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世の中には目に見えない物、カメラに写らない物を見ることのできる人達がいます。
耳で聞こえない音、レコーダーに記録できない音を聞くことのできる人達がいます。

金銭欲や名誉欲、または病理から来る虚言である場合を除き、これらは幻覚と言い表すことができます。
(それが本当に幻覚かどうか。霊の存在の有無。等はこの質問では重視しません。)

夢やイメージも幻覚の一種ですが、夢の場合は観測者の判断力の低下が著しく、(※1)
イメージの場合は観察に耐えうる確固とした像を作りあげる能力が私にはありません。(※2)
薬物を摂取する手もありますが判断力の低下については今更言うまでもなく・・・。

信仰や恍惚感が高まると幻覚が生じやすいという話もよく耳にしますが、
信仰も恍惚も一番観察に不向きな状態ですよね~。

(※1明晰夢を見る技術やそれに類する物(体外離脱)の存在は知っています。信憑性が薄いですが。)
(※2イメージ力を鍛えることが正道なのでしょうか?)

A 回答 (6件)

共感覚という特殊な感覚を思い出しました。


一つの感覚の刺激によって別の知覚が不随意的に引き起こされる、というものです。
例えばある人は音楽を見た時に色彩を感じたり、
またある人は数字を見た時に味を感じたり、
色彩に、匂いを感じたりと様々です。
私が見たテレビ番組では、実際脳波を調べ、
視覚や聴覚や味覚が反応していることもわかっています。

幻覚とは違うかもしれませんが、一応質問者様の質問にある、
・目に見えない物、カメラに写らない物
・耳で聞こえない音、レコーダーに記録できない音
に該当すると思い回答させていただきました。
これは病気でも薬物によるものでもありませんので、
冷静に分析することも観察することも可能です。

ただし、本来は先天性な感覚だそうなので、
今からその感覚を取得するのは困難かと思います。
共感覚に詳しいURLを載せておきます。

参考URL:http://www1.coralnet.or.jp/nobuyosi/index.html
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その体験が幻覚であったことを思い出すことはできますが、


いわゆる覚醒状態において、その体感、体験が幻覚であることを
知って観察することはできません。それは、イメージしている
ということになります。

梅干しやレモンを思い浮かべるつばが出てきますが、
それで十分としておいた方が無難です。
実際に、梅干しを食べたのか、イメージしただけだったのか
見分けがつかないほどイメージ力を獲得してしまうと
実生活に支障をきたします。
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ワイルダー・ペンフィールドという神経外科の医者が、


露出した人間の脳の各部位を電極であちこち刺激して、
被験者にあらわれる反応を観察、記録しています。

刺激する脳の部位によっては、
被験者は、幻覚や幻聴を見聞きするのですが、
この実験が当時ユーモラスだったのは、
被験者が施術する医者と会話ができる状態にあるということでしょう。
つまり、被験者は自分がいま見聞きしている幻覚なり幻聴なりを、
リアルタイムに医者にレポートできる状態にあったということです。

それは、エンターテイメントなどによく見る
あやしげな催眠術師が被験者に術をほどこして、
夢遊状態の中で(あの何とも緩慢で鈍重な)会話をするのとは違い、
おそらく理性的に、日常会話のような調子で、
自分がいま見ている幻覚、聴いている幻聴の内容を報告したのでしょう。

いいかえれば被験者は幻覚幻聴の世界、
質問者の言を借りれば信仰と、それと同時に、
手術室という現実(しかしそれは本当に現実かしら?)の世界、
ふたたび質問者の言を借りて疑念、という、
いわば二重の意識を持つ状態におかれたということが推測できます。

こうした実験から先のペンフィールドは、
人間の脳に関わる「何か」の機構の存在を説き、
医者でありながら、二元論にまで踏み出すわけですが、
ただし念のため、こうしたペンフィールドの実験は、
今となっては古典の部類であることも付け加えます。
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脳内において、言語能力を司る仕組みと幻覚作用の働く仕組みは異なります。


言語能力はイメージの検閲機構であり、イメージのフィルターのような働きをします。
幻覚は有機化学上の問題で、脳内の情報伝達において、あるべき構造に置き換わることで混乱が起こると、
幻覚が生まれることがわかっています。なぜ起こるかはわかっていません。
言語能力が高ければ、幻覚を検閲する能力も高いであろうと考えられます。
とりわけLSDやモルヒネの場合、
川端康成もそうですが、フーリエやネルヴァル、ボードレール、ドイルといったように、
文学者の手記自体は理性的かつ懐疑的かつ甘美に耽溺する態度のもとに成り立っています。
観察に判断力は必要ないと思いませんか。凝視する集中力と分析力が必要なのです。
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無知な人間にとって自分の無知さゆえに捏造された概念やイメージ・妄想について冷静に深く観察することは可能とは思いません。



智慧多き人にとってはそれらは一瞬で確認し捨てるもので深く探求すべきものではないと憶測いたします。

妄想が無ければ無いほど智慧多きものとなると考えてます。

観察するなら、何でもありの妄想よりも、体の動き・苦、楽、不苦不楽の感覚・感情などの材料のほうがデータに有る程度の信頼が置けると思います。

興味があれば「現代人のための瞑想法」をオススメします。
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どうしようもなく疲れて果てて、やれやれとばかりに寝床に付いたとき、しばしば人外の者を目にすることがあります。


睡眠麻痺──いわゆる金縛りです。

麻痺にかかっている間は身体は動きません。
声を出すことすらままならず、ただ指先の僅かな運動と瞼の開閉が許されるくらいで、それすらも実際に動いているのかという保証はありません(事実、幻覚の生じる睡眠麻痺とは閉眼性なので、瞼は常に閉まっているということになります)。
やがて、耳鳴りや屋根裏を何かが走る音を聞くなどの聴覚の異常がはじまり、体の痺れや圧迫感などを感じることもあります。
普段は(感覚的には)瞼を閉じているので感じませんが、こちらから意識すれば幻視を体験することもできます。
もし私が神秘主義者であれば、ここからさらに想像を膨らませて本でも書きたいところですが、不幸にも自身の冷めた性ゆえに、いまのところその予定はありません。

本題はここですが、そんな時でも私の意識は健全です。と言っても、これは夢の中の自分が自分の判断能力を疑わないのと変わらないのかもしれませんね。
ただ、睡眠麻痺の最中に起きている時の記憶を参照したり、またその逆も可能だということは確かそうです。
意味もなく「奥の細道」を暗唱したり(もちろん頭の中でです)、麻痺する寸前にしていた思索の続きを特に不自由なくこなし、何か気づいた点については覚めてからメモを取るということすら可能でした。

ちなみに「目に見えない物」を見ているときでも、"念じる"ことによってその姿を変えることができます。
この前は襖の上にはっきりと不気味な人の影が浮き上がりましたが、見つめているうちにそれは「トトロ」になりました。その日は「金曜ロードショー」があったのです。
睡眠麻痺に慣れてしまった人の中では、"幻覚遊び"を一つの趣味としていたり、時にはいかがわしい目的のためにそれを利用する人すらいるそうです。

ご参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

金縛りによる幻覚の体験中にも意識の健全性は(主観的には)保たれる、
とありますが思考能力の低下も無いと考えていいのでしょうか。
(引き起こされる原因から察するに多少は低下するものだと思っています。)

お礼日時:2008/10/18 00:21

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