を度外視して)受け入れたと想定しています。よく分かりませんが。

 ★ 無限
 ☆ この概念を用いて 絶対を説明することができると考えます。すなわち 《〈思考の限界〉の想定》にかかわるはづですが こうです。
 ○ 無限を 仮りに分割できるとすれば その分けられた部分部分は やはり 無限である。
 ☆ この無限の概念で考えるなら 
 ○ 《相対の世界を超えたところ》というのは もはや もし仮りに どの部分を取り出して来ても すべて 《絶対》である
 ☆ となります。 

(再回答)ここは無限を連想させる比喩だったのでしょうね。絶対は唯一ですから、分割不可だと思います。「絶対は、絶対に分けられない。」そう思います。

>しかも 驚いたことに
 ○ 絶対は 相対の世界をも 含む
 ☆ とさえ考えられて来ます。すなわち
 ★ 絶対は、相対と対極の概念
 ☆ であると同時に 
 ○ 絶対は 相対を包摂する
 ☆ と思われます。

(再回答)先の回答の一部を転記します。
「絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、
自性的なので、非空であると考えます。」

相対とは、相互依存的な関係(相依性、縁起の関係)で、
1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構の存在形態 無実体なのに価値判断によって形成される執着対象として仮構している固定性 有為の中心概念 物に限らない(イメージなど言語的存在) 現実把握・認識の初期段階(有我の段階)
2.依他起性(えたきしょう):他に依存する存在形態(相対的存在形態) 自立的存在でない 恒常不変でない(諸行無常、有為転変)
3.円成実性(えんじょうじっしょう):完成された存在形態(絶対的存在形態) 諸法無我(無主体論) 常住不変の実体観からの解放(非実体観) 世俗諦認識の完成段階(無我の段階だが、まだ無我という有に留まっている) 無差別・平等の真実・真如(無執着なありのままの世界観)
という認識が可能な概念であり、自性がなく、空であると考えます。

では、「絶対は 相対を包摂する」が成立しているでしょうか。
残念ながら、「絶対(非空)は 相対(空)を包摂する」が成立しないと見ました。いかがでしょうか。
(参考)
A(鳥)がB(鶏)を含むとき、B(鶏)はA(鳥)である。
A(絶対)がB(相対)を含むとき、B(相対)はA(絶対)である。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 個々の論点について 一つづつ 共通の認識を得ていくことが いいですね。
 ★ では、「絶対は 相対を包摂する」が成立しているでしょうか。 / 残念ながら、「絶対(非空)は 相対(空)を包摂する」が成立しないと見ました。いかがでしょうか。
 ☆ この場合の《包摂》というのは 特殊です。すなわち
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 絶対は、相対と対極の概念
 ☆ であると同時に 
 ○ 絶対は 相対を包摂する
 ☆ と思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という形態での包摂です。
 ○ 相対との言わば境界があって その外の領域が 絶対である。しかも 同時に 外から絶対が 相対を 包んでいる。
 ☆ というような恰好ではないでしょうか。この
 ○ 絶対による相対の包摂において 相対の世界に存在する人間は あたかも普遍的な絶対を分有するかのように 霊ないし仏性を 心に宿す。
 ☆ という虚構が現われます。

 ★ 「絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、 / 自性的なので、非空であると考えます。」
 ☆ この定義は おそらく 有神論を前提にして そこから さらに その神ないし絶対の属性を 捉えようとして得た内容ではないかと考えます。第一次の定義は 《表象し得ぬ領域》で足りると思います。
 信仰にあたって 絶対に関して 神は有るという表現で捉えたなら その神について さらに 《完全性 / 他に依らず みづから存在する実体であること / 被動性はなく 自立している / 自性・本性・本質》が 付加されます。そして
 ★ 非空
 ☆ については 初めに《神は有る》と捉えたことを言いかえたに過ぎないと考えます。無神論では 《空》と捉えると思います。

 ★ つまり、信仰者は、絶対者を思考の結果ではなく(理性を度外視して)受け入れたと想定しています。
 ☆ このとおりだと思います。(思考停止について 勘違いでした)。ここでも 細かいことを言えば (1)《理性を度外視して》ではなく 《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》だと思います。そして (2)もちろん 《受け容れない》場合も 同じく《理性を超えて》 かつ 受け容れる場合と同等の態度として 選択され得ます。《拒否する》でも かまわないと思います。
 そして 無神論の場合には 一たん 受け容れないという信仰形態に立ったのですが あとは もう 信仰とか無神という神だとかを 放っておくものと思います。経験的な思考と能力の発揮を主要な原動力とする世界に位置します。
 ちなみに 有神論の場合は そのように自助努力をおこなうのは まったく一緒なのですが その努力の有効性が 社会的に実現するのは 最終的に あたかも絶対者の力によると思っています。つまり 早い話が 成功するかどうかは 人間には 分からないと思っているし 有効であれば 成功にたどりつくだろうと思っています。

 ★ 絶対は唯一ですから、分割不可だと思います。「絶対は、絶対に分けられない。」そう思います。
 ☆ まさに それでこそ 絶対なのですが そうなのですが 仮構としては どんどん 想像が伸びていくということだと思います。
 二分しても それぞれの部分は やはり無限であるという想像裡での遊びのようなものだと思います。ただし 《父と子と聖霊との三つの位格が それぞれ 無限でありつつ 一つの本質である》という三位一体なる神が 想起され 説明として 持たれます。

 ぼちぼち まいりましょう。

補足日時:2008/08/30 20:23
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終局が延期しそうな予感がします。


また、自己の信仰について深く考察する良い機会を得たと感謝します。

 ★ 無為の探究のみです。有為の信仰は、関心外です。
 ★ 経験思考は及ばず、思考停止しかないので、信じる・信じないになるというのには、反対です。論理を尽くした先にある理性を超越した「無為」の手がかりを探究してみようという興味だけです。
 ☆ 元も子もない言い方をしますが この
 ★ 探究
 ☆ は 表象し得たならば 経験思想であり そうではなく あくまで 表象し得ぬ領域という想定に相い対しているという姿勢や態度であれば それは 《非思考の行為》です。どちらか一つに区分けされます。後者の《非思考の行為・・・)》 これが 《信じる》という有為の経験行為であり 一般に 《信仰》と呼びます。
 したがって この広義の《信じる》には 《〈受け容れない〉という態度。・・・狭義の意味での信じることをしない》振る舞いも 含まれます。

論理的思考の探究経験、あるいは、非思考経験として信仰する・信仰しないの三者択一問題と見ました。有為の経験(世俗諦)として仏教哲学の論理を尽くし、論理的思考の探究経験を選択し続けたいと思います。つまり、「~でない」で記述する積み重ねの先に、無為が示される手法をさらに緻密に探究してみたいと思うのです。

>> つまり 絶対は 《非有非無》ですから 仮りに その想定をさらに延長して あたかも 代理表現の仮想世界をわざわざ作ってしまうとするならば 絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。あくまで すべては 虚構の世界における出来事です。
>絶対が 《非有非無》ならば、「絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。」には、なりません。

ここの部分を再検討して、訂正する必要に気付きました。絶対は《非有非無》ではないのです。絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、自性的なので、非空です。ゆえに、《非有非無》でもないのです。また、虚構は、理性の範囲内に限定されると考えます。絶対の概念をこのように確認した上で、次にいきます。

> すなわち 仮りの《絶対》を 一方では 仮りの仮りとして《有》と想定し 他方では 同じく《無》と想定するという振る舞いが現われます。どちらも 全く互いに対等な行為です。つまり 早く言えば 有神論と無神論というともに《信仰》の具体的な形態だということになります。

なるほど、無為探究を諦め、非思考を自由選択すると有神論又は無神論に結びつくようですね。

> この《絶対》ないし《無為》にかんして 代理表現によって説明するとき
 ★ 本当は、論理を貫いて、創造も記述したくないのですが
 ☆ というご指摘は ごもっともだと考えます。つまり
 ★ 創造
 ☆ にかんしては 代理する段階が 二つあって初めて 現われます。第一段階は 《絶対》を 擬人化の手法で 《絶対者》と呼び 古くからの言葉で一般的な意味での《神》と呼ぶ局面です。第二段階は この《神》を さらに 《世界を創造した主体》だというふうに 人間の自己の思惑をすでに容れて 表現する局面です。
 これは 経験世界を超えているという初めの想定に合致していると思わる限りで 間違いではないとされるでしょう。本体に伴なわれている属性だという捉え方になると思います。

いままで、曖昧に混乱していた絶対と無為の差異をしっかり検討すべき時のようです。
絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、
自性的なので、非空であると考えます。これは、先にも記述したとおりです。
無為とは、自ら定義付ける力を持たず、無力な非自立的な概念で、
無自性なので、非有非無の中道に通じると考えます。
よって、「無為なる絶対」という矛盾した表現は、有為の仮構としても成立しないとなります。
ここてちょっと、論理的な思考の準備体操です。
「無限の点からなる」という記述を考えます。
直線は、無限の点からなる。
半直線は、無限の点からなる。
線分は、無限の点からなる。
これでは、何の役にも立ちません。
半直線は、直線の半分の無限の点からなるわけではないからです。
個別の特徴を記述しなければなりません。
「超越している」という記述も考えます。
絶対は、相対と対極の概念で、時空を超越している。
無為は、有為と対極の概念で、理性を超越している。
中道は、非有非無の概念で、理性を超越している。
勝義諦は、世俗諦と対極の概念で、理性を超越している。
これでは、何の役にも立ちません。
こちらも、個別の特徴を記述しなければなりません。
絶対と無為の差異は、先ほど検討したとおりです。勝義諦は八不の先にあると先人たちは教えてくれています。そして、唯摩の沈黙に込められた豊かな無が、示されたと気付けるかどうか僕の研鑽は続くようです。

> あえて もう一点 異論です。
 ★ 仏教は、無我に至る悟りの修行を説き、世俗諦に終始し、勝義諦の哲学的探究には、失敗しているということかもしれません。つまり、救済の実践の方を優先しています。
 ☆ 《つまり》以下に 異議があります。上のように 信仰の類型論を捉える限りでは 信仰の類型的なあり方を 主観の問題ではありながら その自己を紹介するかたちで どうなのかを 明らかにすべきだと考えます。つまり 有神論か無神論か どちらなのかです。そうしておくと 互いの交通対話において ずいぶん なめらかに 話がすすむと思われます。
 したがって そのように自己の《信仰類型》を明らかにすることこそ 《救済の実践の第一歩》だと考えられるのです。いま言っていることは いやそうではなく それは 形式的なだけではないかと思われるかも知れませんが 必ずしもそうではないはづです。
 なぜなら たとえば《阿弥陀仏を 〈信じる〉のですよ》とはっきり説明したり あるいは 《〈信じる〉のではありません。無神論にのっとって 人間の自己の能力と知恵を発揮して ブッダの境涯にちかづくのです》と説明したりというふうにして 救済の実践〔の第一歩〕が優先されるはづです。《なんとなく悟りが大事》というのではないはづですから。(そのような雰囲気も 雰囲気としてあるでしょうが)。

やはり、思考停止の方を選択したくないように思うのです。ですから、有神論でも無神論でもありません。それと、「救済の実践を優先する」なんて書きましたが、現代の状況ではありません。昔々の状況です。施薬院とかその他色々のことです。そう言えば、近所で幼稚園経営やら老人ホーム経営の寺社がありますから、そうそう学校法人も多いですから、それなりの社会貢献はあるようです。ただ、救済なのかどうかは疑問です。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん 延長戦ですね。おもしろそうです。ご回答をありがとうございます。
 この延長戦は 一回ごとの表・裏のインタヴァルが長くなるかも知れませんね。相当 思惟を先へ先へと伸ばしてみないと 結論が出ないかも分かりません。
 九回同点の情況というのは もちろん
 ★ 論理的思考の探究経験、あるいは、非思考経験として信仰する・信仰しないの三者択一問題と見ました。
 ☆ これです。そのとき 焦点は
 ★ なるほど、無為探究を諦め、非思考を自由選択すると有神論又は無神論に結びつくようですね。
 ☆ というように考えると 大きく二者択一になるかも知れません。すなわち

 (A)  無為探究と信仰選択
 (A-1) 信仰選択とは 有神論か無神論かである。

 ☆ の細かく三者・大きく二者です。ただし わたしのいま現在の結論は 別の二者択一にもなります。

 (B) 信仰類型の選択として 有神論か無神論か。
 (B-1)このとき 無為探究は これも 煮詰めていくと 有神論
   か無神論かの選択をおこなうはづである。

 という見込みです。
 いくらか 揚げ足取りをします。
 ★ やはり、思考停止の方を選択したくないように思うのです。ですから、有神論でも無神論でもありません。
 ☆ 信仰は 《思考停止》ではないのです。つまり 経験思考をさらに及ぼしていける対象が残っていて 中断でないとすれば 行き着くところまで 思考を及ぼし尽くしておくべきであるという場合ではなく そうではなく 《思考は ここからは 及び得ないという限界》を想定したという意味にもなります。つまり 《絶対》の想定においては です。
 ★ 無限
 ☆ この概念を用いて 絶対を説明することができると考えます。すなわち 《〈思考の限界〉の想定》にかかわるはづですが こうです。
 ○ 無限を 仮りに分割できるとすれば その分けられた部分部分は やはり 無限である。
 ☆ この無限の概念で考えるなら 
 ○ 《相対の世界を超えたところ》というのは もはや もし仮りに どの部分を取り出して来ても すべて 《絶対》である
 ☆ となります。しかも 驚いたことに 
 ○ 絶対は 相対の世界をも 含む
 ☆ とさえ考えられて来ます。すなわち
 ★ 絶対は、相対と対極の概念
 ☆ であると同時に 
 ○ 絶対は 相対を包摂する
 ☆ と思われます。

 実際問題として わたしは 無為の探究を 試みたことがなかったので いまは これまでに得ていた結論を述べました。
 ★ 勝義諦は八不の先にあると先人たちは教えてくれています。そして、唯摩の沈黙に込められた豊かな無が、示されたと気付けるかどうか僕の研鑽は続くようです。
 ☆ たぶん ヰ゛トゲンシュタインにも通じることなのでしょうね。この理論も わたしに欠けていますので 長考一番をお待ちしたいと存じます。

補足日時:2008/08/30 17:29
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いよいよ、終盤のようです。

終局局面に至ったと思います。

 ★ 『有為なる<絶対>』ではなく、『無為なる<絶対>』ならば、「究極の他者」と同類にできそうです。
 ☆ 概念の規定にきめ細かく対処して行っておられるようですが そして むろん そのことは 大事だとわたしも思いますが 定義は 反面で 単純明快であるのも よいと思います。
 ○ 相対の世界を超えたところ
 ○ 表象し得ないもの(領域)
 ○ 表象し得ず 語り得ず 記述し得ず わづかに そのものの代理としての表現で 互いの了解を得て 想定しておくもの これが 絶対である。
 ☆ これで どうでしょう? 《 X 》でいいのだと思います。それこそ 《鰯の頭》でもいいわけです。これらの記号や言葉も 《絶対》そのものではなく 代理の表現でありますし しかも 《絶対》という言葉も 同じく 代理のしるしだということになります。
 ですから 《無為》でもよいでしょうし 《究極の(あるいは 欠如としての)他者》(――《 Autrui 》という言い方を フランス哲学を真似て していたみたいですね――)でも もちろん 通ります。

絶対者 神 について、論ずるべき段階のようです。ウパニシャッドから仏教に流れ込んでいるブラフマン(梵天)に関する言及です。この人格神は、比喩的な形で、記述できないのに「記述した」仏教の論理矛盾の例になります。まだ、ウパニシャッドの方が「まし」です。つまり、理性を超越していると認めているので、具体的に記述できないわけです。そこで、記号を仮に与えて、説明にならない、曖昧なイメージで「記述を擬制した」わけです。ウィッキに依れば、ブラフマンは、「宇宙の源」であり、「世界の魂」であり、「普遍」的に偏在し、「創造者」と位置付けられ、ヴィシュヌとシヴァとも一体であると書かれています。これって、実は何ら具体的にならない記述で、創造以外如何なる行為も記述されていないわけです。そして、創造者なので、他によって創造されたわけではないですから、「唯一」でもあります。仏教の梵天は仏陀に布教を勧めたわけですから、御伽話程度で、児童文学ジャンルでしょう。(童話にこそ哲学に通じる背景を感じるものもあるわけですが、ここでは論理的外形がないという意味です。)
『無為なる<絶対>』でも「究極の他者」でもブラフマンでも《 X 》でも《 Autrui 》でも仮称は何でも良くて、絶対者は宇宙・時空の(虚妄的)創造以外如何なる行為も記述されていないわけですから、《無為》なわけです。本当は、論理を貫いて、創造も記述したくないのですが・・・つまり、記述に見せかけて実は何も記述できていないという手法です。「ふーん、それで」な状況です。

 ★ 空観は、中道ですから、対極点に通じる「絶対」という概念とは、馴染まないように思いますし、
 ☆ 《対極点に通じる「絶対」》というのが よくわからないでいますが いま上のように想定した絶対からいけば この絶対の立ち場(もしくは それとの関係を あたかも絶対的に 持った人間の立ち場)に立って 見た世界観が 空観だと考えます。中道であり 世界の縁起関係が 見えているということではないでしょうか。

たとえ話です。中道のイメージは、春分・秋分です。絶対のイメージは、夏至・冬至です。つまり、絶対は、どちらか一方の極限状態だということです。針が振り切れている。そういうイメージでの《対極点に通じる「絶対」》という表現です。ですから、森羅万象に内在する空観(世俗諦)とは違い、絶対は、森羅万象・理性の超越者(外側)で、ブラフマンの偏在性という内在でもなく、ブラフマンが超越的ならば一致するでしょう。
また、「究極の他者」は、「私」からは、如何なる視点も持ちえず、言葉で記載できないという意味の他者と考えていますから、やはり、内在ではなく、超越的なのです。この点では、「絶対」に通じてはいます。先の回答で、「全宇宙のアスペクト変換」と書きましたが、正確には、全宇宙内では視点を持てないようなアスペクト変換(つまり理性では不可能ですが)によって示されるかもしれないような超越というイメージです。(破綻的・矛盾的な記述手法です。)

> じつは――ひとこと つけくわえますが―― これが このままで すでに 《信仰》なのですよ。
 絶対は 考えても・表象しようとしても 分からないのですから それと対面すると言っても 経験思考は及びません。そのときには 《信じる(もしくは 信じない=つまり 信じないとして 信じる)》という態度になっているはづです。《信じないとして信じる》のは いわゆる無神論になります。そういう信仰です。

経験思考は及ばず、思考停止しかないので、信じる・信じないになるというのには、反対です。論理を尽くした先にある理性を超越した「無為」の手がかりを探究してみようという興味だけです。

> つまり 絶対は 《非有非無》ですから 仮りに その想定をさらに延長して あたかも 代理表現の仮想世界をわざわざ作ってしまうとするならば 絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。あくまで すべては 虚構の世界における出来事です。

絶対が 《非有非無》ならば、「絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。」には、なりません。

> そして 添え書きとしては 《〈無為〉に対して採る〈有為〉の人間の態度》 これが 信仰だと思います。人間である限り 《世俗諦》にとどまるのは 致し方ないと思います。(円成実性もそうでしょう)。

無為の探究のみです。有為の信仰は、関心外です。

> ということは 《勝義諦》は あくまで 《絶対》という純粋(?)な概念ということになります。しかも これを 擬人化して表現すれば 《神》ということになっています。(これは 信教の自由・表現の自由という次元に移って一段 世俗的になった情況での話です)。

超越的なところは、共通ですから、、絶対は、森羅万象・理性の超越者(外側)という切り口と《勝義諦》、無為の切り口が、微妙に違う感じがします。現時点では、その差異が、僕も指摘できないのです。

> これが 信仰にかんする哲学だと思うのです。このことを 仏教は どういうわけか おこなわない。こういう物言いなのですが?

仏教は、無我に至る悟りの修行を説き、世俗諦に終始し、勝義諦の哲学的探究には、失敗しているということかもしれません。つまり、救済の実践の方を優先しています。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん 今回は異論が出ますね。細かいところですが 重大であるかも知れません。ご回答をありがとうございます。

 ○ 信仰
 ☆ についてです。これは もとより 主観の行為であり どこまでも 主観の問題なのですが 哲学として 第三者からの分析も 可能です。
 ★ 無為の探究のみです。有為の信仰は、関心外です。
 ★ 経験思考は及ばず、思考停止しかないので、信じる・信じないになるというのには、反対です。論理を尽くした先にある理性を超越した「無為」の手がかりを探究してみようという興味だけです。
 ☆ 元も子もない言い方をしますが この
 ★ 探究
 ☆ は 表象し得たならば 経験思想であり そうではなく あくまで 表象し得ぬ領域という想定に相い対しているという姿勢や態度であれば それは 《非思考の行為》です。どちらか一つに区分けされます。後者の《非思考の行為(これはつまり 心の わづかの動きとしての伸び・志向性のようなもの。さらにつまりは たとえば 〈表象し得ぬもの〉を 仮想の行為としてでも 受け容れるという心の振る舞い)》 これが 《信じる》という有為の経験行為であり 一般に 《信仰》と呼びます。
 したがって この広義の《信じる》には 《〈受け容れない〉という態度。つまり 仮りにだが 無だというふうに捉えて 狭義の意味での信じることをしない》振る舞いも 含まれます。
 すなわち 仮りの《絶対》を 一方では 仮りの仮りとして《有》と想定し 他方では 同じく《無》と想定するという振る舞いが現われます。どちらも 全く互いに対等な行為です。つまり 早く言えば 有神論と無神論というともに《信仰》の具体的な形態だということになります。

 この《絶対》ないし《無為》にかんして 代理表現によって説明するとき
 ★ 本当は、論理を貫いて、創造も記述したくないのですが
 ☆ というご指摘は ごもっともだと考えます。つまり
 ★ 創造
 ☆ にかんしては 代理する段階が 二つあって初めて 現われます。第一段階は 《絶対》を 擬人化の手法で 《絶対者》と呼び 古くからの言葉で一般的な意味での《神》と呼ぶ局面です。第二段階は この《神》を さらに 《世界を創造した主体》だというふうに 人間の自己の思惑をすでに容れて 表現する局面です。
 これは 経験世界を超えているという初めの想定に合致していると思わる限りで 間違いではないとされるでしょう。本体に伴なわれている属性だという捉え方になると思います。

 あえて もう一点 異論です。
 ★ 仏教は、無我に至る悟りの修行を説き、世俗諦に終始し、勝義諦の哲学的探究には、失敗しているということかもしれません。つまり、救済の実践の方を優先しています。
 ☆ 《つまり》以下に 異議があります。上のように 信仰の類型論を捉える限りでは 信仰の類型的なあり方を 主観の問題ではありながら その自己を紹介するかたちで どうなのかを 明らかにすべきだと考えます。つまり 有神論か無神論か どちらなのかです。そうしておくと 互いの交通対話において ずいぶん なめらかに 話がすすむと思われます。
 したがって そのように自己の《信仰類型》を明らかにすることこそ 《救済の実践の第一歩》だと考えられるのです。いま言っていることは いやそうではなく それは 形式的なだけではないかと思われるかも知れませんが 必ずしもそうではないはづです。
 なぜなら たとえば《阿弥陀仏を 〈信じる〉のですよ》とはっきり説明したり あるいは 《〈信じる〉のではありません。無神論にのっとって 人間の自己の能力と知恵を発揮して ブッダの境涯にちかづくのです》と説明したりというふうにして 救済の実践〔の第一歩〕が優先されるはづです。《なんとなく悟りが大事》というのではないはづですから。(そのような雰囲気も 雰囲気としてあるでしょうが)。

 * あとの論点は 保留しても 逸れて行ったりしないと思います。

補足日時:2008/08/30 14:49
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 ★ 完全なる戯論


 ☆ と見なした領域を――つまり 言いかえるなら 《無根拠》という領域を―― 《絶対》として想定するのだと思うのですが。そうでなければ 相対を超える世界を想定する意味が ありません。したがって

まず、<絶対>が虚妄であり、有為の有だと思います。論理的に、無為に馴染みません。

 ★ 『「無為」なる無』
 ☆ も むろん 想定に過ぎないという立ち場に立ちます。つまり 《「無為」なる無》も そう表現してしまうなら それは あくまで この世としての人間の行為に属する《有為》としての出来事です。
 
そうなると、《有為》として、《「無為」なる無》も《「無為」なる有》も同じになってしまいます。困ったことに、矛盾なのです。そこで、僕も記述には悩んでしまいました。やむなく、純粋(?)なる無為を《「無為」なる無》としたわけです。『無なる「無為」』の方がいいかもしれません。

 ★ 「究極の他者」/ 私から完全に隔絶した他者
 ☆ これは 定義があいまいであるように思います。《私から完全に隔絶し》ているとしても たとえば《言葉によって たとえ 表層のことだけとしても 互いの意思や 事実の認識について 理解しあえる》という場合には それは 《示され》ようが示されまいが 《有為》であり 人為であり 相対の世界に属します。

つまり、「究極の他者」/ 私から完全に隔絶した他者は、人(他者)ではないのです。言葉足らずで申し訳ありません。自分だけで納得していただけでした。「私」からは、如何なる視点も持ちえず、言葉で記載できないという他者を「究極の他者」と考えていました。そして、示されるだけだと考えたわけです。全宇宙のアスペクト変換として。

> ですから 《絶対》という概念が 作業仮説として 必要であり 有効であると考えます。つまり
 ○ 他者ないし 究極の他者 これをも超えた領域を 仮りに 想定してみる。それを 絶対と名づける。
 ☆ という《戯論》なのです。たぶん

『有為なる<絶対>』ではなく、『無為なる<絶対>』ならば、「究極の他者」と同類にできそうです。

 ★ 勝義諦
 ☆ は 同じ概念内容になると思います。そのことを――つまり 実論(?)と戯論との全体を―― 有為の人間が 生の全体として・人格の全体として 摂り入れて 生きるとき その境地として
 ○ 円成実性
 ☆ が 実現するということだと思います。

僕は、円成実性は、世俗諦の最高水準だと思いますが、勝義諦だとは考えていないのです。

>《慈悲》も 伴なうようになるでしょうし その《円成実性》の境地からする思惟や世界観は 《縁起関係そのものを見つめ かつ 捉えた空観》として 現われてくるでしょう。

そうですね。それが、世俗諦です。

> ただ――ただ です ただ―― 仏教は この《絶対》を想定するのを どういうわけか 拒絶するようです。また 《信仰》の概念を 哲学として あきらかにしようとも 思わないようです。いかがでしょうか。

そのあたりの事情は分かりませんが、空観は、中道ですから、対極点に通じる「絶対」という概念とは、馴染まないように思いますし、信仰は関心外なので、パスです。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん お早うございます。朝まで生テレビを見ていて 途中で眠ってしまい 起きたら こんな時間でした。ご回答をありがとうございます。

 もうここまで来れば 定義の問題だけであるように思います。

 ★ 『有為なる<絶対>』ではなく、『無為なる<絶対>』ならば、「究極の他者」と同類にできそうです。
 ☆ 概念の規定にきめ細かく対処して行っておられるようですが そして むろん そのことは 大事だとわたしも思いますが 定義は 反面で 単純明快であるのも よいと思います。
 ○ 相対の世界を超えたところ
 ○ 表象し得ないもの(領域)
 ○ 表象し得ず 語り得ず 記述し得ず わづかに そのものの代理としての表現で 互いの了解を得て 想定しておくもの これが 絶対である。
 ☆ これで どうでしょう? 《 X 》でいいのだと思います。それこそ 《鰯の頭》でもいいわけです。これらの記号や言葉も 《絶対》そのものではなく 代理の表現でありますし しかも 《絶対》という言葉も 同じく 代理のしるしだということになります。
 ですから 《無為》でもよいでしょうし 《究極の(あるいは 欠如としての)他者》(――《 Autrui 》という言い方を フランス哲学を真似て していたみたいですね――)でも もちろん 通ります。

 ★ 空観は、中道ですから、対極点に通じる「絶対」という概念とは、馴染まないように思いますし、
 ☆ 《対極点に通じる「絶対」》というのが よくわからないでいますが いま上のように想定した絶対からいけば この絶対の立ち場(もしくは それとの関係を あたかも絶対的に 持った人間の立ち場)に立って 見た世界観が 空観だと考えます。中道であり 世界の縁起関係が 見えているということではないでしょうか。

 じつは――ひとこと つけくわえますが―― これが このままで すでに 《信仰》なのですよ。
 絶対は 考えても・表象しようとしても 分からないのですから それと対面すると言っても 経験思考は及びません。そのときには 《信じる(もしくは 信じない=つまり 信じないとして 信じる)》という態度になっているはづです。《信じないとして信じる》のは いわゆる無神論になります。そういう信仰です。
 つまり 絶対は 《非有非無》ですから 仮りに その想定をさらに延長して あたかも 代理表現の仮想世界をわざわざ作ってしまうとするならば 絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。あくまで すべては 虚構の世界における出来事です。

 そして 添え書きとしては 《〈無為〉に対して採る〈有為〉の人間の態度》 これが 信仰だと思います。人間である限り 《世俗諦》にとどまるのは 致し方ないと思います。(円成実性もそうでしょう)。
 ということは 《勝義諦》は あくまで 《絶対》という純粋(?)な概念ということになります。しかも これを 擬人化して表現すれば 《神》ということになっています。(これは 信教の自由・表現の自由という次元に移って一段 世俗的になった情況での話です)。

 これが 信仰にかんする哲学だと思うのです。このことを 仏教は どういうわけか おこなわない。こういう物言いなのですが?

補足日時:2008/08/30 10:04
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勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去の八不)が<絶対>だと、流れ的にも、論理矛盾になってしまいます。

世俗諦にも劣る稚拙な不変実体やイデアのようになって、完全なる戯論になります。

つまり、無為と言う時、『「無為」なる有』を「語る」のが、世俗諦で、『「無為」なる無』を「示させる」のが、勝義諦です。語ると示されるの違いがあります。ただし、『「無為」なる無』は、「究極の他者」ではないかと考えられています。私から完全に隔絶した他者です。ゆえに、語ることも示すこともできず、ただ示されるのみの他者です。ですから、語ることはできませんが、何らかの方法で示されるかもしれませんが、その方法を僕はしりません。ですから、絶対ではなく、「究極の他者」としての勝義諦ならば、続けて展開できそうです。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 完全なる戯論
 ☆ と見なした領域を――つまり 言いかえるなら 《無根拠》という領域を―― 《絶対》として想定するのだと思うのですが。そうでなければ 相対を超える世界を想定する意味が ありません。したがって
 ★ 『「無為」なる無』
 ☆ も むろん 想定に過ぎないという立ち場に立ちます。つまり 《「無為」なる無》も そう表現してしまうなら それは あくまで この世としての人間の行為に属する《有為》としての出来事です。
 ★ 「究極の他者」/ 私から完全に隔絶した他者
 ☆ これは 定義があいまいであるように思います。《私から完全に隔絶し》ているとしても たとえば《言葉によって たとえ 表層のことだけとしても 互いの意思や 事実の認識について 理解しあえる》という場合には それは 《示され》ようが示されまいが 《有為》であり 人為であり 相対の世界に属します。
 ですから 《絶対》という概念が 作業仮説として 必要であり 有効であると考えます。つまり
 ○ 他者ないし 究極の他者 これをも超えた領域を 仮りに 想定してみる。それを 絶対と名づける。
 ☆ という《戯論》なのです。たぶん
 ★ 勝義諦
 ☆ は 同じ概念内容になると思います。そのことを――つまり 実論(?)と戯論との全体を―― 有為の人間が 生の全体として・人格の全体として 摂り入れて 生きるとき その境地として
 ○ 円成実性
 ☆ が 実現するということだと思います。《慈悲》も 伴なうようになるでしょうし その《円成実性》の境地からする思惟や世界観は 《縁起関係そのものを見つめ かつ 捉えた空観》として 現われてくるでしょう。

 ただ――ただ です ただ―― 仏教は この《絶対》を想定するのを どういうわけか 拒絶するようです。また 《信仰》の概念を 哲学として あきらかにしようとも 思わないようです。いかがでしょうか。

お礼日時:2008/08/30 00:59

実は、信仰には興味がないのです。

仏教哲学の論理的な側面とそのできの悪さに関心があるのです。ですから、ご質問のうち、「もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。」にだけ、関心があります。思想と言うよりも論理性の点に限定的ですので、ご容赦ください。

>(A) 経験領域とそれを超えたところ / 思想と信仰 / 相対と絶対
 これらの視点から どういうわけか 逸れていて 思惟や生のあり方が ブッディスムとして 提出されている。

これまでの流れを受けて、「経験領域とそれを超えたところ / 思想と信仰 / 相対と絶対」の二項対立の前方が世俗諦、後方が勝義諦に対応していそうですが、そう単純ではないようです。詳しい説明は省略しますが、これらの二項対立は、有為の遍計所執性にどっぷり浸かったままです。それぞれが自性的な概念に捉われている上に、二項では縁起の関係も世界に広がっていないと言う意味で限定的です。ですから、これらの視点はあまり重要に思えません。ただし、「絶対」だけ、後に触れます。

>(B)境地・境涯
のことを言っているのだと認識します。でも 煮詰めたかたちでは やはり (A)の判断の形式ないし基準は 有効であって 
 (B-1) 《境地》というからには 《人為》の世界であり 経験思想である。と考えられます。

なるほど、悟りの境地は、《人為》の世界であり、「経験領域」に属するようです。つまり、有からも離れ、無からも離れ、有と無の中道にあるという、「空」を悟るとは、論理的にばりばりの「有為」なわけです。ここが、仏教哲学の詰めの甘いところで、ボロボロな点です。

>もし そうでない場合があるとすれば 
 (B-2) 《人為を超えたところ》との関係として正規の《信仰》があり その信仰生活の結果 《境地》は もたらされる。という場合です。

逆に、悟りの境地が、《人為を超えたところ》の世界であり、「経験を超えた領域」に属するのならば、有からも離れ、無からも離れ、有と無の中道にあるという、「空」の悟りは、論理的には形而上学的な「有為」なわけです。これは、仏教哲学でも戯論として退けられている点です。どうも、「悟った」なんて言ってはいけないようです。

>・勝義諦 これは 《絶対》であると思われる。

「絶対」という自性的な概念では、有為の遍計所執性にどっぷり浸かっていますし、ウパニシャッド哲学のブラフマン・アートマンという(プラトンのイデアにも通ずるような)永遠不滅の概念に対抗して空観を説いた仏陀の意に反すると推察します。ゆえに、絶対との解釈は成立しないでしょう。

>・慈悲 これは 人為の極致でないとすれば 上の信仰の結果 もたらされる境地である。

論理性だけですので、パスします。

>・縁起=空観 これも 同じく 信仰の結果 の生活態度(としての思想)である。

「空」とは、「AにBがない」の論理形式をしています。「A(現象界の事象)にB(自性)がない」ことです。「B(自性)がない」ことは、「B(自性)が欠けている」ことです。そして、「非B(無自性)である」ことに変換でき、すべて類似表現です。この空性が、普遍的なので、A(現象界の事象)が、平等・一相・無相となることから、無差別という生活態度に繋がると説けば、そうかもしれませんが、この点が現代仏教で全面に出ているかどうか甚だ疑問です。結果平等、公的扶助には冷たい社会ですし、せいぜい所得再分配的な税制くらいだと見れば、机上の空論の感があります。

>・仏性 これは 以上の概念が 現実であり しかもまた 一人の例外なく 現実であるということを理由づけるために 想定したものではないか。(《神の霊が誰もの心に宿る》というたぐいの言い回しのごとく)。

想定・虚構(仏教的には虚妄)かもしれませんが、一見、知覚も認識もできないけれども、アスペクト変換できたら、有ると分かるよという比喩なのかもしれません。空観を基礎に置く仏性でしょうから、記述困難だとは思います。ただ、空観の普遍的な平等観に立てば、仏陀と同じ仏性がない方が論理的に矛盾します。ただ、有為の遍計所執性的に理解するとお粗末と言われそうです。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 ちがいが分かりました。
 ★ 記述困難
 ☆ これは 《語り得ぬもの》かも知れないと推測しますが この領域のことを わたしの場合には
 ○ 絶対
 ☆ と想定するのです。《絶対》は あくまで 想定であり 作業仮説です。起きていることは すべて 相対の世界での出来事です。《有為》としての出来事であり その意味では
 ★ 無為
 ☆ が やはり 《想定としての絶対》のことであるかと思います。
 (このように 《絶対》を想定であるとすれば 《信仰》のことも 概念操作としてだけで 扱うことができます)。
 ★ 戯論・虚妄
 ☆ これらを 想定の問題として――つまりは 広く 虚構として―― 議論に取り入れるという恰好です。そうでないと たしかに 《記述困難》の領域が 現われます。
 また それでも たしかに この《記述困難》と 《絶対》とは 一義的に 同じとは言えないかも知れません。言えるかも知れません。後者は 《表象し得ぬ領域》を言います。それゆえ 仮りに 言葉という・表象を伴なう記号によって想定するかたちを採ります。
 《無限・不可変性・超経験》としても想定し代理表現するところの絶対です。
 《霊》というのも 絶対を言いかえたものに過ぎません。その内実など 分かるわけがないのです。そういう意味で 《仏性》を用いるなら 互いに通底するかたちで 相互理解への道が開かれるでしょう。

お礼日時:2008/08/30 00:11

致命的タイプミス。


>真理において愛は優しさと混同され易い。

心理において愛は優しさと混同され易い。
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たびたび申し訳ありません。


オコリザルです。
真理において愛は優しさと混同され易い。

慈悲が理解しにくいのはこれだけのことも知れませんよ。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 心理において愛は優しさと混同され易い。

 慈悲が理解しにくいのはこれだけのことかも知れませんよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まだ わたしの返答を読んでおられない段階での このご投稿だと思います。
 慈悲の概念は 分かっています。どういう事態であるのか 人間の行為のあり方として 説明せよという物言いです。
 人為の極致というように 人為であるなら 人間の知恵と能力の問題です。仏教によらなくても 誰もが それぞれ その人なりに 努力している問題です。優劣や深い浅いが あるでしょうが それらは すべて 相対的であって どんぐりの背比べだとなります。

 信仰だとなると 現実の優劣や深い浅いは 同じく ありますが 主観においては どんぐりの背比べを抜けているという自負があります。無根拠ゆえです。
 言いかえると 仏教が 信仰ではないと言うのならば それは 有根拠だという意味になります。つまり 人間の能力とその知恵が 根拠になっているという意味です。
 この慈悲の説明については あいまいになっています。あいまいにしておくという戦術であるようです。

お礼日時:2008/08/29 23:30

またまたオコリザルです。


慈悲は愛の証明だと思うんですよ。
だから人間は慈悲を持ちえます。
表ざたにすることの難しさは愛と一緒ですが軋轢のさなかの七転八倒で人様の慈悲に支えられたこともあります。(さりげない心情に過ぎないのですが)

A30に戻りますがザインの奴隷のごとき信者の隷従は教祖様の慈悲です。
どう見ても幸せそうでないあの様子では煩悩の期待する慈悲も当てが外れることを意味します。
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この回答へのお礼

 そうですねぇ。

 ★ 慈悲
 ☆ これが 人為の極致だということまでは たぶん 共通の認識なのではないかと思います。それだけでは 自己紹介としての説明が 不十分だと考えます。
 一般に これを支持する人は すばらしいことであるという前提に立ち その素晴らしさを あれこれ あたかも あこがれのごとく唱えて 持ちあげようとします。それだけに終わっているという嫌いがあるのではないでしょうか。そういう物言いです。
 それなら 思いやりと言ったほうが よほど 現実的であり 実践的です。

 ★ ザイン
 ☆ は 読んだ限りでは なんとも わかりませんねぇ。営利事業だと はっきり言っているところは ましだとも思いました。

お礼日時:2008/08/29 23:20

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