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皆さんこんにちは。

心配はしようがせまいが、物事はなるようにしかなりません。
心配というのはまったく無駄な行為であり、むしろ精神的
苦痛が感じられマイナスな行為のはずです。
それなのに、なぜ人は心配をするのでしょうか?
もし、人に心配をする機能がなければ、どうなるのですか?

A 回答 (15件中1~10件)

どうも、#9.です。

ふたたびこんばんは。


ご質問は、
「>なぜ人は心配をするのでしょうか?」
「>もし、人に心配をする機能がなければ、どうなるのですか?」
でしたね。
そそっかしく回答してしまったので、追記させてください。


心配する機能がないとすると、


ものすごく、本当にものすごく、自由!になれると思います。
法律とか、刑務所なんかも、なくなるかもしれませんね。
残酷なほど、自由!になれると思います。
耐えられないほど、自由!になっちゃうんじゃないかと思います。

その自由!に耐えられないから心配するんじゃないか、とも思えます。



たとえば、
どういうわけか、物心ついたときから、
わたしが立ち上がると、わたしの下に地面があります。
どういうわけか、物心ついたときから、
ものを買うためには、お金が必要です。

で。
これが気に入らないなら、
(このことによって自分が無駄に安らかではなくなるのなら)
明日から、この世から地面やお金を消してもいいですよ、
好きなように設定してもいいですよ、
ということになったとしたら。



まるで心配しないで自由を謳歌しますか?
それとも「無駄に」「心配」しますか?



「心配」は、自分の安静・平和を保つため、でもあると思います。
そうすると、
「心配」は、「栄養」であり、「無駄」ではないような気がします。



ご質問は、
「心配する」ことが「できなくなる」としたら、ということでしたね。
煩悶も少なくて、幸福も少ない人生になるんじゃないでしょうか。



しかし、たとえば植物などは、心配することなく生きていて、
ニンゲンは、おおいに植物のお世話になっていますから、

心配するのが良いとか悪いとかは言えないと思いますけどね。
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この回答へのお礼

こんにちはー

「自由」ですか。いい表現ですねー
そうですね、心配する機能がなければ
なんか自由になりすぎてしまいますよね。
心配は栄養というのもいい表現ですねー

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/13 16:13

 ANo.11


 私の行き届かないことばに、素直にご対応頂いております。
 そして補足が必要だと存じました。

 あなた:たしかに、自分というものを完全になくしてしまえば、そこにはもう心配はないですね。

 わたし:次郎物語できいたことあると存じます。下村湖人の著作です。湖人がいっていることがあります。ご参考に書きます。
 「自分を無視することができる人に二種類ある。聖者(ものをわきまえ、心の汚れをふき取った人━回答者の説明)と全くの愚か者である。」
 ◎この両種類は確かに自分を無視しているでしょう。でも無視の仕方や様態が似ているところもあるし、根本的に違うところもあります。
 ◎漱石だったか、額にありました。則天去私。これが聖者でしょうか。去私できれば、則天となりますが、去私がなければ則天にはなりませんね。あたりまえといわれそうですが。
 
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この回答へのお礼

こんにちはー

再度のご回答まことにありがとうございます。
小説は推理小説か法廷ものしか読んでいないので
次郎物語は知りませんでしたが、たいへん参考に
なりました。
またよろしくお願いいたします。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/14 19:14

こんにちは、



意思決定論のほうから すこし書いてみます。

決断時における心配の是非をめぐってです。

まず、解りやすいように図で考えてみてください。 単純な図です。 シンプルイズベストな図を求めると、こんな感じの意思決定論図が見えてくるのではないでしょうか?

思索領域と実践領域をと分ける縦の線に、意思決定のエネルギーを現す円を書き加えます。  真ん中で そのように二分された円とお考えください。

一番上が意思決定点で、このエネルギーを時計回りのエネルギーとすると、右側が実践領域となり、右側に実践エネルギー線がその半円を描きます。

左側が 思索エネルギー線です。

その時、さらに、その円を四分割すると、現代の意思決定論がわかりやすい形に図示されてきます。

左下のエネルギーは 情報学習エネルギー線、左上はそれによって定まった目標に向かう計画検討エネルギー線とします。

では右側の上下は、その時、どうなるのか?というと、 右上は 「ともかく思いっきりうちこめ線(^^)」となります。 強引にもってく必要のある時期、白も黒というぐらいに他人に対しての喧嘩みたいな強引さが必要な時期、極端に言えば また経営のときなどにはそう言えてしまうようなエネルギーが必要な時期の実践エネルギーを現す線です。

習慣化とかのためにも 初期エネルギーがうんぬんされます。 飛行機の滑走のようなものとも例えられていて、この辺はさらにこまかな数字目標が大事という人もいたりします。

で、その下、右下はというと、ひととおり軌道にのって、反省とか改善点とかを考察しながら実践して行く段、便宜図としては そういう図となるということです。

そうして再び情報も検討してゆき、そこに意思決定エネルギー循環が進化してゆくというわけです。

では、この図も使って 心配の是非を考えて見ます。

其の前に、私は遊び心でインチキトランプをやったことがあります。 銀行という名の お金も賭ける遊びですが、 つまり いかさまをやったのです。 お金は後で返しましたけどね(^^)。

いかさまでも それが見破られなければ必ず最後は私が儲かるのです。

種は、簡単です。 ほとんどのトランプには小さな傷とか誇りとかが小さくついていますので、それで裏の「「ハートの3」」とかを憶えておくだけです。 その場でどんどん憶えていきます。 それだけです。

それだけで、私にはそのゲームの将来に対してなんの「心配」もなくなります。(や やっとこ「心配」という言葉にたどりつきました^^)

何があろうと 最後には こちらに 面白いようにお金がなだれこんでくるのですからね(^^)/。

もし、そのぐらい意思決定時に心配しなければ、右側へのエネルギーには抵抗がなくなります。 勢いはつきやすくなります。  

だから成功しやすくなるというあたりは 成功哲学のまやかしですが、ともかく次の段階に進みやすくなるのありえます。

ほんとうは、やってみなければどうせわからないのだから という意味での思いっきりとか胆力とかの必要時、 実際の真実を偽ってでも心配なんかしないほうが有利な時なのだろうか?  

意思決定論では、大体は、次のように言われているところです。

仮に失敗したときに、どのぐらいの費用と時間がかかるのかの計算さへできるならば、あとは心配するな。  まあ あの「いかさま」と同じぐらい気楽に思いっきりつっこんでけ、お後はね。 という感じで言われているところです。

ですが、その時に忘れてはならないのが、 大きな失敗 といわれている世界です。 それは 心配しなさい。というふうになのです。

大きな失敗、 家族を路頭に迷わせ、死のふちの恐怖におびえさせ、それでも生き抜こうとしても、なんとか何かにかじりついて生き延びても 身も心もやがて腐ったようないじけた神経となりさがっていく、もう二度とふつうには戻れないというようなことは それは避けなさい。  徹底して。  

昔のアメリカとかの考えはそのへんどうだったか知りませんが 現代ではだいたいそのへんにも注意深いのが経営の意思決定論だと思います。

ごまかしによる心配排除は、ほんとは必要無いと思います。

いかさまは現実生活に使えるわけではないですし、まあ豚箱行きでしょうし、それで安閑としていられるのはゲームの中だけにしておきましょう。

人に心配する機能が無いということは 考えられません。 この知的生物には。  

心配する機能を どううまく使うか? あるいは心配しながら 生き抜くには。  その意思決定論の全体を リラックスして生き抜くことだと思います。

円の右端点を「改善気づき点」とすれば、左端を「情熱点」としましょう。

左は世界を制するボクシングパンチと考えてもおもしろいところ、 びくびくしてたらだめ、 でも防御も必要 くぐりぬける知識や知恵も必要、学習も訓練も、計画も、計画のとらわれないことも、

どうやら いかさま程度の安心よりも もっと落ち着いた正しい詰めの理と心が必要なようですね。

人は何故心配するのかの一点ならば、 命の尊さのことが頭に浮かびます。 別な深い論議とかもあるかと思います。  でも 総合的な意思決定論からは こんな考察ができるかと思いました。
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この回答へのお礼

こんにちはー

はい。仮に金を儲けるためにイカサマトランプを
するとすれば、イカサマがバレてそれ相応のペナルティを
追うことを心配するか、それともそのペナルティを負う
ことにおじけついて、金を稼げないことを心配するか。

そのどちらでもなく、真面目に働き収入さえ得れば、その
分の不安はしなくて良いのですが、私の人生もイカサマ
ギャンブルだったような気がします、いつも不安でしたし。。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/14 19:09

>例えば、


「貴方の身内の誰かが手術をしているとき。」
貴方は担当医でない以上は、何もすることができないのですが
それでも心配だけはすると思います。

やっぱりここでも何か出来る事は無いか探してるんじゃないかな?
頭では何もする事無いのは解っていても、体が(脳が)探しちゃう。
でも答えは出る訳も無く、うーんと頭を抱える状態だけが残る。
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この回答へのお礼

こんにちはー

そうなのですね。
私がその立場になれば神にお祈りします。
神がいようがいまいが、それが荒唐無稽で
あっても、それくらいしかないからです。

また人によれば、心配しているときにいろいろな
可能性を無意識に考えて、なんとか助ける
方法はないかと、模索しているのかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/13 16:54

心配って、「不安」というニュアンスと他者への「配慮」というニュアンスがあると思います。



「不安になる」という意味での心配は、自分の存在を揺るがされる事態が起きているからです。

「配慮」という意味での心配は、自分にとって自分と同じように大切な存在だからです。かけがえのない存在だからです。

しかし、後者の意味での心配をしすぎると、相手のかけがえなさ(代替不可能性)を消し去ってしまいます。他者を私がコントロールしようとするからです。
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この回答へのお礼

こんにちはー

あ、そうですね。
人を気遣うということも、心配している
ことの一つなのかもしれません。

それも、その人が自分と同じくらいの価値観が
ある場合は、当然ながらすごく心配します。

でも自分のまわりに、自分にとって価値観が高い人が
あまりいなくて、心配する必要が少ないというのも
なんとなく、寂しいともいえますよねー

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/13 16:49

 いろんな心配ってあるものですからね。


 そして心配っていうものの正体も問題ですよね。 
 そして人間が生きるということ、更に、生きている創造界って言うものについての認識が。

 孔子はいっていますよね、己に省みてやましからずんば、夫れ、何を憂え、何をかおそれんや、と。
 やましくなくても、心配やおそれ、憂えってあるのですけれども、孔子の時代は今からみればそれほど複雑ではなかったかもしれないが、そこに置かれた人間としては、やはり現代の人と同じ苦労というものに為ったのでしょうね。
 自分の存在基盤を、仮に、確固とできれば、心配はないでしょうね。
 自分というものを完全になくし、創造者しかいない世界として、いられれば、心配はないでしょうね。
 いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

こんにちはー

儒教の祖、孔子ですね。
先日、中国の歴史をマンガでたどっていくと
春秋戦国時代の末期に登場されていたようです。
孔子と老子は孔子のほうが先に生まれていたの
ですね。私は今まで逆と思っていました。

たしかに、自分というものを完全になくして
しまえば、そこにはもう心配はないですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/13 16:35

恐怖から身を守り、


自分の命を存続させるための反射ではないかと思います。



過去に経験したことのある、
自分にとって好ましくない感情、
たとえば痛みとか悲しみとか苦しみとか悔しさ、
などを、感じるのではないか、

そのことによって自分が危機的な状況に陥るのではないか、
そのことによって自分が安らかではなくなるのではないか、
と想像したときに、

その危機・不安を生む原因になる「こと・もの」に対して
無防備無抵抗ではいられなくなり、
その「もの・こと」を「コントロールしよう」と試みる、
それを「心配」というのではないかと思います。

その「もの・こと」というのは、
その人にとって、とても大事なことですから、
「心配」の原材料の中には
「執着」「依存」「愛」のようなものがあるのではないかと思います。

人が、何かや誰かに対して、
愛のようなものを送らざるを得ない以上、
(ここは同意していただけるものとします)
まるで不安を感じず、
まるで心配しないということはあり得ないと思います。
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この回答へのお礼

こんにちはー

わかりやすいご説明ありがとうございます。
はい。不安に対して防備、抵抗が心の中で
起こるということですね。
愛する人に対しては、無感情はありえないですね。
何かあれば心配もするし、不安にも思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/11 09:14

#5


まぁおっしゃるとおりなのですが、、
後悔先に立たずというようにこれには順番があるので、
心配しても始まらないは、ある意味間違っていて心配から始まることが多いんじゃないでしょうか。

>しかし結果は、貴方が心配しようが、どうしようが、なるようにしかならないはずなのです。

目の前の結果だけが結果の全てではないはずです。
手術が成功してもその人の人生は続いていきます。
心配したことにより、その後の生活に大きな影響を与えるんじゃないでしょうか。

無駄な行為なんてないし、心配は必ずしもマイナス面だけじゃないと思います。
心配の苦痛面だけにとらわれていては片手落ちだとおもいますよ。
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この回答へのお礼

こんにちはー

>無駄な行為なんてないし、心配は必ずしもマイナス面だけ
じゃないと思います。

ええ、そのマイナス面だけではない面を知りたいのです。
心配は苦痛面だけでない、他の面を知りたいという事です。

例えば心配する機能がなければ、悩む機能もなく
人類が成長、進化しなくなる。とかです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/11 08:58

どうも、こんにちは。


>なぜ人は心配をするのでしょうか?
:心配とは、良くない結果に至る可能性が高いと判断した場合に、その結果を思い煩うことだと思います。
その結果を想像できてしまう能力が備わっているから、ということではないでしょうか。
「無駄な行為であり、むしろ精神的苦痛が感じられマイナスな行為」なのになぜ心配するのか、というよりも、
想像することが「無駄な行為であり、むしろ精神的苦痛が感じられマイナスな行為」の場合もある、ということなのだと思います。

>もし、人に心配をする機能がなければ、どうなるのですか?
:一般的な想像力が無い、ということになると思われるので、思考形態が動物的レベルになるのではないでしょうか。
ただし、心配はしても、それを意志の力(や胆力)で表に出さないでいることもできます。
心配しない人が動物的レベルと言っているわけではありません。
 
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この回答へのお礼

こんにちはー

あ、なるほど。
そうですよね。想像力ななければ、動物的レベルになるの
かもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/11 09:05

まず、この問いは、たとえば試験が終わって、結果を待つ間の心配という意味ですよね?



もし、試験の前の心配がなくなると、努力というものがなくなって、物事はなるようになるどころか、どうにもなりませんから。

結果を待つ間の心配は、結果を見ることを忘れないためだと思います。
心配しないということは、結果に関心が無いということで、その結果起こる事は、結果を見忘れることです。

わくわくして結果を待つという場合もありますが、それは結果を想像して得られる感情がそうなるというだけで、少なくとも結果の想像と感情の変化がなければ、待つという行為は不可能と思われます。

さて、同様の効果がある、わくわくする行為と、心配する行為ですが、後者の感情が得られやすいのは、精神的な防御反応と思われます。
人は、がっかりするということが極端に嫌いで、それを避けようとしていると思われます。この反応は、後天的に獲得された性格であり、幼児であれば、わくわくする行為の方が優位です。よって、愛情不足であれば、心配する傾向は強まるでしょう。
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この回答へのお礼

こんにちはー

>この問いは、たとえば試験が終わって、結果を待つ間の
心配という意味ですよね?

そういうことです。

>心配する行為ですが、後者の感情が得られやすいのは、
精神的な防御反応と思われます。

たしかに、そういうところがありますよね。
いきなり結果聞かされて、がっくりしてしまう恐れも
ありますから。心の準備ができてないというか。。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/10 02:04

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