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虚無を宇宙の存在以外(又は以前)とします。
今回のご質問はビックバンを基点とする宇宙観への疑問です。
永遠なる言葉がある以上、宇宙に始まりと終わりがあることを信じられません。

A 回答 (13件中1~10件)

始まりと終わり、永遠など、人間が時間という概念を作り出したために生まれた言葉ですね。


ビッグバンの前に何かがあったと人類は証明できていませんし、宇宙に終わりが来るという証明もできていません。
だから、宇宙に始まりと終わりがあるとは証明できていません。
人間が、今現在の知能で理解できる時間軸の範囲を超越した概念が見つかれば、また変わるかもしれませんが、
それがない以上、始まりの前には、何もない状態が必要というのが、現在の人類の限界だということに過ぎません。
限界が突破されれば、また違う概念が生まれます。
14世紀には、地球は平らだったんですから、まだまだ何が起こるか分かりませんよね。

この回答への補足

質問内容の補足です。
この質問は宇宙論ではなく個人的な宇宙観についてお聞きしているのですが夢物語見たい宇宙観で十分ですよ。結論の出ていない話なので難しい話に格闘するより気楽にしたいです。
虚無を議題にしているので宗教的な「無」と密接にかかわりが有りますが決定的な答えなんてまだないだろうと思っています。

補足日時:2008/09/09 18:36
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうですね、まったく納得です。

お礼日時:2008/09/09 03:21

 ANo.11


 primeape様:独特の言い回し。
 私:そうですか。でも判りやすいという方もおられまして。その今わしのリズムや流れに乗っていただけるかどうかなんですよね。イントロは音楽だけでなく、本にも目次や献辞、序文とともにだいじですものね。講座の枕もそういうものでしょうね。契機というものに通じますね。
 でも一方の私には、primeape様の文章は自分では、70%理解できたと存じておりますが。
 primeape様:でも信仰に自信を失っていたようですが怪しい新興宗教の類ではないのじゃないかと感じました。ニセモノの信心には注意してください。
 私:そう受け取られたのですね。自信は失っていませんし、遅々たる進歩でも一応しがみついていますよ。
 私自身の信仰もニセモノでないように願いますが、教えは正しいと存じております。本物と存じております。
 ご忠告ありがとう御座います。
 格好が熱心で格好的に一途であると、傍目には胡散臭くなるものですよね。でも動けば塵も舞い上がるので、深く広い大河の悠々たる流れはまねできません。所詮は、私は小川、せせらぎのささやかな浅瀬の水なのです。あぁずるいですねの言葉でしょうかね。あれは論破しようとする頭のいい人たちには、ヒンドゥの、この不可視界に根拠を置く論理はどうしても逃げ道のように見えるでしょうが、という先回りしての、自己防衛ですね。このことではなかったかな?
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
今回の知覚の次元でなく心象の問題として理解可能でした
要するに心情について察せられる部分がありました。
ちょっと良くないくせに付いて思い浮かぶことがありまして、信仰の中身を見せないで一方的な教化を試みるようなそんな話の持ち掛け方が伺えます。
平気なんでずけずけ指摘しました。

お礼日時:2008/09/13 16:56

 ANo.11 A9の後につけた補足です。


 primeapeさん:虚無の概念そのものお問いかけた質問を見たことがあります。その質問者は虚無を空間か物質のように捕らえる考えから抜け出せなかった。内面の宇宙(観)にそのような心象を得たのでしょう。

 krya1998:【そして意識も本質は予め無です。】の中の【予め】とは「もともと」ということばに置き換えてもよろしいでしょうか?
 そうだとすると、これは私たちも教えられ、精進し、経験してきております。
 【有限の領域がやつあたり三昧のサンドバックが主観です。】このご表現を私・的に理解して、まことにその通りですと、共感いたします。

 【主観とは偶像で収まるものではない人格の象徴なんですが、脳が夢を見ているうちは自分自身にはなりきれません。】
 これが覚める、覚醒、解脱ということなのでしょうね。夢を出てしまうと、途端にまどろみに入ってしまうことが多い。夢という最初の下部意識領域を超え、強靭な意識を持続して、その対岸に泳ぎ着くのは、指導と行法(ぎょうぼう)が必要ではないでしょうか?私たちはこれをヨガと呼んでおります。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
>【予め】とは「もともと」ということばに置き換えてもよろしいでしょうか?

失望を与えるかもしれませんがこの「予め」は、そのような過去を振り返る衝動をいさめるためにつけた言葉です。
将来に向け約束された希望として捉えてください。

お礼日時:2008/09/12 19:31

 ANo.9です。

補足はすごく勉強になりました。投稿すると、律儀なprimeapeさんはまた何かご対応されるのではないかと心配申し上げますが。こんどのこの投稿はお礼ですから。
 primeapeさん: 神経組織として眼球の構造は平面的にしか画像を結んでいません。そして眼球につながる神経は200万本。多いようですが要するに200万画素の古臭いデジカメと一緒の情報量でさらに色を認識する神経はピンポイントで一部に限られます。
 何よりも2次元的画像しか脳に入力されていないのがポイントで脳の方で空間を掌握する能力を発揮して眼球からの情報を大幅に補正しています。この空間を掌握する能力が内面の世界を作ります。
 投稿者: これは勉強になりました

 primeapeさん:「夢」と言う何処でもない異世界はそんな想像力の賜物です。主観を通じて接する「あなたが見ている世界」「立ち会っている世界」といっても良いですが、それは脳の空間を認識する能力に支えられています。
 投稿者:邯鄲の例にしろ、古来、人生を夢と、異界さ迷いこみ、と感じ取り、ことばと話にしてきておりますね。脳の機能と作用は非常に根本的なところにまで、担当しているのですね。このことは6000年というふっかけもありますが、伝統のヒンドゥ奥義でも口伝されてきていた分析です。

 primeapeさん:現実もまた夢の世界と二重写しになっています。森羅万象を見て動く心もまた夢の世界。現実を主観と言う偶像(投稿者:これを私たちは、真実の主格の認識、知覚、行為の道具、表見的認識者・行為者として教えられております。認識、知覚、行為、経験はつまり、世界の構成そのものであるということも付加して。)を通して伺いながら少しずつ確かな真実を確認する作業をしているのが現代人。そして自分自身を判る日が来るのを待ちわびる。それが日々お送りまた重ねること。これが「人間とは何ぞや」の問いかけ。
 投稿者:その通りと存じます。「人間とは何ぞや」は真の行為者、経験者、認識者、主格者でもあり、創造者でもあるのでしょう。つまりはっきりいえが、実在であり、神である。というのでしょうね。
 これが私たちの課題にとして意識せよ、と教えられております。

 primeapeさん:最新宇宙論に関心のある方は内面における想像力の限界に挑んでいる訳です。今回お聞きしたそれぞれの宇宙観はまったくの神秘の領域なので鬼神の見守る哲学分野で公にするのは抵抗があるかもしれません。
 投稿者:不可視のbeing意識が鬼神であるとすれば、それは私たちの教えでは単に三重の着物の一番上の着物である、肉体を出ている存在に過ぎないから、意識がある存在も一時的にはそうなるが、ほとんどは意識がない状態である、といわれています。
 鬼神を全創造界に存在する、肉体着物の中の二枚の着物を着ている存在であるとするならば、全ての意識となるもので、私たちもそれなのですね。
 ただ、いろんな先入観がありますので、公表は受け入れられるかどうか難しいかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
独特の言い回しで私の体験した道のりと合わせて、わかりにくい事も有ります。
でも信仰に自信を失っていたようですが怪しい新興宗教の類ではないのじゃないかと感じました。
ニセモノの信心には注意してください。
私は信仰を表ざたにした経験は有りませんのでそれ以上は言えません。

お礼日時:2008/09/12 19:28

 primeapeさん primeapeさんの《無神論》としての宇宙観が わかったように思います。


 それは まさに《〈無神〉という神》ではないでしょうか。あるいは 描像(イメージ)として捉えるなら 広大な と言うだけでは表わされ得ず 果てしのない《無ないし虚無》としての海 ここに 静かに 存在しているのが primeapeさんその人です。もはや その世界 否 宇宙は 住み慣れた家のような場なのでしょうか。ひょっとして 自由自在に 渡り歩いて あるいは 渡り飛んで おられるのでしょうか。

 話は 変わりますが 先回にもらったコメントについて ひとことです。
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 brageloneさんのエートスについて今回立場が変わったことで気が付いたことがあります。何らかの形でデーモンの存在を前提にしたきらいがあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 大枠としておっしゃる通りなのですが 細かく規定すれば こうなると思います。つまり
 ★ デーモン
 ☆ について 今回に限っては デーモン現象一般のことではありません。それは つまり いろんな心理的なごみくずを 意識に載せて排泄するような一般的なデーモン作用ではなく そうではなく あくまで 相手の存在を無視するという《善の欠如》作用のことです。

 意志を無視する・早く言えば《悪》の意志行為です。つまりは 悪は ほんとうには 存在していませんから そこに起こっていることは 《負の意志》を相手に押しつける行為です。
 つまりは ほんとうには デーモン電磁波などの問題では 必ずしも なく そうではなく 相手つまりわたしが 存在を消滅しないなら 自分の存在が消滅してしまう だから おまえ(=つまり相手であるわたしbragelone)は 消え失せろというそういった種類の《負の意志行為》です。

 話には 裏があります。
 つまりは 早い話が 《あぁ おれは もうこの世界から 消えてなくなりたい。誰か その引導をわたしてくれ》と わたしの相手は 言っています。つまり衝突してくる相手が みづからの問題を訴えているものだと理解したほうがいいと思うのです。
 だとしたら 何なりと 何らかのかたちで こちらは その現象に 直接に反応したほうがよい。こういう判断のもとでの《わたしの豹変・変節》です。

 もともとは こういうふうに 直截に けんかをも辞せず 反応したかったのですが ネチケットの規則なる条件と 対話をするにも 直面していないという条件とがあって 控えていたのでした。
 悪がきの弁明でした。
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この回答へのお礼

無心の神がわかりました。
名前にするならやはりアマテラスさんです。
アマテラスさんは神様にされることを好んでいません。
表現するならそれは【純粋な光】です。

デーモン君の行いや考え方は哲学する際の正当な流儀です。
もはや鬼神としての自覚を持ったほうがいいですよ。
デーモン君と表現しているうちは「わが鬼神」なんです。

お礼日時:2008/09/12 19:20

 ANo.8 頂いたお礼に、ありがとうはおかしなお話ですが。

お礼旁々。
 primeapeさん⇒ 永遠が私の心の中にあるという驕りはありません。 krya1998⇒ このことを心の中に意識することは、解脱をいみしないでしょうか。そうならいまさら仰せになる必要はありませんよ。でも創造界という宇宙はfractal、simulacra、そしてDrosteではありますが、みな同じ原理というわけか、相似が通底していまして、primeapeさんという存在も永遠であることには変りがないのではないでしょうか。
 primeapeさん⇒ 「ずるい」の内容ですが私に言わせれば確かめたり確認をした経験がないので自信がない。したがって自分がどこかかなたに居る状態、と受け止められます。
 krya1998⇒ ご炯眼のとおりであります。そして実証不可能なことに入っていくので、勝手なことをいえます。そういう意味でもずるい。そして、論破はされないように周到に教えられているので、ずるい、ということでもあります。これは少し卑下をして、完成された論理と境地、そして教えだという自負が、本音にあっての表現です。いわずもがなの台詞ですね。
 primeapeさん⇒  行いの中で気が付くこと、ささやかながら確かな光を発する真実、わかり合えた体験とでも言いましょうか、そういうものが不足しているから自らをずるいと表現したのだと思います。
 krya1998⇒ はい、そういうことでもあります。共通になっていませんから、そんなことをお話に出してはいけませんね。それはぱっしとあなた様や、皆様に入っていけるような、出し方をできないで、受け売りのままにいうことはいけません。でした。そんなことを言いっぱなしで出しては、まことにいけませんね。反省します。

この回答への補足

質問内容の補足と言いますか、つらつらと考えてみました。
神経組織として眼球の構造は平面的にしか画像を結んでいません。そして眼球につながる神経は200万本。多いようですが要するに200万画素の古臭いデジカメと一緒の情報量でさらに色を認識する神経はピンポイントで一部に限られます。
何よりも2次元的画像しか脳に入力されていないのがポイントで脳の方で空間を掌握する能力を発揮して眼球からの情報を大幅に補正しています。この空間を掌握する能力が内面の世界を作ります。「夢」と言う何処でもない異世界はそんな想像力の賜物です。主観を通じて接する「あなたが見ている世界」「立ち会っている世界」といっても良いですが、それは脳の空間を認識する能力に支えられています。現実もまた夢の世界と二重写しになっています。森羅万象を見て動く心もまた夢の世界。現実を主観と言う偶像を通して伺いながら少しずつ確かな真実を確認する作業をしているのが現代人。そして自分自身を判る日が来るのを待ちわびる。それが日々お送りまた重ねること。これが「人間とは何ぞや」の問いかけ。
最新宇宙論に関心のある方は内面における想像力の限界に挑んでいる訳です。今回お聞きしたそれぞれの宇宙観はまったくの神秘の領域なので鬼神の見守る哲学分野で公にするのは抵抗があるかもしれません。

補足日時:2008/09/11 21:28
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
永遠という事象が言葉にならなくても判らないわけじゃない。
これならお互い様ですね。
誰でもそうだと思います。

お礼日時:2008/09/11 19:26

 虚無を宇宙の存在以外(又は以前)とします。


今回のご質問はビックバンを基点とする宇宙観への疑問です。
永遠なる言葉がある以上、宇宙に始まりと終わりがあることを信じられません。

 【ビックバンを基点とする宇宙観】という中に使用していることばである、【宇宙】が即ち、【宇宙の存在以外(又は以前)】という中に使用している【宇宙】ということばなのですね。
 そして【永遠なる言葉がある以上、】における、【永遠なる言葉】とは、同じように、科学理論での追究における、【永遠なる言葉】なのでしょうか?
 それとも、【believe】や【faith】という次元でも、或いは思弁的演繹計算での、、【永遠なる言葉】なのでしょうか?
 それとも日常の会話などに使用される、、【永遠なる言葉】なのでしょうか?

 ことばがあってもないものもあるのは日常経験します。
 そして、こういう意味上では、言葉も、そして対応するものもあるが、ある場面でのことばが、それと異なる場面では対応するものはないことは、理解できると存じます。

 仰せの【ビックバンを基点とする宇宙観】を一定の範囲と場面として把握し、それ以外の場面での宇宙というものがあるとする、立場と見解、或いは信仰から、その場面でいう永遠ということばを問題にして、仰せのように、【宇宙に始まりと終わりがあることを信じられません。】という立言がありえることは、今の人間たちの知性と意識、存在形式からも、言えることでしょう。

 こういうことに評論するなら、人知的経験と論理、そして論証で進行してきている線上の、【ビックバン理論】では、始まりと終わりを探求するものだということになりますし、その先があれば、またその先と後を探求していくのでしょう。
 これが理論の宿命でしょう。【ビックバン理論】にしろ、たの理論探求にしろ。
 そして仰せの永遠が、広義の科学探求を超えたことであるならば、その永遠は常に先に、そして後に続くだけでしょう。

 つまり仰せの永遠は信仰上の認識内容なのではないでしょうか?
 それはもう永遠でいくのだと存じます。
 創造者の意識が、創造者自身が起点かも知れません。
 そして仰せのことも、【ビックバン理論】を含む広義の科学探求もすべて、その意識の紡ぎ、描きであるということになるのでしょう。
 一番賢い、配慮がされているいい方かも知れませんね。
 証明はできない、だから逃げ道かも知れない。
 ともいえましょうか。実は白状すると、私たちの信仰の内容ではあるのですが。ずるいでしょう?私たちの団体と私たちって。

この回答への補足

A9の後につけた補足です。
前後しています。
虚無の概念そのものお問いかけた質問を見たことがあります。
その質問者は虚無を空間か物質のように捕らえる考えから抜け出せなかった。内面の宇宙(観)にそのような心象を得たのでしょう。
そのような蠢く闇は理解することで霧消するはず。
虚無との対比で脳の活動を制御する無意識とは予め無の領域に居るからこそ無意識なんです。
そして意識も本質は予め無です。
有限の領域がやつあたり三昧のサンドバックが主観です。
主観とは偶像で収まるものではない人格の象徴なんですが、脳が夢を見ているうちは自分自身にはなりきれません。

以上が私の内面の宇宙観で、今は言えることです。

補足日時:2008/09/11 22:31
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
永遠は舌足らずな言い方で日常の言葉として使用しています。強がりを言えば実践こそ全てと思っているので言葉を固定しません。
感じるままの知覚を研ぎ澄ますための材料探しのつもりで質問を立てています。
永遠が私の心の中にあるという驕りはありません。

>実は白状すると、私たちの信仰の内容ではあるのですが。ずるいでしょう?私たちの団体と私たちって。

krya1998さんの他の方へのご回答は見たことが何度かあります。
私の自己紹介をするなら特殊な能力や経験は全て「感受性が過敏である」の一言に集約されます。心象はたとえ話にしないと言葉にならないものですが、霊媒師を語るとき私は大霊界をさまよい無意識や超能力をかたるとき地獄に落ちています。
「ずるい」の内容ですが私に言わせれば確かめたり確認をした経験がないので自信がない。したがって自分がどこかかなたに居る状態、と受け止められます。
行いの中で気が付くこと、ささやかながら確かな光を発する真実、わかり合えた体験とでも言いましょうか、そういうものが不足しているから自らをずるいと表現したのだと思います。
功徳。現実的に善行といったほうがいいのですが、これを死後に備えた財産にしてはいけません。この場合はあくまでも年金のような財産ですから生きているうちに死後に備えた思い出になるのが関の山です。
死ねば誰もが等しく解脱します。幽霊に言わせれば「何も残らない」。
そのような摂理に逆らう霊症のような印象がkrya1998さんの場合、隠そうともしないでさらけ出されています。

お礼日時:2008/09/10 21:59

 primeapeさん 例によって 水差し回答です。



 《宇宙》は 一般に 経験世界のことを指して言います。
 でも primeapeさんが 《宇宙観》という言葉で表わそうとした宇宙は 経験世界を超えた世界を 仮りにでも想定して それをも含んだすべての領域のことを指して言っておられるのではないでしょうか。
 《永遠》という時空間が それだと思います。果てしが無いわけです。《始まりも終わりもない》わけです。
 経験科学である自然科学は あくまでも 経験宇宙について その始まりを探し当てたということだと思います。

 超経験世界は では 《無》か《虚無》か あるいは 何なにか。
 たぶん これは 想定の問題なのだと考えます。ふさわしくはありませんが 《鰯の頭》という呼び方をしても 呼び方の問題であるとことわれば まちがいではないかも知れません。
 ★ 虚無を宇宙の存在以外(又は以前)とします。
 ☆ というとき この場合の《宇宙》を 経験宇宙のことと採るか あるいは すべてを含む大宇宙と採るかで 答えは 違ってきます。後者なら もうその――《宇宙の存在以外(以前)》という――存在は 想定することもないわけですから。
 ★ 虚無を議題にしているので宗教的な「無」と密接にかかわりが有りますが決定的な答えなんてまだないだろうと思っています。(No.6補足)
 ☆ とおっしゃるとき 厳密な言い方として わたしとしては 《宗教的な》を 《個人の信仰としての》に替えていただくと そのとおりだろうと存じます。
 《宗教的な〈無〉》というのは まさにその組織集団としての宗教にとっては みづからの共同体のために必要とする教義としての観念的な作文であると考えます。
 その観念体系を通してでも 或る個人が 自己の信仰を得たとするなら それは 自由に正当にも《信仰》の問題になります。
 ただし 《個人の信仰》が得られる場合というのは このような宗教教義によるとは限りません。それこそ宇宙のあらゆるものごとが 言わば神(もしくは 無神という神)からの書簡としてのごとく 信仰のきっかけになると考えられますから。
 つまり 宗教は あってもなくても かまわないと考えます。(余分なことまで つらねましたが)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
舌足らずだった部分を補強していただきました。
思えばずいぶんと大それた質問かもしれません。
能力的には力不足なので、突き詰めると堂々巡りになるような話にはもって行きたくないです。

brageloneさんのエートスについて今回立場が変わったことで気が付いたことがあります。何らかの形でデーモンの存在を前提にしたきらいがあります。これが人によってはコテンパンにされる攻撃に映るのでしょう。良いとも悪いともいえますが相手にわかりやすい一方で逃げ腰を生むことがあります。

お礼日時:2008/09/10 21:31

まず言葉は概念を表すものなので、永遠という言葉が永遠というものの


存在を保証するわけではありません。
例えば全知全能という言葉はありますが、その矛盾(自己否定が
出来ない)ことから全知全能がこの世に存在しないことは明らかです。


とまぁ言葉遊びはこのあたりにしておいて
現在の宇宙論は虚無の存在を必要としていません。
数十年前の単純なインフレーション理論(ビックバン)ですら
2002年あたりから提唱されているエキピロティック宇宙論に
代表されるような、さらに高次の存在を前提とするものに昇華しています。
さらに時系列ですら閉じていると考えるマーク・ハッドリーの仮説の
ようなものもありますしね。


全くの奇遇ですが、明日、人類はその概念実証が可能となるかもしれません。
まぁ、一般に情報公開されるのは大分後でしょうけど。

参考URL:http://public.web.cern.ch/public/
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>現在の宇宙論は虚無の存在を必要としていません。

そうですね20年位前に読んだ薄い読み物でもそんな印象を受けました。
今回の質問の趣旨からすると最新宇宙論より天動説を信じていた古代人はその際果てを想像しえたか?なんて質問だったほうが面白かったですね。

お礼日時:2008/09/09 03:19

永遠と一瞬(停止状態)に本質的違いは無くなってます。


神の持つ時計は無いのです。
宇宙にはじまりと、終わりがある・・・様な言い回しですが、
特異点は、特異点であって、現在の感覚で現実に永遠の過去を遡ってもこれに辿り着くことはできないのです。
ビッグバンが起こって130~140億年とか言いますが、確かにそれはその通りなんでしょうが、一方で、ビッグバンで発せられた多数のエネルギーにとっては、未だにビッグバン発生から0.000000001秒も経過してはいないとも言えます。彼らは何せ光速ですから。
過去がどうだったかなんて知る由もないのですが、アインシュタイン方程式が正しいとするなら、狭い空間に、超高密度なエネルギーが存在していたと言うわけでどんどん時間が遅くなって、無限大のエネルギーが一点に存在するという時間が経過しないというのが特異点ですね。
言い換えるとそれこそが人間知性が想像する永遠の行き着く先じゃないでしょうかね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
お尋ねしたのは最新宇宙論の検証ではなく宇宙観です。

>言い換えるとそれこそが人間知性が想像する永遠の行き着く先じゃないでしょうかね。

この一言で言わんとすることが了解できました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/09 03:14

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