限定しりとり

「いき」の構造(九鬼周造著)を読んでおりますが、
その中で、
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「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起源をもつてゐる。
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という記述があります。どうやらこの一文がこの本のポイントのようですが、
いまひとつ正確な意味がわかりません。
どなたか教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

『「浮かみもやらぬ流れのうき身」の意味について』は、すでに他の方がお答えされてるので割愛します。



俳句唄などは文章そのものよりも、情景描写などから書き手の心情などを汲み取ることがなかなかに大切ですが、粋という概念そのものも民族的意識や風潮による影響を受ける余地は多いため、同様な捉え方をすると分かりやすい点において通じるものがあります。
「粋な計らい」などはまさに状況や心情を読み取った上で行われることを指す言葉ですし、分かりにくいようであれば感覚的な解釈をするとよいと思います。

あの項目は引用された箇所よりもむしろ、その前後の部分の方がより厳密に解説してありますので、繰り返し読まれると理解がより深まるでしょう。
とりあえずojithreeさんの引用された箇所「諦め」の部分でのポイントは、どちらかというと

"婀娜(あだ)っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯(しんし)な熱い涙のほのかな痕跡(こんせき)を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握(はあく)し得たのである。"

の部分ではないでしょうか。
媚態、意気地、諦めの徴表3つを押さえつつ簡潔に言い表した、非常によい一文に思えます。
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この苦界とは、遊女の世界です。

もちろん仏教の苦界すなわちこの世を背景とした言葉です。
生きて苦界、死して投げ込み寺、という遊郭の女の生きざまです。
「浮かんでも幸先良くそのままであることがない、流れてばかりで厭になる、このような自分には飽き飽きする」
(だから今だけに夢中になって生きる、恋も刹那的で今だけ真剣である)

この正反対の境涯をあげてみれば、
氏も育ちも明るく、身元を保証する者たちがいつでもいて、根をはやしたように家業などをつとめ、
自分の意志で人生を決めてどっしりと生き、先も見えており、刹那的でない。
こちらの感覚は「野暮」に入ります。
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「浮かみもやらぬ、流れのうき身」の典拠がわかりました。


長唄だったんです。長唄「高尾懺悔」の一節です。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~chocot-n/newpage3%20 …
の「もみじ葉」の項に出てきます。

1930年というと、もう昭和に入っていますが、当時の人であれば「浮みもやらぬ」と書いただけで、すっとそのもとの長唄が浮かんで来たのでしょうか。むしろ、ここで典拠も何も記さなかったのは(ほかの小説群はきちんと典拠明示がなされています)、あえて書くほどのものでもない、という意識があったのかもしれません。

ひとつの言葉をその語源にさかのぼってみていく、というのは非常にハイデガー的なやり方だなあ、と思いながら読んでいたのですが、同時に九鬼周造という人は、長唄の一節がすっと口をついて出てくるような文化的バックグラウンドを持っていた人でもあったのですね。

参考URL:http://www7a.biglobe.ne.jp/~chocot-n/newpage3%20 …
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カッコでくくってあるということは、典拠があるのでしょうが、わたしにはこれが何に出てくるものかわかりません。

簡単に口語訳すると「浮かび上がろうとしても浮かび上がることもできない、流れのなかにあるこのつらい身」ぐらいの意味だと思います。だから、この部分の意味を理解するというよりも、ここに至るまでの流れをつかんでいく方が理解につながるのではないかと思います。

ご質問の箇所は、「いき」という言葉を定義づけるために、その言葉にどのような概念が含まれているか、文字通り「いき」という言葉の構造を明らかにしようとする文脈です。

この章では「内包的構造」、つまり「いき」という言葉が実際に社会でどのように使われるか、その言葉にはどのような概念がこめられているかを九鬼は三つにまとめています。
1.媚態
2.「意気」すなわち「意気地」
3.諦め

この章で一番大切なのは、この部分だと思います。

「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」

言い方はむずかしいですが、ものすごく簡単に言ってしまえば、それまでの自分というのは、分裂していない自分、「一元的な」自分としてあったのが、誰か好きな人ができちゃったら分裂した、ってことです。

つまりね、それまでは自分が思うことを「自分がこう思っている」と意識することもなくやっていた。ところが誰かが好きになったら、つねに「こういうことをやってあの人はどう思うだろう」と、自分の行動をつねに外から眺める目が生まれますよね。そういう「自分」と、それを見て評価している「自分」に「分裂」する。

この「分裂」というのは、哲学では一般に「反省」と呼ばれるもっとも基本的な考え方なんですが、九鬼は媚態の根本にこれがある、とした。西洋の近代哲学は、自分のありようを自分の意識を探ることによって見いだそうとする、一種の独我論的反省なんですが、九鬼は反省の契機に他者の措定を持ってくる。そこがおもしろいと思います。

ともかく、そういう反省的態度が「緊張」を生む、というのです。「なまめかしさ」とか「つやっぽさ」とか「色気」とかが出てくる。「上品」は、この緊張がないし、もう仲良くなっちゃってお互いに緊張感がなくなってしまうと「媚態」は消滅する。

つぎに、「理想」としての「意気地」も、この分裂からでてくる、といいます。
相手に気に入られるためには、身を低くして相手のいいなりになるのではなく、逆に「一種の反抗を示す強味」を持つ。「意気地」という理想主義によって、媚態は高貴さを持つことになるのです。

さて、そのつぎに来るのは「諦め」です。分裂した自己は、一方で相手を愛おしい、自分のものにしたいと思いつつ、他方で理想をも抱いている。それだけでなく、現実のなかで生きる人間は、自分の気持ちや理想だけでなく、現実とのかねあいが大きなウェイトを占める。現実が相手に引かれる気持ちを許さないようなとき、これはダメだ、と思ったときにすっぱり諦める。「いき」という言葉には、この「諦める」ということまで内包されているのだ、と言っているのですね。

ご質問の文章が出てくるのはこの脈絡です。
「いき」という言葉が出てきた状況というのは「苦界」である。
苦界というのはどういうところかというと
・浮き世である
・流れるものである
ということです。

まず、浮き世というのは、そこにいけば救われるような聖なる場ではなく、浮いたり沈んだりの日常生活の場である、ぐらいの意味に取ってかまわないと思います。
同時に生活といっても、「流れる」生活なんです。地に足がついていない、という言い方がありますが、つねにひとところにとどまることのない、人も情報も文化も技術もつねに流れているような世界における生活である。

そういう生活は、日本人にとって決して普遍的なものではなかったでしょう。
「浮かみもやらぬ」という言葉は山東京伝の洒落本あたりから来たのではないかと思うのですが、「いき」という言葉(とその概念)は、日本の、それも江戸の文化文政期の文化に端を発するものである、と言っているわけです。

この時期の「爛熟頽廃」の文化が「諦め」を生み、かつまた「流転、無常を差別相の形式と見、空無、涅槃を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない」のだ、と。

こう言っているわけです。

以上参考になれば幸いです。
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