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1.卑弥呼や聖徳太子は、日常会話はどんな日本語で会話していたのでしょうか。それを現代人が聞けばわかるような日本語でしょうか。
2.遣隋使や遣唐使等の使者は、中国の人とどうやって会話したのでしょうか。あらかじめ中国語をマスターしてから行ったのか、着いてから勉強したのか、それとも当時すでに通訳の人がいたのか。もし通訳の人がいたなら、それはどんな人だったのか。日本にいながら中国語を勉強する方法があったんでしょうか。
3.鑑真のように、逆に中国からやってきた人の場合ではどうでしょうか。
4.中国語って、漢や隋、唐の頃と現在では、やはりかなり変わっているのでしょうか。
いっぱい質問しましたが、よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

1.についてですが,高校のとき,古文の先生が


紫式部が源氏物語を朗読しているのを再現したテープという
かなりトンデモなものを聞かせてくれました.
現代日本語とは全く異なり,能楽のような感じでした.
は行の発音が「ふぁ,ふぃ,ふ,ふぇ,ふぉ」だったのが
印象的でした.
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1.当時の言葉である万葉集などで使われている「やまとことば」で話されていました。

現代にすんでいる一般的日本人にとって見たら、ちょうど、沖縄の老人が沖縄言葉で話されているのを聞くようなもので最初はほとんどわかりませんが、数日生活しますと大体わかるようになります。。沖縄言葉と上代の「やまとことば」には語彙や文法など全ての点において強い類似性があるものとされています。
2.朝鮮半島を経由して漢字が既に入っていましたので、漢字の日本でも大体の発音と意味はわかりました。現地に着いてからは筆談で口語や実際の発音を取得したものと思います。遣隋使以前は(日本語を知って、中国に明るい)朝鮮の人に付いてもらって中国に行っていました。だから、遣隋使の頃は(挨拶の仕方などの)中国の様子は大体知っていました。
3.鑑真は日本が招いたものですので中国語を知っている日本の弟子がいました。
4.今の日本人から見たら、発音もほぼオンのままですし、口語と書き言葉(漢文)の乖離(かいり・はなれぐあい)も少なく学びやすかったです。
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この回答へのお礼

なるほど、そうだったんですか。ありがとうございます。

お礼日時:2003/01/08 00:32

2.についてですが、日本と中国・朝鮮との関係は遣隋使や遣唐使の頃に急に外交関係を持つようになったのではなく、紀元前後から日本の王(の一部)が朝貢するなど(『漢書』地理志)の関係をもっており、当然それは人の交流をともなっていました。

その後、5~7世紀を中心に中国や朝鮮から渡来人が日本に渡ってきており、これらの人の交流によりその時々の政治情勢や文化も伝えられました。ですから、遣隋使や遣唐使の頃には多くの渡来人が日本に居住しており(畿内5カ国の1059氏のうち373氏が渡来系氏族とあり『新撰姓氏録』、これらは支配者層ですので人口比にはなりませんが、重要な位置についていた渡来系氏族がかなりの数にのぼったと考えられますね)、彼等が中国や朝鮮と外交をする時に外交文書を書いたり、日本で言葉や学問を教えたりしていたと考えられます。
では、紀元前後頃に朝貢した人々はどうしたのかというと、北部九州あたりの王はまずは近い朝鮮から様々な情報(言葉や文字なども)を取り入れ、朝鮮半島にあった中国の役所(帯方郡や楽浪郡など)の存在を知り、やがて中国が強大な力を持っていることを学び、朝貢に訪れたと思います。
どちらにしても、公式に外交関係をもつということは、それ以上に多方面での交流があり相手のことを知っているでしょうから、自国内でもある程度の言葉を学べたのだと思います。仮にそれができなくても、筆談やより近い朝鮮の力を借りることで賄えたのだと思います。
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この回答へのお礼

う~む、昔の人は随分と苦労して中国に学んでいたんですね。

お礼日時:2003/01/08 00:34

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