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ヒトラー12日間をみました。ソ連が徐々にせめてきて、周りの幹部たちがヒトラーに 陸軍?にはもう戦力がないと事実をいっても なんとかなると 嘘?思い込み?だかを言い通し、幹部の早くこの場から逃げて欲しいという話も聞かず、残って最後は自殺しました。意地だったのかもしれないですが。。そのときに、国民をどうするか(助ける意味で) を幹部が聞くと、 弱いものへの同情はない といいました。
結局ヒトラーはユダヤ人虐殺を指示した以外、国民に対しての考え方も 適当だったのでしょうか?

あと、ドイツ軍がつけてる軍服のバツ印のような、たしか勲章もあの形だったような、、 あれは何の象徴で、ドイツ軍だけのものですか?

A 回答 (4件)

戦も勝ち続けている間は良いのですが、国力の限界を超えて戦線が拡がり始めると、どの様な天才的な指揮官であっても的確な判断などできなくなります。


ことに、彼の場合には、時に現場レベルの作戦にまで介入する様な方でしたから戦争の進行は徐々に彼の身体や精神を疲弊させていきます。
その様な状態で、準備不足と無理な作戦、延びきった戦線の弱点を叩かれると、無敵を誇った独軍にもほころびが見え始めます。

そうすると、彼は自身の作戦指導には誤りが無いのに敗れたのは軍内部に裏切り者がいるに違いないと考え始めます。
独裁者の周囲にはイエスマンが集まりますから、彼らは自身が裏切り者扱いされないように、独裁者に渡す情報を選別し始め都合の良い情報以外は隠蔽され始めます。
すると誤った情報を元に立てた作戦では、勝てるはずもなく徐々に劣勢になることに・・・
するとまた情報の隠蔽が行われ・・・・

こうして、彼の周囲は裏切り者と嘘つき(と彼が思いこむ)の人々ばかりになります。

精神的にも追いつめられたのでしょうね、彼の言動を綴った文章や証言を読むと、彼自身敗色が濃いのは分っていても何が真実で何が虚構か判断できなくなっていたのではと思われる点もあります。

彼としては、脱出して逃げ回るよりも総統としての栄光を重ねた首都で生涯を終える方が自分らしいと思ったのか?
国民に対する考慮が無いのは、自分を裏切った人々への報復という心情もあったのかも?

全ては、推測しか出来ませんが。

後半の「×印」ですが、ハーケンクロイツか?鉄十字か?或いは「SS」の記章でしょうか?
勲章なら「鉄十字勲章」で検索してみてください。
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戦争初期(1941年ぐらい)までは、ヒトラーも国民に対しては


それほど「てきとうな扱い」ではなかったと思います。

1930年代のドイツ人の願いは
「継続した仕事が与えられる社会」
「誰しもが昇進や成功の機会が与えられる社会」
「第一次大戦で失った領土や民族的な自信を復活」
でした。
ドイツがポーランドに侵攻する1939年9月までは、上記の希望は
ヒトラーとナチス政権によって実現しました。
1920年代の地獄のような日々を考えると、ドイツ国民もヒトラーへの
期待と感謝は、大きかったと思います。

ポーランドから領土を奪い返し、
1920年代のドイツ経済をメチャクチャにしたフランスを倒した
1940年までは、ドイツ人もまだまだヒトラーを支持していましたし、
ヒトラーも戦争が国民生活に支障しないように配慮していました。
完全にそれが狂い始めたのは、1941年12月のモスクワ敗退です。

それ以降は、戦争による死傷者の増加、戦争経済体制への移行、
日々の空爆によりドイツ人の生活は急速に悪化していきます。
戦況の悪化に伴い、ヒトラーもしだいに戦争指示に熱中し
国民への配慮に気をつかわなくなり、国民に耐乏を強いるように
なります。

1944年7月20日のヒトラー爆殺未遂は、ヒトラーが完全にドイツ国民
を顧みなくなった最終契機となりました。
それ以降は、ヒトラーは公の場に出なくなり、地下壕に引きこもり状態
となります。
1944年12月のアルデンヌ攻勢の失敗、1945年3月のブダペスト奪還
の失敗により、ヒトラーは完全に「狂気の」人間になりました。
「ヒトラー12日間」はそのヒトラーの状況を描いています。

ただ、「弱いものへの同情はない」といったヒトラーの狂気ぶりは
戦後になって生き残った戦争指導者たちの証言であり
多少彼らの「脚色」もあると思われます。
なぜなら、ヒトラーが1人で戦争を指導していたわけではなく
シュペーアや多くの軍人たちもソ連軍のベルリン突入まで、ヒトラー
の指示を仰いでいたのですから、彼らの責任転嫁も含まれます。

ヒトラーは「大衆は女性のようなものだ」と公言していました。
(女性的という意味で男性にもあてはまる要素ですが)
見栄っ張りで、豊かな生活に弱く、強い男性(指導者)には盲従し、
細かな経済数値や論理的な考えには回避的で、危険になるとパニックを
起こして思考を止める。わかり易いスローガンが好きで、直接語って
くる指導者に弱い。
エヴァ・ブラウンは、ヒトラーと共に自殺しました。
ある意味、彼女は独裁的指導者に地獄まで従ったドイツ国民の象徴
だったのかもしれません。

関係ないですが「大衆は女性のようなものだ」という考え。
小泉元総理も実感したんじゃないでしょうか。
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ドイツ国民に対しては、さまざまな保障制度、女性の社会進出を促しました、現在あるさまざまな社会保障制度基盤は、当時のドイツ国家労働者党が政権を取ってから実現したもので、当時では画期的な「育児支援策」「扶養控除」「財形貯蓄」「義務教育の制定」などを整備しています。

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鉄十字


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%8D%81% …

↑に詳しく記載されています。
以下、抜粋
起源・・・、ドイツ騎士団の用いていた紋章を、
建築家カルル・フリードリッヒ・シンケルが改良し考案したもの

更に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4% …
ドイツ騎士団・・・
ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つ。


>結局ヒトラーはユダヤ人虐殺を指示した以外、
国民に対しての考え方も 適当だったのでしょうか?

第一次世界大戦のドイツの敗北
→戦勝国により
ヴェルサイユ条約により巨額の賠償金を課せられたために
ドイツ国内に激しいインフレーションが引き起こされた。
さらに条約によりドイツ人が居住する領土を割譲させられた
ことで、ルール問題、ズデーテン問題、ポーランド回廊問題
が発生した。これらの問題は第二次世界大戦の直接の原因となった。


それらの問題を解決するための選挙公約のようなもの
・・・
1933年2月1日、ヒトラーは4年以内にナチ党の初期からの支持層
で国家生存に重要な役割を果すドイツ農民を救い、
「経済再建と失業問題の解決」を実現し、
「二つの偉大な四カ年計画によって、
わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」
と発表した(第一次四カ年計画)。

当初訴えていた政策はユダヤ人や戦争成金から資産
を収奪して国民に再配分するというもの。

ヒトラーは1923年にインフレーションを沈静化させて
名高かったヒャルマル・シャハトを経済大臣に迎えた。

シャハトの政策は、ヒトラーの前任者である
クルト・フォン・シュライヒャーの計画を継承し、
公共土木事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、
失業者を半減させた。

農業は原料不足が深刻化し、
支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字
は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。
→シャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(Grossraumwirtschaft)を敷いた。ヴェルサイユ条約を破棄。

シャハト政策にゲーリングの第二次四カ年計画を加味・修正して
様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。

で、
ドイツ経済は過熱し、「生存圏の拡大」か「軍備の制限」か
という二つの選択に迫られ、ヒトラーは前者に決めた。
→で、ポーランド侵攻・・・・第二次世界大戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89% …
の「経済政策」に詳しくのっています。

つまり、第二次世界大戦に参戦しなかった(「軍備の制限」の道を
選んだ)としても第三帝国は財政赤字で破綻していたわけ
で、国家存亡をかけてヒトラーも必死だったわけで
「国民に対しての考え方」も真剣そのものだったのでしょう。

「窮鼠、猫をかむ」といわれてるように
ドイツをインフレ等で貧困のどん底に
追い詰め、ある意味、悪魔国家へと変貌させた
最大の原因が「ヴェルサイユ条約により課せられた巨額の賠償金」

更に、「ヴェルサイユ条約の巨額の賠償金」
の背後に英国首相ロイド・ジョージ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A4% …

の「レモンの種が泣くまでドイツを搾れ!」というドイツ撲滅思想
が隠されています。
おそらく、ロイド・ジョージも
「窮鼠、猫をかまない」と甘く考えていたのでしょう。
まさか、第一次世界大戦で弱体化したドイツが
後々恐ろしい悪魔の国家になるとは予想していなかった
のでしょうね。

余談が長くなりましたが。

あっヒトラー関連の作品では
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83 …
の作品がよく分かりやすいですよ^^
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