dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

なぜ宗教は布教するのですか?

広める理由がわかりません。
自分で楽しみ、自分で幸せになればいいでしょうし
その幸せそうな姿を見た人が、
「秘訣を教えて(長寿の秘訣を聞くみたいに)」
と言ってきた時にだけ、教えればいい。。

普通に考えて、ただそれだけのことのように思うのですが。。

布教し広める、ということは
その奥に何らかの意図があると思ってしまいます。

人類を幸せにするのなら広める必要は無いような気がしますが。。

全ての争いは、広めたい、拡大したい、影響を与えたい、
(信仰、勢力、権力など)
という人間の欲望から発していると思います。

でも、一番基本的な事柄として
人間は一人一人違うし、自分にあった幸せも違う、
ということがあると思います。

そうであるならば広める意味は?
やはり、広めたい、拡大したいという
人間の本能的な欲求でしょうか?

そしてそれが間違った方向にぶれたときに
問題がおきるのでしょうか。。?

僕の勘違いでしょうか?

宗教に入ったことはありませんが
周りに入っている人が多くいます。
だけど僕にはわかりません。

どなたかお考えをお聞かせください。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (9件)

創価学会員です。

私のほうがむしろ「なぜ宗教は布教してはいけないのですか」と問いたいくらいです。

>自分で楽しみ、自分で幸せになればいいでしょうし……「秘訣を教えて(長寿の秘訣を聞くみたいに)」と言ってきた時にだけ、教えればいい。

仏法(南無妙法蓮華経)の場合で言います。現在は末法です。末法における人々は、機根(仏法を受け入れる能力)が最低です。まれにはあなたの言うように、「秘訣を教えて」といったように自分のほうから仏法に興味を持って入会に至る人もないわけではありませんが、たいていの人は、仏法のことを話すと拒絶反応を示します。

日蓮大聖人は「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」(法華初心成仏抄)と仰せです。真の正しい宗教は、ただ自分だけが楽しく暮らせればそれでいいというものではありません。自他共の幸福を目指すものです。自分だけが悟りを得られればいいというのは小乗教です。学会が実践するのは大乗仏教です。我々の仏法は人々を幸福にする確かなる力があります。それを確信し、人々を幸福にしたいゆえに、我々は人々の反発を招いてでも、仏法の布教をしているのです。

>人間は一人一人違うし、自分にあった幸せも違う、ということがあると思います。

確かに人々が感じる幸福には、その人によって差異はあるでしょうけど、その「幸福」自体を感じられないことが要するに「不幸」ということです。また不幸の原因は、その人自身が過去世に積んだ宿業によるのです。その宿業を断ち切り、不幸を幸福に転換するには、真の力ある宗教哲学によるしかないのです。創価学会の牧口初代会長は、「悪いことをするのと、良いことをしないのとは、どちらが悪か」と問われ、結局どちらも悪であるといった指導をされたことがあります。学会員はこの仏法で、現実に幸福になっています(学会精神に反して、おかしな行動をしている者は別として)。そういう力ある宗教を持っていながら「良いことをしない」、つまり出し惜しみして人々に語らないというのは、宗教者として無慈悲だと思いませんか?

「只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(諫暁八幡抄)
創価学会は人類の幸福を目指すゆえに、人々の反発を覚悟で、仏法を流布(布教)しているのです。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

ありがとうございます。
お答えいただいてなんなのですが、
いきなりよく分からない専門用語を並べられて
あまり読む気がしません(すいません)。
借り物の言葉を伝えられている気がしました。
もっとあなた自身の言葉で書き込んでいただけると嬉しかったです。

ご回答からは
拡大したいという欲望だけが伝わってきました。
やはりそうなのか。。

ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/03 09:10

NO.1さんではありませんが。



>ユダヤ教は布教しないのですね。
ユダヤ教徒は全てユダヤ民族(神に選ばれた民)です。
他の民族を支配(または滅ぼす)するという意識を持っています。

ですからもし私がユダヤ教徒になりたいと思っても
「あなたユダヤ民族じゃないでしょ(神に選ばれていないでしょ)」
と言われてしまうことでしょうw
神道も日本のご先祖様を奉っていますしね。

信者の数では布教する宗教の方が圧倒的に多いいですが(入信すれば救われる的な)、宗教の数でいったら圧倒的に民族宗教(土着宗教)が多いです。

布教活動にとても熱心な「救われますよ系新興宗教」は
・教祖自らが神になりたいと思った(もしくはこの世の神に)
・お金が目的で巨大組織化を目指す(会社と違って税金かからないし。人からお金は集めるけど、トップは経営手腕を問われることはないしw、トップから引きずりおろされることもない。)

この2つの入り交じりではないでしょうか。
質問者様がおっしゃるように、一人もしくは少数の支配欲・権力欲・自己顕示欲・名誉欲・物(金銭)欲で成り立っているように見えます。
    • good
    • 7
この回答へのお礼

なるほど~。
宗教もいろいろ性質が違うんですね。
勉強になります。
ありがとうございました☆

お礼日時:2009/01/03 09:12

宗教というのにも色々あると思いますが、基本的には人間の幸福を求めるというのが究極の目的なのでしょう。


幸福を求めるために宗教が必要になるのは、なかなか簡単に人間は幸せになれないようになっているからなのだと思います。

では、なぜ簡単に幸せになれないのか。
人間といっても、本質的には動物と同じく本能が基盤になっている生き物です。
動物と違うのは、自我というものを持っている点です。
さらには、善や高邁な理想を希求する超自我性までも付与されているようです。
生来的に持ち合わせている本能だけで生きる動物は単純といえば単純ですが、あれこれ無用の悩みを持つ必要がなく、自然の摂理のままに生きることができる分、人間より幸せという見方もできるかもしれません。

それはさておき、たとえば、自分が(幸せになれると)信じている宗教を広めたいと思うのは、他者に対する善という超自我性の現われということはできるでしょう。
先ほども少し触れましたが、人間は元々は本能が基盤になっています。
結果として、超自我性による善や理想というのは、本能を抑圧するという過程を伴うことになります。

超自我性というものは、普通は両親の躾によってその芽を吹きます。
躾の基本は、「~してはいけない」ということになるわけで、こういった本能に対する抑圧(あるいは抑制)が超自我の本質と言えます。
自我というのは本能と超自我を調整し、その結果を現実的社会に自己表明する機能です。
超自我による抑圧、あるいは禁制に慣らされすぎると、本能を過剰に抑圧することに意義を見出すようになります。
宗教に入るということは、こういったことが良かれ悪かれ原因としてあげられるのではないか、と思っています。

では、なぜその時点で満足せずに布教しようとするのか。
これは、おそらく本人が不安だからではないか、と考えます。
たとえば神を信じるといっても形の無いものなわけですし、それはむしろ無意識的には至極当然の不安ではないかと思います。
無意識は神より強い、と私などは考えていますが、このような無意識的不安があるために、他者に共感してもらい、同じ宗教を信じる人が増えることで自らの信じているところが間違ってはいないのだ、という証明を得ようとするのではないでしょうか。
否定されると戦争にまで発展するのはそのためではないか、という気がします。

布教というのは一見非常に超自我的行為に見えますが、おっしゃるように、布教する側の本能的満足につながっているという側面は否定し得ないでしょう。
布教する相手がいるということ自体に幸せを感じるのが真理であろうと思います。(無論、その気があれば、布教される側が幸せを感じることも当然あることでしょう)
いずれにしても、真の宗教者であるならば、この構造に気づいていないはずはないと思われますから、布教といっても強制的な行為にならないように最新の注意を払うのではないかと思われます。
 
    • good
    • 6
この回答へのお礼

>では、なぜその時点で満足せずに布教しようとするのか。
>これは、おそらく本人が不安だからではないか、と考えます。

とても納得できます!
自分の考えの正しさを、自分自身に証明するために
アウトプットをすることが
人間の行為として往々にありますもんね。

本質的なご回答を得られた気がします。
ありがとうございました!

お礼日時:2009/01/03 09:17

知り合いの創価学会信者は、布教活動とは = 救済活動 のような趣旨の話をしてました。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

やはり、拡大したい、影響を与えたい、という
人間の欲望からなのですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/23 20:53

Q、なぜ宗教は布教するのですか?


A、人情

宗教の布教とは、需給関係を満足させるための宗教サイドの行為ですね。

ちょーど、ヤマダ電機が津々浦々に出店しチラシを配布しているに等しいもの。
で、なぜ出店するのかと問われれば需要があるからでしょう。


では、なぜ、そもそも需要があるのか?
それは、悩める人が居るからですね。

全人類が、老病死から完全解放されて満ち足りた物質的・精神的生活する社会が到来。
その暁には、宗教も布教もなくなるでしょう。

では、悩める人が居たらなぜ助けたいと思うのか?
では、悩める人が居たらなぜ布教して救済したいと思うのか?
それは、誰もが人情というものを持ち合わせているからでしょう。

で、私に言わせれば、布教=人情の発露。
まあ、宗教と言えども、それを考えて広めているのは人。
ですから、布教活動はそれぞれの人情の発露と考えるのが自然でしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

その、需要と供給の考え、すんなりと納得できました!

やはり市場の中でお金が関わっている以上
需要と供給で説明されると、一番すんなりと理解できますね。

求める人がいて、それにお金を払う人がいる。
ただそれだけですね。
商売の基本ですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2008/10/23 20:52

宗教は、さまざまです。



現代の宗教は、過去のものとはだいぶ違うと思いますが。

個人が富や権力を得るための不当なものもあるでしょう。
伝承に基づき、倫理観を教育するためのものもあります。
信じることがあたりまえ、右にならえ的な宗教もあります。
>自分で楽しみ、自分で幸せになればいいでしょうし
といった宗教もあることでしょう。

勧誘する理由もそれぞれでしょう。
お金のため。
組織の維持のため。
人道のため。
神を満足させるため。
信じ方や、宗教の方針で、それぞれ違うと思いますし、勧誘している人そのものの考え方で、なぜ勧誘しているのかも微妙に変わってくるでしょう。

無神論は、無神論で良いと思います。
バランスが大事なのではないかと。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

おっしゃるとおりですね。
さまざまな目的があるのですね。

宗教、とひとくくりにしたところで
あまり意味は無いですね。。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/23 20:49

宗教経験者(お付き合い)です。


建前は、いいものだから皆に広めたい(偽善?)を前面に打ち出して
いますが、やはりお金目当てに感じました。

私の経験した宗教は、『幸運の壺』や『加盟金』のようなお金のかかる
ものは
ありませんでしたが、集会などの度に『寄付金』を募っておりました。
これがまた曲者で、募金箱が回ってきたら幾らか寄付しなくちゃという
気持ちに駆られます。
勿論、寄付は自由なので断ってもいいのでしょうが、周りの雰囲気と
言うものがそうはさせてくれないでしょう。

末端の信者たちは本当に清い心で活動されてますが、金の流れ着く先
ではどうなっているのやら・・・。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

経験者のかたのご回答ありがとうございます。

やはり、組織を運営するとなると
どうしてもお金が必要になりますものね。

お金というのは、扱いが難しいものだと感じます。

会社でもなんでも、組織というのは
末端と、運営側との意識は全く違いますもんね。

ありがとうございます。

お礼日時:2008/10/23 20:43

No.1ですが、補足を。



>でも、一番基本的な事柄として
>人間は一人一人違うし、自分にあった幸せも違う、
>ということがあると思います。

この考えが、間違っていると思います。
トルストイの『アンナ・カレニーナ』に
「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。」
という言葉がありますが、私も同意します。

幸せを感じる要素は個人によって様々なように見えても、実は万人に共通する項目があるのです。
古代においてそれをまとめて体系化した人が、いわゆる宗教の開祖さまということになります。

勉強する暇がないかもしれませんが、比較宗教学をいっぺん勉強してみるといいですよ。
まったく違う宗教であっても、細かく比べると意外なほど共通する要素をもっていたりします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。」

なるほど~!そうかもしれません。僕も納得しました!

だけど、幸福な家庭の共通点は、
他人に布教しないこと(過度に影響を与えようとしないこと)
のようにも思えちゃいます。

仮にそうだとすると、幸せの秘訣がわかっても、
それを布教することは、布教者自身が幸せじゃなくなるから
矛盾してくるような。。

まあ、幸せの定義自体がはっきりしないので
あまり意味の無い考えですね。。

国が、
自覚幸せ度の高い家庭を何世帯も調査して
幸せの定義をいくつも作ってしまえば
考えを深めやすいかもですね。

比較宗教学、調べてみます。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/10/23 14:06

教祖様が「布教せよ」という言葉を残したら、あるいは行動でそれを示したら、弟子たちはそうせざるをえません。



衆生を苦しみから救うため、生涯布教の旅を続けたお釈迦さま。
福音を世界の隅々まで語り伝えよという言葉を残した、イエス・キリスト。
残された弟子たちは、師に従う以上、どこまでできるかは別にして、その言葉に従う努力は必然となるでしょう。


ちなみに、布教しない宗教もありますよ。いわゆる民族宗教ってやつです。
代表的なのはユダヤ教。ユダヤ人しか入信しません。(というより、入信するとユダヤ人になるという方が正しいのかも)
日本の神道も、すべてとは言いませんがほとんどはそうです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。



どうしてお釈迦様やキリストさま等の教祖様は
「布教せよ」と言ったのでしょうか?

やはり、拡大したい、影響を与えたい、という
人間の欲望からなのでしょうか?



ユダヤ教は布教しないのですね。
よくわかりませんが、それですとしっくりきます。
神道もそうなのですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/10/23 13:58

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!