池田理代子「エロイカ」というナポレオンを扱った漫画のなかで、
「エリザはトスカナ公国を、カロリーヌの夫ミュラー元帥はベルク大公国を、ポーリーヌはクアスタッラ公国を(治める)云々」の記述がありました。
ベルク大公国は知らなかったのですが、どうもデュッセルドルフのあたりみたいです(そう?)。クアスタッラ公国、をネットで調べてもノーヒットでした。これはイタリアにあるんですか?イタリアのどのあたりでしょうか?

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A 回答 (3件)

イタリアですね。



ポリーヌ・ボナパルトで検索し、
夫が、カミッロ・ボルゲーゼ侯爵である事がわかりますから、
カミッロ・ボルゲーゼ侯爵でさらに検索すると、
グアスタッラ公 がでてきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2% …

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2% …
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グアスターラ(Guastalla)は、マントヴァとパルマの中間、


ポー河畔にある都市です。普通の地図にも載ってます。
これは独立国家ではなくて、イタリア王国のなかの名目上の公国です。
もともとはパルマ公国とプラセンティア公国の領土の一部で、
ブルボン=パルマ公との国替えで1803年にエストリア王国ができたときに
正式にフランス領になっていましたが、
1806年にナポレオンはポーリーヌ・ボルゲーゼ夫妻にこの公爵位を与えています。
当時のグアスターラは人口が3000人程度の田舎町だったので、
ポーリーヌはナポレオンの薦めもあって、領土をイタリア王国(国王はナポレオン本人)に譲り、
代わりに40万フランの固定給を得ることにして、
称号だけを名乗ることにしました。

ベルクは、もともとは公国で由緒ある領邦でしたが、ファルツ選帝候の所領になってからは、
いわゆる断絶と継承のごたごたでバイエルンの手に渡り、
ナポレオンのおかげでバイエルンが王国の昇格したときに、
返礼としてナポレオンに譲渡されたいくつかの領地のひとつです。
一般に、隣接するクレーヴ大公国と併せて、
ベルク・クレーヴ大公国と呼ぶことが多いです。
ナポレオンはこの土地を義弟ミュラに与えましたが、
野心家のカロリーヌはこれを不服しとして、後にナポリ王国に転出します。
ベルク・クレーヴ大公国はその後はルイの次男ナポレオン=ルイ(ナポレオン三世の実兄)に与えられますが、
後にはフランス併合されます。

ポーリーヌの旦那のボルゲーゼ大公は、ローマ教皇領のなかの大公位で、
ちなみにいうと、ナポレオンの弟のリシュアンもローマでカニーノ大公になっており、
ボナパルト家にはローマとゆかりがあるひとがこのつながりでその後は多くなります。
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質問のことは知らなかったが、調べてみました。



トスカーナ大公国 もとのフィレンツェ共和国

ベルク大公国 ベルク候の領地にナポレオンが作った傀儡国家(首都は質問通り)、ナポレオンは占領地に義弟(妹の夫)などを立てた。のちにはプロイセン領

グアスタッラ (Guastalla)公はローマです。父がナポレオン支持者だったので義兄に(傀儡だが)もらった。妻の浮気に悩んだが離婚しなかった(大きなアフリカ人奴隷に抱かれて侍女踏みつけて入浴する妻ではね(^^)) ローマ教皇の後見人してナポレオンに愚か者と呼ばれた。
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Qナポレオンはフランス人かイタリア人か。

ナポレオンは、フランス人でしょうか、イタリア人でしょうか。

「コルシカの生まれだから、どっちとも言える」と思っていたんですが、最近、ナポレオンの伝記を読んだところ、「フランス人から見ると、異邦人」「イタリア人」で通っているようなんですが。
母国語もイタリア語、名前も「イタリア式からフランス式に変更した」と書いてあります。

フランスの英雄がイタリア人では、ヘンな感じがしますが?

Aベストアンサー

国籍という点なら、簡単です。ナポレオンには完全なフランス国籍があります。兄のジョセフは微妙な年数なんですが、それが問題になったことはほとんどありませんね。というのも、当時はあまり国籍による規制があまりなかったからです。またイタリアなる国家は存在しませんでした。フランスはブルボン王朝のころから、覇権国家としてならしてましたし、共和制移行後は国際国家として、来るものを拒まず、去るものは追わずというのが基本的な方針だったといえます。ちょうど、今のアメリカがさまざまな出身者の集まりであるように、フランスもまたさまざまな出自のひとが集まった国家で、彼らはフランス語を話すフランス人として、いわゆる人種のルツボとなっていたのです。ま、アメリカがそうであるように、ルツボは完全な同化ではなく、雑多な混在状態が現実なんですが。
またナポレオンの父親カルロは、ちょっと書類をごまかして、フランス王に自分の家系を貴族として承認を得ました。コルシカには実際には貴族制がなかったのですが、王による承認があったということで経緯がどうあれ、公式なものとなり、ボナパルト一家はフランス王に仕えるコルシカの貴族という明確な立場を得て、ナポレオンが士官学校への公費入学ができたのもこのためです。
ボナパルト家は、もともとはフィレンツェとサルツァーナの血統貴族が出自で、これは要するに中部イタリア出身ということなんですが、彼のクランもトスカーナ言語を主に話していました。その一族がジェノバの傭兵隊長となって、ジェノバ領コルシカに来たのがコルシカのボナパルト家の始まりで、ナポレオンの母方のラモリーノ家の方が、コルシカに根ざした古い家ですが、古くさかのぼるとナポリなどの南部イタリア系の家が混ざっています。ま、コルシカというところは、外部からやってきた人々が順々に沿岸に住み着いて土着化したところで、中心部にしか原住民がいませんし、多産で家同士の結びつきは複雑で、もちろん混血が進んだんで、もうどれがナニ人だなんていうばかげたことを言ってられないわけです。クラン支配が島全体をおおって分断された社会だったので、コルシカは島としての団結に欠き、コルシカ人なるものの意識が島民に薄かったことも特徴的です。(コルシカ人である前に、所属クランへの忠誠がものをいった)
またついですが、コルシカ島では島の一部ではトスカーナ語が話し言葉で、書き言葉はラテン語というところがあり、それでナポレオンもイタリア語で話していたわけですが、ナポレオンは学校にコルシカ貴族として入学したので、イタリア語表記で名前を書くように学校で指導されていたわけです。しかし厳密にいうとコルシカ表記はイタリア語(トスカーナ)の表記法とは違うため、関係ないといえば関係ないのですが、ナポレオン自身が若い頃はコルシカ独立を夢見ていたので、この表記法で名前も書いていたわけです。しかし革命後にパオリ派と対立して島を追われたので、それを機にコルシカに戻らない覚悟で、フランス人として再出発したというわけで、別にイタリア人だったというわけではなくて、(いまだに存在しない)コルシカ人として自尊心だったというわけです。

ちなみにですが、ナポレオンは同時に、イタリア王でもありました。
実際に統一国家にはしませんでしたが、イタリアの統一が可能であることを身をもって示した最初の人物がナポレオンであって、サルディニア島以外のすべての領土はナポレオンの支配化にあり、衛星国家にで分割されていました。だから英雄の定義はおいておいくとしても、フランスだけでなく、イタリアの英雄であるともいえます。簡単にいって、両国(というか両地方)の国家元首、諸国民の王でしたから。

国籍という点なら、簡単です。ナポレオンには完全なフランス国籍があります。兄のジョセフは微妙な年数なんですが、それが問題になったことはほとんどありませんね。というのも、当時はあまり国籍による規制があまりなかったからです。またイタリアなる国家は存在しませんでした。フランスはブルボン王朝のころから、覇権国家としてならしてましたし、共和制移行後は国際国家として、来るものを拒まず、去るものは追わずというのが基本的な方針だったといえます。ちょうど、今のアメリカがさまざまな出身者の集ま...続きを読む

Qナポレオンのイタリア遠征と第一回対仏大同盟について

ナポレオンがイタリア遠征をしオーストリア軍を撃破した結果、第一回対仏大同盟は崩壊したそうですが、
オーストリア軍の撃退と大同盟の崩壊はどんな関係があるんでしょうか?
大同盟をの中心はイギリスなのでは?

あと、ナポレオンがイタリア遠征をした理由も教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

大同盟が崩壊というのは、
あくまでも大同盟が大同盟でなくなったというだけで、
特に第一次の場合、対仏同盟がなくなったわけではありません。
つまりはイギリスは講和してませんが、
ロシアを除く他の国が抜けたというだけです。
ただしロシアはこの時点で軍隊を派遣しておらず
イギリスも大陸から軍隊をほとんど引き上げていたので
戦争は小休止となり、ここに後世の歴史家が
第一次対仏同盟の終わりをここにおいているわけです。
この大同盟の時期の分け方は、いろいろな方法があって
必ずしも絶対的なものではありません。
便宜上わけただけでであるということは理解する必要があります。

第一次の場合、1792年から革命フランスが一方的に
各国に順次、宣戦布告をしていって
1793年の国王処刑を機に、イギリスのピットが提唱して
宣戦布告を受けた国々が集まって大同盟を結成するわけですが
1794年になるとフランス軍が窮地を脱して優勢となるので、
スペインが攻め込まれてまず単独講和、
オランダは占領されて共和国になり、イギリスは地上軍を引き上げます。
1795年にはポーランド分割に関連してプロシアが単独講和で離脱し、
オーストリアと神聖ローマ帝国諸邦が戦い、イギリスが金を出すという
状況に戦争はなるのですが、ウィーンにナポレオンが近づいたことで
1797年に停戦が成立して、カンポ=フォルミオとなるわけです。
「オーストリア軍を撃退した」というのは、1796年前後の状況を反映してませんね。
ハプスブルク家領内深くに侵攻していたのはフランス軍ですから。
基本的に革命戦争に防衛的性格があったのは本の短い期間で
おおむね侵略的性格のものです。

あと大同盟の中心がどこかというのは、あまり意味が無いです。
中心的国家はもちろんイギリスですが、主に金を出していることが多く、
戦争を実際に行ったのはオーストリアが主です。
イギリスとフランスというのも伝統的なライバル国ですが、
フランスとオーストリアというのも地理的な敵対関係にあり
何百年も戦い続けてきた中ですからね。
フランス、あるいはナポレオンの戦略として、
イギリスを直接攻撃できないので、オーストリアを集中攻撃して
大同盟を崩壊させるという手と何度か使っています。
これは逆に言えば、オーストリアが同盟の鍵だったということを
意味してます。

1796年の段階で、要するにオーストリアとその他の帝国諸邦との
戦いとなったわけですから、国境を接した部分から侵攻するのは
明らかでしょう。
そこがライン地方とイタリアだったというだけです。
基本的に、フランスとオーストリアの伝統的な戦い方では
ライン方面が主戦場で、イタリア方面は常にそのサブグランドだったのですが、
これは自然国境の確保というのがフランス側の戦略目標であり
イタリアは常に交渉材料(占領した土地を交換する)でしかなかったからです。

ナポレオンは1795年に地理局(フランスの参謀局にあたる)に勤務して
戦争計画の一部原案にも関与したのですが、彼の持論は
イタリアで攻勢をとって、まずピエモンテ(サルディニア)を脱落させ、
ロンバルディア(ハプスブルク家領)を占領し、北イタリアを支配して
そこからチロルを通ってライン地方で対峙する敵軍の背後を脅かし、
決戦を強いるか、講和にもちこむかで、戦争を終結させるというものでした。
ナポレオンは学生時代からイタリアの研究をしていて、
その地形、過去の戦争の戦略の歴史に精通しており、
アルプスに囲まれ、ポー川が流れる入り組んだ地形が、
中規模の軍隊の活動に適していることを知っていたわけです。
イタリアを”柔らかい下腹”と表現したのはチャーチルですが、
彼はマールバラ公爵の子孫でナポレオン戦争にも精通していたからでたセリフであって、
まさに大同盟の弱点だったわけです。

大同盟が崩壊というのは、
あくまでも大同盟が大同盟でなくなったというだけで、
特に第一次の場合、対仏同盟がなくなったわけではありません。
つまりはイギリスは講和してませんが、
ロシアを除く他の国が抜けたというだけです。
ただしロシアはこの時点で軍隊を派遣しておらず
イギリスも大陸から軍隊をほとんど引き上げていたので
戦争は小休止となり、ここに後世の歴史家が
第一次対仏同盟の終わりをここにおいているわけです。
この大同盟の時期の分け方は、いろいろな方法があって
必ずしも絶対...続きを読む

Q「池田屋騒動」は何故「池田屋事件」に?

どうでもいいんですが・・。

先日の大河ドラマ「新選組!」で池田屋事件が終わりました。
 でも、昔は「池田屋事件」は「池田屋騒動」と言っていたはずです。NHKの水曜ドラマ「壬生の恋歌」(20年前の三田村邦彦主演)にハマっていた時に池田屋の跡地に行きましたがそこにも「池田屋騒動」と書いてあったハズ。確か授業でも池田屋騒動と習った記憶があります。逆に「池田屋事件」や「池田屋事変」などという事はなかったと思います。

 しかし、今はほとんど「池田屋事件」とテレビなどでは紹介されています。「池田屋騒動」が「池田屋事件」になったのはどの様な理由があったのでしょうか?

Aベストアンサー

歴史上の事件は、その当事者のいづれの立場に立つか(あるいは第三者として見るか)によって、その表現が変わることがあります。

たとえば、大化の改新は中大兄皇子にとっては「改新」ですが、蘇我氏にとってはとても「無事故(645)で良かった・・・」なんて言えません。

明治の「秩父事件」は、当初は明治政府によって秩父騒動、秩父暴動などと呼ばれ、無秩序な一部暴徒の騒動と決め付けられていました。しかし、徐々に事件の内実が明るみに出るにしたがって、事件そのものが単なる暴動ではないことがわかり、今の名称に定着しました。

お尋ねの「池田屋事件」も、過去には池田屋騒動、池田屋暴動などと呼ばれ、現在でも混乱があるようです。

ただ、時代的に当時の表現を借りるなら「騒動」で、今日日本史年表における表現は「事件」としているようです。

「騒動」だと、倒幕派浪人と新撰組の小競り合いといった矮小化された表現に聞こえますが、これが「明治維新を1年遅らせた」といわれるほど、後々に影響を与えたというのは今日広く言われることです。
また、「暴動」ですと、関係者たちを一方的に暴徒と決め付け、秩序を乱すこととしか聞こえなくなります。

こう考えてみますと、「○○事件」という表現は、事件から時間が経たのち、当事者たちのどの立場にも問題が無いように表現する為に編み出された言葉なのではないかとも感じます。

歴史上の事件は、その当事者のいづれの立場に立つか(あるいは第三者として見るか)によって、その表現が変わることがあります。

たとえば、大化の改新は中大兄皇子にとっては「改新」ですが、蘇我氏にとってはとても「無事故(645)で良かった・・・」なんて言えません。

明治の「秩父事件」は、当初は明治政府によって秩父騒動、秩父暴動などと呼ばれ、無秩序な一部暴徒の騒動と決め付けられていました。しかし、徐々に事件の内実が明るみに出るにしたがって、事件そのものが単なる暴動ではないことがわかり...続きを読む

Qモスクワ大公国について

モスクワ大公国は一度元に滅ぼされたのになぜロシア帝国という大帝国をつくりあげたのですか。また周辺民族をどのように征服したのですか。

Aベストアンサー

まずモスクワ大公国は元に滅ぼされてません。
モスクワ大公国はキプチャク=ハン国の属国となっただけです。
ちなみに正確には「元」という国家は
中国王朝だけを指していて、モンゴル帝国全体を意味しません。
モンゴル帝国は二代目のオゴタイの死後に分裂してから
一回も統一されませんでした。
汗国はそれぞれ独自の国家です。

そもそもモンゴル軍は人数が少なく
間接統治の方法をとっていました。
だから現時のロシア人の支配組織は維持されました。
キプチャク=ハンが滅ぼしたのは、キエフ公国のほうです。
ルーシ諸国のなかでは、当初はキエフが中心地で
モスクワは辺境に過ぎなかったのですが、
モンゴルの間接統治下でその出先機関となったので
モスクワ市の地位が向上し、
ロシアの政治の中心となっていったのです。

それからモスクワ大公家はイヴァン雷帝の頃に
ロシア帝国となりますが、この一族は断絶していて、
ロマノフ家とは別系統です。

周辺民族をどのように征服したかというのは
有無を言わさずとしか言いようがないですが、
ピョートル大帝以後、近代化を進めたロシアは、
西欧なみの軍事力を持つようになりましたから
斜陽の帝国であったトルコを含めて、
後進的な周辺諸民族は特に脅威ではありませんでした。
遊牧民族が脅威と思われた時代はとうに過ぎています。
ロシアはコサックを尖兵として徐々に拡大を続けます。

まずモスクワ大公国は元に滅ぼされてません。
モスクワ大公国はキプチャク=ハン国の属国となっただけです。
ちなみに正確には「元」という国家は
中国王朝だけを指していて、モンゴル帝国全体を意味しません。
モンゴル帝国は二代目のオゴタイの死後に分裂してから
一回も統一されませんでした。
汗国はそれぞれ独自の国家です。

そもそもモンゴル軍は人数が少なく
間接統治の方法をとっていました。
だから現時のロシア人の支配組織は維持されました。
キプチャク=ハンが滅ぼしたのは、キエフ公国...続きを読む

Q項羽と劉邦 結局 劉邦の漢が勝ち天下を治めたけど

中国の歴史の 項羽と劉邦が戦った時代

楚が諸侯の不満を買い劉邦の漢にやぶれ天下が
漢の劉邦に移りました。
しかし劉邦はその後疑心暗鬼におそわれたとききました。
そこで聞きたいのですが 
項羽が治めてたときと劉邦が治めてたとき
どっちのほうが仁政だったのでしょうか?

Aベストアンサー

感覚的に回答させていただきます。

前漢だけで約200年も続きました。日本中世以降で1つの政権で200年続いたのは、徳川時代だけです。

後漢を入れると中華史の有史以降最長です。

これだけの長期政権が続いた実績を考えると、仁政(私が思いますに「民をいたわり、いつくしむ」と解釈します。)を敷かないと民からの反乱が頻発し、長期政権を継続出来ないと思います。

この長期政権の礎を築いたのが劉邦です。

仮に劉邦が韓信・鯨布らを粛正しなかったら、国は乱れ、民は疲弊していたでしょう。この観点からも、民にとって「仁政」を敷いたと考えます。


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