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下記の質問を「人生相談」の
カテゴリにて提出したところ、
本カテゴリで質問すればよいのではないか
とのご意見を賜り、
カテゴリを移して同じ質問を
してみることに致しました。
ただし、私は哲学・社会思想に暗いので
素人にも理解できるレベルでのご意見を
賜りたく存じます。
質問内容は以下の通りです。

私は年齢層としては「若者」に属する者です。
ネット上の掲示板などを眺めると
ようは「自分はこれまでのどの発言者より
メタレベルに立っている」ということが
言いたいだけとしか思えないコメントを
よく見出だします。
我々の世代は「他者を相対化する」ことは
呼吸をするように簡単にやってのけますが、
「自分を相対化する」ことが下手くそ極まりない
ように感じます。
私自身自分を相対化するのは得意ではありませんし、
完全に自分を相対化することは何人にもできない事ですし
そうしようとする必要も無いことは分かります。
しかし、その上でお尋ねしたい事がございます。
彼らが自身の相対化に失敗しているのは
何故なのでしょうか。
彼ら(あるいは我々)に足りないものは何でしょう。
抽象的で申し訳ありませんが、ご回答をお願い致します。

A 回答 (7件)

3。


何よりも、質問を易しく言い換えて整理してみませんか? という提案です。

相対化とおっしゃる以上、それは、対象のレゾンデートルを対象それ自体に全的に帰さないということであって、関係性から意義を見出す、ということにほかなりません。

たとえば、あなたがあなたであることの余剰部分に、生まれ育ち、国籍、地域、教育、歴史、言語、身体などさまざまな事情が属性としてあるでしょう。
あなたが何物かを対象化するとき、自己を対象化することも含めて、それらの属性の殻を破ることはできません。それらはやわらかく流動的なやりかたで、あなたを世界に繋留しており、またあなたがそれらに繋留されるやりかたで世界は立ち現れているからです。

誰であっても、どのような事物や事象であっても、それがそれ自身やそれ自体であることを除いた部分でそのようにして世界に関わる力学があるのです。
これらを洞察することができるかどうかが、何らかを相対化できるかどうかであり、あなたのご質問にはこれとは少し違う問題が絡まっているのが気になります。
メタレベルとおっしゃっていますが、総括しながら他者をおとしめたり批評したりして上位に立とうとする心性についての問題と思われます。

あなたがなぜ、相対化という問題とそうした例とを一緒に提出されたのかが、わたしにはもうひとつ呑み込めずにいますが、共通事項を探ってみれば、3に述べたように自己の確立の問題が指摘できるでしょう。じつは他者依存的であり他者否定によって自己の言説世界が立ちあがり、それゆえに他者の網の目が見えない、他者の繋留系へ深く潜って耳を傾けることがない、他者の言葉がないという世界との関わり方であるからだ、ということになります。
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この回答へのお礼

仰せの通り「相対化」の概念が
正当な思想史(?)上の定義から
かなりずれていたことに
無自覚であったようです。
私の想定していた「相対化」とは
単なる対象のより下位の範疇への
位置づけに過ぎなかったのでしょう。
他者の存在の
複雑で流動的で緩やかな
あり方の洞察が
「相対化」の鍵であるとの由、
(どこまで理解しているかは置いて)
ひとまず納得致しました。

ご意見大変参考になりました。
ご回答どうも有り難うございました。

お礼日時:2012/01/10 18:51

そりゃそうだ。

己の重要感を感じたい行為してるだけだよ。
特にこの哲学系は、わかってもいないのに一見難解そうな机上の理屈並べて自己満足したいオナニストばっかだから特にそれがヒドイと感じる。
あと人間は自分のことを何よりも都合よく考える天才だから、ある意味殆どの人間がそんなもん。
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この回答へのお礼

確かに人間誰しもエゴイストですし、
自分の利益のために論理を
展開しているだけの人も多いでしょう。
ただ、それは「現実」の話であって
「理想」はそうではないと思います。
自己弁護の乱発みたいな
コミュニケーションのあり方を
是認する気には私にはなれません。
そのままでいいならそもそも
「理屈」なんてものは
存在意義がないでしょう。
また、私自身はエゴイズム自体は
善でも悪でもないという
考えでおります。
ようは議論の場全体が
よい方向に更新されていく
ような形であれば
批判でも自己弁護でも
何でも行っていいのではないでしょうか。

ご回答有難うございました。

お礼日時:2012/01/10 16:14

 こんばんは。

二行目から私の蝿文土器なので、最後のリンクだけ見てください。

 うまく言葉出ませんが、気をつけた方がいいですここカルト・カテゴリーらしくて、人々が愉しく気だるく勝手に言いたい放題言っているだけだそうですが、ダメな回答になることを私だけ残念ながら避けられませんでした。自己相対化の不足という問題は、自分に自分をうまく確かに語れてないという内語の運用不足と、そこからくる自己像の不安定さと言語不足からくる暴力性、社会悪の根幹たるヒエラルキーやら戦争やら、そういう問題の真ん中に伸びている問いで、排他的で傲慢な若者が世界中の国々や家々や社会群を支えるのですから悲観が満ちますが、時間と若さとエネルギーを犠牲にして自分と人と社会のために語ります。そして私はアウトラインプロセッサの使い方がよく分かりません。
 自分や人のレベルって気になりますよねー。あ、だめだこの口調。相対化に関する問題には、対化しすぎているという面と相対化が足りていないという面との二つの問題があり、何かを二つに分けて語ると賢そうな印象が微増します。(←いや……増してないと思う)(←こういう自己ツッコミが、自己相対化が足りてない人たちに足りていないものだと思います)(←なので私は自己反省不足な人たちより自己相対化率が上回っています)(←すると私らしさが高慢に傾いてせっかくの慎ましさが低減します)(←そこで自分の精神性を再び引き上げるために慎ましさをより強く湧かせます)(←やがて慎ましさが強まりすぎて、恥じらいとしての内部統制・過度な自己相対化による自己像の八つ裂きや精神の麻痺・透明化が起こります)(←そうして他者がいるといちいち自分の罪深い傲慢さと卑屈な弱さとに揺すぶられて疲れます)(←あまり外に出なくなります)(←人間関係がなくなると自己肯定と自己否定がどれくらいでちょうど良いバランスなのか分からなくなりました)(←安易な自己卑下が自分の心を傷つけるので自己愛で自己愛を守るために傲慢さを常駐させ、私の中で両者とも閉じた生活の中で循環します)(←はたして私は高慢さと自己卑下とに上から下からひきのばされて暮らします)(←することがありません)(←なんにもないのが自分になります)(←憂鬱が体内をコンスタントにパトロールします)(←すっからかんな1日のうち洗濯物を干し忘れたことに気づいた時だけ幸せを感じました)(←これが僕の仕事は家事なんだと気づきました)(←ひとりで他者や社会を暗く眺め、しかし実際に食べ物を買いに外へ行くと、そこには他者たちが意外な存在感で存在してますから圧倒され、その存在感を無である私は咀嚼できず、他者たちもきっと私を咀嚼できずにいるような気がして、嫌悪されているような気がいちいちして、恐ろしくて他者をまなざすことも出来ず、帰ります、他者を確認できないため社会的自己像は破綻しています)(←引き篭もりニートがとっくに誕生していました)(←おめでとうございます)☆(-_-)人(-_-)☆(←ありがとうございます)そろそろ僕も終わりだな
 スペックとかいって社会では人々がやけに相対化されてるそうですね。個々の機能面への着目、道具としての人間、比較優劣にからめとられた群像、仲間であるはずの近い他者や遠い土地に住む他者たちの美点や長所が喜ばしいものでなくなってしまった勝ち負けの世界、スポーツ嫌い、散歩は好きだけど冬、散文しか書けず、詩ではなく、意味しかない状態にまで削られます賃金奴隷。詩が奪われて言葉の膨らみも対話も失われ、口を封じ込められて厳しい社会、冷たい学校、単純に意味付けされ抽象化された人々、ピクトグラムな生徒たちと自分、ウテナ、疎外、革命の少女、輪る……回転する愛語と、そんな中で培われる焦りや拒絶としての傲慢さからくる自己相対化の不足、若さゆえ又は特別権威ゆえに自ら見る幻。他者たちとの場――あの社会というところで劣位にある場合は自己存在が削られやすく、上からのプレッシャーで疎外され、リーダーも疎外に住み、ヒエラルキー中間層を占める群はより下に行くまいと膨らみます、いっしょうけんめい膨らみあい、たくさん食べて太り。心も太り。自己相対化機能が低下し麻痺します。その時かれらは自他の能力差や地位の上下については鋭く相対的に感知しますが、自他そのものを絶対的な、本来の、目的としての、生き合う仲間としての、具体的人間としてのあれとして眺める目を失っています。人も私もというか私がそもそも人が何なのか忘れてます。
 『ネット上の掲示板などを眺めると/ようは「自分はこれまでのどの発言者よりメタレベルに立っている」ということが言いたいだけとしか思えないコメントをよく見出だします。』とあり、このとき質問者は自己相対化に成功してます。ネット掲示板で人が問題を俯瞰するよりも他者をただ見下していると思われる時、質問者さんは自己相対化に成功しています。哲学カテゴリーでも人気な自己投影です。自らの至らなさを痛切に報せる厄介な。自分自身の嫌な側面に出会う時だけ自己嫌悪という心の深いところにおいて自分は自分をしっかり相対化して見えてしまっている、という手応えがあるのでやっぱり自分はゴミなんだナと思ったりしながらトブのフタの上を雪ふみながら歩きます。貧しく醜く冴えず弱く愚かな自分、友達ふつうにいません。人を見る際に頭の中で一番働いているフレームが『この人はちゃんと自己を相対化しているのかどうか』だったりすると本当は様々な要素を含んで多面的でカラフル(アニメ映画)な他者であるのに、その一点のみで不良と良を見分けようとついしてしまい、文は人だとしても掲示板に書かれた言葉がその人の全体を表しているとも言えず、しかし精神性は垣間見えてしまい、自分から人に密かに発射した矢は冷たく自分に返り刺さって痛い。ということで質問文にある通り、若さが原因みたいですね。相対化には距離が要り、離れすぎると仲間意識を持てるほどの相互理解が乏しくなり、他者を絶対化して目的として思いやることもできず、生きている人は泥。人の価値が思考能力で測られ、競い合いになりやすく、また若いと自分の価値がどの位の位置にあるか分からないからとりあえず上に位置したいと思う。他者を具体的人間として認識できないから人がまるでのっぺりとしたスクリーンのようになり自分の不安や嫌悪感を映すだけの鏡になってしまい、本当は一人一人を大切したいのにそれができず、一人一人をよく知ればきっと好きにはならないだろうけど、彼らが互いに俯瞰しようとか人を嫌うとかいう意識の他にもいろいろ持っているだろうと気づくのでしょうか。カラフルというアニメには泣きました。相対化ばかりして自分や他人を冷ややかに見てばかりだと滅入るので、元気よく生きるためには主観的であることも大切なのだとかも質問者さんには既知で、私は既知の外をかきたかったのに、今朝は積雪なし、まとめますと自己相対化が不足している人に必要なものは、勝負なし法(親業)の会得とか、マウンティング(男性原理)の超克とか、集団ブレインストーミング時の無批判ルールの常駐とか、アサーションのスキルとかだと思います。相互理解からくる仲間意識なんかは私だれともできませんが、大勢に対してだと更に難しそうですけれど、人間なんてどうせ自分も他も腐っている、という仲間意識があるなら、自省を深めれば似た者どうしとしての他者の性分を了解できそうで。お前はよく人を見下すから、お母さんそんな人は嫌いだから、気をつけなさいよと、そうお母から言われながら育ちました。


 最後のリンク

・若いヒトのマウンティングについて(プログラマさんのブログ)
 http://d.hatena.ne.jp/Nagise/20080921/1221975997

・松本龍とマウンティングについて……(内田樹さんのブログ)
 http://blog.tatsuru.com/2011/07/05_1924.php

・勝負なし法(親業おやぎょう)
 http://ronri2.web.fc2.com/PET13.html

・フィンランドの5年生が作った議論のルール
 http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20081028/p1 (←ルール2.話すときだらだら話さない) 
「自己の相対化について」の回答画像5
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この回答へのお礼

なかなか精巧な自動記述(?)
有難うございました(笑)。
確かに各員が自論の優位性の証明だけを
目的にして論争していたのでは
議論の場のレベルが下落していく
のは必然でしょう。
私はヘーゲルを読んだ事がないので
詳しくは知りませんが、
弁証法というのは
そういった知の現場全体を
向上させていくために
考案された技術だったのかも
しれません。

ご回答どうも有り難うございました。

お礼日時:2012/01/10 16:06

いわゆる「相対化可能」とは「対象を(別のものと)交換可能」ということと同義になるのではないでしょうか?


「私の立場とあなたの立場が交換可能である」とか「あなたの立場と彼(彼女)の立場は交換可能である」とか。。。

そういった交換可能な状況を想定しようとすることで、事物を相対化可能な状態にて思索できるのではないでしょうか?

そういった意味で考えるなら、「交換不可能」な状況・状態を考えることで、「相対化不可能」な状況・状態が垣間見えてくるのではないでしょうか?

たとえば、「私の立場とあなたの立場が交換可能である」とした場合でも、「私の全てとあなたの全ては交換不可能」でしょうし、その核となるものはまさにアイデンティティと呼ばれるものになるでしょう。

さらにいえば、(無意識のうちにでもアイデンティティに立脚している)思索する側と思索される側といった視点の相違は排除し得ないでしょうから、「する側」と「される側」といった優位性を内在せざるを得ないのではないでしょうか?

「する側」同士の交換可能性と「される側」同士の交換可能性は担保されうるでしょうが、「する側」と「される側」とは交換不可能になるでしょう。

同様のことは自分自身の思索においても言えるでしょう(交換可能、相対化可能)。

誰しも自分自身を思索する場合、「思索すること」を含めて思索しようとすると、無限の自己言及という罠に陥ってしまいます。(->「ゲーデルの不完全性定理」に関連します)

思索する側は思索される側を「交換可能な対象(他者)」と同等の位置づけに置こうとするので、「思索される」自分自身に対し「思索する」自分自身は常に優位な立場(絶対優位な立場)に立つことになります。すなわち「私が私に対して交換不可能」な状態に陥るということであり、すなわち「私が私に対して交換不可能」ということになるのではないでしょうか?

無論、「思索する自己と思索される他者」、「思索する自己と思索される自己」の間には、交換可能な物事が(周囲環境を含めて)非常に多くあるため、その差異には気付きにくいでしょうし、交換可能なもの(相対化可能なもの)が、交換不可能なもの(相対化不可能なもの)に対して絶対的に優位であるとするなら、そういった考え方自身が交換不可能な思索になってしまうともいえます。だからといって、逆の立場を主張することもまた、交換不可能な思索になるでしょう。

逆説的に言えば、(交換可能な事物の背後には)相互に交換不可能なこと(一種の境界概念)があるということを積極的に認識しあい、そういった「乗り越えられない境界」を越えて行こうとする思いが大切なのかもしれません。
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この回答へのお礼

私の「相対化」のイメージは
その対象を「複数の選択肢の中の
一つに過ぎないもの」として認識する
というようなものです。
恥ずかしながら、k_jinen様の
論旨が浅学な私には
部分的にしか理解できていない
ようですが、
「こんなことは俺じゃなくても
考えられるじゃん」という
自覚は自分を相対化する上で
非常に有効かもしれません。
ただ、読んでないので詳しくは
知りませんが、
デカルトという人が言った
「考えてる俺は疑いようがない」
という趣旨の発言が
自分にも他人にも
当てはまると考えるなら
自分と他者の主体を尊重し、
互いの間に横たわる「境界」を
乗り越えようとする一歩に
つながるのかも知れません。
ご回答どうも有り難うございました。

お礼日時:2012/01/10 07:45

最近の若い子って、自我拡散的な、迎合主義的な感じかと思っていたのですが。

。。

 他者を相対化する.....状況や関係性を読むことに拠って他者をとらえる。
 自分を相対化する.....自己洞察を、状況や関係性とよく照らし合わせて行う。
 自分を相対化するのが下手.....自己中心的である。盲目的自己愛に囚われている。

と言い換えて質問を易しく考え直してはいけませんか?
さらに、
普通の意味では、他の発言者よりメタレベルに立つということは、
問題を見据える目的で、問題と発言者の関係性について言及するということです。
問題を客観視し、それと他者の関係性を分析するということです。

これが鋭利に働くなら、問題が内包している問題そのものの立てられ方、あるいは
わたしたちにとっての問題の事柄の回避できない存在理由を炙り出すことができるはずです。

しかし、ご質問の内容から推測すると、
メタレベルというのはもっと軽い意味で、むしろ、
上位に立つとおっしゃりたいだけであるようにも思われます。

自己中心的であると、
他者と、他者の世界に生起した問題の写像を、共感することも想像する事もできませんから、
なんちゃってではなくメタレベルに立つという作業には無理があるでしょう。
周りの状況に的確に応じた臨機応変さやTPOも、自己同一性あっての振幅なのですから、
もしそれが下手なようだと、他者を貶めることや他者を批評することによってしか自己を確立できず、
そのように確立された自己中心性が、さらに悪循環を生む、ということになりかねないでしょうね。
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この回答へのお礼

単に他者や自己を単一の独立した
存在として捉えるのではなく、
両者の置かれた状況や関係性に着目して
真の意味での「メタレベル」で
問題を考えるべきということでしょうか。
確かにコミュニケーションは
多かれ少なかれ状況依存的ですから
そういった視点が欠落していると
自分も他者も相対化できないでしょう。
ただ、あまり状況依存的に考えすぎると
「空気を読む」(私はこれが嫌いです)
ことに堕するような気も致します。
おっしゃる論旨を誤読していたら
申し訳ありません。
ご回答有難うございました。

お礼日時:2012/01/10 07:32

真に「他者を相対化する」とは、単に『他人は自分とは違う』と認識する事ではなく、『他人も自分と同じように喜怒哀楽を感じている』という同情や思いやりを言います。


そして、そうして他人がどう感じるかを認識する事は、自分がどう見られているかを理解する事でもあり、「自己の相対化」につながります。
その“自他の客観化”は、いかに自己の生存が社会全体の営為に依存しているかの把握=社会生命的自覚につながり、助け合いとしての社会行動=自律的社会性=愛につながります。

(そのような観点において現代人は目先のお金や虚栄心しか目に入らない自己チューに陥っており、「他者の相対化」はできていません)
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この回答へのお礼

自己の相対化と他者の相対化が
並行して行われるというご指摘は
私にとって盲点でした。
他者が自分と同じ感情や意識を持った
主体であるという認識は
自分を相対化する上で重要だと
私も思います。
ただ、私は「人類は平等にエゴイストである」
という(自嘲もこめて言いますが)性悪説
に立つ人間です。
「自他の客観化」が社会の為の
営為に直結するかは
留保させて頂きたく存じます。
ご意見大変に参考になりました。
ご回答有難うございました。

お礼日時:2012/01/09 14:46

 こんにちは。



 むかしむかし ゴータマという人は
 ★ 完全に自分を相対化すること
 ☆ が出来たと宣言し
 ★ 「自分はこれまでのどの発言者よりメタレベルに立っている」
 ☆ という主張のもとに 論陣を張りました。


 言いたいことは もしこのゴータマという人の思想(生活態度)を人びとが――おおむね人間の良心に即した内容に立つ共同の主観として――よしと受け取っているとしたなら これをどう見るか。そのへんに答えはあるのではないでしょうか?
 (おもねりか それとも 実際に秀でているのか)

 その時代その社会ごとに ひとり秀でた人間がいると見るのか?
 それとも それがまやかしであって ブッダなどという見方はじんるいの汚点ともいうべき大間違いだったと見るのか?



 というよりも けっきょく互いにおこなう自由な批判 これを延々と繰り広げるということ これが むしろ別解であるかも知れません。
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この回答へのお礼

私としてはこの手の問題に
「完全解答」とか「絶対的超越者(?)」はなく、
それぞれ異なる状況に置かれているもの同士が
絶え間なく議論し続けることで、
論理的妥当性の高い解答に漸近していく、
というような認識でいます。
ただこの辺を突き詰めると
デリダだハーバーマスだと
私の理解をはるかに超えた
問題に発展しかねないので、
自分としてはとりあえずは
この辺でよしと考えています。
ご回答有難うございました。

お礼日時:2012/01/09 14:26

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