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哲学される皆さんへ。関心がありますでしょうか。思索する上での大前提?となるのではないかと思うので、提案(思いつき?)してみます。

この世界の現象は‘時間’というものがあるから。‘時間’がなかったら‘現象’しない。現象は時間の継続が生み出すもの。一瞬という概念も時間のある世界。時間がないということは真の無。何もない世界は論じられません。
哲学する対象は時間のある‘有’の世界。
我々は時間と共に、あるいは時間に依って、存在する(表現が適切かどうか不安ですが)。
とりあえずは思いついたことを述べてみました。
深みのある思索など出来る頭脳ではないので、分かりやすい意見など、聞かせていただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (16件中11~16件)

こんにちは。


僕もこれは考えてるんですがまだ分かっていないーーああ残念。

といっては元も子もないので。

えーと、文中で「思索する」「時間’というものがある」「時間がある」と思うのは、考えてる自分がいるときだけ、と思います。
考えてないときー寝てるときや、朝のぼんやりしたとき、逆に考える余裕もないほど集中してるとき、本当にリラックスしてるとき、少なくとも人は時間も空間も意識してないです。

個人的には、それは、意識する、捉える自分を優先するか、落ち着いた静かな自分を優先するかによって、時間があるかないかが決まると思ってます。

意識する自分が優先するなら、寝てるときやぼんやりしたときだけその時だけ「時間を認識できていない、ちょっとした麻痺状態」、と考えます。それを「麻痺してる」と捉えること自体が、意識が優先しているため、ということです。


逆に落ち着いた自分を優先するなら、テンションが上がってものを考えてるときだけ「作為的に時間を認識しようとしている」だけ、という視点もあります。ある種の不自然な作為状態の時のみ、時は存在する、ということです。悩みがあって考える必要性のあるとき、あるいは、問題を抱えてるとき等々、心理的なある種の不安定が、考える「自分」を作り出す、という話です。考える欲求もどんな欲求もある種の不満から出てるといえるかなと。逆に言うとストレスのない人にとっては、本当に時間はない、と思います。たいして自信ないんですが。

2つのスタンスは、どちらも正しいと思いますし、言い換えると2つは「等しい」と言ってもいいのじゃないかな~?と。


こういう視点はどうでしょうかー。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
‘主観’という観点から‘時間’というものを意識すると、納得できる回答です。
物理的(適当な表現かどうか分かりませんが)、あるいは客観的(?)には時間は一定?であると思えても、主観としては、待つ時間は長く感じるし、忙しい思いをしているときは短く感じます。

お礼日時:2008/10/12 17:33

時間はあるのでしょうか?


過去はあるのでしょうか?
未来はあるのでしょうか?
その範囲はどこにあるのでしょうか?

僕の概念・見解だと時間は無いと思ってます。ただの概念としてあるだけで、「概念によって始まりと終わりを決めてその間の変化の度合いなり何なりに一定の単位を当てはめて時間を設定しているだけ」と。

あるのは「今」だけと思ってます。

その今が変化生滅して結果かつ原因であるもろもろの現象が起こっているのだと思います。

お役に立てれば幸いです
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この回答へのお礼

あるのは今だけ。全くそう思います。そしてその継続していく現象を意識することが出来て、その現象を時間と言うようになったのですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/12 17:22

漢字のはなしですが、存在の存は時間的、在は空間的に存在することのようです。

空間的というのは時間はおろか時点すら存在しないのかなと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
‘空間’これも‘有’の世界。空間が存在する、と受け止めるのはどうでしょうか。

お礼日時:2008/10/12 09:47

現象が何かがより明確になればと思います。


現象が何かは、見ている人の認識によって変わってしまうので。

現象を存在が変化・運動・移動することによって、時間や空間が認識されるものだとすると、存在が有ると認識された時点で、時間が存在し、空間が存在します。つまり、存在が無くなれば、時間も空間も存在しなくなります。

「現象とは何か」をどう定義するかによって、時間=存在となるのかならないのかが決まりそうです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どうも小難しい質問をしてしまったようで、皆様の回答にわたしの頭がついて行けないような感じです。
唯一つ思うことは、人の‘認識’のあるなしにかかわらず、この宇宙は存在していると受け止めるのが、自然であるように思っています。

お礼日時:2008/10/12 09:41

[時間がないということは真の無。

何もない世界は論じられません。]

これは明らかな間違いですね。写真(静止画)ですが時間(動き)は存在しないが写真のなかに空間はありますね。動画は空間と時間が同時にありますが、静止画を基準にすると時間と空間は独立なものですね。もう少しわかりやすく言いますと、映画の主人公は映写機を止めると動きが止まって存在し、映写機が回り始めると生き生きと動き回って存在してるということです。これが時間と空間の関係を明確にする例ですね。
スクリーンは2次元ですがスクリーンを3次元に拡張しても同じ関係ということは言っておかないといけないかな。(蛇足だけど)
そうすると、「時間イコール存在」があやしくなりますね。
偉大な哲学者としての釈尊は、時間論としての「諸行無常」、空間論としての「諸法無我」と分けてますね。その先に時間縁起、空間縁起に囚われない「涅槃寂静」があると2500年も前に説いてるんですね。
全てが縁起、原因結果の連鎖のみの世界があるといってるんですが、わかりやすく言うと時間のない世界が本当の世界で、全てにタイムリミットがある3次元世界は、哲学者が目ざす「思考」の世界ではないといってるんですね。哲学の世界は物理や科学の小さな世界を含んで更に遥かに越えているんですね。ノーベル賞もかわいいお子様のご褒美メダルに見える世界ですね。 こんなのが今後の思考の参考になるといいですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
mmkyさんの言わんとするところがいまひとつよくわかりません。
静止画を基準にすると時間と空間は独立なもの、という事とか、スクリーンは2次元ですがスクリーンを3次元に拡張する、といった意味がわかりませんでした。
よく考えて見ます。

お礼日時:2008/10/12 09:32

あなたの述べられているのは、釈迦の悟りで仏教用語でいう三法印の中の一つの「諸法無我」のことですね。



存在とは現象として顕われるものであり、変化そのものである。
今ある私も変化しており、その現象の瞬間が今の私であって、変わらない私というものがあるわけではない。

今日お会いしたあなたは、時間によって変化する結果、明日以降お会いするかもしれないあなたとは異なるものであり、唯一の出会いであるという「一期一会」という有名な言葉も勿論仏教思想です。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
仏教思想による回答が得られるとは思っていなかったので、驚きました。
存在と時間は切っても切れない関係にある、なんて考えても無意味なのでしょうか。
以前から宇宙の存在は精神と物質という二つの要素から成る、なんて考えていましたが、最近になって時間も加えて三つの要素からなる。と思うようになりました。
‘存在’は時間を作り出す。あるいは‘存在’は時間を必要とする。
嗚呼、ますます哲学しちゃいます。

お礼日時:2008/10/12 09:19

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