dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

本当の愛ってなんなんでしょうか?
私は以前から自己犠牲の上に愛がある。
そう考えていました。
けれども、その考えに矛盾を抱くようになりました。
犠牲と考えているうちは愛ではないという矛盾です。
うまく伝わるでしょうか。

自己犠牲の上になりたっていた愛だから、とても苦しいものでした。
病気になるほど苦しいものでした。
それでは、本当の愛とはいったいなんなんでしょうか?
自分を捨てずに愛が語れるものなのでしょうか?
哲学という意味もよく解っていないのですが(一応ウィキペディアは確認しました)、こちらのカテゴリーで質問させていただきます。
今は、純粋に愛の意味が知りたいのです。

A 回答 (34件中21~30件)

愛とは、極端な言い方をすれば、人間の欲望の形の一つにしかすぎません。


どう言うことかと言えば、人間の行動は基本的に自己を満たす為に起こしています。その形が人格であり、人間性な訳です。なので、自己犠牲をする愛だろうと、つかみ取ろうとする愛だろうと、形が違うだけで、本当とか偽だとかと言う問題では無いのですね。(これ感覚で、もの考えている人には、理解されないですが。)
したがって、本当の愛とは何かと考えるより、どう言う愛の形が美しか考える方が、より悩むことも無いとおもいますが?
自分的には、相手をより理解する愛が美しく感じますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やはり、人にとって欲望を越えた愛というのは、難しいのでしょうか。
美しい愛の形を考えてみたら、やはりまだ自分が歪んでいるのでしょう、
自分が耐え忍び相手を満足させる存在。
そのような考えしか浮かびませんでした。
自分の発想自体がまだ乏しいようです。
いつか、自分にとっての信念を持ち、自分なりの美しく感じる愛を持ちたいと思っています。

お礼日時:2008/10/18 22:36

>自己犠牲の上になりたっていた愛



自己っていうのは何だかわかりませんし、
愛とは何か・・これも的確に説明できません。

でも、自己犠牲の上に愛が成り立っているのではなくてですね。

愛があるから、

至上の喜び、快楽、エクスタシ、慈悲、正義、
苦悩、痛み、断末魔の苦しみ、悶え・・・・・・

が当たり前のように起こるのではないでしょうか。
とすると、犠牲は考えとか土台ではなくて、必然なのです。

この制御不能なものを愛といっているのじぁないでしょうか。
そうすると愛の輪郭が見えませんか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>至上の喜び、快楽、エクスタシ、慈悲、正義、
苦悩、痛み、断末魔の苦しみ、悶え・・・・・・
それは、欲求があるから起こるのではなく、愛があるから起こるということでしょうか。
私は、愛と欲求は切り離されたものでなくては、純粋な愛ではないと思っていました。
けれども、人間が生きていくうえで愛と欲求は切り離せるものではないのかも知れませんね。

お礼日時:2008/10/18 22:31

本当の愛とはあまねく愛。



太陽のようにふりそそぐもの
大地のようにはぐくむもの
海のように命を包み込むもの

大樹は本人が思うと思うまいと
鳥が巣を作り、動物がその実をついばみ、人は木陰で憩います。

大きな存在になって、相手を包み込む。ことこそが本当の愛です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
全ての存在が愛からできているのかもしれませんね。

>大きな存在になって、相手を包み込む。ことこそが本当の愛です。
ただ、これに関しては、一歩間違えると支配に繋がりそうな気がしました。
いえ、自分の中で包み込むこと(包み込まれること)=支配すること(支配されること)になっているからだと思います。

お礼日時:2008/10/18 22:27

愛は、他者とのかかわり。

相互交流。感じあい、お互いを認識していく。理解する。理解が深くなると、会話がなくても、顔色でなにを考えているかわかるようになる。使いようによっては、非常に便利です。
人間同士では、金銭、損得が介入しやすいので、動物にたいする感情を思い出してください。
文学の永遠のテーマですね。「愛」。お芝居、テレビのドラマ、映画、小説、物語、児童文学、絵本にいたるまで。哲学の問題でもあります。
ということは、人間は、「愛」がなければ、生きてはいけないのです。
小さなこどもにとっては、「ともだち」、「家庭」、「あたたかい家族」の存在が「愛」なのです。思春期のこどもたちには、「ともだち」、「自分の世界」、「あたたかく見守ってくれる大人の存在」が「愛」でしょう。core1029さんの「愛」は、core1029さんを必要としている家族と、core1029さんの質問にこたえてくれる名も知れぬ人々です。もちろんcore1029さんが回答してあげる名も知れぬ人々もです。
お互いに理解して、気持ちが通じたとき、こころがあたたかくなるのです。読書の秋です。おおいに泣いてください。カタルシスということばがあります。排泄とか、浄化という意味だそうです。人間は、毎日、生まれ変わるのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
この回答を読んだとき、まさに自分が生まれ変わったような気がしました。
昨日の自分と今日の自分は違います。
時には、別方向に後ずさりしてみることもありますが、前進していけるのだとしたら、
そこには「愛」があるのかもしれませんね。
「愛」は大きさや重さでは測れないのだと思いました。

お礼日時:2008/10/18 22:23

僕の見解を書いて見ますね。



一般的に「愛」と言うとかなり意味の範囲が広いですね。

その「愛」中から悪感情である

「怒り」「嫉妬」「物惜しみ」「後悔」
「貪欲」「邪見」「傲慢」
「気力減退・眠い」「受け付けずに否定する」

これらの心が抜けていき、善感情である

「慈」友のように思う心
「悲」苦しみがなくなるように思う心
「喜」成功を喜ぶ心
「捨」冷静で理性的な心

が育まれると「純粋に愛」なるものになっていくと思います。

自分にこれを出来なければなかなか他者に出来ないと思います。まずは正直に慈悲喜捨の念を育てることだと思います。そうすれば悪感情も出てきにくくなってきます。

「慈」幸せでありますように
「悲」悩み苦しみがなくなりますように
「喜」願い事が叶えられますように
「捨」智慧が現れますように

この生命にとって基本的に備わる希求を素直に認める事無く、自己犠牲的に誰かのためになるようにと考えても結局は自己を苦しめ悪感情を募らせて、結果てきに他者の希求も読み取れずに共倒れになる危険性を持ってしまいます。

心自体も相当多大に他者に影響を与えていると感じます。

自分が悩み苦しめば他者にも影響が与えられてしまいます。

結局は、自分にも他人にも生きとし生けるものにも役に立つように考えた物こそ真に自他に役に立つものとなると思います。

そのために慈悲喜捨の念を出来る限り育てたほうが得策と考えます。

「慈悲の冥想」と言うものがありますのでお勧めします。

「現代人のための瞑想法」や「自分が変わる気付きの瞑想法」などの書籍にも詳しく載ってます。

<<犠牲と考えているうちは愛ではないという矛盾です。>>

この犠牲なんて思わない心を育てられると考えてます。

ぜひ実験してみてください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど慈悲喜捨の念を信念と呼べるものにすれば、確かに純粋な愛というものが身につけられる気がします。
>この生命にとって基本的に備わる希求を素直に認める事無く、自己犠牲的に誰かのためになるようにと考えても結局は自己を苦しめ悪感情を募らせて、結果てきに他者の希求も読み取れずに共倒れになる危険性を持ってしまいます。
それはとても理解できるようになりました。

お礼日時:2008/10/18 22:18

こんばんは。


自分の経験もふまえてと言うことで。

いろんな視点があると思うんですが、
時間の流れで考えると、
>昔は一人でいることが当たり前でした

といわれてます。が、それは明らかに変です。
本当に一人なら今生きてるわけありませんし。~それは精神的な意味でです。
本当に一人と「感じていたなら」生きていけるわけがありません。
物理的に近くに人がいようがいまいが、人とのつながりがあるなら一人ではないですし、

昔からずっと一人だと感じていたと思うのですが、
そのずっと一人と感じていた時期のそのまた前は、一人ではないと感じていたと思います。
その時に極めて小さいときに一人ではなかったので、その後物心付いてから一人だと感じるようになっても、自分を、生かし続けられたのだと想像しますし、
孤独に気付く以前は、孤独ではなかったという経験が、大きくなっても記憶として無意識にあるから、生きることができたと思います。
表面の自分は孤独と感じ、心奥底の自分は愛があると感じ、この2人の自分のけんかが続いていると想像します。

>愛は、はじめからそこにあるものなんでしょうか?
それとも、愛は愛された人にしか存在しないものなのでしょうか

これは両方とも正解と思います。
つまり、人生の最初期に、愛を現実に感じていたけど、その後感じなくなった
ーーそれは、消えたのではなく、愛が現実化しなくなった、といえます。
愛はないのかもしれない、という思いが、最初にあった愛を見えなくしています。

愛された人は、心の中に最初からある愛を、現実化します。
「この世には愛がある、自分に愛がある」と感じます。
愛は「受け渡し」なので、気持ちをあげたりもらったりすることそのものなので、やりとりができてる人は「自分に愛がある」と勝手に感じます。

そうでない場合、「気づき」が、心の中だけの愛を「現実化」します。
気づき、とは、単純に現実を、あるいは事実を知る、という作業ですが。
大人だとそれは可能だと感じます。
この辺り細かい技術は、心理学が上手だと思いますが。

愛を望んでこの質問をされてる地点で、愛はある、といえますし、それが現実として成立していない、という意味では、愛はない、といえます。どっちでもいいんです。大事な問題とは思いませんので。
大事なのはそういう現実を理解して、問題を修正することという、それに集中して欲しいなと思いますし、不安から来る感情に飲まれ、任せて、精神疲労がたまって、努力を放棄するのがまずいので。
漠然とした問題に対して、これまた自分が漠然と朝も夜も考え続ける、というのが一番避けて欲しいです。
心が疲れないためにも、問題の把握と切り分けが大事です。
漠然さを排除し、把握に集中するためにも、紙に問題を書き出す、というのもおすすめします。


愛の現実化ができないことが原因で、発想がおかしくなっている問題を無視して、横に置いておきながら、そのおかしい発想を土台に問題を解決しようとしても、うまくいきません。
自分の中の誤った固定観念に気付いて取り除いてください。


自己犠牲、と書かれてる地点で、愛=与えるもの、という気持ちだったと思いますが、
愛情は、与えて、与えられるもの=やりとりするものです。
(下でお礼でお書きの、「かみ砕ける愛」という表現も、「自分」が、「愛」を、「かみ砕く」という、一方通行の形になっています。その意味では自己犠牲と、発想が同じです。)

愛情とは=コミュニケーションです。愛は、双方向が本来の姿と思います。なので、
自己犠牲という一方通行は、愛への途中下車というか、道半ば、という気がします。
(その犠牲が相手が望んだのか、相手の役に本当に立ってるのか、相手からの返答=やりとりがないと、確認できません、犠牲とはただの思いこみの可能性もあります、その確認の意味でも双方向は大事です)

真の愛情は、たとえ小さなあかちゃん相手でも、常に対等に接し、気持ちをいっぱいやりとりするものだと思います。
極限の「好き」と「対等」が、同時に成立している状態です。
自分がそう扱われなかったのなら、なおさら大事です。



以上感じるままに書いたのですが・・自信はないですが、以上のような意見が浮かびました。
偉そうな書き方ですみません、一気に書かないと僕も発想が途切れるので・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
今、落ち着いて考えてみると、ずっと一人だったというのはおかしな言い方で思い込みだったと思います。
ただ、なにも言えずに我慢していた頃というのがあり、それを今も引きずっている。この気持ちが自己犠牲という発想につながっているのではないかと思い始めました。
固定観念を取り除くというのが、自分にとってできるかどうかは自信がありません。
なにしろ、思い込みの塊のような人間なので^^;
けれども柔軟さを心に宿すことを目標に、もう一度自分を洗い出していくのもいいと思いました。
誤った現実化が非常に大きく愛を歪ませている原因になっている気がします。
>(下でお礼でお書きの、「かみ砕ける愛」という表現も、「自分」が、「愛」を、「かみ砕く」という、一方通行の形になっています。その意味では自己犠牲と、発想が同じです。)
この当たりに少し難しさを感じました。
もう少し理解する時間が必要なようですが、できれば補足いただけると幸いです。

お礼日時:2008/10/18 22:11

ありとあらゆるものの存在を容認することではないでしょうか。

好きなもの嬉しいものはもちろん、いやなもの嫌いなもの怖いものそのほか何でも無視や否定や逃避などをしないで容認することではないでしょうか。そのためには簡単には崩壊しない自分を持っている必要があると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
回答者様の考える愛も私の考える愛に近いものがあるのかもしれません。
>そのためには簡単には崩壊しない自分を持っている必要があると思います。
私にはこれがありません。
だから悩むということ、それがはっきり理解できました。

お礼日時:2008/10/17 23:03

一般的には男女間の愛や兄弟愛や親子愛と言った限定的な愛を指すようですが、私が理解している愛の定義は区別、区分と言った境界線を取り除いた状態を愛と呼ぶものと思います。



限定的な愛においてはどうしても愛情の強さに優劣がつきます。区分、区別なしに考えますと、愛する対象が固定されずすべてが一体の愛に包まれます。

愛はひとつの概念であって、あなたがどのような愛の形態を欲するかに寄ります。本当の愛などありません。生物はあくまで生存と種の保存のために行動しているだけですから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>区分、区別なしに考えますと、愛する対象が固定されずすべてが一体の愛に包まれます。
それは、存在そのものが愛だということなのでしょうか。
そのように捉えてしまいましたが、間違ってはおりませんでしょうか。

>愛はひとつの概念であって、あなたがどのような愛の形態を欲するかに寄ります。
愛は無償の愛であって、はたから見れば自己犠牲に見えることでも、本人が愛であると貫けること。
それが、理想とする愛の形態なのですが、私にはまだまだ難しくてつかめません。
それに私が理想とする愛に関しても、それが自分にとって真なのか偽なのか、見定められずにいます。

お礼日時:2008/10/17 23:00

よく言われることではありますが、やはり、見返りを求めない与えきりの愛、太陽の光のような全方位への放射性の愛であると思います。


例えば、一生相手から嫌われることになっても、相手が一時は苦しい思いすることになっても、相手のためになるなら厳しいことを言う悪役を躊躇なく荷えること。
相手にも全く気付かれないまま、また自分もそれを意識することがないまま、ごく自然に他人のために体が動くこと。
その人がそれをすることが普段からあまりにも当たり前すぎて、誰も愛だと気付かないこと。
こうした見返りのない愛を発揮している方の共通点は、自分も他人も活かす方向で、穏やかな充実感に満たされていることだと思います。
自己犠牲=自己発揮になっているからだと思います。

「自己犠牲」と思う行為も、それが苦しみになるとしたら、それはやはり愛とは違うものなのだろうと思います。
例えば、行為としては尽くしていても、相手を甘やかしてダメにしたり、なんらかの反応が自分へ返ってくることを期待したりしたら、それは結果として相手から何かを奪おうとする行為になりますので、上記の愛とはベクトルが逆です。相手の関心をひいたり、クモのように糸でがんじがらめにするような気持ちも、同様に苦しみの原因となると思います。

もっとも質問者様のいうところの「自己犠牲の愛」は詳細が不明なので、これが当てはまるかはまた別の話ですが。
何かの参考になれば幸いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>相手にも全く気付かれないまま、また自分もそれを意識することがないまま、ごく自然に他人のために体が動くこと。
その人がそれをすることが普段からあまりにも当たり前すぎて、誰も愛だと気付かないこと。
体で動くことですか。当たり前のことを当たり前にできる人は正直うらやましいです。

>例えば、行為としては尽くしていても、相手を甘やかしてダメにしたり、なんらかの反応が自分へ返ってくることを期待したりしたら、それは結果として相手から何かを奪おうとする行為になりますので、上記の愛とはベクトルが逆です。
私の自己犠牲はどちらかというとこれに近いですね。
前者の甘やかすということ、これには当てはまりませんが、後者の期待すること、
これは、そのものズバリそうです。
だから、自己犠牲がただの犠牲になってしまうのです。
苦しみの原因です。
相手に期待しなければよいのでしょうが、
そのような解放された愛、そこに辿り着くのはやはり時間がかかる気がします。
とても参考になりました。

お礼日時:2008/10/17 22:54

humptypapaさんのご意見と同感です。


winwin(勝ち勝ち)の関係こそ愛。

ただ、自分以上に相手を大切に思うことも無意識の中に成り立つもので、言葉では説明がとても難しいように思います。

例えば親が子供の髪を撫でたり、抱きしめたりするのに、何か子供から返して欲しいと意識してやるでしょうか?
彼女が本当に愛する彼氏の誕生日プレゼントに、自分の誕生日にはもっと高価なものやこれ以上の何かを、と計算しながら誕生日プレゼントを選ぶでしょうか?

その無意識の中から生まれる行動こそ、私は愛だと感じます。


残念ながら私は、両親から親が子供に対する当たり前の愛情を注いではもらえませんでしたが、遠回りして結局この答えにたどり着きました。


「人を愛するには、まず自分を愛してあげて認めてあげること」だと。

愛は皆同じではありません。
自分から与えられる愛は、自分の中にしかない。

だから、病気になるほど辛かった時間や自分も認めてあげて愛してあげてください。
決して自分で自分を否定しないで。
あなたの中にも必ず愛はあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
究極地球上全てのものがwinwinの関係になること。
それが世の理想なのかもしれないと、ふと考えました。
ただ、自分の場合、身の周りに愛を捧げているかというと疑問です。
>例えば親が子供の髪を撫でたり、抱きしめたりするのに、何か子供から返して欲しいと意識してやるでしょうか?
抱きしめた段階で子供から暖かさをいつももらっています。
私が愛を与えるのではなく、子供からもらっているのです。
時には、強引に(遊びながらですが^^;)抱っこするので、嫌がられます。
奪っているような気になることもあったりします。
>彼女が本当に愛する彼氏の誕生日プレゼントに、自分の誕生日にはもっと高価なものやこれ以上の何かを、と計算しながら誕生日プレゼントを選ぶでしょうか?
これは、どうなんでしょうか。
世の中打算的な人もかなり多いと思います。
でも、夫の足や肩腰を揉むときに、今やったから自分も揉んでもらおうと思うのですが、結局揉んでもらわずじまいで、また揉んでしまう自分がいるので。
具体的に考えると、愛ってありそうな気もします。


>「人を愛するには、まず自分を愛してあげて認めてあげること」だと。
これが、難しいんですね。
ものすごく、具体的な例を用いて愛を説明してくださり、ありがとうございました。
自分の中にあるであろう愛を、見つけていきたいと思います。

お礼日時:2008/10/17 22:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す